第2話 酔いどれと傭兵
とろり、とろり、心地よい夢の中。
揺蕩う彼の意識と、おぼろげに残っていた記憶は、数日前の夜の出来事に回帰していた。
思い出すだけで殴りたくなる老いぼれの顔が、眠れる脳裏に蘇る。
「──ルーキスよ。オメェ久しぶりに会ったが、ひっでぇツラしてやがるなァ」
さかのぼること数日前。
拠点とする城下町・トルメキアへ戻ったルーキスは、酒場も兼ねたギルド内の一角で飲んだくれている己の師・ジョゼフと、数ヶ月ぶりの再会を果たしていた。
七十を越えた老いぼれであるにも拘わらず、若い女を周囲にはべらせ、度数の高い酒をあおる彼。その姿にげんなりと目を細め、ルーキスは早々に背を向けて無視に徹しようと決意する。
しかしすぐさま首根っこを掴まれてしまい、彼は半ば強制的にジョゼフの隣に腰を降ろすこととなった。
「なあんだテメェ、戦地から数ヶ月ぶりに戻ってきやがったってのに、師匠への挨拶もナシたァどういうことだァ? コラァ、えぇ?」
「チッ……酒くせェ、近寄るな」
「けっ、ほんっとーに可愛くねェ弟子だぜ! 目にパンダみてーなクマ作りやがって、どんだけひでぇ生活したらそうなるんだァ? クマかパンダか、どっちかにしやがれェい! ガハハ!」
「あんたには関係ないだろ。用がないんなら帰るぞ」
酔いどれて絡む師にうんざりするルーキスだが、ジョゼフは無骨な手で彼の肩を掴んだまま離そうとしない。
一見するとただのクソジジイだが、現役時代は多くの王国騎士が恐れおののいた歴戦の傭兵である。たかが老いぼれと
ルーキスは苦い表情で手に汗を滲ませた。
「そうカリカリすんなィ、ルーキスよォ。オメェにありがた~い金の話を持ってきたんだぜェ? このお師匠様がさァ」
「金の話だと? 寝言は寝て言え、飲んだくれのあんたが俺に仕事を依頼しにきたってのかよ」
「ンだァ? 信じられねえってか? 泣かせるねぇ」
おいおいとジョゼフが泣き真似を披露した頃、テーブルには頼んだ覚えのない酒が運ばれてきた。「まあ、とりあえず飲めィ。俺の奢りだぜェ」と笑う彼だったが、ルーキスの表情はぎこちない。
「あァん? どうしたルーキス。俺の酒が飲めねェってのかィ」
問いかける師に、ルーキスは「いや……」と言葉を濁す。ややあって、ジョゼフはわざとらしく口元に手を当てた。
「あっ……! オメェ、そういや
「……」
「そんな怖ェ目付きで! 顔にドデカい古傷まであって! 片目すら潰してる強面のクセして! 酒の一滴も飲めねェお子ちゃま舌なんだっけェ!? 笑っちまわァ!! ぐわっはっはっは!!」
(このジジイ、いつか殺す……)
毎度同じネタでからかわれているルーキスは、聞き飽きたお馴染みの台詞にうんざりしながら師を睨みつけた。しかしジョゼフはヒィヒィと呼吸を乱すばかりで笑うことをやめず、嫌がるルーキスにもお構い無しで酒のグラスを握らせる。
「くくくっ……! まあまあ、そう睨んでねェで乾杯しようぜ弟子ィ! 久しぶりに会ったんだからよォ!」
「……これだから、俺は会いたくなかったんだ」
「あーん? 何か言ったかァ?」
「別に」
もはや逃げることは諦め、ルーキスは死んだ目でジョゼフと杯を交えた。直後、ちびりと口をつけた酒はたちまち焼け付く熱を帯びて喉の奥に流れていく。
(コイツ、強い酒頼みやがって……!)
ルーキスの眉間には一層深いシワが刻まれたが、したり顔の師は楽しげだ。
「ほらほらどォ〜したァ? しっかり飲めよォ、全部飲まねえと今夜は帰さねえぜ〜?」
(くそ、タチの悪い冗談も程々にしろよ……)
忌々しげに顔を顰めるが、長年ジョゼフの弟子として接してきた彼は、師が出した酒を飲みきるまでこの場から解放して貰えないことをよく知っている。少しでも早く立ち去りたいルーキスは、後々の不調を覚悟の上で手元の酒を一気にあおって嚥下した。
「……うっ……まっず……」
「──さて、弟子よ。仕事の話なんだがなァ」
「……っ、あァ? それ、今、言うことか……? シラフの時に、話してくれ……」
「くくくっ、シラフじゃァ話せねえこともあんだよ。特にオメェは警戒心がとりわけ強ェからなァ。先に正常な思考はぶっ壊しとかねェと」
ジョゼフは白い顎髭を弄りながらにんまりと口角を上げ、既にアルコールが回りきっているルーキスの肩を抱く。飲む前はあれほど師を拒絶していた彼だが、酒が入ったせいで正常な思考を手放したのか、容易くジョゼフの肩にもたれかかってきた。
周りにいた若い女達は「あらあら、可愛い。もう酔っちゃったの?」と笑っている。
「くくくっ、そーなんだよ、可愛いだろコイツ。ひとたび剣を振るえば〝夜明けの番犬〟なんて異名を持つほど夜通し暴れ回って任務を遂行しやがるが、酒さえ飲ませちまえばただのイヌッコロだ」
「……黙、れ、クソジジイ……」
「さて、本題だが、弟子よ。──オメェ、最近全然寝てねェだろ」
酒気を帯びた低音が耳元にかかり、ルーキスは眉根を寄せて口ごもった。何も言わない彼に「まあ、明らかに顔が死んでやがるから確認するまでもねェが」と付け加え、ジョゼフは続ける。
「ルーキス、傭兵以前に〝人間〟として生きる上で、最低限知っておくべき基礎中の基礎ってモンをオメェに教えてやる。──人間、メシや女はしばらく食わなくても死なねェが、睡眠だけは疎かにすると簡単に死ぬぞ」
「……」
「近頃のオメェはデカい怪我を負うことも増えた。ろくに休息取ってねェから、本来の実力が出せてねェんだ。雇われりゃどんな地獄にだって赴かなきゃならねェ
耳に痛い言葉が続き、ルーキスは「うるせえ……」とか細い声を返した。すっかり潰れかけている弟子を見遣り、ジョセフは続ける。
「っつーわけで、俺から特別な高額依頼がある。高い金払ってオメェに
「んん……あァ……?」
「なあに、簡単な依頼さ」
老いぼれのくせに生え揃った歯列を覗かせ、豪快に酒をあおったジョゼフ。
やがて、彼は笑顔で言い放った。
「──寝ろ」
たった一言、シンプルな依頼。
酔いどれたルーキスはおぼろげな思考でそれを拾い上げ、ぼんやりしている間もなく強引に羽根ペンを握らされた。
かくして、ろくに依頼の詳細も分からないまま、彼は何らかの紙にサインを書かされ──
現在、謎の魔女を派遣された山小屋の中で、こうして目を覚ましたわけである。
「……悪夢だ……」
「えっ、悪い夢見ましたか? ごめんなさい、ルーキス様……」
「違う、お前が俺の前に現れる前から全てが最悪だ。夢だった方が遥かにマシだった。あのクソジジイ、次会ったら絶対殺す……」
酒のせいであやふやだった記憶が蘇り、ルーキスは深く頭を抱えて殺意をけぶらせた。
おそらくこの訳の分からない状況は、すべて師であるジョゼフが仕組んだことなのだろう。〝
「チッ……余計なことを……」
「それにしてもルーキス様、よくお眠りでしたね! あんなに嫌がっていたのに、たくさん眠っていただけて、魔女はすっごく嬉しいです!」
「……あ?」
にこにこ、件の魔女は明るく声を発して嬉しそうに微笑んでいる。
昨晩ベビードール姿で迫ってきたはずの服装は元の格好に戻っており、ふと窓の向こうを一瞥すれば、随分と高い位置に太陽が昇っていた。
(しまった……魔法のせいで寝すぎたのか。朝一番に下山してトルメキア行きの船に乗るつもりだったのに、もう昼だと? くそ、予定が狂った)
渋い表情で舌打ちし、ルーキスは上体を起こす。
傭兵である彼が拠点とするギルドは、大陸西部に位置するトルメキアという大きな国にある。戻るには山の麓の港町から船に乗るのが一番早いが、小さな港であるために運航状況が悪く、トルメキア方面の船が来るのは二週間に一回程度だ。
つまり最速で拠点に帰るには、今日出航の船に確実に乗る必要があるのである。
(俺が昨日乗ってきた船で見た情報だと、西方面に戻る便は今日の夕方出航だったはず……昼には町に着いて武器の手入れでもする予定だったが、そんな余裕はなさそうだな。今すぐ山を下りねえと乗り遅れちまう)
冷静に状況を分析し、彼は丁寧に畳まれている己の衣服を手に取ってその場に立ち上がった。魔女は「お着替え、手伝いましょうか?」と申し出てきたが、ルーキスは冷徹に声を低める。
「近寄るな、娼婦紛いの尻軽魔女。恥じらいもなく服を脱いで迫った挙句、人に勝手に口付けやがって」
「え? 私、何か間違えてしまいましたか? 人間に魔力を口移しで与えるのは良くなかったのでしょうか……魔女の国からあまり出たことがないので、人間の文化をよく知らないのです……」
「文化の違いって問題なのかよ、アレが……」
きょとんとした顔で何の悪びれもなく首を捻る魔女の様子を見るに、どうやら本当に邪なことを考えて取った行動ではなかったらしい。
よもや、犬や猫に口付けるような感覚だったとでも言うのだろうか。その方がむしろタチが悪い。
「……いいか、今後のために教えておいてやる。人間はそう易々と異性に口付けたりしない。それに、人前で簡単に服も脱がない。今度から絶対にするなよ」
「でも、ルーキス様が『脱げ』とおっしゃいましたよね?」
「……。あれは、その、特例だ……」
魔女の指摘で自身の失言を思い出し、ルーキスはぎこちなく目をそらした。逃げるための算段とはいえ、あの発言は軽率すぎたと己を静かに戒める。
「と、とにかく! 俺はもう山を下りる。お前と過ごすのはここまでだ、報酬ならクソジジイに三倍の額を支払わせるから文句ないだろ。それじゃあな」
「あっ、待ってくださいルーキス様! 山を下りるなら私も一緒に……」
「断る。俺は夕方の船に乗ってトルメキアに戻らなくちゃならないんでな、愚鈍な魔女にチンタラ付き合ってる暇はな──」
「船? トルメキア行きの船ですか? ……それなら、もう行っちゃったと思いますけど」
「……は?」
ぴたり。玄関の扉を蹴り開けたところで、ルーキスは足を止めて振り返った。魔女は青い瞳を丸め、彼を見つめている。
「……おい、どういうことだ、それは」
「どうって……えと、出航時刻が過ぎてしまいましたという報告ですが……」
「そんなはずないだろ。俺は港で帰りの船の日時を確認したんだぞ、一晩経たないうちに出航するわけ……」
「三日です、ルーキス様」
「あ?」
「
控えめに告げ、魔女は口元に指を当てて目を泳がせた。対するルーキスは硬直し、眉間のシワを更に深く刻む。
「……何だと?」
「そ、その、ルーキス様、随分とお疲れだったようでして……少〜し強めに魔法をかけたら、効きすぎてしまったらしく……」
「……」
「……三日間、何をしても起きませんでした」
ぎこちなく微笑み、『てへ』と愛らしく小首を傾げる魔女。ルーキスはみるみると古傷の目立つ顔を歪め、鬼の形相で魔女の肩を掴んだ。
「ヒエッ!?」
「……じゃあ、何だ? 次の船が港に来んのはいつだってんだよ」
「と、十日後でございます、ルーキス様。でも、あの……嵐が来やすい季節ですから、天候によっては更に伸びる可能も……」
「最短でトルメキアに戻るには?」
「陸路でしたら、馬を使えば一週間ほどで辿り着くかと……」
「──チィッ!」
ここ数日で一番大きな舌打ちが漏れ、ルーキスは魔女を突き飛ばした。しかし体幹がしっかりしているのか魔女はビクともせず、「ごめんなさい、船に乗ることを知っていれば、私が眠っているルーキス様を抱えて船内へ突っ込むことも出来たんですが……」などと肩を落とす。
そんな辱めを受けるのなんざ真っ平御免だと辟易し、ルーキスは彼女に背を向けた。
「この疫病魔女が……! 二度と俺に近付くな。今度こそお別れだ、じゃあな」
「あっ! あのっ、待ってください、ルーキス様!」
即刻その場を去ろうとするルーキスだったが、魔女の馬鹿力がマントを掴んだことで「んぐっ!?」と首を圧迫されて引き止められる。
なんだコイツ力強えよ! と脳内だけで驚愕している間に、魔女はルーキスの両手を握って愛らしい顔を近付けた。
「……私の魔法は、少しでも、あなた様のお役に立ちましたか?」
「……あ?」
不安そうな表情で問いかけられる。ルーキスは眉根を寄せ、『むしろ迷惑でしかない』と突き放そうとしたが、ここは嘘でも肯定してやった方があっさり身を引いてくれるのではないかと考えが過ぎった。
ルーキスは漏れかけた悪態を飲み込み、涼し気な顔で顎を引く。
「……ああ、役には立ったぞ。随分と体が軽くなった」
「本当ですかっ!?」
「ああ……まあ」
嬉しげに輝いた瞳からそっと目を逸らし、ルーキスは再び頷いた。
本当に体は軽くなっているのだから、完全に嘘というわけでもない。こうも嬉しそうな顔を向けられてしまうと、なんとなく居心地は悪いが。
(……それに、珍しく悪夢も見なかったしな)
密かにそう考えていると、魔女はやんわりと目尻を緩めて「よかったぁ……」と呟いた。
「私、今まで、魔女としての素質がないって一族の皆から馬鹿にされていたんです。誰でも使える睡眠魔法なんかに秀でていても、何の役にも立たないって」
「……」
「でも、あなたのお役には立てたんですね。私、あなたに会えてよかった。あなたが最初のご依頼者様で、本当によかったです。……本当は、ひとつ頼みたいことがあったのですけれど……先を急がれているのなら、無理は言えませんから」
寂しげに微笑みを浮かべ、魔女はルーキスから離れた。
「どうか、道中お気を付けて。ルーキス様に、良き夜と穏やかな眠りが訪れますように」
ぺこり、スカートの両端を持って淑やかに頭を下げた魔女。ルーキスはどことなくむず痒さを覚え、「フン」と短く鼻を鳴らして彼女に背を向けた。
とうとう歩き出し、彼は山小屋を離れていく。
まだついて来るつもりではないだろうかと懸念しながら時折振り返るルーキスだったが、それ以降彼女が追いかけてくる様子はなかった。三合目付近まで下りて背後を確認してみても、やはり魔女の姿はどこにもない。
おそらく、彼女も魔女の国に帰ったのだ。
ようやく邪魔な女が消えてくれたと安堵し、ルーキスは再び歩き始める。
今後、きっと、二度と会うこともないのだろう──
──と、思っていたのだが。
「……いや、お前何してるんだ」
「あっ、ルーキス様! 数時間ぶりです!」
「そうじゃない、質問に答えろ。お前、ここで何をしている?」
「縛られていますぅ、痛いですぅ……。それがですねえ、ルーキス様とお別れしたあと、寂しくってめそめそ泣いていたら、山賊さんに出会ってここへ連れてこられてしまいまして〜」
「……」
「でも、またこうして再会できるなんて奇跡ですね! 夢みたいですっ! あ、もしかして夢かも? 自分で自分に睡眠魔法をかけてしまったんでしょうか? むむむ、有り得なくもない……」
「……勘弁してくれ……」
下山の最中、ひょんなことからルーキスが訪れた山賊のアジト内にて、二人は再会してしまうことになるのだった。
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