第8話

 理子の自宅は――つまり、亜美さんの自宅は――立派な高層マンションの一〇階だった。健康のために階段で上ろうかとも思ったが、素直にエレベーターを使った。今時、オートロックのマンションは珍しくもないが、俺の家はオートロックでもなければ、マンションでもない。

 部屋の前に着くと、インターホンのボタンを押す前にドアが開いた。


「いらっしゃい。久しぶりね」


 出迎えてくれたのは理子――ではなく、亜美さんだった。

 昔とあまり変わらないな、と俺は思った。三六歳には見えない。理子の姉だと言っても、(ぎりぎり)通用しそうだ。こうして見てみると、理子は亜美さんにも似ている。叔母と姪の関係なんだから、似ていても別におかしくはないが。

 亜美さんは俺の顔をじろじろと無遠慮に見てから、


「あんまり変わらないわねえ」

「亜美さんこそ」

「あら、嬉しい」


 亜美さんは朗らかに笑った。


「さ、あがって」

「お邪魔します」


 玄関で靴を脱ぎ、塵一つなさそうな廊下を歩く。綺麗な家だ。調度品のどれもがセンス良く品がある。実に調和がとれている。

 リビングには私服姿の理子がソファーに座っていた。白のロングスカートに淡い黄緑のカーディガン。ゆったりと落ち着いた服装だ。亜美さんはロングTシャツにスウェットパンツというラフな服装だ。


「こんにちは」

「こんにちは」

「あ、どうぞ、隣座ってください」


 理子は腰を浮かすと端に移動して、空いた場所を手で示す。

 革張りの――合皮かもしれないが――ソファーに腰を下ろす。理子が座っていたからか、右半分が生温かい。右を向くと、近距離に理子の整った顔があった。彼女が左を向いたので、目が合ってしまった。なんとなく気まずく思い、目を逸らそうとするが、その前に理子が慌てて前を向いた。白い頬がほんのりと朱に染まっているように見えた。シャイなのかもしれない。

 背の低いガラスのテーブルの上に、湯呑に入った温かいお茶が置かれた。テーブルの向かいに椅子を持ってくると、そこに亜美さんが腰を下ろした。


「最後に会ったのって、和真くんが高一のときだっけ?」

「ええ、確か」

「由香と別れる何日か前だったっけ……懐かしいね」


 亜美さんはお茶をすすりながら、目をすがめてどこか遠くを見た。過去のことを思い返しているのかもしれない。

 もう一七年も前の出来事。けれど、つい先日に起きた出来事のように、鮮明に克明に憶えている。楽しかったこと、苦しかったこと、悲しかったこと、そのどれもが時とともに薄れていっているというのに、なぜあれだけははっきりと憶えているのだろう?


「由香が行方をくらましたことは聞いた?」

「ええ」

「ひどいわよね、虐待のあげく失踪なんて。一応、失踪後に由香から『理子のことよろしく』って連絡が来たんだけど……それだけ。こっちが何を送っても返信なし」

「由香が今どこで何をしてるのかは?」

「さあ、知らないわ」


 亜美さんは呆れたように首を振った。


「死んでたり捕まってたりしてたら、しかるべきところから連絡が来るだろうから、どこかで男つくって元気に暮らしてるんじゃないかしら?」


 投げやりな口調だった。亜美さんが由香のことをどう思っているのか大体想像がつく。嫌悪を超えて呆れ果てているのだ。もはや、彼女にとって妹などどうでもいいのだ。彼女にとって大事なのは――大切なのは姪の理子の存在だけ。

 理子は黙ってお茶を飲んでいる。その横顔を見てみたが、驚くほどに無表情だった。無表情ではあるが、無感情というわけではあるまい。


『私はお母さんのことが好きでした』


 今は、どうなんだろう? 理子は今も母のことを愛しているのだろうか? 暴力を振るい、彼女のことを捨てた、母親失格の由香のことを、高校生になった理子は未だに愛しているのだろうか? それとも、叔母と同様に呆れ果てているのだろうか?

 俺だったら――俺が理子の立場だったら、きっと母のことを憎むだろう。強く強く憎むだろう。由香はそれだけのことをしたのだ。


「お母さんのことは、もう忘れましょう」


 それだけ言うと、理子は露骨に話題を変えた。


「ところで、朝倉さんは彼女いらっしゃるんですか?」


 軽率だったかもしれない、と俺は思った。亜美さんも同じようなことを思っているのか、苦々しい顔をしている。両親のことを思い出したり、語ったりしたくないのだろう。癒えきっていない心の傷が、ズキズキと痛むのだ。

 そして、俺もまた心の傷が癒えきっていないのかもしれない、情けないことに。


「朝倉さん?」

「あ、ああ……ごめん。彼女、彼女ね。いないよ、彼女」

「そうなんですか」


 ほんの少し、理子の表情が明るくなったように見えた。気のせいだろう。


「へえ、意外ね。和真くんモテそうなのに」亜美さんは言った。「あ、もしかして、振られたばかりだったりするの?」


 どうして、俺が振られた前提なのか?

 まあ、彼女と別れる際、俺から振ったことなど一度としてないのだから、その前提は別に間違ってはいないが。


「いえ、もう二年くらいは彼女いませんよ」

「モテないの?」

「うーん、どうでしょう……?」


 俺は苦笑した。モテるわけではないが、まったくモテないわけでもない。平均値や中央値がわからないので、自分の立ち位置も具体的にはわからないが。


「まず、出会いがあまりないですからね」

「会社に女の子いないの?」

「いますけど、社内恋愛はちょっとためらわれるというか……」

「ああ、もし別れたら、いろいろ大変そうだものね」

「ええ」

「じゃあ、私と付き合っちゃう?」


 小悪魔じみた微笑みを携えてそんなことを言う亜美さんに、理子はぎょっとした顔で、


「ちょ、ちょっと亜美さんっ!?」

「やだ、冗談に決まってるでしょ」


 姪をからかって、けらけらと楽しそうに笑う。

 冗談だとはもちろんわかっているが、俺も一瞬、ドキッとしてしまった。元カノの姉と付き合う――稀有だろうが、そういう事例もあるだろう。試しに、亜美さんと付き合うところを想像してみたが、うまく想像できなかった。


「私と付き合うなんて……ねえ?」

「あはは……」


 あり得ないですよ、と強く否定するのも失礼だと思ったので、俺は愛想笑いでごまかしておいた。


「あ、それじゃ、理子と付き合うっていうのはどう?」


 もう一度、亜美さんは姪をからかう。

 理子はやはり慌てていて、隣であたふたしている。

 元カノの娘と付き合う――まあ、世界は果てしなく広いので、そういった事例もなくはないのかもしれない。一瞬、俺は理子と付き合うところを想像してみようとしたが、やめた。それは、とてもよくないことのように思えたからだ。


「いやあ、それはあり得ないですよ――」


 今度は口に出して、強く否定した。否定しなきゃ失礼だと思ったからだ。


「――ね?」


 笑いながら横を見遣ると、理子がほんの少しだけ寂しそうに笑っていた。そのことに対し、俺が疑問を抱く前に、彼女は純度一〇〇パーセントの微笑みをこちらに向けた。


 しかし、理子は何も言わなかった。

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