十一月二十一日 缶詰

 昼過ぎに無事に退院することになった。家には伯母さんが送ってくれた。

 今日の夕食について、伯母さんは一緒にどこかで食べないかと誘ってくれたが断った。代わりにスーパーに寄ってもらい、食料品を色々買った。インスタントラーメン、缶詰、レトルト食品。(先日嫌というほど食べたカレーだけは、さすがに買う気がしなかった)チョコレートやポテトチップス、スポーツドリンクの2リットルペットボトルも三本買った。数日の間、生きていくのに必要最小限のエネルギーしか使わないで過ごすための備蓄品だ。

「ただいまー」

「中江」の表札がついたままのこの家を、僕はすっかり自分の家だと思うようになっていた。帰宅すると言いようもない安堵感に包まれる。

 僕が倒れたとき、床にこぼしてしまったコーヒーはきれいに拭き取られていた。マグカップがひとつ割れてしまったことを除いては元通りだ。

 買ったものをキッチンにそのまま置いて、まず僕はソファに寝転がる。

「僕たち、なんだかずいぶんと会ってなかった気がしますね」

 シモツキさんは僕の頭上に現れた。シモツキさんに足があれば、ソファの座面に膝立ちしているくらいの高さだ。一日ぶりに見るその表情は曇っていた。

「シモツキさん、たぶん近々成仏できると思います」

 まだシモツキさんは怪訝な顔をしている。

「まだ分かりませんか? シモツキさん自身じゃなくて、僕がシモツキさんのことを思い出すんですよ。たぶん僕と生前のシモツキさんは、会ったことがあると思うんです」

「何だって、そりゃあ……」

 言いかけたシモツキさんに、僕は手のひらを見せて制した。

 なぜシモツキさんが僕に取り憑いたのか。なぜ僕に「名前を思い出してくれ」と願ったのか。

 たぶん、僕は元々生前のシモツキさんのことを知っていたに違いない。ただし、すぐに顔と名前が一致するほどの知り合いではなかった。だから僕も、すぐにシモツキさんのことを思い出すことができなかったのだ。

 そして、生前のシモツキさんがいったい誰なのか、僕には多少心当たりがある。

「でも、それを思い出そうとすると、頭がきゅーっとなってしまうんですよ。どうやら僕の脳は、シモツキさんのことを思い出したくないみたいです。本当は憶えているけど忘れてしまいたい嫌な記憶に、シモツキさんは紐付けされてしまっているんだと思います」

 一昨日僕が倒れたのは、無理に記憶をほじくり返そうとしたせいだと思う。時期尚早だったのだ。

「もう少しです。僕の心身がもう少し回復したら、ちゃんとシモツキさんのことを思い出せるはずです」

「……そうか」

 シモツキさんがソファを降りた。

「あれ、あんまり興味なさそうですね?」

「旬君。私の記憶を取り戻すために、君に負担をかけるのは本意ではない。以前もそう言ったはずだぞ」

「そんなこと言って、本当は成仏して僕とお別れするのが寂しいんじゃないですか?」

 喉が渇いた。僕は再び立ち上がり、キッチンで先ほど買ったスポーツドリンクのキャップを開ける。いつもよりも固く締まっている気がした。薄く濁った液体は、塩辛いような、甘酸っぱいような、不思議な味がした。これが人間の身体から失われるエネルギーの味なのだろうか。

「正直、僕はそうです。シモツキさんがいなくなったら、けっこう寂しいんじゃないかと思います。なんだかんだで二十日間も一緒にやってきたわけですし」

 シモツキさんは答えなかった。僕はコップに二杯めを注ぐ。一気に飲み干した。

「だからって、シモツキさんが自分のことを忘れたままでいいとは思えない。シモツキさんはいい人です。生きてるときもいい人だったはずだし、思い出すべき価値のある人生を送っていたはずです。それなのに名前さえも忘れたまま、成仏できないで憑依霊やってるなんて、全然よくない」

 僕は買ってきた食料品を戸棚に片付けた。開栓したスポーツドリンクは冷蔵庫へ。

「無理はしません。二度も倒れるのは僕だって嫌です。そのうち思い出すんで、もうちょっと待っててください」

 言いながら、僕は今日の夕食をどうするか考えていた。

 野菜室にしなびかけたキャベツがわずかに残っている。今日の夕食に、塩胡椒をかけて炒めて食べよう。米は炊く。それ以上の複雑な料理は、今日はお預けだ。

「ありがとう、旬君」

 シモツキさんは僕に小さく微笑んだ。

 今夜のメインディッシュは、鯖の味噌煮缶に決めた。

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