十一月七日 引き潮
薬が嫌いだ。好きな人はあまりいないと思うが。
僕はいちおう病人である。診断名は「うつ状態」、「うつ病」よりは軽いらしい。
診断書を書いてくれた心療内科の先生は、「薬は毎日飲むように」と僕に言った。
休職して最初の一週間ばかりは、嫌々ながら処方された薬を飲んでいたが、怠るようになってしまった。出された薬の効き目に、ちょっとした恐怖を感じたからである。
僕に処方された薬は、脳内のセロトニンという物質を増やすことで、不安や憂鬱などの「症状」(そう、症状なのだ)を改善してくれるというものだった。僕にはこれが
不安とは、僕の精神の岸辺を削る荒々しい
確かに、薬を飲むとよく眠れる。将来の不安を忘れることができる。だが僕は、この引き潮の感覚が怖かった。強制的に何も考えられなくさせられる感覚が恐ろしかった。そして、やがて薬がないと夜も眠れない人間になるのではないかという新たな不安に駆られもした。
僕はだんだん薬を敬遠するようになった。
こちらに越してからは、いまのところ一度も薬を飲んでいない。それでも、特に眠れなかったことはない。
もしかして、もう治ったのではないか。一ヶ月以上の休養が功を奏したのではないか。いや、そもそも僕は会社に行くのがとてつもなく嫌だっただけで、ほかのことは普通にできた。もしかして、初めから病気ではなかったのではないか?
引っ越ししたのをきっかけに、僕は心療内科を代わることになった。伯母さんが車を出してくれて、駅前の病院に連れて行ってくれた。
待合室には伯母さんぐらいの年齢の人も、僕と同じくらいの人もいて、先入観のせいかもしれないがみんなどことなく気落ちしているように見えた。僕も、傍目には同じように見えているのだろうか。
新しいお医者さんは、白髪で短髪の、見るからに穏やかそうな男性だった。僕は心身を病んだ経緯と、薬を飲むのが怖いこと、最近は環境が変わってよく眠れるようになったことを話した。
「僕は本当に病気だったんでしょうか?」
最後にそうつけ加えると、先生は優しい声で、しかしはっきりとこう答えた。
「私でも、前の先生と同じ診断をしたはずですね。仕事に行かなければならないと分かっているのに身体が動かなかったり、駅のホームに立つと不安に襲われたりするのは、健康な状態とはいえません。大沢さんには、十分な休息が必要です」
「はあ」
十分な休息とは、いったいどのくらいなのだろう。
「薬を飲むのがどうしても怖いのであれば、無理に飲まなくてもいいと思います。眠れないときやつらいときに飲むくらいでもかまいませんよ」
そう言ってもらえたのは安心した。
診察後は、伯母さんに電話して迎えに来てもらうことになっていた。
ところが伯母さんに急な来客があって来られなくなったらしく、代わりに伯母さんの息子――僕にとってはいとこにあたるタカアキ君が来てくれることになった。
タカアキ君の車には、「フクマツ不動産」という文字が入っていた。
「こんな車でごめんね」
「いえ」
タカアキ君は僕よりひとつ年下だが、フクマツ不動産の次期社長である。いまのところ社長は伯母さんがやっていて、タカアキ君が一人前になったら跡を継ぐことになっているそうだ。
スーツを着ているところを見ると、タカアキ君は仕事中だったのではないかと思われる。
「いいんだよ、今日はどうせそんなにお客さん来ないし」
快活に笑うところは伯母さんにそっくりだ。本当にいいやつで、彼には何の落ち度もない。
僕はその夜ひどい不眠に襲われた。脳の表面を引っかき回されるような不快感に耐えられず、布団から飛び出した。
キッチンに出てコップ一杯の水を飲み、深呼吸を繰り返す。
「大丈夫かい」
シモツキさんが冷蔵庫にもたれかかっていた。
「起こしてしまいましたか、すみません」
「起こされるも何も、私は幽霊だから。……薬、飲んだ方がいいぞ。君は病人なんだろ」
「そうですね」
まったくその通りだ。僕は病人で、普通に働くことができなくて、たまたま伯母さんの厚意で養ってもらっている。この楽な「仕事」は、本来息子のタカアキ君に与えられるべきなのに、僕が横取りしている。僕が普通に働けないせいで。僕がだめなせいで。
テーブルに両手をつき、歯を食いしばって、僕はうめき声を上げる。涙が出る気配はない。ただ叫び出したくなるだけだ。
ぬるい風が、僕の背中を撫でた。
「旬君、今日は薬を飲んでよく眠るんだ」
「……はい」
僕はシモツキさんの言う通りにした。
薬を飲んで間もなく、あの引き潮の感覚がやってくる。
シモツキさんは、僕が眠りにつくまで黙って枕元にいてくれた。
*作者注
本作中の描写は創作上のものです。
処方薬の服用は必ず医師・薬剤師の指導に従ってください。
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