第13話 Someone to…
風が何かが頬の産毛を撫でた気がして、ふと、瞼を持ち上げる。久しぶりに明るい天井を見上げ、私は夢身心地に呟いた。呟いた、つもりだったか。
「あさ、だ……」
普段目に映るものは蛍光灯に眩しく照らされ、真昼のように白いが、どこか暗い。やはりこれは午前だとあたりをつけ、私は嬉しくなった。
こんな時間に目が覚めるなんて。
起こされるのではなく、前触れ無く訪れる発作に覚醒するのでもない、自然な目覚め。病床に沈んで久しい私には、二度とないものだとも思えたが。
身体中に繋がれた管やテープに邪魔されながら、重い頭を横に傾ける。わずかに開いた窓の外は雲ひとつない晴れの青で、やはり朝だった。
「あいてる」
換気の時間でないことは確かだった。清潔で規則正しい病室に訪れるものは、すべて時計の針に従っているのだから。見慣れた看護師の姿がないことも、私にとって珍しいことだった。家の台所で倒れ、自分で整容も出来なくなってから、彼らは囚人を見張る看守の如く、一人が私につきっきりである。彼らがいなくては、私は自分で水を飲むことも出来ない。立って窓を開けるなど以ての外だ。
「誰か、そこに……」
いる?と問いかけながら反対側に首を傾げる。些細な動作ひとつにも体と管がギィギィ軋んだ。瞼を開け続けるのすら億劫だ。
「___、」
気怠さに滲む視界の中、それは思いの外近くに立っていた。座っていたのかもわからない。ただ、人の輪郭をもった黒い煙がゆらゆらと立ち昇るかのようだった。人ではない。私は直感した。
いらっしゃい。なんにもないところだけど。
声に出ないもてなしの言葉の代わりに、私は薄く目尻を下げた。微笑んだつもりだ。
「___、」
それはただ静かにそこに居た。衣擦れや息遣いすら聞こえない。影のような男。煙草のようなにおいが鼻先を掠め、控えめに彼の存在を主張した。
男はじっと黙っていたが、ふと腕時計を見るような仕草をすると、ごそごそ懐から小さな箱を取り出した。
断りもなしに煙草を一本取りだした男を、私は責めなかった。起きているだけで手足が冷え、徐々に意識が薄れていく。責める気力もなかったというのが正しい。
「どう、ぞ……」
何か言う代わりに、私は棚の引き出しを指差した。そこには毎晩決まった時間に取り出され、小さなキャンドルに火を灯すだけのライターが収まっている。夜毎小さな火を見つめ続けることを慰めとする、末期患者に許されたわがまま。
「__、」
男は懐にマッチを持っていたが、私の指の先を見るや、それをしまい直して引き出しを開けた。安価な黒のライターを使い、男は煙草に火を付ける。チャッ、と軽い音がして、白い病室に仄かな煙が立ちのぼった。やや灰色を含んだ煙を吐き、彼はちょっと首を傾ける。声こそ無いが、礼を言われたような気がした。
「居て、くれる、の」
質問の答えに、男はそっと窓の方を見た。ここに居てやる、と低い幻聴を私は聞いた。
「寒い」
じわじわと手足が冷え、痺れていく感覚に、私は再び声を上げる。それは音として形になる前に私の中から消えてしまったが、次の瞬間、右手に僅かな重みが乗り、聞こえずとも良いのだと分かる。
彼はいままでずっとそうしてきたかのように、点滴に繋がれた私の手を、包帯から覗く指先をそっと握った。あたたかさはまるでない。ハンカチを押し当てられたような感覚だけが私の爪を覆い続ける。
視界が白く狭まっていく。
もうどんな音も遠くにある。
近づく終わりは、春風と煙草のにおいがした。
ただひとつ分かったこととして、私は死の間際、一人でなかった。それひとつで私はひどく満たされていた。
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