十一月二十日 祭りのあと

 夢さえ見なかった。眠っている間に何もかも思い出せるほど、そう都合良くはいかない。

 閉じたブラインドの隙間から、日差しがちらちらと入ってくる。朝が来た、らしい。

 白い天井に見覚えはない。腕には点滴が繋がっていて、部屋には薬品の匂いが漂っている。枕元には僕の名前が書かれたネームプレート。僕が横たわっているのが、どこかの病院であることはうっすら察しがついた。

 病室のドアが開いた。入ってきたのはタカアキ君だ。目を覚ました僕を見て、慌てて駆け寄ってくる。

「目、覚めたんだ。大丈夫? いや、そんなわけないか」

「大丈夫……だと思う」

 僕はゆっくりと身体を起こした。右の頬骨あたりがじんわりと痛む。倒れたときに床に打ちつけたせいだろう。ほかには特に異変を感じられない。

「ちょっと先生呼んでくる。喉渇いてない? 水買ってくるよ」

「じゃあ、お願いしてもいいかな」

 バタバタと出て行くタカアキ君の背を見送って、僕は小声で呼びかける。

「……シモツキさん?」

 返事はなかった。家の外では姿を見せないという約束を、頑なに守っているのだろうか。

 まあいい。すぐにお医者さんが来てしまうのだろうし、うわごとを言っていると誤解されるのも困る。

 ほどなくして、お医者さんが伯母さんと一緒に現れた。いつもの心療内科の先生とは別人だ。ここは市立病院らしい。僕は昨日の昼間からずっと眠っていたことになる。

「昨日から商店街の秋祭りでね、晩にお店のみんなでお寿司でも食べよう、旬君も誘ったらどうかって話になったの。でもいくら電話してもあなたが出ないから、心配になって見に行ったら……」

 キッチンで倒れている僕を見つけた、というわけだ。

 検査の結果、僕の身体には異常は見られなかったそうだ。一時的なストレスのせいではないかというのがお医者さんの見立てだった。

 目を覚ました僕の様子が穏やかだったので、安静にするならすぐに退院してもかまわないと先生は言ったが、伯母さんが反対した。僕は帰ってシモツキさんと話をしたかったが、これ以上心配をかけるわけにはいかない。念のためここでもう一晩様子を見ることにした。

 先生が退室した後、伯母さんは目を潤ませて僕に謝った。

「旬君、ごめんなさいね。私はあなたに良かれと思って、あの家の管理人をお願いしたつもりだったの。でも、いきなり全然違う環境でひとり暮らしを始めるんですもの、平気なわけがないわよね。考えが足りなかったわ。本当に申し訳ない」

「とんでもないです。伯母さんには感謝しかありません。僕はこちらに引っ越ししてから、よく眠れる日が増えました。前より体調もいいんです。昨日はちょっと、考え事をし過ぎたせいで……」

 こめかみがちりちりと疼いた。思い出したくないと、脳が警告している。

「僕はあの家での暮らしと、管理人の仕事が好きです。ご迷惑でなければ、もう少し続けさせてください」

 正直な気持ちには違いない。それでも、伯母さんにシモツキさんのことを明かせないのが申し訳なかった。

「そう……それならいいけれど。とにかく、今日はゆっくり休んでね。何か必要なものがあったらすぐ貴明に持ってこさせるわ」

 僕は暇つぶしに、祖父の蔵書の中から手頃な厚みのものを適当に二、三冊持ってきてほしいとお願いした。

 タカアキ君が持ってきてくれたのは、濃いピンクの背表紙三冊だった。『春暁』『夏蚕』そして、『秋灯』。

「これ、売れてるやつだよね! じいちゃんの本の中で一番面白そうかと思って」

「ありがとう」

 僕がちゃんと本のタイトルを指定しなかったのがいけないのだ。せっかく持ってきてもらったのに、もうどれも読み終わって事件の真実を知っているとは言えない。

 真実は、いつだって思いがけず主人公のすぐそばにあるものだ。

 ひとりになった後、僕は何度かシモツキさんに小声で呼びかけた。

 ようやく返事があったのは消灯の後だった。真っ暗闇の中で、枕元に囁く声がする。

「私のことは考えるな。旬君、ゆっくり休むんだ。いいね?」

 よかった、いなくなったわけじゃなかった。

 耳元に感じる悪寒は、かえって僕を安心させた。

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