第5話
「元カノの名前? ……どうして?」
そう聞き返しながらも、質問の意図はわかっている。
おそらく、そうなのだろう。相馬理子は、相馬弘樹と山川由香の娘なのだろう。
だがしかし、その事実を純真そうな彼女に教えてしまっていいものなのだろうか。目の前にいる男が母の元カレでもあり、母は朝倉和真という恋人を捨てて浮気相手とくっつき、理子を産んだ――。
いや、でも、世の中には浮気や不倫をしている人間なんてごまんといるのだから、そこまで大きなショックを受けることはないのか……?
「朝倉さんは私のことを『昔付き合っていた女の子にとてもよく似ている』と言い、私が名前を名乗った際、名字の『相馬』に対して苦々しい顔をしていましたから。……もしかして、元カノさんの浮気相手の名前は『相馬弘樹』というのではありませんか?」
「……ああ」
「そして、元カノの名前は――『山川由香』」
「……ああ」
俺はぐったりと背もたれにもたれかかった。
店員が席にやってきて、食べ終えた皿をトレイに載せて去っていった。ファミリーレストランの喧騒が、ほどよいBGMとなっている。俺たちの席だけ、周囲から隔絶されているような冷ややかさがあった。
「そう、ですか……」理子はぽつりと呟いた。「朝倉さんはお母さんの幼馴染で元カレ……」
「……ご両親は元気?」
俺は尋ねた。皮肉ではなかったが、そのように聞こえてしまったかもしれない。
「いえ……」
理子は暗い表情で首を振った。
「お父さんは随分前に亡くなり、お母さんは私を置いてどこかに消えました」
「…………」
予想外の展開だった。
聞くべきではなかったかな、といささか後悔していると、理子が詳しい話をしだした。
「お父さんは私が小学生のときに亡くなりました。お父さんは家にいることが少なかったので、あまり印象に残っていません。怒られた記憶も褒められた記憶も全然ないんです」
「弘樹は――お父さんはどうして亡くなったの? 病気? それとも事故?」
「殺されたんです」
あまりにもあっさり自然に言うものだから、俺は一瞬聞き流しそうになった。
「……え? 殺された?」
「はい」
「誰に?」
「不倫相手に」
「不倫……してたのか……」
俺の記憶の中の弘樹は高校一年で止まっている。その後、彼がどのように成長していったのかは知らない。けれど、端正な顔立ちをしていたので、当然モテただろう。
由香との関係が発覚した後の弘樹を見ていると、彼が不倫していてもなんら違和感はない。むしろ、当然というかしっくりくる。
「詳しくは知らないんですけど、お父さんが不倫していた人は一人じゃなかったそうです」
「……お盛んだな」
「ですね」
今は亡き父親のことを、突き放したような冷たい声で説明する。
「お父さんを殺した女性は、お父さんに遊ばれ捨てられたことに腹を立てて、お父さんを殺したそうです」
自業自得だな、とはさすがに思っていても言えない。
「自業自得ですね」
「……」
「お父さんが亡くなった後、お母さんは随分荒れました。私、何度もお母さんに殴られたんですよ。でも、それでも――私はお母さんのことが好きでした」
由香とは幼馴染で、三年ほど付き合っていたので、彼女のことは大体知っている(浮気するようなタイプだとは知らなかったが)。
だから、由香が娘に暴力を振るっていた、という事実は意外だった。
かつての由香は暴力を振るうような人間ではなかった。夫の死が彼女の性格を捻じ曲げてしまったのか。あるいは、俺が彼女の本質を見抜けなかっただけなのか……。
「ですが、ある日、お母さんは忽然と行方をくらませました。娘の私に何も告げずに――」
「……」
暴力を振るわれていたとはいえ、大好きな母が自分に何も告げずに蒸発した、という事実は彼女に大きなダメージを与えたに違いない。
一人、家に取り残された理子は――。
「あれ?」
そこで、疑問が浮かぶ。
「それじゃ、今は一人で暮らしてるの?」
そう尋ねながらも、アニメやマンガじゃないんだからそんなはずないだろ、と自分で否定する。理子はまだ高校生――つまり、未成年なのだから、保護者か後見人がいるはずだ。
「いえ、叔母と暮らしてます」
案の定、理子はそのように言った。
「お母さんの姉です」
「というと……亜美さんか」
「はい。やっぱりご存知なんですね」
亜美さんは俺の三つ上だから――現在三六歳か。
俺と由香は幼馴染であったけれど、家族ぐるみの付き合いはなかった。一応、由香の両親と会ったことはあるが、さほど親しくはなかった。けれど、亜美さんとはそれなりに親しくしていた。とはいえ、由香と別れてからは亜美さんとも疎遠になった。
亜美さんは由香が浮気したことをどう思ったのだろう? 彼女は真面目で正義感が強く、おそらく浮気や不倫を嫌悪するタイプの人間のはずだ。そんな彼女は妹の愚行に激怒しただろうか? それとも、案外、身内に甘かったりして擁護したのだろうか?
……いや。
もしかしたら、由香は浮気の事実を姉に隠蔽したのかもしれない。自分の非を、わざわざ言う必要なんてないのだから。
「あ、そうだ」
理子は何か名案を思い付いたように手を叩いた。
「この後、我が家に来られますか?」
「え? いやあ……」
亜美さんとは知り合いとはいえ、もう一七年くらいは会ってないし、それに理子とは今日知り合ったばかりだ。いきなり自宅にお邪魔するのは、ちょっとよろしくないように思える。
俺の言葉を濁した曖昧な否定を受け、理子はあっさりと引く。
「そうですか……。では、それはまたの機会に」
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