第14話 無事でよかった


 夢の中の自分は、いつも決まって少年の姿をしている。

 親友だったアダムも、妹分のターニャも、いつだって夢の中では子どもの頃の姿をしていた。


 だって、あの頃が一番幸せだったから。

 そしてその幸せが壊れてしまうのは、本当に一瞬なのだと、誰よりも自分がよく知っている。



『アダム……』



 呼びかけ、地面に膝をつく。血を流して倒れている親友。もう二度と動かない。憧れだった王国騎士の紋章を胸に抱き、炎に包まれた孤児院の床で、静かに目を閉じて眠っている。

 その奥に倒れているのは、この孤児院を運営し、これまで自分たちを育ててくれたシスターと神父の亡骸だった。

 母親であり、父親であり、先生のような存在だった二人。彼らも、もう、二度と動かない。


 傷を負った左目が痛む。

 何年も前の傷であるはずなのに、夢の中ですら、じくじくといつまでも焼けるように疼く。

 斬り付けられ、もう何も見ることのできない左目の奥には、今でもあの日の光景がこびりついて離れない。


 大事なものを何一つ守れなかった、あの日の……。



『ルー兄……』



 燃え盛る炎の中で、彼女はこちらを見つめている。

 青い髪の少女。アダムの亡骸を抱いて、涙を浮かべて。



『どうして……ルー兄……』


『ターニャ……』


『どうして……?』



 きっと彼女は、一生、己のしたことを許してくれないだろう。



『どうして、みんなを殺したの──』




 ──そうして次に目を開けた時。


 ルーキスがいたのは、見知らぬ部屋の中だった。



「……は……」



 がばり。勢いよく上体を起こす。

 木と布で作られた簡素なベッド、甘ったるい匂いを放つキャンドル。どうやらまだ夜のようだが、カーテンは閉め切られ、いまだ雨が降り続き、魔女の姿もどこにもない。


 どこだ、ここは。


 現在の状況が把握できず、ルーキスは周囲を見渡した。同時に後頭部がジクリと鈍く痛んだ。

 そこでようやく思い出す。意識を失う前、何者かに襲われたことを。


「くそ、痛え……一体、何が起こって……」


 すると、その時。おもむろに部屋の扉が開く。



「っ……!」



 魔女だろうか、と一瞬淡い期待をした。しかし、部屋に入ってきたのは魔女ではなかった。

 サイドを三つ編みに結い、眼帯をかけた青髪の女。見覚えのない人物の登場にルーキスは息を飲み、即座に警戒を強める。



「……何者だ」


「そう睨まなくてもいいだろ、顔馴染みなんだし」


「顔馴染み?」


「ああ、よく知ってるよ」



 表情もなく告げて、女は近くの椅子に腰掛けた。

 顔馴染みだと主張する彼女。確かにどこか既視感がある気はするが、記憶を辿れどいまいちピンとこない。黙って訝しんでいるルーキスに女は目を細め、「ひどい奴だな」と嘆息した。



「可愛い妹分のことも忘れちまったのか? ルー兄」


「……!」


「まあ、久しぶりに会ったんだ。無理もないか」



 ルー兄──印象深いその呼び方は、追憶の彼方に追いやられていても尚、確かな形を残している。

 眠っていた記憶をようやく呼び覚まし、ルーキスは目を見張った。


「お前……っ、ターニャか!?」


 彼が声を張る一方で、眼帯の女──ターニャは小さく口角を上げる。



「ああ、良かった。思い出してくれたみたいだ」


「ターニャ、お前、どうして……! というか、ここはどこだ? 足が動かない俺をどうやって運んで……っそうだ、お前が俺を殴ったのか!?」


「はあ、落ち着いてくれ。殴ったのは悪かった、うっかり手が当たったんだ」



 矢継ぎ早に問えば、ターニャは肩を竦めて薄く笑い、不意に身を乗り出すとベッドに片膝を乗り上げてルーキスの頬に触れた。

 ヒヤリと冷たいその手に触れられ、ルーキスの肩が跳ねる。



「……っ?」


「ねえ。そんなことより、ルー兄」


「ターニャ……?」


「あたし、美人になったと思わない?」



 薄い唇を指先でなぞり、しなやかに伸びた褐色の腕がするりと絡みついてくる。ギシ、とベッドが軋み、甘い香りをまとったターニャはルーキスの膝の上に跨って密着してきた。


「昔、こうやって、よく抱っこしてくれてたよね」


 艶やかな声色で囁き、ターニャはルーキスに顔を近づける。



「今夜も、あたしのこと、抱いてみる?」



 妖艶に問う彼女。

 ルーキスは眉をひそめて顔を逸らした。



「……退け、ターニャ。何のつもりだ」


「ツレないな、ルー兄。昔みたいにスキンシップを取ろうとしてるだけなのに」


「はあ……まさかとは思ったが、ここは娼館か? お前ここで働いてるのか」


「さあね、ご想像にお任せするよ。でも、悪くない体付きになっただろ? 好きに触ってくれていいよ、もちろんタダだ。ルー兄だけトクベツ」



 露出の多い服の装飾をシャラリと指で撫ぜ、ターニャは魅惑的な胸元の膨らみを見せつけて誘惑してくる。しかしルーキスは興味を示さず、かぶりを振りながら彼女の肩を押し返した。



「悪いが、そういう話なら断る。俺は今夜の汽車に乗らないといけないんだ、お前と遊んでる時間はない」


「夜汽車なら、今夜は運行してないぞ」


「……何?」


「ご覧の通りの雷雨だからな。乾燥地帯の汽車は雨に弱い、この雨が止むまで運行再開はないね」



 カーテンをめくり、雷鳴が唸る空を顎で指すターニャ。ルーキスは雨粒のしたたる窓に手を触れ、「雨……」と眉をひそめた。


 意外にも、すぐに脳裏に浮かんだのは魔女の顔だ。今がどれほど深い時間なのかまったく分からないが、こんな雨の中、あの場に魔女を置いてきてしまったことだけは事実。

 ここから動くなと言われたベンチを離れて、いつの間にか娼館なんかに連れ込まれてしまって──さすがに怒っているかもしれない。



(アイツ、俺のこと探してるんじゃ……。つーか、勝手にいなくなった上に娼館にいるのまずいだろ、バレたらあとで何て説明すりゃいいんだよ……)



 後々の説明に面倒が生じる可能性を憂い、はあ、と深いため息が漏れる。

 一方でターニャはさらに身を寄せ、「な? これでゆっくりできるだろ?」と上目遣いにルーキスを見遣った。


 しかしルーキスは疑わしげに目を細め、やはり彼女の誘いを断る。



「ターニャ、お前の仕事を否定するつもりはないが、俺はお前と寝る気なんてないぞ。別の客を取れ」


「何で? あたしじゃ不満?」


「……そういうわけじゃないが、何も言わずに置いて来ちまった連れがいるからな」


「……ふうん。連れ、ね」



 ルーキスの発言に、それまで誘う猫のような甘さを含んでいたターニャの声が一変し、著しく低くなる。

 同行者の存在に勘づいた彼女は元々切れ長だった目尻をことさらきつく尖らせ、うっすらと殺気をけぶらせた。


「ねえ、その連れって、どんな奴?」


 静かに問うターニャに、ルーキスは真顔で答える。



「ゴリラだな」


「──ゴッ!?」


「岩も壁も片手で壊す、たとえ剣で斬られてもタンコブで済む……正真正銘のマジゴリラだ」


「そっ……れはっ、た、確かにゴリラだな……!?」



 迷いなく告げるルーキス。その目には生気がこもっていなかった。どこか遠くを見つめている彼の傍ら、ターニャの脳裏には筋肉モリモリのムキムキマッチョがイメージとして浮かぶ。


 厚い胸板、逞しい上腕二頭筋、そして魅惑のシックスパック──す、すごい同行者だ……!


 どうやらルーキスはとんでもないマッチョと行動を共にしているらしいと結論を出し、ターニャは息を吐いてルーキスから離れた。



「……ま、まあいい。どうせ夜汽車は運休だ、それに足も自由に動かないんだろ? しばらく雨宿りしていくといい」


「ターニャ」


「ん? 何だ? 抱いてくれる気になったか?」


「いや、そうじゃない。……そろそろ、本題に入ったらどうだ?」



 ぴり──ルーキスの一言で、取り止めのない会話には終止符が打たれ、場の空気が一変する。

 ターニャは眉ひとつ動かさず口をつぐみ、やがて、「何のことだ?」と聞き返した。


「しらばっくれるなよ」


 ルーキスは続ける。



「お前が、俺を許すはずないだろ」



 核心に近しい言葉を吐き、ターニャに視線を向ければ、彼女はやはり無表情に立ち尽くすばかり。しかしややあって、ターニャは口角を上げた。



「ルー兄は、相変わらず、他人を信用しないんだね」


「……戦場で生きてきたからな」


「あは、何言ってんだよ。家族あたしらのことも信用してなかったくせに」



 ギロリと、鈍色の眼光がきつくルーキスを射抜く。鋭利な言葉は容赦なくルーキスを貫くが、彼はそれを受け入れているようで、何も言わずに目を逸らした。



「あんたはあたしの仇だ。シスターも、神父様も、他のみんなも……あんたが殺した……」


「……」


「アダム兄でさえも……あんたが……!」


「……それで? 今度はお前が俺を殺しにきたのか? 復讐のために俺を攫ったんだろ」



 冷静に問えば、ターニャは一層表情を歪める。拳を強く握り込み、「いいや、まだ、殺したりしない……」と彼女は答えた。



「そう易々と、簡単に殺してなんかやるもんか……まずは、あんたの大事な存在をすべて殺してからだ」


「そうか。だとしたら残念だったな、俺に大事な存在なんてもう残ってない」


「それはどうだろうね。さっき話していた〝連れ〟には、少し心を許しているように見えたけど」



 したり顔で告げるターニャ。ルーキスの眉はぴくりと反応する。

 彼女の言う〝連れ〟が誰のことを示しているのか、すぐに理解できた。ルーキスは舌を打ち、声を低める。


「……アイツとはただの雇用関係で、何の関係もない。巻き込むのは筋違いだ」


 牽制しながら睨みつけると、ターニャは鼻で笑った。



「そうやってあたしを遠ざけようとしてる時点で、連れに少しは情があるんだな」


「……」


「ルー兄は甘いね。牙を見せて威嚇はするけど、結局のところ根っこの優しい部分が隠しきれない。……最初から、ルー兄には叱る役なんて向いてないんだよ。あたしたちを叱るのはアダム兄で、優しく慰めてくれるのが、ルー兄だったんだから……」



 切なげに目を細めて過去の思い出をなぞり、ターニャはルーキスに近付くとその肩を強く押す。抵抗もせずベッドに横たわったルーキスは表情ひとつ変えずにターニャを睨んだが、彼女はくすりと笑って彼の耳元に唇を寄せた。


「足が動かないんだろう? ここでいい子に待ってるといい」


 冷たい手のひらで頬を撫で、ターニャは妖艶に告げる。



「あたしがあんたの連れ、ここまで導いてきてあげる。生きたまま連れてくる保証はしないけどな」


「……ターニャ、バカな真似はよせ。それにアイツは物理的に強いぞ、大人しくついてくる奴じゃない」


「ふっ、それは腕が鳴るね。どんなマッチョか見ものだ」


「やめ──おいちょっと待てマッチョって何だ???」



 唐突なマッチョ発言にルーキスは首を捻った。しかしターニャは深く語らず、髪を掻き上げると立ち上がって彼のそばを離れる。


「それじゃ、また後で」


 不敵に笑み、彼女は部屋を出て行った。

 ルーキスの足が動かないことを知っているのだろう、手足を縛ることもせず置いて行ったようだ。


 ルーキスはしばし黙って天井を見上げていたが、程なくして起き上がり、ひとつ息を吐く。面倒なことになった、と頭を抱えた。



(魔女のやつは頑丈だが、戦闘慣れしているとは言い難い……だが、ターニャの方は戦闘技術に長けている。俺の不意がつける程度には気配を殺すのもうまいんだ、もし魔女と接触したら……)



 思案し、ことさら頭が痛くなる。

 ターニャが魔女と接触してしまえば、どちらかが怪我を負うことになるのだろう。正面から対峙すればバケモノじみたステータスを持つ魔女に分があるだろうが、ターニャは不意をつくのがうまい。いくら頑丈な魔女とはいえ、不意打ちで攻撃されればただでは済まないかもしれない。


(魔女……)


 ルーキス様、と呼びかける、もはや聞き慣れてしまった声が蘇る。


 しつこく笑顔を振り撒き、コロコロと表情が変わる彼女。今ごろどこかで、必死に自分のことを探し回っている──そんな都合のいい想像を膨らませては、いや探してなどいないだろうと冷静になるのに、きっと再会すればすぐに駆け寄ってきてくれるのだろうという確証もない憶測が、どうしても覆せない。


 再会すれば、笑うだろうか。泣くだろうか。

 どちらでも面倒くさいが、おそらくきっと、両手を広げて抱きついてくる。



 ──無事でよかった。



 憎たらしいほどに眩しい、いつもの声と、言葉を添えて。



「……これ以上、夢見が悪くなんのは御免だな」



 ルーキスは呟き、歩行補助マシーンの電源を入れる。足ツボの痛みに耐え、彼はその場に立ち上がった。


「面倒だが、仕方ねえ」


 決意を秘めた強い眼差し。顔を上げ、彼は前に足を踏み出す。



「俺が、あの魔女を守──」


「ルーキス様ああああああッ!!」



 ──ドゴォォォンッ!!


 しかし、直後。ベッドサイドの壁が木っ端微塵に粉砕し、たった今探しに行こうと決意したはずの張本人がルーキスの名を叫びながら飛び込んできた。

 タックルで壁をぶち壊してダイナミック入室してきた魔女はその勢いのままにルーキスを吹っ飛ばす。



「ごっふッ!?」


「あ」



 とんでもない勢いで追突され、ルーキスは背後の壁に叩きつけられた。たちまち遠のく意識。おぼろげに白目を剥いてひび割れた壁際に倒れ込めば、諸悪の根源たる魔女が涙ながらに駆け寄ってきて彼を抱きしめる。



「あああっ、ルーキス様! こんなところにいたんですね!? 無事でよかった〜〜〜!!」


「……っ、これの……どこが……無事なん……」



 だ、と言葉を絞り出し、想像よりも遥かに眩しすぎた彼女の腕の中、ルーキスは意識を手放したのであった。



「ルーキス様ぁぁ〜〜〜!!」

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