49.花々の香る朝

四方の壁に、歴代の王族の肖像画がずらりと飾られている。無数の物言わぬ先祖や親戚たちに見下ろされ、アマリアは薄暗いホールの窓辺にぽつんと立っていた。


そこからは列柱に囲まれた中庭がよく見えた。舞踏会の夜にフランシスカを待った“中庸の庭”だ。珍しい花々や植物が繁茂する中に曲がりくねった小道があり、それをたどって壮年の男が現れたのは太陽が東の空の雲間から顔を出した頃だった。


暗い塔の一室や、空気の張りつめた王妃の寝室でしか会ったことのなかったその人は、明るい日差しの下で見ると実に威風堂々とした男だった。長身で肩幅が広く、垂れた目尻の他はすべてが勇ましげだ。


「待たせてすまない」


王様って謝るんだ、と思いながら、アマリアは目の前までやってきた彼にお辞儀をした。第二王女の誕生後、国王は集まった貴族たちに食事をふるまった。その宴会を抜けてアマリアと会う時間をつくってくれたという話だ。


「顔を上げなさい」


そう促され、アマリアは姿勢を正して国王を見上げた。あまり緊張はしていなかった。30分前に今日の精神力をすべて使い切ってしまったのかもしれない。ルイシュの祖父である元ブラジル総督と対面したのだ。眼光の鋭い、巨岩のような体格の老人に頭からつま先まで値踏みされ、威圧され、骨の髄まで縮み上がってしまった。


「娘の命を救ってくれたこと、改めて、ありがとう」


国王の声は肖像画のホールによく響いた。声は大きいものの、話し方はゆっくりとしていて穏やかだった。


「それから、王妃がしたことを謝らせてほしい。申し訳なかった」


国王はそう言いながら、ついてきた侍従と護衛の兵士に席を外すよう手ぶりで命じた。彼らは声の届かない場所へ下がり、中庭の木陰から遠巻きにこちらを見つめた。


「いえ、私はこのとおり無事ですのでお気になさらないでください」


あなたの妻は私をジュネーヴへ追放しようとしたり、私を道連れにして死のうとしたり、とんでもないことを色々とやってくれました、という恨み言は胸の中に留めた。アマリアの心の内を読んだのか、国王は一瞬だけ苦い微笑みを顔に浮かべ、それからアマリアをホールの奥へ誘った。


「君は私の母上の若い頃にとても似ているんだ。彼女の肖像画を見せるよう、マルガリーダに言われてる。こちらだ」


先祖や親戚たちに見守られながら、アマリアは父と並んでホールを歩く。


「あの角にある絵だ」


嬉しそうな声で言って、国王は壁の高い位置に飾られた小さな絵を指した。黒ずんだ銀の額縁の中に描かれていたのは金髪に緑の瞳の貴婦人で、目鼻立ちがアマリアにそっくりだった。フランシスカがこの絵を見て、アマリアを王の血縁者なのではないかと勘繰ったのは納得だ。


「もし母上が生きておいでなら70歳を超えている。彼女の若い頃の姿を知る者はほとんどいない。だが、ルイシュは君に初めて会った時からずっと心配していた。何かの拍子に、誰かに勘づかれるのではないかとね」


国王はアマリアを真っ直ぐに見下ろした。


「よくぞ無事に育ってくれた。そして、これまで苦労をかけてすまなかった」


感極まったように震える父親の声を聞きながら、アマリアは自分の胸の中をのぞいた。12歳の時、ルイシュを「この人が父親なのかもしれない」と思い、胸を高鳴らせた。8日前、アルメイダに「私は君の実の父親なんだ」と告げられ、疑いつつも歓喜した。だが今、アマリアの心は凪いだ大海原のように静かだった。


誰の血を引いていようと、自分は自分だ。これまで通り、自分のなすべきことを果たし、大切な人たちと限りある時間を過ごしていくだけだ。今はただ、そんな風に思えた。


「いえ、すべては私を守るためだったと理解しています」


彼が母と恋に落ちてしまったことは仕方がないことだし、その結果、計画外の子供ができてしまったことも若気の至りというやつだろうとアマリアは思う。彼がアマリアを育てられなかったことも、母を幸せにできなかったことも、母を想い続けて王妃を蔑ろにしたことも、何もかも仕方がないことだった。けれど、本当にどうにもならなかったのかな、という疑問は残る。後味が悪い。


アマリアの苦い思いを悟ったかのように、国王は眉を下げて目を伏せた。


「実は一度だけ、コンスタンサと孤児院に行ったことがある。まだ君が5歳の頃だ。庭で元気に遊んでいる君を遠くから見た。私と彼女の子がひとりの人間として大きく育ってくれていることが、とても嬉しかった。セルジオ先生に見つかって、私もコンスタンサもひどく叱られて、それからは一切、私は孤児院には近づかなかったがね」


それはおそらく、セルジオに叱られたことだけが原因ではない。アマリアが6歳の時に、王妃はエウゼビオの両親を殺害した。国王はそれで警戒を強めたのではないだろうか。


「この話、ルイシュには内緒だ。あいつ、怒るからな」


「はい」


いたずらっぽく笑った父にアマリアは笑顔をつくった。アマリアの姿を見たくて孤児院に来てしまった両親の気持ちも、アマリアの安全のために決して孤児院を訪れることのなかったルイシュの想いも、同じくらい嬉しかった。


「実はベアトリスという名は君につけようと思っていたんだ」


国王は再び前王妃の肖像画を見上げた。ベアトリスとは彼の母親である前王妃の名前だ。そして今朝、生まれたばかりの第二王女にその名が付けられた。


「だが、危険な橋を渡るべきではないとルイシュに反対されてね」


「あ、それで、私の名前、ルイシュさんのお母上から……?」


アマリアはコスタ子爵の城で見せてもらった家系図のことを思い出していた。ルイシュの実母はアマリアと同じ名前だった。


「実はルイシュだけじゃないんだ」


国王は何か思い出したように吹き出して笑った。


「その時、セルジオ先生とコンスタンサとルイシュと4人で集まっていたんだけどね、私以外の3人の母親の名がアマリアだった。隠さなければならない子につけるなら、ありふれた名前がいいだろうと、コンスタンサはその場で即決してしまったのさ」


懐かしそうに目を細め、国王は娘の顔を見つめた。


「君の名はみんなの母親の名だ。きっと、君は慈しみ深く強い母親になるよ」


アマリアは子供の頃、暗闇にひとりぼっちで立ち尽くしているような孤独を感じることが時々あった。自分の名前がそんな風に決められたと知ったら、あの頃の私はどれほど喜ぶだろう。アマリアは胸が詰まってしまい、「恐れ入ります」と礼を言うのが少し遅れた。


「……コンスタンサのレシピによく分からない書き込みがあるだろう?」


国王は自分の顎に手を当て、考え込むようにホールの天井を仰いだ。天井の銀の星々は数百年前に拝星教徒の手によって描かれたものだ。


「あ、はい。あります、たくさん書いてあります」


突然の話題転換にアマリアの返事はまた遅れた。


「あの色のインクはルイシュの目には見えないはずだ。コンスタンサは君に読ませたくて書いたんだろうけど、どういう意図があってのことか、ずっと考えていたんだ」


中庭からそよ風が入ってきて、後頭部で束ねられた国王の黒髪がなびき、濃厚な花の香りが父と娘の鼻孔をくすぐる。


「コンスタンサはいつか君と友達みたいに仲良くなりたいと願っていた。もしかしたら、自分の死後、君とルイシュが友達みたいに仲良くなってほしいと願ってあいつの好みを書き遺したのかもしれない。君たちが結ばれれば、彼女も喜ぶだろうね」


確証のない仮説を口にし、国王は満足げにアマリアを見下ろすと、中庭へ顔を向けた。


「マルガリーダ、そこにいるのは分かってるよ。淑女は立ち聞きをしてはいけない」


厳しい口調で国王が言うと、中庭を囲む列柱の陰から王女がばつの悪そうな顔をのぞかせた。腕に長毛の白猫を抱き、3人の侍女を連れている。


「立ち聞きじゃないわ。アルトゥールを探していて、たまたま通りかかったのよ。アマリア、来てちょうだい、見せたいものがあるの。父上は母上のご機嫌をうかがって、宴会にお戻りくださいな」


王女は父親に反発しながら軽やかな足取りでホールに入ってくると、アマリアの腕をつかんだ。国王は肩をすくめ、ふたりの娘を交互に見た。


「アマリア、またゆっくり話そう。そうだ、結婚式が済んだら釣りに行こうか。ルイシュも一緒に」


「は、はい、こうえいです……」


釣りなんてやったことはない。ただの社交辞令ならいいのにと思いつつ、アマリアはしどろもどろに返事をした。そして大事なことを思い出した。


「あ、あの、王様にひとつお願いがあります」


おずおずと申し出たアマリアに国王は眉を上げて驚き、警戒するようにアマリアの瞳をのぞきこんだ。きっと、こんな風に家臣から何かを求められることが多いのだろう。無欲だと思っていた娘がおねだりを始めてがっかりしているようにも見えた。


「……何かな?」


「私、今回、コインブラ大学のエンリケ・クラヴェイロ・ロペス博士にとてもお世話になったんです。少しでいいので、彼にサルースの杯の調査をさせてあげられないでしょうか?」


悪事から足を洗い、ポルトゥカーレでまっとうに暮らしていたエンリケをアマリアは巻き込んでしまった。そしてその見返りとして、サルースの杯を見せると彼に約束したのだ。一件落着した今、エンリケがアマリアに「約束を果たせ」と迫ることはないと思うが、できることなら願いを叶えてあげたい。


「それが君のお願いなの?」


アマリアが所望したものが意外なものだったのか、国王はおかしそうに声を立てて笑った。王女は「あんな目に遭わされたのだから、城のひとつくらい、ねだればいいのに」と唇をとがらせた。おかしなことを頼んでしまっただろうかとアマリアは恥じらったものの、それ以外に必要なものは思いつかなかった。


「エンリケさんには本当に何度も助けてもらって、私が今ここに立っていられるのは彼のおかげなんです」


「そうね、それは私も同じだわ。父上、何とかしてください」


娘たちに請われ、国王は笑みを深めた。


「彼の功績はルイシュから詳しく聞いてるよ。王妃の企てを阻止できたのは彼のおかげだ、その働きに報いてほしい、とね。勲章の授与を考えていたんだが、杯の調査の方が喜ぶだろうか?」


「間違いありません」


「では、そうしよう。今夜、宰相と大司教に話をつけておく」


国王は毎夜、ヒュギエイアの杯を使って香薬の種を生成している。ヒュギエイアの杯とサルースの杯は厳重に保管されていて、国王と宰相と大司教の持つ鍵がそろわなければ触れることができない。


「君やルイシュが種の生成を手伝ってくれること、頼もしく思ってるよ」


「頑張ります。失礼いたします」


アマリアがお辞儀をするや否や、王女はアマリアの手をとってホールから連れ出した。中庭に面した回廊を歩き始めた時、背後から呼び止められた。


「アマリア、待ってくれ!」


初めて、父に名を呼ばれた気がした。アマリアは足を止めて彼を振り返った。国王は花の香りが漂う回廊に出てくると、アマリアに自分の右手を差し出した。太い両眉が悲しげに下がっていた。


「今、気がついた。手を、手を、見せてくれないか? 君の手を」


訳が分からず、アマリアは言われた通りにした。高貴な人にお見せするのははばかられる、荒れた手だ。女教皇は「いい手をしている。職人の手だ」と褒めてくれたが、乾燥した薬草を扱っているせいで小さな裂傷がたくさんあるだけだ。


「……コンスタンサの手に似てる」


国王はアマリアの手を食い入るようにじっと見つめ、それを両手で包み込みながら回廊に片膝をついた。君主に跪かれてしまったアマリアは慌てて自分の両膝を折った。


「また会えるとは思っていなかった」


アマリアの手を自分の眉間に押しつけ、国王はきつく両目を閉じた。しばらくの間、アマリアは身じろぎも呼吸もできず、自分の手を国王に貸していた。やがて彼は我に返ったように「すまない」と詫び、その場から足早に立ち去った。


父親の後ろ姿を見送ると、王女は「男の未練って憐れねえ」と言いながら、アマリアの手を引いて王宮の図書室へ連れて行った。彼女がこっそりと目頭を押さえていたのは見なかったことにした。


「昨夜、ルイシュとロペス博士と、何か手掛かりがないか調べてたのよ。明け方までかかったわ」


天井まで届く本棚がいくつも並ぶ薄暗い部屋では、大きなテーブルを挟んでルイシュとエンリケが何か言い争っていた。テーブルは複数の本や製本されていない資料で覆いつくされている。彼らは王女が現れると喧嘩をやめて椅子から立ち上がった。


「王女様、聞いてくださいよ。この無職のコスタさんが、僕のことを……」


「何言ってる。おまえが先に……」


「ふたりとも、お黙りなさい」


王女は男たちを叱りつけつつ白猫を床に放し、アマリアにテーブルの上の本を見せた。それは陸軍省による香薬師の従軍記録で、広げられたページにはアルメイダの名前が記されていた。王妃が彼女を身ごもったであろう時期に、彼は拝星教徒との戦争のためアルガルヴェへ赴いていた。


「よかったあ……! 王女様、よかったですね、やっぱり、アルメイダ会長のあれ、大嘘だったんですね……!」


アマリアは心から喜び、瞳を潤ませている王女に微笑んだ。壁際に控えている3人の侍女も嬉しそうだった。王女は陸軍省の記録を脇へどけ、今度は簡素な装丁の分厚い本をアマリアに差し出した。


「これも見て。国土保安開発省がアルメイダの自宅から押収したものよ」


王女がしおりの挟まったページを開くと、びっしりと細かな字が並び、「ここ数日の夫の様子が非常におかしい」という妻の苦悩がつづられていた。記された年月日は19年前。王女が3歳の頃のことだ。


「これ、もしかして、アルメイダ会長の奥様の日記ですか?」


アルメイダ夫人にはアマリアも何度か挨拶をしたことがある。穏やかで温厚で繊細そうな女性だった。その美しく几帳面な文字は彼女のイメージそのものだった。


「そのとおり。もう疑うのはやめたわ。私は父上の子で、あなたの妹よ」


弾むような声で嬉しそうに言って、王女は胸を張ってふんぞり返った。迷いや疑念を吹っ切った彼女の顔を見て、アマリアの心もすっきりと晴れ渡った。しばし微笑みを交わした後、王女はにわかに眉間にしわを寄せ、両目をぎらりと光らせた。


「それより驚くべきはこれよ、アマリア。見なさい」


王女が分厚い日記帳のページをめくっていくと、途中から明らかに日記ではない文章が現れた。アマリアはいくつかの文章を拾い読みしてみた。書き連ねられていたのは3人の若者の物語だった。登場人物のひとりは某国の王子。もうひとりは才色兼備の少女。最後のひとりは子爵家の令息。


「これ、もしかして“トライアングロ”ですか……?」


あのお芝居の作者はアルメイダ夫人だったのだ。孤児院長のセルジオが隠居した後、母やルイシュはアルメイダに師事していて、アルメイダ夫人にも世話になっていたという。それに、アルメイダは王宮香薬師として王宮に出入りし、国王と接点があった。夫人が彼らをモデルに物語を書くことは不可能ではない。


「お芝居より、こっちの方が断然おもしろいわ。お芝居にはないエピソードもあったし、王子が許嫁と結婚した後のことも描かれてるみたいなの」


興奮した様子で言って、王女はページをどんどんめくる。アマリアは悲鳴を上げた。


「ああっ! 待ってください、私、最初から読みたいです。貸してください」


「ダメよ。私が先」


王女が分厚い日記帳を胸に抱きかかえた時、図書室のドアをノックする音が聞こえた。入ってきたのは慌てふためいたジョアンとファビオで、王女の婚約者がまもなく王宮に到着すると報せた。急な話に王女は狼狽え、ルイシュは殺気立った表情で懐中時計を取り出した。


「こんな朝早くにか? そもそも、今夜おいでになる予定だっただろ?」


「それが、ベアトリス様ご誕生の噂を聞いてお祝いに駆けつけてくださったようでして……」


「あ、あちらがそうです!」


爽やかな双子が図書室の窓の外を視線で示した。その場にいた全員が窓辺に寄って王宮の前庭を見下ろす。こちらへ向かって歩いてくるのは素晴らしく脚の長い貴公子だった。遠目から見ても美しい顔立ちをしていて、全身から気品が匂い立っているのが分かる。


「わあ、素敵な方ですね!」


「うんうん、いい男じゃん。12歳には見えないね」


アマリアとエンリケの漏らした感想にルイシュは苛立たしげに舌打ちした。


「もうすぐ13歳だ。あんな、ちゃらちゃらしたクソガキを殿下の婿にしなければならないなんて受け入れがたいな。肖像画で見た時はもう少し地味な印象だったが……」


肝心の王女は窓に張りついたきり押し黙っている。アマリアたちは彼女の顔をのぞき込んだ。頬が真っ赤に染まり、うっとりと婚約者に見入っていた。


「急いで支度するわよ! 新しいドレスと、白粉おしろいを出して!」


王女はすっかり浮ついた様子で図書室を出て行き、爽やかな双子と侍女たちがそれに従う。お望みの大恋愛が始まるといいなと思いつつ、アマリアもドアへ足を向けた。帰って店を開けなくては。


アマリアはクラーラを王宮医師に託し、ルイシュとエンリケとともに馬車に乗って王宮を出た。遺跡へ向かうエンリケと途中で別れ、コエントランの操る馬車に揺られ、アマリアは微笑ましい気持ちで車窓を眺めた。じわりじわりと気温が上がりつつある朝の町は第二王女誕生のニュースに賑わっていた。


「ベアトリス様、とってもかわいかったですね。昨夜は色々ありましたけど、ベアトリス様のお顔を思い出すと疲れが吹っ飛びます」


小さな妹のことを思い出しながらアマリアは隣に座るルイシュに言った。どうしてか、ルイシュは思いつめたような表情をしていた。


「おまえ、子供を産みたいと思うか?」


アマリアは香薬の種の生成能力を子孫に遺さなければならない。子供を産むために結婚するようなものだ。産みたいとか産みたくないとか、考えたことはなかった。自分が王の娘だと知る前は、他の孤児たちと同様に独身のまま一生を終えるだろうと思っていた。


ルイシュは暗い声で続けた。


「子供を産むのは命がけだ。おまえが産みたくないと言うなら、俺は反対しない」


本末転倒なことを言い出したルイシュに、アマリアは何と答えていいか分からなかった。とりあえずやってみることを良しとしている彼らしくもない。


「もしかして、王妃様のことや、マガリャンイス伯爵夫人のおっしゃっていたことを気にされてるんですか?」


王妃は度重なる流産や死産で我が子を失い、深く傷ついていた。そしてフランシスカは「おまえは王室にとことん利用される」「種牡馬しゅぼばをあてがわれ、家畜のように何度も出産を強要される」「私の姉がまさにそういう人生を送っているが、私には地獄としか思えない」と言ってアマリアを脅した。それに、世の中には難産で命を落とす母親もいる。


ルイシュは頷いた。


「王妃殿下のお産を見ながら、あれがもしおまえだったらと考えて怖くなった。俺はおまえを失いたくない。王妃殿下のように傷つくのも見たくない」


アマリアの手をルイシュは両手でそっと握った。


「俺のように、王家の血を引いていなくても香薬の種の生成能力を持つ者は探せばいるはずだ。ふたりの王女殿下だっていずれお子に恵まれるだろう。何が何でもおまえが子供を産まなければならないというわけじゃない。おまえが望まないなら強要しない。王室に対しては適当にごまかしておけばいい」


ルイシュがアマリアを案じて申し出てくれたことを嬉しく思いながら、アマリアは彼の真剣な顔を見上げた。誰が何短と言おうと、世界で一番素敵な人だ。この人の子供は、いったい、どれほどかわいいだろう。


「確かにお産は怖いですけど。他の誰でもない、大好きなルイシュさんの子供なら、私、10人でも20人でも産みたいです」


そう言ってから、アマリアはうつむいた。はしたないことを言ってしまったかもしれない。身体が火照って、ルイシュの顔が見られなかった。ルイシュはアマリアの手をぱっと放すと、そわそわと落ち着かない様子でシートに座り直し、キャビンの窓を全開にした。


「……20人は無理だ。10人にしておこう」


馬車がアマリアの香薬屋に着いたのは8時を回った頃だった。店の前には色とりどりの花束の山ができていて、隣の印刷屋のドアに今朝の“ソル・ド・ポルト”が貼り付けられていた。一面の大見出しは「祝、第二王女ご生誕!」と「全部見せます、コスタ大臣の失脚と婚約のすべて」だった。


アマリアは馬車を降り、おそるおそる記事に目を通した。誰に取材したのか、今回の出来事の真実が1割、憶測と虚構が9割ほど記されていた。ルイシュは凶悪な目つきで「くだらん」と一蹴し、アマリアは「コスタ元大臣のお相手は下町で香薬屋を営む可愛らしい才媛」と書かれた部分だけ繰り返し3回読んだ。


花束には患者たちからのお祝いの手紙が添えられていた。アマリアがドアを開けると、ルイシュは大小さまざまな花束を両手に抱えて店の中へ運び込んだ。


「あ」


ルイシュが香薬屋のドアをくぐった時、アマリアは思わず声を上げてしまった。カウンターテーブルに花束を置き、ルイシュは怪訝そうにアマリアを振り返った。


「何だ?」


「あ、いえ、その、ドアの上にある石、いつも触るのに、今、触らなかったな、と思ったんですけど、すみません、両手がふさがってたからですよね」


アマリアは店の入口ドア上部の壁にはめられている黒い石を見上げた。コンスタンサから店を受け継いだ時からそこにある、つやつやとした滑らかな石だ。アマリアの身長では手が届かないが、ルイシュはいつもドアを出入りする度にそれに触れる。


「おまえ、よく見てるな」


「普通です。大切なものですか?」


長年の疑問の答えを知るチャンスだと思い、アマリアは尋ねた。ルイシュは恥ずかしそうに笑い、黒い石に手を伸ばす。


「ただの石ころだ。25年前にコンスタンサと海辺で拾った。簡単にはずれるから、時々、こうして押し込んでおかないと、おまえや患者の頭に落ちてきたら困るだろ」


石を壁からはずし、彼は透明度の高いそれを朝陽にかざした。


「俺は目が悪い。普通の人間とものの見え方が違う」


「はい、兄上から聞きました。薄い色や赤い色が見えにくいと」


「日常生活に支障はないが、12歳の頃はやたらとそれを気にしていた。で、悩める少年に、コンスタンサが言ったんだ。こうして、この石を一緒にのぞくと、同じ世界が見えると」


ルイシュはアマリアと肩を並べ、黒い石をアマリアの目の高さに掲げた。ふたりは頬を寄せ合い、ルイシュは左目で、アマリアは右目で石の向こうの景色を見つめる。第二王女誕生に浮足立った朝の町、山のようなお祝いの花束、母の遺した香薬屋。


「私たちが見ているもの、同じ世界なんでしょうか」


アマリアが問う。自分の頬に、ルイシュの温かい頬が触れている。胸がドキドキしていた。


「分からん。でも、そういうことにしておこう」


ルイシュの声には故人への友情が満ちていた。ふたりは視線を合わせ、花々が香る朝陽の中で微笑み合った。

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