十一月三十日 はなむけ*****
「君、大沢旬君だろ」
彼と言葉を交わしたのは、初めてのことだった。
三年と半年前に、社内システム部に配属された新入社員。三ヶ月で辞めた彼の同期が、「旬君」と呼んでいたので印象に残っている。
正直なところ、すぐに辞めてしまうだろうと思っていた。残業と休日出勤の毎日に耐えられるような体力と根性がある子にはとても見えなかったのだ。
屋上にやってきた旬君をひと目見て、私は「むしろよくここまで頑張れたな」と思った。
目はうつろで、歩くのにステッキの支えが必要ではないかと思えるほど足下がおぼつかない。私が声をかけるまで、屋上に先客がいることにすら気づいていない様子だった。
「私は会計課だから社員の名前はよく知ってるんだ。こないだ君が申請したカーペットのクリーニング代を承認したのも私だぞ」
「ああ……」
暗かった旬君の目の色が、いっそう闇深くなった。
「あのときは、皆さんにとんだご迷惑を」
「気にするなよ。君たちが大変なのはみんな知ってる」
私たち会計課も負けず劣らず残業は多いが、社内システム部のプレッシャーは社内随一だ。彼らがいなければ、社内のシステムもネットワークもまともに機能しない。先日のように障害が起きた日は全社の憎悪を一心に受けることになる。本当は彼らがいるからこそ仕事ができているのだが、忙殺されすぎている社員たちに彼らを気遣う心の余裕はないのだ。
障害を復旧させるための対価として旬君の心身が犠牲になるのだとしたら、あまりに見合わない。社員を使い捨ての利く道具としか見ていないこの会社には深い怒りを感じるが、結局自分には何もすることができなかった。思い切って社長に経費削減と社員への待遇改善を直訴したが、その返答は秋田営業所への異動辞令だけだった。
経理以外の仕事はやったことがないし、自動車の運転免許も持っていない。豪雪地帯で暮らした経験もない。実質的な解雇命令だ。
私は退職願を出した。今日が最後の出社日だ。
「祭りのあとは静かだねえ」
私は柵に寄りかかって夜空を見上げた。
「こないだの障害は大変だったな。ずっと会社に缶詰だったんじゃないか?」
「ええ、まあ……」
旬君には面倒くさい先輩だと思われているだろうが、まだ解放してやるわけにはいかない。
「システム障害ってのは、何ていうんだ、プログラミングの……コードっていうのか? あれの中に原因があるのか?」
「こないだのはそうでした。うちの基幹ERPシステムはけっこう古くて、他のいろんなシステムと強引に連携させてるんですけど、全容を知ってる人が誰もいなくて……なんとなく動いてるからこれでいいのかな、って運用してるんで」
「うなぎ屋の秘伝のタレみたいなもんか? レシピはなくて、味見しながらどうにか似せてるみたいな」
「だいたいそんな感じです」
あえて変な比喩をしたつもりだったが、愛想笑いで流されてしまった。
「よく頑張ったな。でも、仕事なんて健康を害してまでやることじゃない。いつでも辞めてしまっていいんだよ」
「みんなそう言いますけど、そんなに簡単じゃないですよね。お金のこととか、転職活動とか」
「一時はつらくても、生きてりゃなんとかなるよ。雨が降った後には虹が出るようにな。ほら、空を見ろよ」
「夜ですよ」
「夜にだって虹は出る。月にも虹がかかることがあるんだぜ」
「はあ……」
明らかに変な人だと思われているが、別に構わない。どうせ私は今日で退職する身だ。この青年と二度と会うこともないだろう。
私は錆びかけた柵のペンキを爪で削った。ほろほろと崩れて柵と柵の隙間に落ちていく破片は、死者を火葬した後の灰に似ていた。
「大沢旬君」
「はい?」
「元気でな。元気でなっていうのは、自ら進んで元気になれる場所へ行けって意味だ。君はこんな会社にいちゃいけない。ちゃんと自分を大切にするんだ」
私の同期は、業務時間中に会社を抜け出し、近くの橋から川に飛び込んで死んだ。ピンクの制服を着たままで。
彼女は私と同じく天涯孤独の身の上だったため、身元確認には私が行った。希望に満ちあふれ、「一緒に頑張ろうね」と笑っていた明るい子が、冷たい地下一階の霊安室でただ死んだことを確認されるためだけに私を待っていた。
あんな死に方、もう誰にもさせてはいけない。
「あ、はい、分かりました……それじゃ、僕は失礼します」
旬君のまだ表情はぼんやりしているが、とりあえず屋上から追い返すことには成功したようだ。それでいい。君はこんなところで死んではいけない。
……どうも少し頭痛がするな。
と、鍵の壊れたドアをくぐる前に、旬君がこちらへ振り返った。
「あの、お名前お伺いしてもよろしいでしょうか。……存じ上げてなくて、すみません」
「ああ、私の名前は……」
思い出す必要などない。
シモツキイチロウ。霜月一郎。
旬君が与えてくれた名前、それで十分だ。
私の死出の旅路に、この上ないはなむけになった。
ありがとう。
十一月の間、君と一緒に過ごせて、私は本当に幸せだった。
もしこれからの人生でつらいことがあったときは、どうか私の名前を思い出してくれよ。
ふたりでそれなりに楽しく過ごした日々を。
君が優しくてすてきなやつだってことを。
君がどうにかやっていける場所が、いつだってどこかに存在することを。
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