第16話

「……金?」


 亜美さんはうんざりした顔で問いかける。

 肉親といえども、金銭の貸し借りは、その後大きな軋轢を生みかねない。俺の友人にも金銭問題でひと悶着あった奴が何人かいる。

 金の切れ目が縁の切れ目、なんてことわざもあるくらいだし。


「そう、お金! 三〇〇万ほど貸して!」

「そんな大金、貸せるわけないでしょ」


 亜美さんは突き放したような言い方をした。

 三〇〇万円という額はそれなりの大金ではあるが、決して貸せない額ではない(俺は)。亜美さんの収入がいかほどかは知らないが、おそらく俺よりは稼いでいるに違いない。だから、彼女にとっても物理的には貸せない金額ってわけではないと思うが……。


 しかし、心理的には貸せない――貸したくないに違いない。

 由香に三〇〇万円貸す――実質的にはあげるようなものだ――くらいなら、その金を理子に使ってあげたい。それが人情(?)ってものだ。


「お願いっ!」


 由香は諦めずに懇願する。


「借りた金は絶対に後で返すから!」

「私、軽々しく『絶対』って言葉を使う人、信用してないの」


 やはり、亜美さんは突き放す。

 姉に頼んでも駄目だ、と悟ったのか、今度は俺に抱きつくように取り付いた。


「和真っ!」

「悪いが俺も金は貸せない」


 俺は容赦なく拒否した。


「大体、三〇〇万を何に使うんだ? あれか、捕まった彼氏の保釈金とかか?」

「ううん」由香は首を振った。「借金があるの……」

「働いて返せ」


 俺も突き放したような言い方になってしまった。


「無理よ、働いて三〇〇万も返すなんて……」

「無理じゃない。節約して切り詰めて生活すれば、一〇年足らずで返せる金額だろ」


 そう、無理難題ではない。三〇〇〇万円ならともかく、三〇〇万円なら決して返済不可能な金額ではない。

 しかし、それに対し、由香は――。


「お腹に子がいるの」


 と、言った。

 突然の告白に、俺も理子も亜美さんも驚いた。


「その、捕まった彼氏の子なのか?」

「多分、そう」

「……いや、それでも、子供を産んでから、頑張って働けば――」

「嫌よ、そんな働くなんて」


 本音がぽろりとこぼれ落ちる。

 これには俺も亜美さんも苦笑せざるを得ない。


 そして、黙って話を聞いていた理子は、母親に幻滅したのか死んだ目をしていた。なんだかんだで母に再会できて嬉しかったんだと思うが、その気持ちは既にしなびて消えてしまったようだ。同情を禁じえない。これなら、一生会わないほうが幻想を抱けて幸せだっただろう。


「ねえ、誰でもいいからお金貸してよ」由香は言った。「貸してくれないと、私これから生きていけないよ……」


 亜美さんが「帰りなさい」と言おうと口を開きかけたが、その前に理子が勢いよく立ち上がった。がたん、と椅子が後ろに倒れる。


「……理子?」と由香。


 パンッ、と鋭い音。

 理子の手が、由香の頬を打ったのだ。


「な、何するのよ、母親に向かって――」

「あんたなんか母親じゃないっ!」


 理子は怒鳴った。いつもとはまるで異なる口調。よほど激怒しているのだろう。


「自分で借りた金くらい、自分で働いて返せ!」


 どん、と母親の胸を両手で突いた。

 ぽろぽろ、と大粒の涙が瞳から流れている。


「あんたがどうなろうと私たちの知ったこっちゃない! 帰れ! もう二度と、私たちの前にあらわれるな!」


 普段、ここまで声を荒げることがないのか、最後の方は声がかすれていた。

 娘の拒絶に――絶縁宣言に、さすがの由香も動揺を隠せず、


「ごめん……ごめんね、理子……。お母さんのこと、許して……」

「……」


 理子は返事をせず、ただ黙って首を振るだけだった。

 もうこれ以上、由香と会話をしたくないのか。それとも、これ以上、母親に失望したくないのか――。


「……わかった。帰る」


 由香はぽつりと言うと、玄関へと幽霊のような仕草で歩き出した。


 その場に崩れ落ちた理子を、亜美さんはそっと抱きしめ、頭を優しく撫でて慰めてやる。理子は亜美さんの胸の中でわんわんと泣いた。

 亜美さんが、理子の実の母親のように見える。由香は産みの親ではあるけれど、育ての親としては失格で――理子にとっては亜美さんが育ての親なのだろう。


 俺は由香の後を追った。廊下に出た彼女に声をかける。


「由香」

「……和真」


 俺は財布の中に入っていた札をつかみ取って、由香に押し付ける。

 それは餞別――あるいは、少なすぎる手切れ金。


「これは餞別みたいなもんだ。三〇〇万には全然足りないが、受け取っといてくれ」

「……ありがと」


 くしゃくしゃになった札を、由香はポケットの中に乱暴に突っ込む。


「由香、娘のことを思うなら、もう二度と理子の前に姿を現すな」

「……うん」

「約束だぞ」

「わかった。もう二度と、理子の前には現れない」


 その言葉が、真実であることを祈ろう。


「和真、理子のこと幸せにしてあげてね」

「言われなくてもそのつもりだ」


 どの口が言うんだよ、と俺は内心でため息をついた。本来なら、母親のお前が幸せな人生を送らせなければならないというのに。どこまでも自分本位な奴だ。

 人の本質は変わらないもんなんだな、と苦笑する。最後に娘を想う言葉が出たのは、せめてもの救いではあるが。


「約束、絶対に破るなよ。じゃあな」


 ドアを閉めようとした俺に、由香が「待って」と声をかける。


「もう二度と会わないだろうから、最後に……高校のときのこと、本当にごめんね」


 ふん、と軽く笑って俺は言う。


「そんな昔のこと、今更謝られても遅すぎるわ」


 そして、俺はドアを閉めた。

 それが最後に見た由香の姿で――だから、その後、彼女がどうなったのかは知らない。子を産んで育てているのか、そもそも、子供ができたという話が嘘だったのか。捕まった彼氏とはどうなったのか――。


 何も、知らない。

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