第9話

 その日は結局、夜の九時過ぎに亜美さん宅を辞した。昼食だけではなく、夕食までごちそうになってしまった。亜美さんは「泊っていってもいいのよ」と言ってくれたが、さすがにそれは断った。山川亜美の中での朝倉和真は、きっと高校一年生のまま止まっているに違いない。


 高校のときと比べると、いくらか背が伸びた。体格も多少はよくなった。歳をとったので、多少は老けた。内面的にも大人になり、今では怒ることはあまりない。良くも悪くもエネルギーが減ってしまった。激情に駆られる機会がなくなったことに、一抹の寂しさを感じる。


 俺はもう、高校生ではないのだ。

 三〇代の冴えないサラリーマンの俺には、高校生の理子がとても眩しく見えた。


 理子といえば――彼女が俺に向ける笑顔や言葉、その奥深くには何か変わった感情が垣間見えるような、そんな気がした。

 気のせいだろうか? 俺の勘違いだろうか?


 理子からしてみれば、朝倉和真は母の元カレである。その辺の見知らぬ男とは違う、親戚とも違う、複雑な関係性だ。変わった――特別な感情を抱くのも無理はない。

 気がつくと、脳内に保存された理子の映像の数々を半ば自動的に再生していた。元カノの由香に顔は似ているが、まったく異なる魅力を持った少女。


 やれやれ、と俺はつり革に掴まりながらため息をつく。

 知り合ってまだたった二日の少女に、早くも惹かれつつある自分に困惑を隠せない。身の程知らずにも程があるだろ、と自分を叱りつける。

 これは恋やそれに類する感情ではない――と、そう信じたい。


 世の中には一七歳やそれ以上の年の差のカップルもいるだろうし、この国では男は一八歳から、女は一六歳から結婚することができる。

 しかしだからといって、三〇代の男が高校生の少女に恋をするというのは……どうなんだろう? いや、別に、理子に恋しているわけではないと思う、が……。

 俯きながら悶々としていると、ポケットのスマートフォンがブルブル震えた。


『今日は来てくださり本当にありがとうございました。とても楽しかったです!』

『こちらこそ呼んでくれてありがとう。一七年ぶりに亜美さんに会えたし、楽しかったよ』

『今度は二人でどこかにお出かけしませんか?』

『うん、いいよ。どこに行くの?』

『それは……来週までに考えておきます。あ、次の土曜日って空いてますか?』

『多分、大丈夫だと思う』

『それでは……おやすみなさい』

『おやすみなさい』


 微妙に名残惜しくスマートフォンの画面を見つめる。見つめたところで、何かが変わるわけではない。ゲームでもしようかと思ったが、そんな気分にはなれず、スマートフォンをポケットにしまった。


 今日は土曜日ということもあって、スーツを着たサラリーマンの姿は平日よりずっと少ない。その代わりに、遊びに出かけた帰りと思われるカップルがたくさんいた。手を繋いだり、お互いの体に触れたりしながら、二人だけの甘い世界に浸っている。

 彼らに対して、嫌悪や嫉妬といったようなネガティブな感情は抱かない。ただ、羨ましいな、とは思う。前の彼女と別れてから、もう二年も経過している。月日が経つのはあっという間だ。


 三三歳。結婚していても、別におかしくはない年齢だ。同期や学生時代の友人には、すでに結婚していて子供がいる人もそれなりにいる。

 焦りはないが、俺もいつかは結婚したいな、とは漠然と思っている。

 今のところ、相手はいない。恋人ができる気配は――ない。


 さて、話は変わるが、来週の土曜日、どうやら俺は理子と出かけるらしい。男女が二人でお出かけするとなると、デートと言えなくもない――ような気がする。

 理子が何を思って、俺と二人で出かけるのかはわからない。少なくとも、彼女になんらかの利があるから、俺と出かけるのだ。


 相馬理子にとって、朝倉和真とはどのような存在なのか?

 それはどんなに深く考えてもわからないし、その疑問を理子にぶつける気にもなれない。答えはそのうち自然とわかるかもしれない。


 電車を降りると、自宅までの道筋を歩きながら、早くも来週の土曜日のことを考える。まるで修学旅行を目前に控えた中高生のような気分だ。

 次の土曜日までには、平日五日間の仕事があるが、いつものようなブルーな気分にはならない。むしろ、仕事を切り抜けるのが楽しみですらある。いつもなら貴重な日曜日も、さっさと終わってほしいくらいだ。


「もしかしたら、俺は理子に――」


 言いかけた言葉を、言わずに飲み込んだ。

 言ってしまえば、それが確定的な真実になるような気がしたからだ。それを口にしてはいけない。口にするのは、なんとなく罪深いように思える。


『理子と付き合うっていうのはどう?』


 亜美さんが言った言葉が、頭の中で反響する。


「駄目だ駄目だ……」


 頭をぶんぶん振って、理子について考えるのを打ち切ると、無心になって自宅まで歩いた。いつもならなんとも思わない満月が、無性に綺麗に思えた。

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