第9話 蟒蛇

「いいんじゃないのか。研究室にいるだけが学者じゃない。それに、俺はこの副業をやるようになって、本業の量子力学の研究も絶好調だし」

「それが困るんですよね。これで本業に影響が出ていれば、思い切り反対できるっていうのに」

「おい」

 蘭子の本音に、優弥はドスの利いた声でツッコミを入れる。しかし、目は困ったような感じで、本気で怒っているのではないのが解った。どうにも蘭子には強く出れない何かがあるらしい。

「量子力学って難しいですよね。まあ、それが楽しいんですけど」

「ああ、そうか。君も物理学科だったな。いいだろ? 一度ハマると抜け出せないんだよね」

「他の先生たちとは真逆の意見ですけどね。解らなくはないです」

 理土は苦笑して、量子力学の恐ろしさを語る他の先生の顔を思い浮かべてしまった。というのも、量子力学は現代社会のあらゆる部分を支える学問だというのに、その根本を理解するのは非常に難しいことで有名なのだ。

 量子力学の基礎を築いた、ノーベル賞も受賞したファインマンさえ、理解するのは無理だと言い切ったほどである。

 その理由は数式の難しさにもあるのだが、考え方が独特だというところにある。総ては確率でしか表せず、確かなことの言えない理論。それが量子力学の本質だ。これを不確定性原理というのだが、この段階で多くの人は理解できなくなってくる。

 さらに有名なシュレーディンガーの猫なんて出てくると、謎はもはや迷宮の如くになってくる。まるでミステリーなのだ。それも、絶対に解くことのできないミステリー。

「ああ。だから妖怪に興味を」

「えっ、何でだい」

「不確定なものだから、ですよ。原子の位置と同じ」

「ああ。それはあるかもね」

 気づかなかったなと、焚火を準備しながら優弥は笑った。なんだ、そこは繋げて考えたことはなかったのか。

「さて、問題の火が出たのは、新聞によると八時半頃だったな」

「ええ。一通り馬鹿騒ぎが終わって、疲れたなあって思っていた頃の話です」

 キャンプという環境のせいか、はたまた宴会が早かったせいか。八時を過ぎたころには騒ぎも一段落し、そろそろ花火でもやって寝ようかという雰囲気だったのだ。山の中で静かだから、遅くまで騒ごうという気分が起こらないのも要因だっただろう。要するに、みんなほどよく疲れていたし、酔いが回っていた。ちなみに理土は飲んでいなかったが。

「酒も飲んでいないのにぼんやりしてたの? 疑ってくださいって言っているようなものね」

「うっ」

 忘れた頃にダメージを食らわせてくれる蘭子だ。仕方ないだろ、下戸なんだし。これは何度も警察に訴えたが、嘘だと途中までは決めつけられていた。

「俺も飲まないねえ」

 優弥は呑気に同意し、実際に焚火でお湯を沸かしていた。これでコーヒーを楽しむのだという。さっきまでは麦茶だった。車を運転するからかと思っていたが、普段から飲酒習慣はないらしい。何だ、仲間かと思っていたら、蘭子がにやりと笑った。

「お金と時間の無駄っていうのが先生の言い分ね。でも、下戸じゃないわ。教授会の宴会では率先して飲んで、周囲を潰していくことでも有名なの」

「そ、それは傍迷惑ですね。というか、蟒蛇うわばみなんですか」

「そうそう。底なしなの」

 ちぇっ、下戸仲間ではないらしい。むしろ、飲み会で一番関わってはいけないタイプだった。

「おおい、コーヒー飲むかい」

 こそこそとそんな話をする二人に、悪口は小声でも聞こえるぞ、と優弥は怖い笑顔を浮かべる。

「いただきます」

「山の中でのコーヒーって最高ですよね」

 二人はそんな優弥にくすくす笑って、コーヒーを貰う。何だかすっかり打ち解けてしまった。こんなこと、一か月前のキャンプではなかったというのに。どうして今、こんなに楽しむことが出来るのだろう。

「ううん。それって単純に興味がなかったからじゃないの?」

 ふうふうとコーヒーを覚ましながら、蘭子がずばっと指摘してくる。それに、理土は反論する余地すらなかった。

「そうですね。本当にマジで暇な上に、楽しめる夏休みラストだったもんで」

 参加した動機は非常に不純で、別にキャンプをしたかったわけではない。いや、キャンプをしたくないというのは今回も同じだが、今回は謎の火を解明するという目的がある。そして同じ目的を持った人たちとやっているから楽しいのか。

「そんな状態の君を誘ったのって誰だい?」

 不意に優弥がそう質問してきて、理土は誰だったっけと必死に思い出す。

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