十一月二十七日 ほろほろ
水野さん一家は、この家をずいぶん気に入ってくれたらしい。管理人の僕にとって、このうえなく光栄なことだ。
いつ成約するのかはまだ決まっていないそうだが、近いうちに僕はこの家を出て行くことになるだろう。住み込み管理人の仕事も終了だ。
その代わり、伯母さんは別の住居と仕事を用意してくれている。隣町に竣工したばかりの学生向けマンションで、常駐の管理人をやるのはどうかと打診された。もしくはタカアキ君が提案したように、フクマツ不動産で働くか。後者の場合、僕は伯母さんの家に居候するか、いい物件を紹介してもらってひとり暮らしをするか選ぶことになる。
いずれにせよ、ただ祖父母の家をきれいに保っておくだけの管理人に比べれば仕事は多いだろうが、僕にとってはありがたい話である。それ相応の仕事をしてお給料をもらうほうが、ずっと気が楽だ。
いつでも水野さんに明け渡しができるように、身の回りの整理を始めた。スーツケースに少しずつ、しばらく使わないものをしまい込んでいく。
洋服は必要最小限のものを除いて片付けた。夏物を着る季節には、僕はもうこの家にいないだろう。クローゼットにかけておいたスーツは、先日クリーニング屋さんが送ってくれたものだ。これもすぐには着る予定はない。
「……シモツキさん」
僕はきれいにクリーニングされたスーツをひと撫でして、彼を呼んだ。
「私なら、ここにいるぞ」
背後にほんのりと温かい気配を感じて、首筋がひりつく。
「このスーツをクリーニングに出した理由、話してないですよね」
「かなり汚れた、とは聞いたが」
僕は頷いた。
「僕、ゲロ吐いちゃったんですよね。みんなが見てる前で」
苦しいし恥ずかしいし申し訳ないし、社長はかんかんに怒ってみんなに怒鳴り散らすし、とにかく最悪の思い出だ。思い出すだけで冷や汗が出る。できることなら忘れ去ってしまいたいが、一生記憶の底にこびりついて離れない気がする。
「それが君の『思い出したくない記憶』か?」
「そうですけど、一番忘れたかった記憶は別にあります」
ひとつ、深呼吸をして、シモツキさんに向き直った。
「僕、死のうとしたんです」
人前で吐いたのは些細なことだ。僕はいつ終わるとも知れない激務の日々に疲れ果て、かといって辞めたり転職活動を始めたりする気力も起こらず、ただ絶望していた。いくら働いても報われず、ただ目の前の仕事をこなすためだけに消費されていく僕の人生に。
「九月末に会社で納会があって、みんなで盛大に飲み食いした後、僕は無意識のうちに屋上にいました。あの会社、屋上に出るドアの鍵が壊れてるんですけど、みんな忙しいし気分転換に外の空気を吸いたい人もいるから、修理せずにそのままになってたんです」
シモツキさんは黙って僕を見つめている。
「死のう、って思って屋上に出たわけじゃありません。完全に無意識でした。無意識のうちに、僕は柵を乗り越えて飛び降りようとしていたんです。……怖いですよね。でも自分から死ぬときって、案外そんなものなのかもしれません」
そのとき、背後から声がしたのだ。
――君、大沢旬君だろ。
「名前を知らない先輩社員でした。ぼんやりしててあんまり憶えてないんですけど、その人はたぶん僕を励ましてくれたと思います。よっぽど僕が、やばい顔をしていたんでしょうね」
――夜にだって虹は出る。月にも虹がかかることがあるんだぜ。
僕はちょっと笑ってしまった。
「けっこうキザなこと言ってましたよ。その人が生前のシモツキさんです。名前は……ちょっとまだ思い出せないんですけど」
別れ際に僕は名前を尋ねたはずなのだ。「霜月」みたいな珍しい苗字ではなく、「一郎」みたいなよくある名前ではなかった気がする。
「少なくとも、九月三十日の夜までは、シモツキさんは存命だったはずです。ここまで聞いて、何か思い出しませんか?」
「……なるほどな」
シモツキさんが静かにつぶやいた。なんだか、シモツキさんの透明度が高くなっているような気がする。
「思い出したんですね」
答える代わりに、シモツキさんは目を伏せて笑った。その輪郭からほろほろと、光の粒がこぼれている。
ああ、いよいよお別れなんだな、と僕は悟った。
「旬君は、もう死のうとは思わないんだな?」
「はい。あのときシモツキさんが僕に話しかけてくれたから、僕は死なずにすみました。いまでは伯母さんたちの力も借りて、どうにかやっていけるんじゃないかって思えるようになりました。シモツキさんは、僕の命の恩人です」
「そいつはよかった」
最後の一言を放つと、シモツキさんはまばゆい光の泡になって消えた。成仏の仕方が美しすぎる。幽霊おじさんのくせに。
ありがとうございました。
ひとりになった部屋で、僕は天井に向かって笑いかけた。
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