悪魔の私娼

中田満帆

悪魔の私娼

   *


 のらりくらりと中指を突き立てながら、その男はおれの標的となるべく、ポーカーテーブルの端っこから、こっちにむかって右手のナイフをふりあげた。けれども生憎のところ、おれのほうが早く、やつの右手を蹴りあげて、やつが壁に背中を預けた一瞬、腹にフックを見舞った。はあはあと喘ぎながら、床にくずれて落ちる男。膝を折ってそのまま世界の淵へと落ちてゆく音を聴く。でも、こっちだって気が気じゃない。慌てて奪ったやつのナイフの刃を畳んでポケットに入れ、いまいちどやつを蹴りあげた。やってらんねえ。おれは室をでると、地階へ降り、軽四に乗って職場までもどった。このしばらく、中古車ディーラーでおれは働いてる。上司の久遠はいけ好かないやろうだったけど、気前だけはこの時代にあって素晴らしいものだった。このくそ田舎はディーラーでいっぱいだ。

 「女は見つかったか?」

 久遠がいった。鏡を見ながら、こっちのことは見ないでいった。もともとはかれの情婦を探しにでかけたということに気がついた。じぶんがいったいなにをしてたかなんざ、大して憶えちゃない。

 「いいえ。――いかさま博奕のやろうがひとりでした」

 「つまり多島には逃げられたのか」

 「そうみたいです」

 そうみたいですか――とかれは口のなかでしばらく繰り返した。かれなりの皮肉みたいだったが、ほんとうのところはわからない。やがて上司は立ちあがり、じぶんの鞄を持つと、店のまえにでて、ボルボの扉をあけた。そしておれを嘗めまわすみたいに見やってから、財布をだして中身を確かめる。

 「おい、今月の払いだ」

 25万あった。

 「もしも、多島か、女を捕まえたら、もう10万ばかし追加しよう」

 そういってかれは車に乗り込み、広告募集の看板のならぶ道へ下ってった。おれは夕方まで店にいるつもりでなかに入り、机のうえの計算書やなんかを片づけ、それから情報屋に手を回した。そのとき、ドアのそとでなにかの姿が見えた。少なくとも生きてるものの姿が。おれは立ちあがって、ドアに近づいた。呼び鈴が鳴った。眼鏡をかけた男が愛想笑いをしながら、呼び鈴を押してる。おれはドアをあけて、やつに挨拶をした。

 「こんにちは!」

 「ご用件は?」

 「そう冷たいものいいはよろしくありませんよ。いまですね、聖書について語ってるところなんです」

 「すみませんが、どこかよそでやって頂けませんか?」

 「いえいえいえいえ、ご遠慮はいりませんよ」

 「遠慮してるわけじゃないですよ」

 「ではなにか誤解されてるようで」

 「誤解?」

 眼鏡は清潔なシャツを着て、艶のある外套を着てる。そして、それを決して汚しまいとした顔をしてる。なんども予行演習をやったという身ぶりで手提げのなかから、本を取りだして、それを差しだした。聖書だ。

 「みなさんはわれわれを怖れておられる。偉大なる神の使いとしてか、あるいは不審な闖入者として」

 「で、なにが用件なんですか?」

 「用件はありません。ただあなたに尋ねたいことがあります」

 「なんです?」

 「あなたは聖書を読まれましたか?」

 「いいえ、詩篇なら」

 「おやまぁ!」

 眼鏡の顔が輝いた。やつの着てる外套ぐらいは輝いた。しまった!――余計なことをいってしまった。

 「では創世記は? 出エジプト記は? ヨブ記は?」

 「いいや、詩篇だけなんだ。――これでいいですか?」

 「あなたは教会にいくべきですよ」

 「生憎興味がないんです」

 「あなたは詩篇を読んでる、興味があるってことですよね?」

 「いいや、5年もまえのことです。もう忘れてしまいました」

 「あなたはじぶんに嘘を吐くんですか?」

 「いいや」

 「いきましょう。ここからすぐに神さまの教会があるんです」

 「神さまの? それはカトリック?」

 「いいえ、カトリックでもプロテスタントでもありません」

 聞いたことがあった。韓国発だかのキリスト教風の新宗教だった。わるいやろうに捕まってしまった。おれはドアを閉めて鍵をかけた。眼鏡はしばらく立ってた。やがて唾を嘔いて、歩き始めた。神のご加護をやつに与え給え。十字を胸のうえで切ってから、おれは電源を切って、予定より早く、おもてのダイハツに乗った。


   *

      

 電話が鳴りつづけてる。おれは路肩に寄せて、電話を取った。タレコミ屋からだった。多島が女を連れて、ダーツバーに入ったところだといわれる。場所は遠いが、1時間で着く。連絡を怠るなといって切った。車が市街に入ったときにはもう日暮れて、雨がぱらつきはじめてた。おれはコイン・パーキングに停めて、雨のなかをバーにむかって歩きだした。なにかと胸のむかつく街だった。あたりはラブ・ホテルの群れ。おれはもう何年も御無沙汰だった。生まれてこの方、恋人もない。くさった鯖の臭い。ほんとうは鮫になりたいのに。バーの入り口で、タレコミと会った。

 「たしかなのか」

 「ええ、そりゃ」

 「とりあえず、とっとけよ」

 金を渡して入店した。店はひと気がない。もしかしたら、個室でいちゃついてるのかも知れない。個室にちかい席に坐って、注文を待った。やがて若い女がふたり来たから、ビールを頼んだ。

 「多島さん、きょう来てますか?」

 「え?」

 「多島さんていう客、来てますか?」

 「ああ、いま2階ですよ」

 「電話してくれませんか。――澤上といいます」

 「ちょっと待っててくれますか?」

 女は電話をかけた。

 「いま、降りて来ますよ」

 ややあって多島がひとりで降りて来た。大きな体躯にものをいわせて生きてきたってな、具合の男だ。酔ってはいてもまちがいなく標的は逃がさないタイプの眼をしてる。切れ長な眼に睫毛が長い。

 「久遠さんだろ、おれを探してんのは?」

 「ええ、そして紗月さんのほうも」

 「おーお、そりゃいいねえ」

 「どうです?」

 「まあ、室に来いよ」

 力尽くにでも連れてやるといった感じだった。おれは従った。この男には逆らえない。室に入ったとたん、おれは窓際に追いつめられた。多島がおれの襟を掴み、そのまま室じゅうの壁でおれをバウンドさせる。まるで骨が肉をやぶって上着を突き抜けてしまうんじゃないかっておもうほどに。それでも10分も経てば、やつは大人しくなって、テーブルにおかれたスーツケースをあけた。なかには携帯タイプライターが入ってる。ただのタイプライターじゃない。それは動植物に寄生して、擬態化するタイプのものだった。いまは蟹のかたちをして、全身の突起をざらざらとさせてる。多島が蟹の甲羅をひらく。文字盤が見える。文字の記された無数のキーが凄い速さで上下してる。どうやら蟹味噌がインク代わりになってるらしい。一瞬飛びだしたそれが多島のシャツを汚した。おれはおもわず、眼をそらした。気分がわるい。嘔きそうだ!

 おれはテーブルを蹴りあげた。スーツケースごと、多島はタイプを頭に被った。声にならない悲鳴がして、やつは床のうえをのたうちまわり、やがて痙攣して、それきり動かなくなった。おれはスーツケースごと、多島の顔を踏みつぶした。蟹の体液と血が混じり合い、タイプのほうも、どうやらくたばったらしい。


   *


 多島の電話から紗月にかけた。かの女はあっさり白状した。旧ソ連下で開発された擬態化暗号タイプライターの密造機を、たらし込んだ久遠と多島に闇ルートで捌かせ、その報酬として金と身体を提供してたって。おれにはどうでもいい話だった。でも、紗月にはそうじゃなかった。かの女のいうとおりに、郊外の古い納屋にむかった。かの女はベッドでおれを待ってた。スリップ姿のかの女がひらいた二枚貝のようにからだをひくひくとさせ、おれに搦みかかる。でも、おれはその手に乗らなかった。

 「おまえのボスはだれなんだ?」

 「そんな話訊いてどうするの? わたしをゆする?」

 「おまえのからだなんかおれはいらん。闇ルートの大本が欲しいだけさ」

 「センセイはあなたのいうことなんか屁にもおもわない」

 「センセイ?」

 「あの方はもう日本支部を片づけたところなの」

 かの女は笑い声をあげて、ベッドから降りた。

 「あなたにはこれをあげる」

 かの女は革製の鞄をおれに差しだした。金属的な感触がした。

 「あなたはこれで小説を書くのよ」

 「そんなまさか・・・・・・」

 「そんなまさかね」

 かの女はでてった。おれはベッドのうえで鞄をあける。中身は赤い悪魔だった。赤い悪魔のタイプライターだった。おれが気おくれしてると、悪魔は喋り始めた。おれは悪魔の口に手を突っ込んで小説を書き始めた。

 「おまえはばかな男だな。おれの私娼、紗月と愉しくやってればこんなことにはならなかったんだぜ」

 「どういうことだ?」

 「質問なら、こっちでさせてもらおう」

 「え?」

 「おれで小説を書く気分はどうだ?」

 「わからん。なんだか気分がひどくいい」

 「そうだろう?」

 「ああ、なんでも書けそうな気がしてる――」

 「それでこの納屋はどうだ?」

 「燃えてる、たしかに燃えてる」

 「おまえはどうなるんだ?」

 「地獄に落ちるのか、燃え落ちるのか」

 「両方だよ」

 「え?」

 気づくと、おれは灰になってた。警察が検分してる。野次馬たちがロープのむこうで、でしゃばってる。たぶん、もう宗教勧誘を受けることもないだろう。「もろみの塔」のババアや、「天理教」の女の子たちも来やしない。おれは悪魔のなかに吸い込まれ、永遠ともおもわれる煉獄のなかで、このタイプライターをうち鳴らしながら、死につづけることだろう。そういえばなんだか、ステーキが喰いたい。おれは立ちあがって、火災現場を抜けると、車の亡霊に乗って、ステーキ・ハウスまでドライヴした。道のむこうで紗月が手をふってる。なかなか、かわいい女だった。もしも、まだ生きてるなら、かの女を抱いていたことだろう。街は、道の断崖から逆さになって拡がってて、道路拡張工事の報せだけが延々とつづく、その最中にレストランの灯りやなんかが幽かな霧のなかで泳ぐみたいに見えるんだよ。


   *


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悪魔の私娼 中田満帆 @mitzho84

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