第28話 不忍池の龍

「そんな寛永寺だが、その周囲は怪異譚が尽きない場所でもある。不忍池しのばずのいけもそうだし、上野そのものも、狐狸の棲み処と言われていたほどだ」

「今も多くの自然が残っているくらいだ。江戸時代だったらもっと緑深い場所立ったろうな」

「ああ。とはいえ、完全に寂れた場所だったわけではない。当時の上野山は桜の名所としても有名だ。他にも不忍池に浮かぶ弁天島には、出会い茶屋もあった」

「出会い茶屋って、あれか。今でいうラブホ」

「もっと踏み込めば、風俗店だよ」

「――」

 さらっと言うなよと、優弥は思わず周囲を見回してしまう。幸い、店員も近くにいなかった。やれやれだ。男二人でいかがわしい相談をしているなんて思われたくない。

「ま、そんな場所だったら、色々と怪異譚は生まれそうだな」

 優弥はこほんと小さく咳払いをし、話を元に戻した。ここを終えないと、肝心の美莉に関して夏輝は喋らない。

「そうだ。その中でも俺が心を惹かれたのは龍だ」

「龍」

「ああ、不忍池に棲むというな」

「ほう」

 あんなところに龍が住んでいるのかと、優弥は素直に驚いた。

 まったく、東京に暮らし始めて長いはずだが、随分と知らないことが多いと思う。とはいえ、優弥の興味は小さい頃から物理学に向いていたから、知らなくて当然なのかもしれない。世の中、知ろうと思わなければ知れないことは山のようにある。

「龍といえば大体の人が想像するのは瑞獣の類ということか。それと同時に、大きな池や川の主として描かれることもある」

「そうだな。縁起がいいものって感じはするよ。でも、池や川か」

「ああ。龍といえば水に関係がする。水は総ての恵みであり、同時に厄災をもたらす存在でもある。不可思議な力を持つ何かが棲んでいると考えても、不思議ではない」

「なるほどね」

「それに河川に関係する神様と同一視されることもある」

 夏輝はそこでにやりと笑った。

「神様ねえ」

 物理学ではとかく否定しようと必死になるアレね。優弥もそこで笑っていた。しかし、夏輝の顔はすぐに真剣なものに戻る。

「ともかく水辺に棲むものというのは怪しいものも多いし、不忍池に棲む龍というのはどういうものなのか。これを検証するのは楽しいものだ」

「へえ」

 楽しいかどうかはともかくとして、色々と考えさせられるものだというのは理解した。

「龍神様という言葉があるくらいだからな。スタートが解れば考えやすいんだろうけど、残念ながら、どうして不忍池に龍がいるのか。今ひとつはっきりしないままだ」

「なるほどねえ」

 当たり前を疑う。物理学の研究では日常的にやっているものの、こういうことに疑問を向けたことはなかった。もちろん、民俗学や歴史学をやっている人ならば日常的に疑問を投げかけているのだろうが、なんせ畑違いだ。

「というわけで、ここしばらくはずっと上野にいたんだ」

「ああ」

 そこで話が上野に戻るのか。

 つまり、夏輝の興味は今、上野にあったというわけか。そこで恋人の美莉が失踪。関連を疑うのは仕方がない。

 何と言っても、夏輝はそういうことに過敏だ。妖怪やら神仏に興味があるのも、あまりに偶然が重なり過ぎるせいだと言っていた。そして彼は、視えるのだ。不可思議なものが、当たり前に感じる体質をしているという。

「あの不忍池というのは、本当に不思議だ」

「そうなのか」

「ああ。俺は一応あそこの龍伝説を調べようと思ったわけだが、あそこは悪霊伝説も疫病神伝説もあってね」

「それは、随分とバラエティーに富んだ話だな」

「そう。同一のものと考えるのが正しいだろうと思っているが、いやはや。考えれば考えるほど泥沼に嵌るというか、あまりに恐ろしいというか」

「恐ろしい」

「ああ。あそこに弁財天があるというのも、かなり意味深だよ」

「へえ」

 何が怖くて何が意味深なのか。当時の優弥には全く想像できないことだった。

しかし、夏輝がいつも以上にのめり込んでいるのは解った。

 つまり、龍、悪霊、疫病、弁財天というキーワードは、夏輝の中で繋がりを持つものなのだ。そのくらいは、知識がなくても推測することは出来る。

「つまり、あそこに住む龍に限定すると、どうにも深すぎるわけだ。そうなると、他のも何かあるのかもしれないとね。しかし、それで全部は説明できないだろうなとも感じているところだ。それはともかく、不忍池は何かが違う」

「ふうむ」

 総てが絡んでいるのは解るものの、何が違うのか。どういう手触りなのかは知りようがない。知識が圧倒的に足りないのだ。

 そう、優弥はこの時、理解できなければ駄目なのではとはっきり感じていた。それが夏輝失踪後に妖怪研究を始めるきっかけになるが、この時はそれどころじゃなかった。

「そんな時だ。美莉の失踪を知ったのは」

「ああ。つまり、研究をしていて気づかなかった」

「そうなんだ。俺はあまりにものめり込んでいた。その事実に愕然としたよ。いや、のめり込ませるだけのものがあるんだが、それはすなわち、禁忌に触れることだったのかもしれない」

「そんな」

「そう思うと、あそこに祀ってあるのが弁財天であることも気になってね」

「弁財天が? さっきも言っていたが、どうしてそんなに気にするんだ? だって、あれは七福神の一つだろ」

「今ではね。いや、江戸時代にはもう今と同じ感覚だったのだろうけど、今のように全員がそう思っていたわけじゃないはずだ」

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