十一月二十六日 対価

 その報せは、思いがけない早さでもたらされた。

 この家を買いたいというお客さんが現れたのだ。

 伯母さんからの電話は昨晩かかってきた。かなり急だが、今日の午後三時頃に家族三人での内見を希望しているとのこと。

 僕は住み込み管理人の立場なのでお客さんを家に通さなければならない。普段から家中綺麗に保つように気をつけてはいたが、それでもやっぱり慌てた。

「がんばれ旬君、そこの隅にまだ埃が残っているぞ。終わったら庭の掃き掃除だ」

 シモツキさんは掃除の行き届いてない部分を指摘してくれる。まるで意地悪な姑のようでちょっと鬱陶しかったが、お客さんが到着する前になんとか終わらせることができたのは彼のおかげだ。

 ピーン、ポーン。

 お客さんのご一行は、午後三時を少し回った頃にタカアキ君とともにやってきた。

 玄関のドアを開けた僕は、お客さんの顔を見て思わず声を上げた。

「あれっ、水野さん」

「こんにちは。またお会いしてしまいましたね」

「紙飛行機のお兄さん、元気ー?」

 水野さんとケント君はにこにこと笑っている。ということは隣に立っている眼鏡の優しそうな男性が、水野さんの夫だろう。

「大沢さんでいらっしゃいますね。どうもはじめまして、水野博人ひろとと申します。妻と息子がお世話になったみたいで」

「あああ、いえいえ、こちらこそお世話になりまして」

 僕らはぺこぺこと頭を下げ合った。タカアキ君が不思議そうな顔をしているので、たまたま公園で知り合ったのだと説明しておいた。

「どうぞお上がりください。お好きに見ていただいて結構ですので」

 水野さん一家は現在駅前の賃貸マンションに住んでいるが、手狭になってきたのと、博人さんの会社がほぼ毎日テレワーク可能になったため、環境のいい家を探していたらしい。ご夫妻はどちらも車を運転できるので、駅近である必要はない。ケント君が遊べる公園が近くにあればなおいい。その条件にぴったりだったのが、この家だった。

「キッチンの家電が新しいですねー。いいなあ」

「ソファーもふかふかだよ、お母さん」

「家電や家具は付属しませんが……」

「分かってますよ」

 タカアキ君に連れられて、水野さん一家が各部屋を巡る。僕もいちおう付いて回った。

「本、たくさんありますね。これは大沢さんのご趣味ですか?」

「元は祖父の趣味だったんですが、……ええ、そうですね、僕の趣味になりつつあります」

「日が当たらないから、本を保管するのにはいいですね。この部屋は佳澄かすみの読書部屋かな」

 一行が二階への階段を上っているとき、背後から「いいのか」と声がした。僕は驚いて振り返る。

「シモツキさん、いつから見てたんですか」

「最初からずっと見てたよ。家にいる間は姿を現してもいいんだろ?」

「お客さんが来てるときは話が別でしょ。霊感ある人だったらどうするんですか」

「大丈夫だよ。誰も私には気づいてないみたいだし」

 僕たちは小さな声で言い合いをする。

「せっかくいい感じで内見が進んでるんです。万一シモツキさんがふわふわしてるところを見られたら、破談になっちゃいますよ」

 記憶喪失の幽霊おじさんがいるなんて、とんだ事故物件だ。実際は僕に取り憑いているのだが。

「それはそれでいいじゃないか。君はいつまでもここに住めるし。いいのか? この家を出るの、寂しくないのか」

 僕は少し考えた。

 買い手が見つかるまで、住み込みの管理人をする。初めからその約束だ。水野さん一家が僕を追い出そうとしているわけではない。彼らは売っているものを買っているだけ、つまり正当な対価を支払ってこの家を所有しようとしているだけだ。

 もちろんこの家には多少の愛着があるが、買い手が水野さん一家なら言うことはない。

「ちょっとは寂しいですけど、家が売れるに越したことはないです。それに……」

 水野さん一家は二階を見終わったらしい。次は庭へ向かっている。

 いったん僕は話を中断して、居間から彼らに声をかけた。

「すみません、お売りする前には植木の剪定は呼びますので」

「ありがとうございまーす」

 ケント君が紙飛行機がひっかかっていた金木犀を指さしている。

「『それに』、何だよ」

 シモツキさんが話の先を促す。

 ――この家にいようと、引っ越ししようと、シモツキさんはそろそろ成仏しますし。

「いや、何でもないです」

 僕は言葉を濁した。

 ――寂しくなるのは、同じことです。

 本当は彼が誰なのか、もう思い出している。

 僕の記憶がその人の名前に辿り着くまで、もう少しだ。

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