隔世の感

涌井悠久

隔世の感

「ねえ。例えば夕日が白い壁に当たるとするでしょう?そうなると私たちの瞳にはオレンジがかった壁が映るわよね?…貴方は、それをオレンジ色の壁だと思う?それとも、ただ単にオレンジ色の光を浴びた白い壁だと思う?」

 彼女がそう問うたのは、私が教室に数学のワークを取りに来た時だった。彼女は背中に夕日を浴びながら、私の方をじっと見つめていた。私の答えを待っているのだ。

「…どういう、事ですか?」

 実を言うと、私と彼女は初対面だ。彼女は親し気に話しかけてくるが、私は彼女を知らないし、彼女だって私の事を知らないはずだ。分かるのはクラスメイトだったような、という事くらい。

「ただの認知心理学の話よ。人の心には、知覚したものを多少の変化があっても一定のものとして扱う『知覚の恒常性』という機能があるらしいわ。貴方はその壁をどう見る?」

「どうって…白い壁に夕日が当たっているだけだからただの白い壁なんじゃないですか?」

「やっぱりそう答えるわよね…。でも、この世にあるものって私たちは認知することでしか確証を得られないじゃない?だったら、その人が見えたものこそがこの世にあるものとして成り立つんじゃないかしら?」

「…難しいことを言いますね」

「簡単よ。この世は個人の認知で成り立っているの。大多数の人が『イチゴは赤い』と言ってるからイチゴ=赤いものだという『この世』があるだけで、色盲の方からしたら『イチゴは青い』わ。その人にとってはイチゴ=青いが『この世』なのよ。世の中の在り方なんて、結局は認知する人によって様々なの。世間の常識はあくまで多数派の認知の結果。少数派には少数派の『この世』がある」

「つまり…白い壁も夕日を受けてオレンジ色として認知できるから、白い壁はオレンジ色の壁に成り代わったって言いたいんですか?」

「そう!これを理解してくれる人をずっと探していたわ」

「はあ…良かったですね」

「今日は素敵な日ね。こうやって話せる人が現れるなんて」

「それで、そんな話をするためだけに呼び止めたんですか?だったら私はもう帰りますよ」

「まあ、もっと話し合ってもいいけれど…。貴方みたいに認知がこの世を形成する事を分かってくれる人を探していた理由はね――この世を変えてみない?って提案をしたかったのよ」

「この世を、変える…?」

「そう。認知によってこの世が成り立つという仮定が正しいなら、それを応用して私たちはからすを白に出来るし、天球に浮かぶ小さな星を手のひらで掴み取ることだって出来るわ」

「…それを本気で試そうと?」

「ええ、そうよ。認知の可能性は無限大だもの。試して損はないわ」

 思わず眩暈がした。人間の常識や良識を詰め込んだ脳の部位を思い切りはたかれたような感覚だ。スケールが途方もなく大きい絵空事をこんな真面目に、こんな狭い教室で試そうっていうのか。

「じゃあ、先にやっていいですよ」

「私一人じゃダメ。私と貴方の二つの『この世』が合致して初めて実験は成功するわ。それがルール。さ、こっち来て」

 彼女は楽しそうに隣の空間を指差す。なんでこんな電波な事に巻き込まれてしまったのだろう。数学のワークのせいか?

「…じゃあ、まずあの遠くに見える鉄塔から」

 校舎の3階からは、田畑の真ん中に図々しく鉄塔が建っているのが見える。普通であればあの鉄塔は50mは優に超える大きさだが――

「今の私たちにはあの鉄塔は親指と人差し指で挟んで持てるサイズ。そう認知できるからあの鉄塔は持てる。…そういう事ですね?」

「そういう事。私は上の方を持つから、貴方は下の方を持って」

 言われるがままに、私は窓の外に腕を出し親指と人差し指で鉄塔の下の部分をつまんだ。あくまで認知上は。はたから見たら私たちは窓から手を出してるだけの意味不明な生徒だ。

「掴んだわね?せーので右に動かすわよ。…せーの」

 私は指を右に動かした。

「――嘘でしょ」

 私の見間違いだろうか?

「実験は成功。この世を変形させられたわね」

「え、ち…ちょっと待って?もう一回いい?」

「ええ」

 もう一度親指と人差し指で鉄塔をつまむ。今の鉄塔の先端は遠くにぼやけて見える山の頂点と一致している。

「せーの」

――動いた。鉄塔が。先端が山の頂点から右に逸れている。

「あの、いや…信じられないんだけど…」

「ね?『この世』は認知で成り立っているの。私たちの認知が変わればこの世を変形出来るわ。まあ『この教師を辞めさせたい』なんてのは無理でしょうけど」

「なん…何これ、ドッキリ…?」

「ドッキリなんかじゃないわ。ただの認知が促す変化よ」

 もう言葉も出てこない。ただただ、自分の目の前で起きた事が信じられない。人は未知と出合うとこんなにも無力になれるのか、なんて自分を俯瞰ふかんしている自分もいる。

 それから私たちは様々な事を試した。山際に立ち上る入道雲をへこませて小さくしたり、夕日を若干引き上げて夕方を延ばしたり。

 窓の外に広がる景色は、今や私たちだけが描けるキャンパスになっていた。

「夕日も沈んじゃったわね。そろそろ帰りましょうか」

 しかし夕日が沈んでも、私たちが『空はオレンジ色』と知覚したせいでオレンジ色のままだ。

「…そうだね」

「まだ信じられない?」

「いや…流石に色々と動かせたから信じる、かな。ただ、あまりにも衝撃が大きすぎて…」

「ふふ。そうよね。普通だったら考えられないもの。こんな秘密を共有できる私たちは、もう友達ね」

「友達…」

 友達と言うにはあまりにも歪な気もするが。でも、この高校に来て初めての友達だ。嬉しい。ちょっと不思議でおかしい所もあるけど、面白い友達。

 ずっとこんな友達が欲しかった。

「じゃあね」

「うん。また明日」


 次の日、私は未だ夢を見ているかのような気分で教室に足を踏み入れた。窓の外には昨日と同じオレンジ色の空。少しずれた鉄塔。これも彼女が教えてくれた知覚の恒常性というやつなのだろうか。昨夜は眠れなかったからか遅刻してしまい、着く頃にはクラスメイトは全員揃っていた。

 …彼女が居ない。あの時、『この世』と認知を説いてくれた彼女が。でも席は全て埋まっている。


――ああ。そうか。そうだったんだ。こんな残酷な真実、認知しなければ良かった。

 彼女は私が作り上げた『友達になってくれるクラスメイト』だ。私は彼女を誤って知覚して『この世』を変形させ、本来この世には存在しない彼女を認知によって存在させてしまった。

 そして私はあの帰り際、友達になることを認めてしまった。だから『友達になってくれるクラスメイト』である彼女は居なくなってしまった。彼女はあの時『クラスメイト』ではなく『』になってしまったから。

 私はもう二度と彼女を認知できない。

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