揺れる車内

玉樹詩之

第1話

 駅から地元のバスターミナルまで、その間約三十分ほど。私は始点から終点までバスに乗り続ける。つまり三十分は誰かと共にバスに揺られなくてはならないのである。それが途中乗車にせよ、途中下車にせよ、数分はともにバスの中で揺られるのだ。

 その日、私はバスに乗車すると乗車カードを機械にタッチして、すぐ目の前にある一人用の椅子に腰かけた。幸い私は待機列の最前線にいたので座ることが出来たが、いつの間にか列は相当長いものになっていたようで数人の客はなるべく詰めてから吊革に掴まってバスの発進を待った。

 もう少しでバスが出発時刻になろうという時、赤ん坊が泣き始めた。席は私よりも後方。数段上ったバスの後部にある二人掛け席の一席からであった。母親は申し訳なさそうに、我が子を宥めながら辺りの人に何度も何度も頭を下げている。確かに赤ん坊の泣き声と言うのは不快だ。それも他人の子となると何割か増して苛立ちを覚えるような気がする。まぁそれはあくまでも私見の話であるし、その時の気分にもよると思う。仕事も恋愛も上手く行っていれば赤ん坊の泣き声も愛おしく思えるのかもしれない。しかし現在の私はと言うと、若干疲れが回っており、多少の苛立ちを覚えていた。こう言うと、話の流れ的に赤ん坊に対する怒りで溢れているような誤解を与えてしまいかねないが、私は赤ん坊に対して苛立ちを覚えてしまっている自分自身に怒りの矛先を向けていた。苛立ちと怒り。原因と矛先。確かにイライラの原因は今も尚泣いている赤ん坊だが、怒り自体はうまく赤ん坊を通り過ぎ、ブーメランのように私の下へ戻ってきているように感じている。怒りを赤ん坊に向けても何の解決にもならないからである。だからと言って赤の他人である私がどうにかしてあの赤ん坊を泣き止ませることが出来るのかと聞かれたら、私は不可能だと思うだろう。

 そんなことを考えていると、バスは既に出発していた。バスが走り出すとともに赤ん坊は更に泣きだすように思えたが、不思議とバスが運転中に生み出す微妙な振動によって赤ん坊は寝静まっていた。するとつい先ほどまで嫌悪を帯びた目で見ていた母親の近くに座っている乗客の一人は、赤ん坊の寝顔を見てほっこりと朗らかな笑顔になって、母親と目が合うと軽い会釈をするのであった。何ともまぁ、気変わりの早いこと。

 数個目のバス停でバスが停車した。降車ボタンは点灯していないので、乗客が待っていたのだろう。バスが完全に停車すると乗車口がプシュー。という音を立てて開いた。すると老夫婦が一組乗車して乗車口は閉まった。

 老夫婦は座る場所が無く、優先席の前に立つと吊革に掴まった。その老夫婦が少し特殊で、奥さんの方は特に問題は無さそうに見えるのだが、旦那さんの方が縮小版のキャリーバッグのような物を引いており、そのバッグから透明な管が旦那さんの顔に伸び、両鼻の孔に繋がっていたのである。恐らくバッグの中に酸素ボンベが入っており、それが無くてはこの旦那さんは倒れてしまうのだろう。言わばこのバッグの中身と旦那さんは一心同体という事だ。そんな状態を見ても尚、立ち上がる人は誰も居ない。何も既にバスが発車してしまったから。と言う下らない理由ではないであろう。ただ単純に立ち上がるのが億劫であったり、疲れているからこの席を譲りたくなかったり、誰かが譲るだろう。と言う他力本願から譲らなかったり、その理由は様々であろう。格言う私も席を譲るのには多少の疎ましさがあった。なぜなら始点から終点までこのバスに乗るからである。そんなことを思っていると、バスは次の停車場に着いた。すると優先席に座っていた高校生二人組が立ち上がり、何事も無かったかのように立ち上がると降車した。次の場所で降りるから、彼らは席を譲らなかったのだろうか。私はそんなことを思いながら、老夫婦から目を逸らすように窓の外の景色を眺め始めた。

 それから数個バス停を過ぎ、ようやく中間地点という時に先述した老夫婦が降車した。するとそれに代わって三人組の男子高生が乗車した。彼らは空いている優先席を見ると、顔を見合わせて誰が座るかをアイコンタクトで決め始めた。


「俺、最近思ったけど、優先席でも空いてるときに座らない方が邪魔になると思うんだよね」


 一人の男子高生がそう言うと、そいつはそそくさと鞄を下ろして優先席に座り、自分の股下に鞄を置いた。すると残っているもう一席は早い者勝ちとなり、おそらく、二人を比較したときに、どちらかと言うと姑息な方の男子高生が席を勝ち取った。となると他の席は埋まっているので、残された男子高生は立ったままという事になった。

 確かに今の車内は始めに比べて客も減り、立っている客は今乗って来た男子高生三人組の一人だけである。しかしそれにしたって大声で、閉鎖されたこの車内で、持論を展開するのはどうかと私は思った。きっと私以外の乗客もそう思っているだろう。誰も何も言わないが、明らかに冷たい視線が彼らに向けられているのだ。と言っても、当の本人たちはそんなことに微塵の注意も払わないのだが。

 中間地点を過ぎたバスは、乗客が減る一方であった。男子高生たちは何食わぬ顔で会話を続けている。それも近くに座っている私には会話の内容がほとんど全部聞こえてくるほどの声量である。心なしかその男子高生たちを避けるために乗客が減っているような、妙な錯覚に陥りそうになった。

 車内には彼らよりも年の離れた人ばかりで、下は赤ん坊から上は老人まで、そんな中でも関わらず、彼らは卑劣な話を慎まぬ声で話すと下品な笑いをなるべく抑えようとしながらも、しかししっかりと発声していた。

 もう後数個バス停を過ぎれば終点だ。そう思ったとき、男子高生二人が降車した。残ったのは乗車して間もなく持論を展開し、すぐに優先席に座った彼である。彼は一人になってようやくバス車内の空気が悪意によって乱れていることに気が付いた。すると突然肩身の狭いフリをして縮こまり、鞄を抱き寄せてソワソワし始めた。それを見た他の乗客は笑い声も立てず、ニヤリと不敵な笑みを浮かべて彼にチラチラと睨みを利かせた。それに合わせて彼がビクつくものだから、残った数人の乗客は短い時間にそれを面白がって何回か男子高生を脅かして見せた。私はそれを傍観しながら、どちらにも付かず、ただただ哀れな奴らだな。と思って達観したフリをし通した。

 アナウンスが車内に響いた。終点に到着したようであった。バスの後方に座っている客から順に降車していき、私は丁度間あたりに割り込んで降車した。


「あーあ、全く最近の奴はうるさいもんだ!」


 最後部でふんぞり返っていたサラリーマンがそう言うと、それに続いて降車した二人組のおば様たちはクスクスと笑って車内の男子高校生を見た。


「ママー、もうしゃべって良いのー?」

「えぇ、良いのよ。バスの中では大きな声で喋っちゃダメだもんねー?」


 子連れの母親は、降車するとすぐ、バスの方を何度か見ながらそう言った。視線は降車口に向けられており、丁度その時にはあの男子高生の彼が乗車カードをタッチしている時であった。


「高校生なんだからマナーくらい知っていて欲しいわよねー?」

「ねー」


 バスから少し離れた場所で、先ほどクスクスと彼のことを笑っていたおば様二人が大きな声で、人が多くいる場所を見計らってから喋り始めた。

 彼はあからさまに元気を失い、鞄を背負うとその鞄に身を隠そうと頑張って縮こまろうとしながら歩き始める。私はそんな彼を、いや、今この終点で降りた人々の背中を見て、人間とは三十分という短い時間でこうも険悪な雰囲気を生み出せてしまうものなのか。と多少の恐怖を覚えていた。

 彼が悪かったのか、いいや、私も友達と乗っていれば大きな声で会話をするかもしれない。では彼をいびった他の乗客が悪いのか。いいや、私も大声で会話をする誰かとはバスや電車で出会いたくない。どちらが悪くも善くも無い。どちらが表でも裏でもない。ただ、人間とはそう言うものなのだ。どちらも併せ持っていて人間なのだ。善と悪、光と闇、表と裏。それらを併せ持っていて人間と言う生き物なのだ。常に中立と言う平均台の上に立ちながら、時には善行を、時には悪行を、しかし最終的には平均台の上に戻って再び歩き始める。それが大半の人間の生き方なのだ。平均台と言う人道の上から、どう世界を見るか、どう世界に見られるか。そしてそれを踏まえ、私は新たな一歩を踏み出すのであった。

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揺れる車内 玉樹詩之 @tamaki_shino

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