第26話 夏休みの始まり
朝の5時半、俺はキッチンにて昨夜水に浸しておいた食器を洗っている。
いつもならもう少し寝ているところだが今日は自然と早く起きた。それは今日が楽しみにしていた夏休みの初日だからだろう、目覚めもスッキリしていた。
食器を洗い終えた俺は特にやることもないのでリビングのソファーに座る。そしてただひたすら何もせずにぼーっとする。
秒針が時を刻む音が静かなリビングに響いている。
何もしていないのに、俺にはこの時間がとても幸せに感じた。もちろん咲と過ごす日々も幸せだが、それとはまた別のだ。
こうしてゆっくりとした時間が流れる中、ふと昨日の出来事を思い出す。
愛華さんに夏休み出かけようと誘われた時、青木さんになぜ夏休みが始まる前から誘いを断るのかと問われた時。
俺は明確な理由を言わなかった。結果として愛華さんを落ち込ませ、青木さんを怒らせた。
いや、言えなかったというのが正しいか。
咲のことだけを話すなら問題はない。しかしそれでは青木さんには何故そんなに妹を優先するのか、たとえ幼かったとしても親が面倒見てくれるでしょ?と聞かれてもおかしくない。どんなにシスコンだったとしても、どれだけ妹と一緒にいたくても夏休みの一日くらい友達と出かけることくらいできるだろうと。
そうなれば俺は両親がいなくて身寄りもないことを話さなければいけなくなる。それが咲を一人にすることができない、予定を組むことができてもその予定を確約とすることができない理由だからだ。
そしてそれはパーソナルな部分であって知り合って間もない間柄に話せるようなことではないのだ。
中学の時に仲の良かった友達でさえあからさまに気を遣い始め、よそよそしくなった。言い方が悪くなってしまったがそれは友達が悪いわけじゃない。俺のためを思ってのことだということは分かっている。
それでも俺はそれがとても嫌だった。両親が亡くなり、周りに頼れる人がいない現状を一番辛いと思っていたのは俺だった。この現実を受け入れられなかった俺はせめて学校ではそれを忘れたかったし、逃避したかった。しかし周りの友達がそうさせてはくれなかった。心配される度、気を遣われる度にこれが現実なんだと痛感させられた。
今は受け入れて前を向いているし、頼れる人もいる。何より一番辛いのは俺ではなく咲なのだと思った時から辛いという感情はなくなった。
だからといってこのことを自分から人に話そうとは思わない。
「でもこのままってわけにもいかないよな……」
俺の小さな呟きは静かなリビングに消えていった。
……っと楽しみにしていた夏休みの初日の朝から考えることじゃなかったか。
そうだ、時間はあるんだ。後でゆっくり考えよう。
現在時刻は6時20分頃、ただぼーっとしていただけなのに約一時間も経っていた。しかしまだ咲が起きるまで時間がある。
俺は気分転換に本で学んだボクシングを自分なりに形にするべく、一つ一つしっかり確認するように身体を動かしていく。
ストレートにジャブ、フック、アッパー。自分のイメージで動いた後は携帯で動画を見て本物を確認する。そしてそれを踏まえてまた形を整えていく。
慣れてきたところで試合の動画を見てから目を瞑り、目の前に空想の相手を用意してイメージで戦う。
そして俺の相手が倒れた頃には大量の汗をかいていた。さっとシャワーを浴びたらちょうどいい時間だな。俺は風呂場へと向かった。
こんなの意味がないと言う人がいるだろう。しかし徹のこれは他の人とはわけが違った。徹のイメージするものは何もかもが現実に近いものになっているのだ。そのイメージでのトレーニングは感覚的に実戦をしているものとほとんど変わらないと言っていいほどのものなのだ。
これを知っているのは徹を含め数人くらいである。
時計の針は6時40分を示していた。リビングには再び秒針が時を刻む音だけが響いている。
こうして徹の夏休みが始まるのだった。
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