8話

 家の近所のお稲荷様に手を合わせるのがかなえの日課だった。

 道路脇に大人ほどの鳥居があり、そのすぐ向こうに子どもほどの石の社が建っている。中に小さな狐の置物が三つ、ちょこんと置かれて座っていた。

 小学校に行き始めた時にはもう「毎日のこと」になっていたから、お参りを始めたのはその前。

 たぶん、散歩のとき、おばあちゃんに教わったんだろう。


 学校に行くとき。

「行ってきます」

 帰ってきて。

「ただいま」


 学校が休みのときも、一日一回は手を合わせにいく。

 雨の日も。雪の日も。

 台風などで、さすがに外に出れない日は、心の中で、手を合わせた。

 ――早く雨がやんでください。


 かなえは、他の人から時に「変わっている」と見られることがあった。

 小学校からの帰り道。

「ねえ、あの子、知ってる?」

 え?

 友だちの視線は定まらないまま。

 かなえが指をさしても、やはり、キョロキョロ。

 かなえの目には、向こうの方に同い年くらい男の子が見えていた。

「かなぶん、やめてよ、怖いんだけど」

 友だちは「怖い」と言い合いながら笑い合った。

 「かなぶん」とは、かなえのこと。

 かなえに見えるもの、感じることは、他の人とは少し違っているようだった。


 これも祖母の影響だった。影響というか、受け継いだというか。

 父親も同じ(ような)世界を見ている。

「そんなのは、気のせいだ」

 と父は言うのだけれど。

 他人事(ひとごと)のようにそう言うが、見えてることに間違いなない、とかなえは思っている。

 母親はほんとに見えないっぽい。


「なんか嫌な感じがするな、と思ったら」

 邪気を祓うおまじないを、おばあちゃんに教えてもらった。

「人差し指と中指を立てて」

 剣印を作って、九字を唱えながら縦横と交互に腕を動かす、四縦五横印。

「もっと、ほんとに怖いときは、こう、さっきの剣印を二つ重ねて」

「忍者みたい」

 ニンニン。

「ノウマク・サンマンダ」

 バザラダン・カン。

「カン」

「お不動様のおまじない。これを唱えれば、どんな怖い幽霊だって、逃げ出すわ」

「わかった」

 幽霊をやっつけるおまじない。

「心を強くするおまじないよ」


 高校生になると、そこは通り道ではなくなるのだが、それでもやはり、そこに行かない日はなかった。

「彼氏ができますように」

「先輩と付き合えますように」

 そんな願いは、ときどき叶ったりする。


「山田から告白されちゃったんだけど、どうすればいいと思う? ねえ、こんちゃん」

 時には、相談を持ちかけたり。狐の神様だから「こんちゃん」。

 答えが返ってこないことは、ときには「イエス」であり、別のときには「ノー」であり。

 三つの狐の顔を一回づつ見て、

「じゃあね、また明日」

 手を合わせると、狐たちが、笑うようだった。


 あの男の子のことをふと思い出す。

 見たのは一度ではない。

 こちらを見つめるではないが、かなえを気にしているような気がした。

「怖い感じも、ないんだよな」

 横顔、後ろ姿をかなえが見ているが、あの子のほうが、かなえに言いたいことがある、用事がある、そんな気がしていた。

「こんいち、知ってる? こんじ、こんぞうは? 知ってるんでしょ、神様なんだから」

 神様に対する口の聞き方ではない。


 交通事故とか病気で亡くなった小学生がいないか、父や母に聞いてみたが、

「知らない」

 ということだった。

「だから、気のせいだって言ってるだろ。そんなこと気にしてると、ほんとによくないことがあるから、考えるのはやめろ」

 父に注意された。

「お父さんのいう通りかもね」

 あんまり気にしちゃダメよ。

 おばあちゃんにも注意された。

 調べることはやめたが、その男の子のこと、横顔、後ろ姿を、すっかり忘れようとは思わなかった。


 かなえは高校を卒業すると、他県にある大学へ通うことになった。家を出てアパートで暮らすことになった。

「ちょっと遠くにいっちゃうけど、毎日手を合わせるから」

 何十日分かの思いを込めて、しっかりと目をつむって、深く深く頭をさげた。

「じゃあね」

 帰ろうとして社に背中を向けたとき、

「!」

 振り返って辺りを見回す。

 何か聞こえた。鈴の音のような……。

 もちろん何もない。鈴のようなものは、近くには見当たらない。

「そうだ、そうよね」

 かなえは、スマホで写真を撮った。不謹慎とは思いつつ。

 ――いいよね、こんいち、こんじ、こんぞう。

 狐たちにもう一度頭を下げて、かなえは家に向かって駆け出した。

 なんだか可笑しくて、笑っていた。


 鳴き声だ。

 鈴の音じゃなくて。

 かなえだけに聞こえた、狐の鳴き声。こんちゃんたちのお別れの挨拶だ。

 

 独り暮らしのアパートで。

 毎日スマホのこんちゃんたちに手を合わせた。

 

 良いこと悪いこと、嫌なこと楽しいこと、とにかく充実の大学生活はあっという間に過ぎていった。


 振り返れば「あっという間」だが、毎日毎日、周りから遅れないよう、時間の流れから振り落とされないよう、必死だった。

 勉強にも。遊びにも。

 

 大学生の夏休みは長い。

 八月と九月が夏休みだと聞いて、かなえは跳び跳ねそうになった。

 七月の終わりにテストがある。それさえ無事に乗り越えれば!

「テストで合格点とれなかった人は、八月の最初にすぐに追試だってよ」

「カナオはだいじょぶでしょ、まじめに授業聞いてるし」

 「カナオ」とは、かなえのこと。 

「ま、まあね、はは」


 かなえは、無事に追試を免れた。


 友だちと別れを惜しんだり、ちょこちょこ身の回りの整理を済ませ、8月が一週間ほど過ぎて。

「よし、帰ろう!」

 欣喜雀躍。帰省の新幹線に乗り込んだ。


 帰宅。

「ただいま。こんいち、こんじ、こんぞう」

 自宅にいなかった両親や弟よりも先に、三つの狐の置物に「ただいま」を言った。

 手を合わせ、頭を下げた。

 小さなお社を挟む杉の木の梢から蝉の声が降り注ぐ。

 ゴールデンウィーク以来約三ヶ月ぶりのお稲荷様は、懐かしく、そして新鮮だった。

 むしろ新鮮だった。


 いつも同じように見える、この場所は。

 かなえ自身は確実に時を刻んで進んでいる。

 お稲荷様は、前と、昔から変わっていないようにも見えるが、そんなことはない。

 目に見える変化はないかもしれない。かなえと同じではないかもしれないが、そこにも時間は流れる。

 流れの中に、ゆらゆらと揺蕩(たゆた)う、こんいち、こんじ、こんぞうの


 一人ずつに頭を下げると、すっきりとした気分になって……。

「あれ」

 汚れてる。三人が、汚れているように見えて。

 かなえは家へと帰ったのだが、すぐにまた飛び出す。バケツに水を入れて、洗剤とスポンジと、タオルを二枚持って。

 

 それが「良いことか悪いことか」を考える間もなく、かなえは狐たちを洗い始めた。

 一つづつバケツに突っ込み、スポンジでゴシゴシこする。泡に包まれるこんいち。

 独り暮らしを始めてかれこれ四ヶ月が経つが、今までのいかなる陶器よりも丁寧に、心を込めて三つの陶器を洗った。

「うん、よし」

 きれいになった。

「だいぶ男っぷりがあがったね。こりゃもてちゃうな」


 意気揚々と家に帰ってきた孫を見て。

「お稲荷様をきれいにしてきたのかい」

「うん。きれいなったよ」

 その顔には達成感がにじんでいた。

「そうかい」

 おばあさんは言ったきり。

 道具を片付けて、部屋に戻ろうとした孫が、ふとおばあさんに振り返り。その顔がにわかに曇っていた。

「わたしが洗ったりして、だいじょぶだったかな? お稲荷様、怒らないかな。たたりとか」

 おばあさんは、柔らかな声で言う。

「だいじょぶ、お稲荷様は、かなえに怒ったりしないよ」

「ありがと、おばあちゃん」

 さっと雲が晴れた、晴れ晴れとした表情で、孫娘は自分の部屋に上がっていった。

 おばあさんは、姿の見えなくなった孫娘を、しばらく心に留め置いた。


 帰ってきて一週間ほどが経っていた。

 朝。かなえの部屋の入り口のすぐ外から、お母さんが声をかける。

「お母さんパートにいくけど」

「はーい」

「夕飯何か食べたいものある?」

「唐揚げ」

 え?

「また? おとといも唐揚げだったわよ」

「唐揚げおかずにして唐揚げ食べてもいいよ」

「あ……、そう……。じゃあ、明日唐揚げにするから。今日は別のもの買ってくるわ。じゃあ、いってきます」

「いってらっしゃい」

 という娘の陽気な声をドアの向こうから聞きながら、

 ――あの子、あんなに唐揚げ好きだったかしら。

 確かに、子どもの頃から揚げ物が好きではあったが……。

 

 地元にいる間、かなえは毎日お参りにいった。

 友だちと遊んでいても、暗くなってくるとそわそわするくらい。

 まるで、呼ばれているように。


 かなえのSNSは、いろんな神社の写真で溢れていた。

 友だちとも色んな神社にいった。

 遊びにいった先で神社があれば写真を撮った。

 神社にいくために旅行にいったことこもある。


 有名無名、数えきれないほど神社の写真をアップしたが、その中に、あのお稲荷様の写真はない。

 ――こんちゃんたちは、わたしの中にだけいればいいの。

 お稲荷様のような、道端にある小さなお社が、かなえは好きだった。

 小さなお社は写真を撮ってもSNSには載せずに、一人で楽しんだ。

「カナオ、こういう小さいの好きだよね」

「べ、べ、べつに、そ、そ、そんなこと、な、な、ないけど」

 そんなに慌てなくていいでしょうよ。

 かなえは、「ふぅ」と息をして。

「なんか、可愛いじゃん」

「変わってるよね、カナオは、やっぱり」

「そうかな」

 ふっとが思い出された。

 ふっと、消えたくなった。時間を巻き戻したくなった。

「確かに」

 友人がいった。

「可愛いね、小さくて。わたしも写真撮っとこ」

「うん」

 時間は流れる。流れ流れて、止まることはない。


 周囲の心配をよそに、かなえは就職を決め、無事に大学を卒業した。


 新たな神社を求めて、奈良か京都、あるいは島根、または九州の会社というのも真剣に考えた。


「おはよー、こんいち、こんじ、こんぞう。今日から社会人。がんばるからね」

 ――あんたらのために、お母さん頑張るから!

 家からバスで30分ほどの距離にある文房具会社が、かなえの職場になった。

「縁よね」

 もう離れられないかも。 


 社会人になって3年ほどが経った。

 かなえは、職場で少し、浮いていた。


 入社して半年ほど経ったとき、かなえは自分が「見える人」であることを、つい話してしまった。

「カナオは、能天気なクセにだからね」

 大学時代の友人に相談すると、そんな言葉が返ってきた。

 大学時代の友人たちは、かなえが「そういう人」だと知りながら、普通に受け入れてくれていたのに。

 社会人とは、のんきな人種ではないのだ。

 競争というほどの健全性はない。

 カーストのようなものを作りたがるのは、古代人だけでも未成年だけでもない。


「樋口さん、見えるんだって?」

「樋口」とは、かなえの名字である。

「はい?」

 パソコンに向かって仕事をしていたかなえに横から声をかけてきたのは、先輩の水口さんだった。

「いや、別に……」

 不明瞭に答えるのが精一杯だった。水口さんは、そのままいってしまった。


 恥ずかしいような、悲しいような。

 時間を、戻したい。言ったことを、なかったことに、できないかな……。


 水口は、同じ部署だが課が違った。入ったときから知っているが、直接仕事で関わることはなかった。

 プロジェクトの都合で、かなえの課と水口の課で同じ仕事をすることになった。

 声をかけられたのは、そんな矢先だった。

 かなえより6歳年上、のはず。

 

 ある日の飲み会で、水口とかなえは、少しじっくり話をする機会があった。

「樋口さんのSNSて、神社の写真多いよね」

「あ、はい。神社、好きなんで」


 会話は、それほど弾まない。

 ふと、水口がこんなことを言い始めた。

「視界に映る世界って、人それぞれだから」

「え?」

「俺は、色盲で、緑と茶色の区別がつかない。でも、それが俺の世界なんだ」

 中学のとき、美術の授業などでよくからかわれたという。嫌な思いを抱えていた。

「その人が見る世界、感じる世界が、その人にとってリアルな世界だよ」

「はい……」

 慰められているようなのはわかった。

 ――なんで、この人、わたしにこんな話するんだろ……。

「幽霊とか心霊なんてのは、科学的にはまだ証明されないけど、それを感じる人の感覚、感じた恐怖とかは、本物だ。でしょ?」

 確かに。

 という言葉は声にはならなかった。

「要するに、本物だってことさ」

 かなえの胸の内側に、なにか詰まるようだった。


 そのとき、かなえの中の何かが変わった。

 そう、本物。かなえの見る世界は、かなえにとって本物だ。

 まさに、かなえが言いたかったことだった。

 他の人がかなえを見る目が変わりはしないが、かなえが他の人を見る目は変わった。

 かなえは、水口さんと話をするようになった。


「あのさ、かなえ」

「ん?」

 二人は、同棲ではないが、水口のマンションで過ごすことが多くなっていた。

「結婚しない?」

「うん。ん!?」

「ちょっと歳上だけど、俺と、結婚してください」

「ちょっ、ちょっと待って」

「え?」

 一日だけ欲しいと、かなえはプロポーズを保留した。


 翌日。

 迷ったとき、悩みがあるとき、かなえはここにくる。

 特別なことがあったときも。

「いちおう相談ていうか、プロポーズのこと報告しとこうかな、と思って」

 かなえは、お稲荷様にしばし語りかけた。

「こんいち、こんじ、こんぞう、わかった、ありがとう」

 彼らから答えがないことは、ときには「イエス」であり、別のときには「ノー」であり。 

 

 かなえの名字は、水口へと変わることになった。


 その年の12月。

「ちょっと帰れなくなりそうだ」

 中国に出張していた水口だが、現地でトラブって年明けまで帰国できないということだった。

「仕方ないよね」

「すまん。ご両親によろしく言っといて。時間があるときに、直接話ししましょうって」

「うん、わかった。ほんと、気をつけてね」

「うん、かなえも」

「じゃあね」

 じゃあ。ツー、ツー、ツー……。


 年末年始、水口はかなえの実家で過ごす予定だった。

 結婚の挨拶は済ませてあり、水口はかかなえの家族にはもう何度か会っていた。

 父は、水口のことをいたく気に入っていた。お互い巨人ファンというところでも意気投合していた。

 水口が年末これないことを伝えると、父はひどく残念がった。


 会社が冬休みに入る。水口とは、旦那とは、結局クリスマスも一緒に過ごせなかった。


 今年は、特にかわいた冬だ……。


 十二月二十九日。午後二時過ぎ。

 家の近所をぐるっと散歩して、またこの場所に帰ってくる。この、お稲荷様の前に。

「寂しい冬休みだよ、こんいち、こんじ、こんぞう……」

 あれ、急に目から温かい水が流れてきた。

 なにこれ、胸の辺りが痛い、苦しい。

 ――まさか、このわたしが、男の人と会えなくて泣くなんて……。

「わたし、いい女になっちゃったわ」

 かなえは、その場にしゃがみこんでしまった。顔を手で覆い、泣いた。


 こんなところ、誰かに見られたら困る。

 樋口さんとこの娘が、お稲荷様の前で泣いてたなんて噂になったら……。

 破談。


「だめよ!」

 かなえは勢いよく立ち上がった。大きく息を吸い込んで、涙は止まった、さあ、帰るのよ。

 「すわっ」と振り返った。

 そこに。

「え?」

 人が立っていた。振り返った目の前、ぶつかりそうなくらい近く。

 男性が、かなえと同い年くらいの男が、立っていた。


「なぜ、泣いておった」

 ――やべぇ、いきなり話しかけてきたよ、この人、しかも「泣いて」て。なんかやべぇ人に……。

「?」

 かなえは、男の顔を「じぃ」っと見つめる。

 もしかして、見たことがあるのか。

 名前が出てこない、小学校の同級生?

 面影。「わたし」はこの人の少年時代を知っている。

 「知っている」という感覚は確かにあった。

 ――誰……?

「詳しく話を聞かせろ。こい」

「は、え?」

 男は、かなえの手をとって歩きだした。かなえもすんなり、歩き始めた。


 ドキッ!

 手を握られた瞬間、かなえの胸が鳴った。

 連れていかれたのは、近くの小学校。かなえの母校。

 校庭にある、丸太のベンチに、二人並んで座った。

「さあ、話せ。なぜ泣いておった。意地悪されたのか、誰だ、誰にやられた」

 かなえは、話を始めた。

 なんとも正直に。長々と、丁寧に。


「そうか。お主の亭主が帰ってこれなくなったということか」

「うん」

「それは、けしからん亭主だな」

「まあ、仕方ないんだけどね、仕事だから」

「よし、では、わしが、そのだらしない亭主の代わりになってやろう」

 ――だらしないわけじゃないんだけど。

 なぜか、かなえは腹も立たない。

 ――確かに、いい加減なところはあるかな。

「あなたがあの人のかわりに? なんかしてくれるの?」

「うむ。してくれよう」

「なに、してくれるの?」

「なんでもするぞ。言うてみよ」

「そうね」

 じゃあ。

「デートしよ! 明日!」

「でぇと? なにをするんじゃ?」

「明日、あたしと一緒に遊びにいくのよ」

「なるほど。わかった。するぞ、でぇと」

「じゃあ、指切り」

「おう」

 かなえが出した小指に、男も小指を絡めてきた。

「ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本の~ます、指切った!」

 ――まさかこの歳になって「指切り」するとは思わなかったわ。

 しかも、今日初めて話した男の人と。

 かなえは、ニヤニヤが止まらない。


 そろそろ空が暗くなってくる。

「もう少し歩いて、帰りましょう」

 いつの間にか、男の手を引いているかなえだった。


 夕方5時。辺りはもうだいぶ暗い。気温もすっかり下がっていた。


 小学校の周りも変わった。

 かなえが小学生のころは、友だちとワイワイ話しながら歩いたこの道は田んぼに挟まれていた。

 その道は、今は住宅に挟まれている。

 風が吹きっさらしの帰り道はさぞ寒かったはずだが、建物に挟まれた今のほうが冷たく乾いた感じがした。思い出補正は大きく効いているだろうが。


が厳しいな。こういうときはカマイタチのやつがイタズラするから気を付けよ」

 とは「北風」のこと。かなえがそのことを知るのは、後のこと。


「ちょっと、お参りしていこうよ」

 「ふいっ」とかなえが道をそれた。八幡神社の鳥居を潜っていた。

「おい、待て!」

 くんの意外に強い声がかなえをつかんだが、かなえは気にせず入っていく。

 ――同級生なら、こんなことも許されるでしょ。

 両脇は住宅だが、鳥居の先は一軒家ほどの拝殿があり、周りを杉の木が囲んでいた。

 管理する人がいるわけはなく、闇の中で静まり返っていた。

 外と内とを隔てる「厳(おごそ)かさ」が流れていた。

 もちろん、かなえの「気の持ちよう」だ。


「まったく、人のいうことを聞かぬ娘よ。旦那の気苦労が知れるわ」

「なによそれ! どういう」

 意味、よ……。

 二人は、数人に囲まれていた、いつの間に。


「これはこれは、信綱(のぶつな)坊やがいっちょまえにおなごを連れておるではないか」

 カッカッカッ、と囲んでいる一人が笑った。つられるように、他からも笑いが起きた。

「貴様には分不相応ないい娘だな。悪いことは言わん、その娘をおいて去(い)ね」

「え、なに?」

 ――わたしのこと「いい女」って……。

 いやいや、そういうことじゃないわ。

 スッと、くんがかなえを隠すように前に立った。

「この女子には指一本触れさせぬ」

「ほう」

「そもそも、この娘はではない」

「なにをたわけたことを。この時期に娘を連れているならば、そういうことであろうが!」

「あ」

 かなえの、体から力が抜ける。なんだか、眠くなる……。

「かなえ! きさま!」


 ……。


 信綱は、ずっとかなえのことを見てきた。気にしてきた。

 彼女は、信綱にとって必要な人間だった。

 彼女が成長するにつれ、彼女の精神、心の変わり様に触れていると、信綱の、彼女に対する評価(思い)も変わっていった。

 ――彼女は、己に対してよりも、他者に対してより正直なのか。

 自分は誤魔化せるのに、他人は誤魔化せない。

 ――我らと似ている。

 彼女を長く知るにつれ、「信綱たち」から「たち」が消えていった。

 「信綱」にとって、他に換えようがない人になっていった。

 ――わしは「信綱」失格かもしれん。


 闇に塗り込められた八幡様の境内に、三つの影があった。いずれも、歳の似た若者たちである。

「伊三郎様、いかがいたしますか?」

 「伊三郎」とは信綱のこと。伊三郎信綱。

「考えるまでもあるまい」

「ほんとに、三郎山にいくんすか?」

「無論」

「向こうは多勢、こっちは三人、勝ち目ないっすよ」

「わしが彼女に声をかけたのが事の起こりだ。始末はつけねばならぬ。ましてや、長七郎に女を奪われたままで手出しもせぬとあっては、車郷衆の面子が立たぬ」

「衆っていっても三人すけどね」

「これ、茂助! いい加減にせんか!」

「どのみち、彼女なしじゃ我らに先はない、ということでしょ」

「ま、そういうことだ」

 そういうことでも、ないのだが。

「与兵衛、茂助、おぬしらの命はわしが預かる」

「今さら何を仰られます。我ら二人、もとよりそのつもりでございます」

「つもりっす」

 三人が、それぞれの目を見合って頷いた。

 次の瞬間には、三つの影は「ふっ」とそこから消えていた。


 木に囲まれている。どこか林の中だろうか。

 枯れ草の上に座らされ、腕を後ろ手に縛られている。足首の辺りでも縛られており、かなえは、身動きがとれなかった。

 男が近づいてきた、信綱を最初に笑った男だ。

「怖い顔で睨むな。危害を加えるつもりはない。やつらがこぬとしても、元日の朝には帰してやる」

 元日の朝とは、三日後じゃないか。

 ――こんなやつらと初日の出を拝むなんて、勘弁してよ。

「信綱くんはくるよ」

「きたらきたで好都合。やつらをぶちのめし、二度とこの辺りに近づくなと約束させる。やつらとの約定がなれば、おぬしも直ぐに帰れる。逃げずにくるのを願うがいい」

 こいつ、ほんと最低!


「きたぞ!」

 少し先で大きな声が飛んだ。

「よかったな。もうじき帰れるぞ」

「約束しなかったら、どうするの?」

「おまえか? やつらか?」

「……」

「やつらが約束する気がないときは、仕方ない、死んでもらう。やつらが死んでも、おまえは家に帰してやる」

 騒ぎが大きくなっている。かなえを呼ぶ声が聞こえてくるようだった。

「わしらを応援するがいい、少しでも早く帰りたかったらな。カッカッカッ! 一気に片付けるぞ!」

 あんなに大勢で。

「卑怯もの!」

 信綱たちは、たった三人なのに!?


「たった三匹でほんとに乗り込んでくるとわな」

「かなえは返してもらうぞ、長七郎」

「今すぐこの地を離れると約束しろ、さすれば娘はすぐに帰す」

「なにをばかな」

「この長七郎も舐められものだ、おっと、手向かいせぬ方がいいぞ。おとなしく言うことをきかねば、娘の顔に傷がつく」


「ほらね、やっぱり。取り返しにきても見捨てても、うちらの負けなんすから」

「茂助、黙っておれ」

「速さではわしらの方に分がある。わしと与兵衛がおとりになるゆえ、茂助、おぬしがかなえを救え」

「信綱様、それでは」

「冗談いっちゃいけませんよ、わたしはあの娘が苦手なんすから、あんな大雑把な洗い方されちゃあたまらない」

「左様。わしら二人、あの娘が苦手なのでござる」

「与兵衛、茂助」

「信綱様、御武運を」

「わたしだってこの地を離れたくないんすからね。ましてや死ぬなんてまっぴらだ。さっさと頼みますよ」

「いくぞ、茂助」

「はいはい」

 「ざっ」と地面を蹴っ飛ばし、二人は姿勢を低くして、獣のごとく、突っ込んだ。

 信綱も、すぐに同様の姿勢で駆け出した。


 長七郎たちの壁は厚い。

 一対一であれば与兵衛も茂助も苦戦する相手ではないが、今二人が相手にしている人数は六、七人である。

 一発殴っては相手を換え、蹴っては相手を換える。

 三倍の数の相手に動きを止めることなく戦い続ける二人は大したものだった。


 信綱は、間隙をついてかなえの元へと滑り込んだ。

 しかし、道は前にしかない。長七郎と二人の部下に道を塞がれて、信綱は逆に身動きがとれない。

 そもそも、かなえの縛を解かなければ逃げようもない。

 結局、ここからかなえを連れて帰るには、目の前の三人を打ち倒すより方法はないのだ。

 もとより、その覚悟できている。

 信綱は、長七郎めがけて突進した。


 この集団の長である長七郎は、他のものたちより分かりやすく体が大きい。力も強いに違いない。

 信綱は、一直線に長七郎にぶつかった。

 ぶつかった、が、長七郎は信綱の突進を受け止めた。

 捕まれては厄介だ、信綱は、さっと動いて小さい部下に向かった。

 

 信綱もやはり、機敏に動き回り、相手を確実に消耗させている。

 二人の部下の動きが鈍くなっていた。

「どうしたどうした、もうバテたか! カッカッ!」

 長七郎の言葉は、部下と信綱、双方に当てはまる。

 まず部下を戦わせ、信綱の体力を削らせていた。

 長七郎は、少し離れたところで、ニヤニヤ笑いを浮かべながら眺めている。

「そろそろ終(しま)いにしてやろうじゃねえか」

 長七郎が信綱に近寄っていった。


 きっと、向こうも同じような状態だろう。

 ――わたしのために、わたしなんかのために。

「わたしのことなど放っておいて逃げて!」

 よっぽどそう言おうと思った。喉まで出ていた。

 そんなこと、言えるわけはない。


 それは「とても言いにくい言葉」などではない。

 つらい選択肢ではない。

 むしろ楽な方法だ。ずぼら。

 彼らのための言葉ではない。

 自分が楽になりたいがための、言葉だ!


 今こそ強くあらねばならぬ。彼らとともに。

 信綱たちとともに、ここから逃げる。

 いや、逃げるのではない。

 みんなで、笑顔で帰るんだ!

 ――おばあちゃん!


 かなえは、目を閉じる。

 背中に回された両手に剣印を作って重ねる。逆さ剣印を重ねて。

「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン。ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン。ノウマク・サマンダ……」

 不動真言、逆さ不動印!

 かなえの声は徐々に大きくなる。かなえの気持ちが、願いが、真言にのって辺りにほとばしる。


「な、なんだ?」

「か、体が」

 長七郎一味の体を異変が襲った。

 体が重い、腕が、足が、重くなった。まるで何かが絡み付くように。

 体の自由が、きかない!


 信綱が、体を抑えていた部下の二人を振りほどいた。

「なぜ貴様が動ける!」

 女の不動真言は、ここにいる全員を同じように縛るはずなのに!

「さあな」

 信綱はゆっくり長七郎に近づくと、顔面を一発殴り、腹にげんこつと蹴りを一発ずつ食らわせた。


 長七郎は腕を振り上げ反撃を試みる。

 力も速さもない長七郎の拳が信綱に当たることはない。

 それでも、何度も腕を伸ばすが、すべて避けられた挙げ句に、自ら地面に倒れこんでしまった。

「俺たちの負けだ、か、勘弁してくれ。女は返す、もっと山の奥に引っ込むから、だから、早く女の真言を止めさせてくれ」

 信綱は、かなえに近づき、彼女の肩に手をのせて耳元に小さく言った。

 「すぅ」っと、真言はやんだ。


「今日のところは退いてやる、山の奥までな。だがな、覚えてろよ、次は、貴様ら三人ともぶっ殺してやるからな」

 定型の捨て台詞を残し、

「引くぞ! 全員引けー!」

 威勢がいいのは声だけ、よろよろよたよたしながら、長七郎たちは、林を奥へと消えていった。


 かなえの元に三人が集まる。

 信綱に言われて、足を伸ばしてうつ伏せになったかなえの縛りを、与兵衛がほどいてくれた。


 信綱に支えられて、かなえも立ち上がる。足元に「ぱさっ」と紐のようなものが落ちた。

「かなえ殿の真言に助けられましたな」

「いや、わたしらもだいぶしんどかったっすけどね」

「茂助!」

「しんどかった、手足に何かがまとわりつくようだった、が、不思議と動けた。不思議とな」

「そうでしょう、それはきっと、あ」

 い、あれ、また、なんか、意識が……。

 崩れ落ちそうだったかなえをとっさに支えたのは、茂助だった。

「おっと、とと。けっこう重いな」

 ――失礼ね、言うほど重くないでしょうが。

 でも、最近ちょっと食べ過ぎだったかな……。

 ――これもみんな、水口さんがいないから……。


 ……。


「ん、ん……」

「起きたか」

「わたし、どうなって……、え!?」

 けっこうな速さで景色が動いていた。

 車? いや、バイク?

「起きたんすか。じゃあ、降りてもらっていいすか」

「ほれ、しっかり走らんか、茂助」

「ん? ええ!」

 かなえが乗っているのは、茂助だった。

 かなえは茂助に背負われて、どうやら山を下っている、ようだった。

 ――こんなに速く走れるんなら、人のこと「重たい」なんて言わないでよ。


 市街地の灯りは遥か眼下にある。


「長七郎って、何ものなの?」

「この辺りを縄張りにしている狸たちでござる」

「「縄張りにしていた」ね」

「ふーん、狸ね。……。たぬき!?」

 てことは、やっぱり。

「あなたちは、狐……」

「左様。はっきり告げてはおらんかったな。かなえを驚かせたくなくて黙っていた。すまん」

 いいえ、全然。

「わたしこそ。こんいち、こんじ、こんぞうなんて勝手に名前つけて、ごめんなさい」

「ハッハッ! わたしがこんいちだ」

「わたしがこんじの茂助です」

「バカを申すな、こんじはこの与兵衛に決まっておろう。これからも、よしなに」

「いっつもこうだよ」

「なんだなんだ、さっきは二人とも「かなえのことが苦手」とかなんとか言っておったのに、気にしておったのではないか」

「信綱様、それを今ここで言わなくても」

「告げ口なんて、頭領のすることじゃないっすよ」

 ハッハッハッ!


 街の灯りがみるみる近づいてくる。

 光がところどころ固まって広がっている市街地の手前に、かなえの家がある。

 あとどれくらいで、着くのだろう。


「三人はさ、普段はどんなことして……」

 また、意識が……。

 ――やだ、ちょっと待ってよ、いつも大事なところでわたしを除け者にして。

 もうちょっと、みんなと話がしたいのに、一緒にいたいのに……。


 ――こんちゃんたち、いかないで、わたしもにいさせてよ、こんいち、こんじ、こんぞう……。

 ――違う、信綱くん、与兵衛くん、茂助くん、まだ一緒にいたい、まだまだ話したい、ききたいことがいっぱいあるのに……。

 またあのさみしい世界に戻らなきゃいけないなんて、寒くてかわいた、あの世界に……。


「おばあちゃん、いたよ! ほら、こっち!」

 目を開けると、まっ暗闇。

 ぼんやりと暗闇を見つめながら、状況はすぐに飲み込めた。

 八幡様の拝殿の縁側、お賽銭箱の近くで、かなえは横になっていた。

 ここぞとばかり大きな声をあげているのは弟だ。

 他にも声が近づいてくる。父と、おばあちゃんだった。

「だいじょぶかい? 怪我はなかった? 寒かったろうに」

「う、うん。だいじょぶ、だいじょぶ」

「だから、あんまり気にしすぎるなって言ってんだろうが。ったく、狐なんぞに引き込まれてやがって」

 父の言葉は、ほとんど全く耳に入ってこなかった。

 かなえを抱きしめて、おばあちゃんが泣いていた。

「おばあちゃん、ごめんね」

 言うと、かなえの目にも涙が溢れた。


 かなえの言葉が「からっぽ」であることは、おばあちゃんに伝わってしまったろうか。


 みんながここにこなければ、まだ、彼らと一緒にいられたのに……。


 それはどうだか、わからないのだけれど……。


 かなえは、家に帰ってきていた。

「だから気を付けろって、昔から言ってるだろうが」

 父はいつもそればかり言う。

「姉ちゃん、どこでもいつでも寝すぎなんだって」

 そんな「のび○くん」みたいな特技、わたしは持ってないわよ。

「狐の好物は油揚げでしょ。狐の心配はしてなかったけど、そのうち唐揚げみたいになるんじゃないかと心配だったわ」

 ……、なにそれ?

 でも、気を付けます。お母さん、大好き。


 おばあちゃん……。

「ごめんなさい」

「体の調子はどうだい? おかしなところはないかい?」

「うん、だいじょぶ。ありがとう」

 不思議というかなんというか、体は全然なともなかった。まだ、頭が少し「ぼう」としてるくらいで。

「みんな、ほんとにごめんなさい。以後、気を付けます」

 かなえは申し訳なさそうに、顔を伏せた。会わせる顔がない、という風に。


 なんと心のない「ごめんなさい」だ。子どもが、不貞腐れたように言う「ごめんなさい」そのもの。

 頬を膨らませて不満を露にする幼い女の子の顔が浮かんできた。

 

「まったく、水口くんに嫁ぐ前に、狐に嫁がれたんじゃ、たまったもんじゃねぇや」

「……」

 何か反論しようと顔を上げかけたが、上がらなかった。

 そのままじっと、こたつに隠れた自分の腕を見つめていた。隠れた左手で、隠れた右手の手首をずっと触っていた。


 さすがに疲れたのだろう。

 寝付くまでに時間がかかったが、一度寝付いて次に目を開けたときには、すっかり朝がやってきていた。

 時の流れは、容赦がない。誰に対しても、何に対しても。


 翌日。

 多少元気がない、いくらか「しおらしい」長女を見て、家の者は、

 ――さすがに懲りたようだ。

 と思っていた。


 昼食の後。

「ちょっと、出かけてくる」

 かなえは、家を出た。


 弟が「ちらっ」と時計を見る、午後一時を十分ほど過ぎている、そのままおばあちゃんと目を合わせた。

 おばあちゃんが小さく首を横に振った。

 弟は立ち上がり、自分の部屋へと戻った。


 かなえは確かに「しおらし」かった。

 ただし、それは「懲りた」からではなかった。


 かなえの日課は、お稲荷様にお参りをすることだ。

 この日ももちろん、お稲荷様の前に立った。

 三つの狐たちと向かい合い、手を合わせ、小さく頭を下げた。

 目をつぶって開けて。周りを見て。

 目をつぶって、しゃがんで、立ち上がって。


 後ろを見ても、どこを見ても、かなえの他に人影はない。

 歩いている人もいなかった。


「ったく、どいつもこいつも」

 かなえは歩き出した。


 夜の闇の中に、人影が浮かぶのを期待した。

 窓の外から狐の鳴き声が聞こえてくるのを期待していた。


 信綱たちと一緒にいたい。「こっちの世界」にいさせてよ――。


 小学校へいって、丸太のベンチに座る。

 しばらく座って、立ち上がり、また歩き出す。


 八幡神社に入る、お賽銭箱に十円玉を入れ、手を合わせて頭を下げた。


 梢の風に鳴るのを聞いて、神社の鳥居をくぐった。かなえは再び、歩き始めた。


 かなえの見つめる先にお稲荷様がある。

 三つの狐の置物が、こちらを向いて座っていた。

「浮気者め」

 小さく呟いたその一言が、自分に入ってきてグサリと突き刺さった。


 浮気しているわけじゃない。

 あの人がここにいないのは、浮気してるからじゃないのに……。


 心が雑巾のようにしぼられる。

 ぎゅうっ!

 苦しい。

 あまりの苦しさに、かなえは両手で顔をおさえてしゃがんでしまった。

 ――また、温かい水が流れてくる……。


 一人の寂しさ。そして、婚約者に「浮気者」の言葉を(わずかでも)重ねてしまった自分の情けなさ。

 弱さ。卑怯さ。


 ――こんなだから、わたしはいつもひとりぼっちなのよ。

 おまえはいつだって、のけ者なのよ!


 寂しい過去が収縮する。ぎゅっと小さく丸まって、心の穴にすっぽりはまった。


 樋口の娘がお稲荷様の前で泣いていた、しかも二日続けて!

 なんてことが噂になったら。

 破局!

 さらに勘当!

「だめよ!」

 立ち上がった。胸をはって、わたしは家に帰るのよ!

 勢いよくお稲荷様に背中を向けた。

「わぁ!」

 男が立っていた。振り返っただけでぶつかりそうなほど近くに。

 そしてぶつかった。

 かなえは、男をぎゅうっと抱きしめた。

「遅いよ」

「ごめん、ただいま」

 水口さんが、立っていた。


「遅いよ」

 かなえはそう言った。

 しかし、考えてみると、遅くはない。

 むしろ早いんじゃないか。帰ってくるのは、年明けと言っていたんじゃないか。


「昨日電話したんだぞ」

 そういえば、知らない番号で何度か着信はあった。

「スマホが使えなくなっちゃってさ。いちおうかけてみたけど」

 やっぱり出なかった。だから。

「実家に電話したんだよ」

「誰も出なかったでしょ。変なセールスが多いから、家の電話に出ないのよ」

「出たよ、たくみくんが」

 たくみは弟。

「マジ? じゃあ、誰にも伝えなかったのね、まったく、あのガキは」

「今実家に寄ったら、ご両親もおばあさんも知ってたっぽいけどな」

 と、言っていいものかどうか迷っているうちに、二人は家に着いていた。

 家の近くに、お稲荷様はある。

 そこに手を合わせるのが、小さいときからのかなえの日課だった。


「ちょっと、マジ信じられないんだけど」

 かなえ以外、弟、両親、おばあちゃんは水口さんが帰ってくることを知っていた。

 最初は「どっきり」のつもりだった。

 水口さんが帰ってきたときの長女の顔、態度を想像して笑っていた。


 昨日「あんなこと」があって。

 もし、水口さんが都合が悪くなって帰ってこれなかったら。

「言わないほうがいいんじゃないか」

 水口さんと帰ってきた長女の様子を見ていると、

やはりそれで正解だった。


 翌日、大晦日。

 かなえは水口さんにおねだりをする。

「デートしよ」

 返事はすぐには返ってこない。

 ――こういうところよね。

 だから「だらしない亭主」て言われちゃうのよ。


 午前十時。

 かなえはお稲荷様に手を振った、だらしない亭主の運転する車でお稲荷様の前を通りすぎた。 


 車で三十分ほどの場所にあるショッピングモールで、買い物をして、お昼を食べて、大晦日のショッピングモールはかなり混んでいる、映画をみて。


 午後三時すぎ。モールを後にした。

「どうする、もう帰っていいのか」

「まだよ、まだまだ」

 これからが、本番。

「どこいくの?」

 なんなら、ショッピングなんて時間潰なんだから。


「おいおい、どこ向かってんだ、だいじょぶなのか、この道で。ナエのナビはマジで心配だな」

 車は、山道を走る。「ナエ」とは、かなえのこと。山道は、既に闇。

 木々の間を縫うように、車は走る。

 「走る」というより、恐々首をすぼめて歩くように、ゆっくりと動いている。


「ここらへんでとめて」

「え?」

 山の中の狭い道の、中でも少し広い、見通しのそれほど悪くない場所に車を停める。

 車を降りる、かなえはぐるっと一回周りを見回す、おもむろに道路わきの草むらの中に分け入った。

「おいおい!」

 水口は、慌ててかなえを捕まえようと腕を伸ばした、が。

 かなえは、山の中へずんずん入っていった。


 黒い壁に穴を開けるように、ヘッドライトが闇をかき分けて進んでゆく。山道を緩やかに下っていく。

 暫く降りると、下ったさらに遥か先に、小さな無数の灯りが見える。市街の灯りが見えた。

 昨日見たのとほとんど同じだった。

 下っていく車の中は静かだった。かなえは、窓の外を眺めていた。


 かなえが足を踏み込んだその場所は、草の密度が少し薄くなっていた。多少歩きやすい。

 仕事で山に入る人が歩く道なのか。この時季でなければ、およそかなえに歩ける道ではない。

 

 そこは、かなえがのとは少し違った。

 少し違っているようだが、足が止まることはなかった。


 空地と言えるほどの隙間もないその場所には、そこも少し違っているようだが、落ちていた、紐のようなもの。

 手に取ってみる。紐のような、木の皮だった。

 持って帰ろうか。かなえは少し、考える。


 水口は、かなえに何も言わなかった。余計なことは一言も言わず、少し後ろから、奥さんを静かに見守った。静かに、一瞬も気を緩めることなく。

 奥さんのこの行動が、彼女にとって何を意味するのか。どんな意義があるのか。

  

 一度は聞かねばなるまい。

 

 夜。

 ひどく明るいかなえがそこにいた。唐揚げをバクバク食べる娘が、大きな声で心底楽しそうに笑う奥さんがそこにいた。

 それこそ、憑き物が落ちたように。

 それを言うと、かなえの表情がきっと曇るだろうから、誰も口にはしなかったが。父親でさえも。


 ふと、テレビがこんなことを言う。

「王子では、今年も狐火行列が行われております。狐の顔にメイクしたり、狐のお面を被って狐に扮装した多くの人々が、王子稲荷を目指して歩く行事は、年末大晦日の風物詩としてすっかり定着しており」……。

 かなえの視線が止まった。

「へぇ、こんなのあるんだ」

 へぇ、ともう一度言うと、かなえは視線をテレビから離し、再びみんなと話し始めた。

 

 いつもより少し、少しだけ特別な大晦日の夜が更けていく。

 自分の居場所を、かなえはしっかりとかみしめていた。



 人々の作り出す賑わいの中を泳ぐように。

「人間てのは、変わった生き物っすよね、わざわざ変な化粧して、狐に化けるなんざ」

「これ、妙なことを口走るでない」

「なぁに、誰も聞いちゃいませんよ。しかし、ヘタクソな変化だな。そもそも、わたしたちゃ『コンコン』なんて鳴きゃあしない」

「確かに、奇妙な生き物よの、人というのは」

 その奇妙な「人間」にわざわざ姿を変える「わしら」は、さらにさらに奇妙ということか。

 三人は一塊になって歩く。一人の後に二人が着いて歩いている。

「来年は、わたしらも化粧してきましょうよ。コンコン」

「いつまでもバカなことを言っておるでない」

 前を歩く一人が、はにかむように笑った、まるで自分が怒られたかのように。

「まあでも、官位が頂けることは間違いないんすよね」

「それは間違いあるまい。なんせ長七郎たちを山奥に退けたのだからな」

「でも、伊三郎様は、お顔がお浮きにならないようで」

 「お浮きにならない」とは、妙な言葉遣いではある。「伊三郎」と呼ばれる男が笑ったのは、その「言葉遣い」のせいばかりでもない。

「これ茂助! まったくおまえはいつもいつも」

「なんにしても、あの子のおかげっていうことで」

「まったく、おぬしは言葉がぞんざいに過ぎる。もう少し言葉遣いを学ばねばならん。それに関しては、この与兵衛の責任でもあるのだが」

 ぶつぶつと、小言が止まらない。見た感じ、年齢は三人とも変わらないように見える。 

 おどける一人を一人がたしなめ、一人はそれを後に聞きながら静かに笑う。

 会話の内容もさることながら、その雰囲気は「今どき」とは少し違うかもしれない。

 それを気にして三人に視線を留める人など、ここにはいないが(をする人は、ここにもいるかもしれないが)。

「伊三郎様、そろそろ」

「うむ」

 小さく頷いた、次の瞬間。三人の若者が、その場から消えた。そのことに気づいた人間は一人もいない。


 二時間、いや一刻後。

 喧騒が遠い、ここは。遠くの賑わいがそよ風のように空気を揺らす。

 神社の境内。人気のない神社は闇が呑み込んでいた。

 いや、「すうっ」と灯りが浮かび上がった、湖の底から浮かび上がる泡のように。

 一つ、二つ、三つ、四つ五つ、六つ、七……。

 鳥居から社殿へと続く参道の両脇に灯りが並んだ。灯りの一つ一つが揺ら揺らと揺れている。それは「火」。


 さらに半刻ほどが経つ。

 鳥居の下に三つの火が立った。三つの内の一つ、真ん中の一つが「さぁ」っと境内に流れた。

 鳥居から社殿に火が流れるのは、これが初めてではない。

 参道に火が並んでから、幾つもの火が、両脇の火の間を流れていた。

 鳥居から流れた火が社殿の前で「ピタリ」と止まる。止まった火の先、社殿の縁側の、地面より一つ高い場所にも火が灯っていた。

 鳥居から進んできた火を見下ろすように、三つの火が立つ。


 心を落ち着けてその場におれば、そんなものが見えるかもしれない。

 そして聞こえるかもしれない。こんなことが。


「車郷衆伊三郎信綱」

「はっ」

「お主に正六位下をとらす」

「謹んで、賜りそうろう」


 信綱がかなえを見てきたのは、官位を得るためだった。

 人間をたぶらかす。人間と婚姻を結ぶ。

 これらのことをなせば官位が下される。

 官位は、狐たちにとって重要なものだ。ハクが付く。

 狐の官位は狸たちも無碍にはできない。

 官位持ちの狐に、仁義を通さずにちょっかいをかければ、それは狐と狸のへと発展し、手を出した狸が爪弾きにされかねない。

 長七郎がかなえをさらったのは、信綱の官位下賜阻止のためだった。

 信綱たちにとって、かなえは大事な存在、大事な「人間の娘」だった。

 かつては。

 今は……。

 信綱が、かなえを思う感情をどう呼ぶかは、恐らく信綱本人にもわからないだろう。

 

 かなえは、近所のお稲荷様に手を合わせるのが日課だった。

 かなえがこの先、その日課をやめることはない。

 お稲荷様の前にいようが離れていようが、かなえは毎日欠かさず、お稲荷様に手を合わせ続ける。



季節の言葉:王子の狐火

※季節遅れですいません m(_ _)m

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

短編「季節の言葉」 カイセ マキ @rghtr148

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ