十一月三十日 はなむけ
十一月最後の朝が来た。
大学に進学して東京に出てからずっとひとり暮らしだったのに、いま僕はひとりが寂しいと感じている。シモツキさんとは、たかだかひと月足らず一緒にいただけなのに。
買い物に出かけるとき「行ってきます」と言った後で、誰も聞いている人がいないことに気がついたり。オナラが出そうになるたびわざわざトイレに行ったり。今朝は寒気を感じて振り返ったら、ただ寒いだけだった。当たり前だ。十二月がすぐそこまで来ているのだから。
シモツキさんはちゃんと記憶を取り戻して、成仏して天国(たぶん)へ行ったはず。日本人らしく宗教観がめちゃくちゃだが、とにかく、これでちゃんとなるようになった、のだと思う。水の低きにナントカが如し、全然覚えてないがそういうことである。
心残りなのは、僕自身はシモツキさんの本当の名前を思い出すことができなかったことだ。僕の命の恩人なのだから、せめて名前くらいは覚えておきたかった。
いつものようにEテレを観ながらインスタントコーヒーを啜っていると、スマホがぶーんと鳴った。LINEだ。
伯母さんかタカアキ君かと思ったが、相手は「ナナ」、誰だったっけと首を傾げる。僕もよくよく他人の名前を忘れるやつだ。
〈旬君ひさしぶりー 御社テレビでニュースになってんじゃんwww〉
ピンクのうさぎが「ウケる」と腹をかかえて笑っているスタンプ。その後に続くメッセージで、僕はようやくナナさんのことを思い出した。
〈マジ三ヶ月で辞めといてよかったわw〉
思い出した。三ヶ月で辞めた同期の七井さんだ。外交的で元気が良くて、営業の方がよっぽど向いていそうなのになぜか会計課に配属されてしまった女の子。乞われて連絡先を交換したものの、一度も連絡を取り合ったことはなかった。
とりあえず僕は〈久しぶり〉と返事をしておいた。七井さんは、僕がすでに退職しているとは知らないらしい。
しかし「テレビでニュースに」とはどういうことだろう。僕はリモコンを手に取って、民放にチャンネルを合わせた。
朝の情報番組で記者会見の映像が流れている。ニュース番組でよく観る光景。しかしひとつだけ違うのは、そこに僕の知っている顔がいくつも並んでいたことだ。
画面に踊るたくさんの文字に、僕は目を白黒させた。
「十一月の給与未払い 従業員ら社長を提訴」
「パワハラ・長時間労働・過労死……暴かれたブラックな実態」
「※フラッシュの点滅にご注意ください」
全国の視聴者がこの会見を観ていますが、この場で訴えたいことはありますか。
報道陣からの質問が上がる。涙ながらに答えているのは、なんと僕の元上司だ。しかもその手に遺影らしき写真を抱えている。
先日、私の同期が社内で突然倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。過労による脳内出血で……社員の待遇改善を訴えて、ひとり社長と戦ってくれていた勇敢な人でした……彼の死を無駄にしないためにも……
僕の記憶より少し若いシモツキさんが、額縁の中でスーツを着て微笑みを浮かべていた。
またスマホが鳴る。
〈えー、森さん死んじゃったんだね……あんま覚えてないけどめっちゃいいひとだったのに……〉
森さん。シモツキさんの苗字は「森さん」というのか。言われてみれば、そんな感じだったような気もする。
テレビではMCが一言神妙な顔で当たり障りのないコメントをした後、次のコーナーに移っている。「浅草・田原町最新グルメ食べ歩き」、話題の高低差が激しすぎではないか。こちとら人が死んだり、病んだりしてるんだぞ。
ともかく、あとは森さんの下の名前だけだ。思い出せ、思い出すんだ、大沢旬。
――あの、お名前お伺いしてもよろしいでしょうか。……存じ上げてなくて、すみません。
――ああ、私の名前は……
「……あ!」
僕の記憶が閃いた瞬間、背後から声がした。
「シモツキイチロウ。十一月一日に現れたから、霜月一郎だよ」
立ち上がった瞬間に、背骨を縦走する懐かしい悪寒。振り返る前から、もう鼻がつーんとしている。
「何もかも思い出して、成仏したんじゃなかったん、ですか」
「幽霊界のルールなんか、私が知るわけないだろ。よく分からんが、再び君に取り憑いたようだ」
憑依霊から守護霊に格上げってことかな、と彼は笑う。ソファー越しにうっすら髭の生えた顔が見えたのは一瞬だけで、後は次々に盛り上がる涙が邪魔して見えなくなった。
「シモツキさあああん、帰ってきてくれたんですね。うえええ」
「おいおい、落ち着けよ。まず涙を拭いて、鼻をかみなさい」
ちーん。鼻をかむそばからまた泣いてしまう。恥ずかしいが堰を切った感情と涙と鼻水は制御不能だ。また鼻をかむ。ケチって安いティッシュを買ったせいで、鼻がヒリヒリする。
「うええ、鼻のかみすぎで皮がむけそう」
「これが本当の『はなむけ』ってやつだ、なんてな」
「寒い……。寒すぎます。冬ですね」
「十一月が終わるからな。十二月になってもシモツキさんをよろしく頼むよ」
「それは、こっちの台詞ですよ!」
――森シュンタロウ。会計課資産管理室長の森隼太郎だ。君と同じく、シュン君と呼んでくれてもいいぞ。
やっばりシモツキさんでお願いします。
僕は幽霊おじさんの胸に飛び込んだ。抱きつくことはできない。生温かい空気にもんわり包まれるだけだ。
ああ、ああ、最高に気持ち悪い。
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