十一月八日 金木犀

 分厚い毛布にくるまってソファに寝転がりながら、文庫本を読んでいた。

 寒くても庭側のガラス戸はちょっとだけ開けている。風が吹くたびに甘い香りがするからだ。

 芳香を放っているのは、こないだ紙飛行機が引っかかっていたあの木、金木犀きんもくせいである。

 庭にはほかにも臘梅ろうばいと桜、百日紅さるすべりが間隔を空けて植えてある。それぞれ別の季節に花が咲くらしい。僕は花に疎いので、木の名前を聞いても桜くらいしかその姿が思い浮かばない。

 庭に花が咲く木を植えたのは祖父の趣味だった。生前は祖父が手ずから剪定をしていたそうだ。いま庭の木の世話をするのは管理人たる僕の役目だが、僕にはそんな技能はない。

 祖父は不治の病を得たとき、庭の木を全部ってしまおうとしたらしい。祖父が亡くなった後は剪定をする人がいなくなるし、人に頼むとお金がかかる。ひとり遺される年金生活の祖母を気遣ったのだろうが、祖母が頑なにそれを拒んだ。

「木だって生きているのに、あなたの道連れにすることはないでしょうが」

 それが祖母の言い分だったそうだ。

 いまでは祖母もこの世を去り、都会で弱り果てて転がり込んできた僕が金木犀の香りを楽しんでいる。

 伯母からは、適当な時期に植木屋を呼ぶように言われている。費用は伯母さんが負担してくれるそうだが、僕の家の庭なのだから僕のお給料から出していいのにとも思う(結局は伯母さんに甘えるのだろうが)。

「いい香りだな」

 シモツキさんが庭でふわふわしている。たぶん、散歩しているのだろう。

「匂い、分かるんですか」

 僕は本を閉じて、外へ呼びかけてみた。

「いやあ、幽霊にも嗅覚ってあるんだな。私も自分でびっくりしているよ。まあ君の姿も見えるし、君の声も聞こえるわけだから、匂いが分かっても不思議じゃないよな」

 言われてみればその通りだ。

「へー、じゃあシモツキさんの前でオナラしないように気をつけます」

「かまわんよ。あまりにも臭うようだったら、私は姿を消せるからな。こんな風に」

 ぱっとシモツキさんの姿が消えた。かと思うと、次の瞬間にはソファの隣に立っていた。

「便利ですね」

「だろ」

 シモツキさんは僕の顔を見下ろして、にやりと笑った。

「何ですか、怖いな」

 幽霊なのだから、むしろ怖くて当然なのだが。

「元気になったじゃないか、旬君」

 昨日の晩のことを思い出して顔が熱くなる。情けないところを見られたものだ。僕は再び本を開いて視線を落とした。

「あの、……昨日はありがとうございました」

 いちおうお礼は言っておく。社会人としての最低の礼儀だ。

 シモツキさんがぬっと顔を寄せてくる。ぞわわわわー、と怖気が立った。

「いいんだよ、私の前でオナラしても」

「しません」

 僕は毛布をかぶって幽霊から避難した。

 また風が吹いた。

 金木犀の根方には、だいだいの花がいくつも散っている。もうすぐ季節も終わりだ。でももう少しだけ、この香りを楽しみたい。

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