十一月二十四日 月虹****
僕はもう疲れ切っていた。
どんちゃん騒ぎの納会を抜け出した後、何かに導かれるようにふらりと屋上へと向かっていた。転落防止の柵に手を触れるまで、背後に人がいたことに気がついていなかった。
「君、大沢旬君だろ」
誰だろう、この人。いままで話したことあったろうか。
「私は会計課だから社員の名前はよく知ってるんだ。こないだ君が申請したカーペットのクリーニング代を承認したのも私だぞ」
「ああ……」
僕は頭を抱えた。
「あのときは、皆さんにとんだご迷惑を」
先日の「おやつタイム」。
障害対応のお礼だと言って、社長は直々に高級なケーキを僕たちに振る舞った。徹夜続きだった僕の胃は限界だったが、とても要らないと言える雰囲気ではなかった。こってりした生クリームを無理して詰め込んだら気分が悪くなって、僕は社長と大勢の同僚たちが見ている前で嘔吐してしまったのだ。
スーツを吐瀉物まみれにした僕に、社長は不潔だとか恩知らずだとか散々に怒鳴った。挙げ句の果てに、システム障害が起きるのはお前たちの仕事に対する姿勢がなっとらんからだ、と社内システム部のみんなを激しく罵倒した。僕よりずっと寝ていない先輩も、週末のデートを諦めた後輩も、みんな黙ってそれを聞いていた。ケーキを喜んでいた人もいたのに、フロア中の空気が一斉に凍りついてしまった。
僕のせいで、みんなの苦労が台無しになってしまった。あまりにも申し訳なくて、僕はただ胃をひくつかせながら「すみません」と謝るしかなかった。
「気にするなよ。君たちが大変なのはみんな知ってる」
そういう会計課こそ、社内一サービス残業の多い部署だ。僕の同期は配属後わずか三ヶ月で「頭が変になりそう」と言って辞めた。この人は僕よりはるかに社歴が長そうだが、平気なのだろうか。
「祭りのあとは静かだねえ」
名も知らぬ先輩が、柵に寄りかかって夜空を見上げる。
「こないだの障害は大変だったな。ずっと会社に缶詰だったんじゃないか?」
「ええ、まあ……」
口元では笑顔を作ったつもりだが、眉は勝手に歪む。泣き笑いのような表情になった。
「システム障害ってのは、何ていうんだ、プログラミングの……コードっていうのか? あれの中に原因があるのか?」
「こないだのはそうでした。うちの基幹ERPシステムはけっこう古くて、他のいろんなシステムと強引に連携させてるんですけど、全容を知ってる人が誰もいなくて……なんとなく動いてるからこれでいいのかな、って運用してるんで」
「うなぎ屋の秘伝のタレみたいなもんか? レシピはなくて、味見しながらどうにか似せてるみたいな」
「だいたいそんな感じです」
先輩がユニークな比喩をしてくれたのに、疲れていた僕は適当な返事をしてしまった。
「よく頑張ったな。でも、仕事なんて健康を害してまでやることじゃない。いつでも辞めてしまっていいんだよ」
「みんなそう言いますけど、そんなに簡単じゃないですよね。お金のこととか、転職活動とか」
「一時はつらくても、生きてりゃなんとかなるよ。雨が降った後には虹が出るようにな。ほら、空を見ろよ」
「夜ですよ」
「夜にだって虹は出る。月にも虹がかかることがあるんだぜ」
「はあ……」
僕も視線を上げた。
この屋上から夜空を見たのは初めてだった。九月も末になるとすっかり夜が来るのが早くなり、まばらに星が瞬き始めていた。
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