第5話 美味しいあの子


 眠るのは嫌いだ。

 嫌な夢を見てしまうから。



『──ルーキス』



 微睡みの中を揺蕩うルーキスは、不意に名前を呼ばれて振り返る。そこにいたのは、幼い頃から兄弟のように共に育った親友だった。



『アダム』



 呼び掛ければ、ルーキスと同じ浅黒い肌の少年が笑う。川沿いのベンチに腰掛けるルーキスの元へと嬉しそうに駆け寄ってくる彼。

 赤髪の少年──アダムは、ルーキスの親友であり、よき兄貴分だった。



『なあ、聞いてくれよ、ルーキス! 俺、王国騎士団の最終入団試験に受かったんだぜ!』


『えっ……! 本当か、アダム! すごいな、大人も受けるような試験なのに』


『ふふんっ、俺にとっちゃ朝飯前よ。史上最年少、十三歳での入団が正式に大決定だ!』



 得意げに腕を組むアダム。穏やかな川の水面に映り込む自分たちの外見は、まだ顔にあどけなさの残る少年だ。


 これは、過去にあった出来事の追憶。

 幸せだったあの頃の残り香。

 もう何度も見た夢なのだから、そのぐらいは分かっている。


『……アダムは強いから、試験に受かるのも当然だな。誇りに思うよ』


 薄く微笑み、『おめでとう』と告げた少年時代のルーキス。

 そんな彼の肩を抱き、アダムは笑うのだ。あの日の淡い思い出をなぞって。



『お前も来月で十三歳だろ? 参加資格もらえるんだし、次の入団試験は受けてみろよ。一緒にこの国守ろうぜ!』


『……俺は、アダムみたいに強くない。受かるのは無理だ』


『何言ってんだ、お前は強いよ! 両手剣クレイモアの扱いは俺より上手いしな!』



 どことなく弱気なルーキスを鼓舞し、アダムは『お前が騎士団に入ったらさ!』と理想の未来を語り始める。



『一緒に世界中を巡るんだ! この国も、その隣の国も、そのまた遥か向こうの国も!』


『……うん』


『俺は最年少で騎士団長に就任、お前は俺をサポートする団長補佐! 世界中で有名になってさ、お金もたっくさん稼いでさ、この孤児院のシスターとか、妹分のターニャとか、みんなに贅沢させてやりたいよな! ほら、すっげー楽しみだと思わねえか? 兄弟!』



 無邪気に語る親友。生まれた頃から知っている家族。

 両親のいない彼らにとって、小高い丘の上にある孤児院と、互いの存在だけが人生のすべてだった。



『……うん。そうだな、兄弟。俺も頑張らねえと』



 ルーキスは口角を上げ、こくりと頷く。

 しかし、その瞬間──視界が揺らめき、彼の目の前には黒煙を上げて燃え盛る炎が立ち上った。


 ああ、ほら、またこの展開だ。



『アダム──』



 ルーキスの隣に、アダムはもういない。川の水面に映る自分も、先ほどまでのような子どもの姿ではない。


 揺らめく波紋の中に映っていたのは、王国騎士の紋章を胸に掲げ、顔を斬りつけられて片目を潰され、血を流す己の姿。そして、背後で立ち上る炎の赤色。

 ごうごうと燃え盛るそれは天で瞬く星々の光すらかき消し、煙となって広がっていく。


 長年過ごした孤児院は炎に包まれ、周囲の木々を呑み込みながら崩れ落ちた。


『ルーキス……』


 名前を呼ばれ、振り返る。

 この声はアダムだ。

 しかし、その場にアダムはいない。


『お前のせいだ』


 這いずってくる黒い塊。人の形をした何か。

 焼け尽きて焦げた肉塊が地を這い、黒い涙を流して近付いてくる。


 ルーキスは知っている。

 この夢の結末を。


 この後に放たれる、彼の言葉も。



『お前さえいなければ──』


「──んもうっ! またベッドから落ちそうになってる! ルーキス様ってば、全然じっとしてくれませんねっ!」



 しかし、予測していた悪夢の続きは、間の抜けた女の声に遮られた。


「……あ?」


 たちまち意識が覚醒し、閉じ切っていたまぶたを持ち上げる。

 すると視界に飛び込んだのは、やたら至近距離にあるポンコツ魔女の顔だった。


 途端に冷えていく思考。薄れていく夢の残影。

 脳裏に残っていた悪夢は瞬く間に消え去り、記憶の隅に追いやられる。



「あっ、起きた! ルーキス様っ、おはようございま──ふぐっ!?」


「近ぇ、重ぇ、どけ疫病魔女」



 反射的に片手を顔面に叩きつけ、ルーキスは己にのしかかっている魔女を引き剥がそうとした。だが無駄に耐久値の高い彼女はびくともせず、「痛いじゃないですか〜」と唇を尖らせながら平然としている。

 チッ──思わず舌打ちが漏れかけるが、同時に彼女の格好が視界に飛び込み、彼の思考はことさら冷えて苛立ちに塗り潰された。



「……おい、何で裸なんだお前」


「え? 裸じゃないですよ、下着つけてます〜」


「ほぼ裸だろうがこんなもん! 俺に近付くな変態痴女が!!」


「も〜、暴れちゃダメですよぉ、まだ体調が万全じゃないんですから〜」



 誰が暴れさせてると思ってんだ! と一層苛立って怒鳴りかけたところで、「彼女の言う通りですよ、傭兵の旦那!」と割り込んだのは別の声。

 反射的に顔を傾ければ、両手を擦り合わせてにこやかに近付いてくる細身の男と視線が交わる。



「いんや〜っ、先日は本っっ当にありがとうございましたぁ〜! おかげ様で商品はすべて無事でございましたし、山賊も捕まったそうです。ありがたやありがたやぁ〜」


「……お前は……」



 おぼろげな記憶をたどり、小柄な男の顔を思い出す。しばしの間を置き、ようやくルーキスの脳内では、山道で泣きわめいていた行商人だと答えが出た。

 出会った時は干からびた青瓢簞あおびょうたんさながらに絶望していた土気色の顔も、今では別人のようにツヤツヤと輝いて赤みを帯びている。


「商品を取り戻してくださって助かりましたよぉ〜! 良かった良かった、これで行商の旅が続けられるぅ!」


 などと明るく声を発している男だが、ルーキスは眉根を寄せ、浅く息を吐いた。



「何が行商の旅だ、白々しい。お前、本業は行商人なんかじゃないだろう」


「……はて? 何のことです?」


「しらばっくれるな、闇医者・・・が」



 直球に言い放てば、男は気弱な雰囲気を一変させて口角を上げた。


「おやおや、やはり積荷の中身を見られておりましたか」


 それまでの腰の低さが嘘のように態度が変わり、渋い声で自身の口髭を撫でる彼。

 裏社会の人間は顔の種類が豊富なもんだ、とルーキスは呆れる。


 男が山賊に盗まれた商売道具──それは、行商用の売り物などではついぞなかった。積荷の中に収められていたものは、主に裏社会で違法に流通している薬物や医療道具……正しく処方すれば薬となるが、一歩誤れば毒にもなりうる危険なものばかりだったのである。


 ほんの一瞬目にしただけで、ルーキスは依頼者の正体が闇医者なのだろうとすぐに断定できた。傭兵という生業柄、彼らのような闇医者とは、切っても切れない繋がりがあるからだ。


 依頼を受ければ即時戦場に赴かねばならない傭兵にとって、怪我や死は常に付き纏ってくるもの。しかし戦況が激しければ激しいほど、拠点の設備は破壊され、まともな医療体制など整っていないことが多い。


 そんな環境に身を置く彼らが負傷した際、早期に頼るほとんどは、無認可で施術を行う闇医者たちであった。彼らは皆、戦場における高額取引や無免許の治療で生計を立てている。


「俺を見るなり、一目で傭兵ゼルドナだと見抜いたのも納得だ」


 ルーキスは呆れ顔で続ける。



「そりゃあよく知ってるだろうよ。普段から俺らみたいな無法者を相手に、命の売り買いで荒稼ぎしてんだからな」


「おや、心外ですねえ。命知らずのあなた方にとっては安い買い物でしょう? 薄っぺらな己の命など」



 涼しげにのたまう彼。物怖じしないその態度も闇医者らしいな、とルーキスは辟易した。


「今回もお安くしておきましたよ、傭兵の旦那」


 続けられ、ルーキスはことさら顔を顰めて舌を打つ。



「チッ……体の不調が消えたとは思っていたが、やはりお前が治療したのか……コウモリの呪いだったか? 確か」


「ププッ、呪いですって? そんなものあるわけないでしょう。あれは頭の悪い山賊たちがこぞって信じ込んでいる、ただの法螺話ですよ」


「フン、だろうな、馬鹿馬鹿しいと思ったんだ。別に信じちゃいなかったさ」


「それはそれは、賢いようで安心いたしました。〝呪い〟の真相は、実にシンプルなものですよ。コウモリが媒介した菌をあなたが吸い込んで、運悪くそれが発症してしまっただけ」



 半笑いで続けた男は、ランタンのような取手付きの小瓶を手に持ち、見せつけるように軽く掲げた。

 その中では、片手で包み込めるほどに小さな毛むくじゃらのコウモリが、眩しそうに目を細めてぶら下がっている。


「こいつは……」


 訝しむルーキスに、闇医者は答えた。



「これはコウモリ=モドキ科・ミミナガハナコウモリ属に分類されるコウモリで、通称〝シニガミコウモリ〟と呼ばれる生き物です。読んで字の如く、人間を死に至らしめる菌を撒き散らす〝死神〟であり、疫病えきびょうの化身とも称されます」


「疫病?」


「あなた方が〝呪い〟と呼んだ症状のことですよ。可愛らしい顔をしていながら、このコウモリは無数の菌や寄生虫を体内に宿している──それらは糞尿と共に排泄され、やがて大気中に漂います。これを人が吸い込んでしまうと感染し、死に至る、というわけです。感染後の致死率は実に八割。呪いより怖いかもしれませんね」



 闇医者は語り、コツンと指先で取っ手付きの瓶を小突く。中にいたコウモリは薄く目を開いて「キュ〜?」と首を傾げたが、また眩しそうに視界を閉じてしまった。



「この一匹が、あなたのローブのフード内に入っていたんですよ。まだ幼体だ。おそらく上手く飛べず、落っこちてきたんでしょうね」


「……いつの間に……」


「生まれて間もない赤ん坊でしょうが、素手で触れるだけでも致死性の病に感染する恐れがある。簡単に言えば、飛び回る猛毒みたいなもんですね。こいつが近くにいたせいで急速に症状が悪化したんでしょう、死ななくてラッキーでしたよ」



 恐ろしい言葉を平然と発する闇医者の声を拾い上げつつ、ルーキスはじとりと目を細めてベッドに腰掛けている魔女を見遣る。


「……おい、お前、このコウモリ食うとか言ってなかったか?」


 問いかければ、彼女は笑って頷いた。



「ええ、そうです、美味しいですよ! 血を吸うとほんのり甘いんですが、この子たちは毒草や毒虫を食べて生活しているので、はらわたにピリッと毒が効いていて癖になるんです〜。おやつにピッタリ!」


「本当に気色悪……。つーか、お前はさっさと服を着ろ。何でいつまでも裸なんだ、恥ずかしくないのかよ」



 露骨にドン引きするルーキスの傍ら、魔女はきょとんと目をしばたたく。



「あれ、何かおかしいのですか? こうやって服を脱いで素肌で触れ合うことが、人間を看病する時の礼儀だと教わったのですが……」


「はあぁ? 誰に」



 ルーキスの問いに答えるかのように、魔女は迷いなく指をさす。

 この場にいる人物は、ルーキスと、魔女と、そしてあと一人だけ。

 彼女の指がさし示す先にいたのはもちろん、あからさまな冷や汗を流し、あさっての方向を見てピュウ〜と口笛を吹いている──闇医者だった。


 そのまましれっと逃げようとしている彼の胸ぐらを即座に掴み、ルーキスは「おい……」と声を低める。



「どういうことだ? あ? お前、あの魔女に何吹き込みやがった? コラ」


「え、えへ……」


「えへじゃねえんだよクソ医者が、バラバラに解体すんぞテメェ」


「うわあああんッ!! しゅしゅしゅしゅみましぇええんッ!! 若い女の子のエッチな体をジロジロ眺め倒したくてェ! 出来心でェ! ついうっかりいいい!!」


「露骨な欲望を耳元で叫ぶな!!」



 煩悩だらけの闇医者を思わず怒鳴りつけ、ルーキスは不機嫌をあらわに彼を突き飛ばした。

 尻餅をついた闇医者は先ほどまでとは打って変わって弱々しい様子で「ヒエェェン、痛いよぉ〜!」とわざとらしく泣き叫んでいる。その情けない姿を心配そうに見つめた魔女は、おずおずと彼に近寄った。



「あ、あのぅ、闇医者さん、大丈夫ですか……?」


「ウッウッ、尻を打ってしまった……人間はね、尻を打つと歩けなくなるんだよぉ……。たか〜く突き上げた女の子のお尻を背後からジロジロと眺めれば、すーぐ治るんだが……ウェヒヒヒ……」


「まあ! それは大変です! 私のお尻で良ければいくらでも見てくださ──」


「んっっなわけあるかァ!! 簡単に騙されんなアホ魔女! 鼻の下伸ばしたエロ医者なんかに付き合ってられん、俺はもうここを出るからな!!」



 苛立ちながら吐き捨て、ルーキスは不機嫌そうにベッドを降りる。しかし勢いのまま踏み込んだ足には力が入らず、そのままドターンッ! と派手に転倒してしまった。


「っ……!? なッ……!?」


 何が起こったのか、わけもわからず床に這いつくばる彼。闇医者はまたも不敵な笑みを浮かべ、「ああ、言い忘れていましたが……」と再び声色を一変させて口火を切る。



「薬を投与したことで、コウモリ菌の治療は完了したんですけれどもね。少々後遺症が残ってしまいまして」


「……な、に……?」


「まあ、大したことじゃありませんよ。しばらく歩けなくなるだけです。早ければ一年程度のリハビリで動くようになりますのでご安心を」


「は……っ? 一年ッ!? ふざけんな、歩けないまま一年も大人しくしてろってのか!?」


「ええ、死にたくなければ、少しは大人しくしといた方がいいでしょうねえ。〝夜明けの番犬〟ルーキス・オルトロスさん」



 チャリ──金属質な音を立て、闇医者の手元で揺らいだシルバーのドッグタグ。ルーキスは言葉を詰まらせ、やがて医者を鋭く睨みつけた。


「私も戦場を転々とする医者ですからね。あなたのお噂は、かねがね耳にしていますよ」


 闇医者はため息混じりに続ける。



「なんでも、七日七晩眠らずに戦い、敵を容赦なく殲滅してしまうとか。恐ろしい人だ。普通は七日も眠らなければ、認知能力が低下して正常な思考や判断力を失うというのに」


「……」


「祝福の国・コーヴォルトの王国騎士・・・・として活躍していた頃とは大違いのようですねえ。最年少で騎士隊長に抜擢され、将来は団長にのぼり詰めるだろうと期待されていたんでしたっけ。その頃のあなたは、誰よりも体調管理に気をつけていたと伺っていましたが」


「……黙れ。王国騎士はもうやめたんだ」



 低く告げ、ルーキスは視線を落とした。


「王国の犬は、もう死んだ」


 そう続けた彼を見遣った闇医者は、「ほう」と目を細め、手元にあったドッグタグをルーキスに返す。



「ま、どうせしばらくは歩けません。傭兵になった野良犬の命が少しでも惜しいのなら、この期間に休むことを覚えた方がいいでしょう」


「……」


「それでは、おやすみなさい、ルーキスさん。今回の治療費は、あなたに渡す予定だった報酬から差し引いておきますので」



 それだけを言い残し、背を向けた闇医者は先ほどルーキスに乱された襟元を正したのちに部屋を出て行った。


 一方のルーキスは床に伏したままドッグタグを掴み取り、それを握り締めてしばし俯く。

 そもそも、ここは一体どこなのだろうか──と今さら周辺の状況を懸念して思案した頃、近付いてきた魔女が床に倒れている彼の体を抱き上げた。



「っ……!」


「さ、ルーキス様、ベッドに戻りましょ」


「や、やめろ、離せ! というか、お前も出ていけ! 金輪際こんりんざい俺に構うな!」


「一人で起き上がれもしないのに何言ってるんですか〜」



 正論を返されたルーキスはぐうの音も出ず、悔しげに顔を歪めて押し黙る。魔女は一瞬切なげに微笑み、「大丈夫ですよ」と告げて、彼を静かにベッドへ戻した。



「あなたの足が自由に動くようになったら、その時こそ、ちゃんと大人しく離れますので。だからもうしばらくの間だけ、あなたのおそばに居させてください」


「……俺の足が動くようになったら、って? ハッ、お前、一年も俺に付きまとうつもりなのかよ」


「いいえ、一年もかかりませんよ。だって、私、あなたの足を治せる方を知っていますから」



 優しく告げ、魔女は不機嫌そうなルーキスの顔を見下ろした。眉をひそめて訝る彼に、彼女は続ける。



「私と共に、魔女族の国へ行きましょう、ルーキス様」



 身を乗り出し、ベッドを軋ませて、愛らしい顔を寄せる魔女。


「あなたの足を治せる魔女様をご紹介いたします」


 そうして放たれた言葉に、ルーキスは深く眉間の皺を刻む──が、その直後。


 魔女は突如、彼に軽く口付けた。



「……っ!?」


「でも、その前に。良い子におやすみなさいしましょうね」


「待っ……んむ……っ!」



 抵抗する間もなく再び唇が塞がれ、柔らかな舌が滑り込み、彼女はルーキスの口内を優しく撫でる。

 柔らかな甘み。戯れるような口付け。抗うことも出来ずに唇をついばまれ、ルーキスの体からは少しずつ力が抜けていく。

 彼の喉の奥へと魔力を注ぎ込んだ魔女は顔を上げ、頬を上気させるルーキスを見下ろして、とろんと表情を蕩けさせた。



「……そういえば、前に口付けた時から、思っていたんですけれど」



 視界がかすみ、急激にまぶたが重くなる。



「ルーキス様って……」



 近付く整った顔。

 甘い吐息が。

 囁く声が。


 熱を帯びて、耳にかかる。



「──とっても、美味しいですよねぇ……」



 恍惚と頬を緩め、魔女は舌なめずりをした。


 とんでもなく不穏な言葉を最後に、ルーキスは声すら発せず、眠りの中へと落ちていく……。


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