47.星見の塔

アマリアとクラーラが星見の塔の5階にたどり着くと、木製のドアを隔てた室内から話し声が聞こえた。凛とした王女の声だ。


「母上、私の質問に答えてください。この先、自分が正統な王位継承者ではないかもしれないと思いながら生きるのは嫌なの」


ランタンを床に置いて分厚いドアに近づき、アマリアは鍵穴をのぞいた。8日前にアマリアが監禁されていた部屋には6つの人影がある。


アルメイダは遺書を書き終えたのか、ふたりの兵士によって窓辺へ連行されようとしている。王女は窓の前に立ち、それを阻んでいた。机の上には3本のロウソクの刺さった燭台とペンとインク壺、そして遺書らしき用紙が置いてある。


「マルガリーダ、何を大騒ぎしているの?」


しっとりとした柔らかな声で言ったのは粗末なベッドに腰を下ろした臨月の妊婦だった。王妃だ。華奢な身体つきや気弱そうな風貌には不思議な色気があり、妙に庇護欲をそそられるな、とアマリアは思った。彼女の傍らにはランタンを手にした兵士がひとり立っている。


計3人の兵士はいずれも王宮護衛隊の制服を着ているが、アマリアの店の常連ではない。年齢もエウゼビオや爽やかな双子よりかなり上だ。そういえばファビオが「王妃殿下のおそばに寄れるのは限られた兵士や侍女だけ」と言っていた。彼らは長年に渡って王妃の警護をしているのかもしれない。もしかしたら、王妃がこの国に嫁いできた23年前から。


「私がこの男と男女の仲だったことなど一度だってないわ。いったい、誰の嘘を真に受けているの? ひょっとしてコスタ元大臣?」


細く白い首を傾げ、王妃は悲しげな瞳で娘を見つめる。王女は目を吊り上げて母親を睨んだ。


「嘘をついているのは母上でしょう? 私はフランシスカ叔母様の口から聞いたの。アルメイダも認めているわ」


「まあ、フランシスカが、そんなことを……。あんなに良くしてあげたのに、あの子、本当は私を妬んでいたのかしら。ああ。たったひとりの妹に裏切られることが、こんなにもつらいことだなんて……」


王妃は眉根を寄せ、目に涙をためて口元を手で覆う。王女はうんざりした様子で大きなため息をつき、矛先をアルメイダへ向けた。


「母上の話は当てにできないわ。アルメイダ、あなたが答えて。私があなたの娘である可能性はあるの?」


詰め寄られたアルメイダは目を白黒させた後、上ずった声で答えた。


「あ、ありますとも! あくまで可能性ですが、私はあなたの父親かもしれません! ですから、どうかお助けを……」


自分が助かるための、苦し紛れの嘘だ。鍵穴から見ているアマリアにはすぐにそうと分かったが、王女は衝撃を受けたように絶句した。彼女がふらりとよろけると、兵士のひとりがそれを抱きとめ、アルメイダから遠ざける。別の兵士がアルメイダを強引に窓辺へ引きずっていく。


「王女殿下、お助けください! 父親かもしれない私を見殺しにするのですか!」


「大きな声を出すな!」


見苦しくわめくアルメイダの顔を兵士のひとりが平手で叩いた。


「おやめ!」


王妃は低い声で兵士を叱り、ベッドから立ち上がって机の上の燭台をつかみ取った。貴婦人は一瞬のためらいもなく、燭台のロウソクの火を兵士の口の中に突っこんだ。


「跡が残ると他殺を疑われるでしょう?」


「も、申し訳……」


もごもごと詫びる兵士の口からロウソクを抜き取り、王妃は火の消えた燭台を床に投げ捨てる。


「私の足を引っ張ることは許しませんよ」


感情のない虚ろな王妃の瞳は夜の海のように暗く、アマリアは思わず身震いしそうになった。たったあれだけのことで数少ない自分の手勢を傷つけるなんて、常軌を逸している。冷酷とか非道とか、そういう言葉では説明がつかない。アマリアはアルメイダが「本当に怖い人間とは、話が通じない上に権力を持っている」と言っていたことを思い出し、エウゼビオが王妃をひどく恐れていた理由わけを理解した。


3人の兵士はアルメイダを左右と後方から囲んだ。老人を窓から突き落とすべく、6本の腕が彼の身体を持ち上げる。アルメイダの足が宙でばたつく。


「王女殿下、助けてください!」


アルメイダは両手で窓枠をつかんで必死に抵抗した。アマリアはクラーラを振り返り、ドアを指差す。クラーラは瞳を輝かせて頷き、大きく右脚を振りかぶった。


こんばんは!ボヌン・ヴェスペーラム


クラーラはラテン語で叫び、ドアを蹴破った。蝶番ちょうつがいごと吹っ飛んだ分厚いドアは王妃に直撃し、細い悲鳴が上がる。クラーラは「赤ちゃんが!インファンス」と慌てたが、次の瞬間には襲いかかる兵士の剣を避け、彼の顔面に拳を叩きこんでいた。


3人の兵士は教皇庁の斥候せっこうにあっというまに半殺しにされてしまった。アマリアは王族の警護について不安を覚えたものの、兵士たちに同情はしなかった。エウゼビオの両親を手にかけ、コエントランの指の骨を折ったかもしれない連中だ。


気絶している兵士をまたぎ、アマリアは王女に近づいた。クラーラは重いドアの下敷きになった王妃を助け出していて、アルメイダは腰が抜けたように窓の下に座り込んでいた。


「アマリア、私は……」


窓際の壁によりかかっていた王女はアマリアに気がつき、涙をたたえた目をこちらへ向けた。聡明で可憐な姫君が、見たことがないほど動揺している。アマリアの胸は痛んだ。


「全部、見てました。大丈夫です、あんなの真っ赤な大嘘です。惑わされないでください」


アマリアは異母姉妹を抱きしめ、わずかに震えている背中をそっとさすった。王妃はぐったりとしていたが無事だった。クラーラは彼女の大きなお腹を撫でながら「ごめんねパエニーテ……」と言っていた。


アマリアは室内を見回し、気がついた。アルメイダがいない。椅子の下にあった彼の靴もなくなっている。王女の身体を離して部屋を出ると、螺旋階段を下りようとしているアルメイダの姿があった。


「見つけたぞ、ジジイ!」


叫びながら螺旋階段を駆け上がってきたのはルイシュだった。アルメイダはぎょっとして手に持っていた自分の靴をルイシュに投げつける。元大臣は避けることなく真正面から攻撃を食らい、何事もなかったかのように老人につかみかかって、その身体を床へ押し倒した。


「ルイシュさん!」


アマリアは床に置いてあったランタンを持って彼らへ近づく。ルイシュの目のことはよく分からないが、明るい方がいいに違いないと思ったのだ。


「アマリア、無事か! 王女殿下は!」


「ご無事です! あちらにいらっしゃいます!」


安堵したルイシュの顔にアルメイダの拳がまともに入る。ルイシュは痛がる素振りもなく、わずかに眉をひそめただけだった。元ブラジル総督である彼の祖父が「孫の中で一番体力があって神経が太そう」という理由で彼を新大陸へ連れて行った理由がアマリアは分かった気がした。


「このクソジジイ! てめえはどうして、いつもいつも、そう往生際が悪いんだ!」


「君こそ、どうして、いつもいつも私の邪魔ばかり……!」


ルイシュはアルメイダの胸倉を揺さぶり、アルメイダは右手でルイシュの顔をつかみ、左手でルイシュの首を絞めようとしている。元師弟の20年ぶりの喧嘩を見届けるべきか、婚約者に加勢すべきか少しだけ迷ってから、アマリアはさっき雑木林で拾った木の枝を握りしめ、アルメイダの頭頂部を思い切り殴った。ちょっと気持ちよかった。


アルメイダが白目をむくと、ルイシュは老人の身体をうつ伏せにひっくり返し、両手をひねり上げた。ちょうどやってきたファビオ(?)が同僚と協力してアルメイダを縄で縛り、ルイシュはようやく息をついた。


「ルイシュさん、大丈夫ですか!」


アマリアは立ち上がる彼に手を貸し、世界で一番素敵な顔をのぞき込む。ルイシュは唇の血を手の甲でぬぐい、乱れた髪や服装を整えながら平然と答えた。


「昔、熱帯雨林で大蛇と戦ったことがある。これくらい、どうってことはない」


その話、いつか詳しく聞きたい。アマリアの好奇心が大いに刺激された時、銃声が聞こえた。王女やクラーラのいる部屋からだ。


アマリアがルイシュとともに駆けつけると、部屋の様子は一変していた。クラーラが右脚から血を流して部屋の中央にうずくまっていて、窓辺では王妃が王女を羽交い絞めにしている。


「クラーラ!」


友人へ駆け寄ろうとするアマリアを止めたのはルイシュの腕だった。彼はアマリアを自分の背中に隠し、憐憫の眼差しで王妃を見つめた。


「王妃殿下、王女殿下をお放しください。すべて終わりました。あなたにできることはもうありません」


王女の頭には母親の手によって短銃の銃口が突きつけられていた。アマリアはまさか撃つわけがないと思ったが、追い詰められた狂人は何をするか分からない。王女もすっかり青ざめ、茫然と固まっている。


「私は女教皇の娘で、枢機卿の姉で、この国の王妃。できないことはないわ」


「いいえ、王妃殿下。ご出産後、あなたには産後の療養という名目で王宮を出ていただきます。あなたが生きてポルトへ戻ってくることはありません。そのことを、枢機卿も国王陛下も王女殿下も、お認めになっています」


ルイシュは慎重に言葉を選ぶように、けれどはっきりと言った。王妃は悲劇の主人公のような目でルイシュを見た。


「何てことを……。コスタ元大臣、あなたがレネや国王陛下やマルガリーダをたぶらかしたのですね……? 国の簒奪さんだつの企てに私が邪魔だから、そんな非道なことをしたのでしょう? 忠臣のような顔をして、何て悪辣あくらつな……」


ルイシュと王妃が言葉の応酬をしている間に、クラーラは両腕だけでアマリアの足元へ這い寄ってきていた。アマリアはクラーラを仰向けにし、脇の下へ両腕を通して渾身の力で彼女を室外へ引きずり出した。


ファビオ(?)にランタンを持ってもらい、アマリアはクラーラの血だらけのスカートをめくって傷口を診た。クラーラは懐からレネの肖像画を取り出し、歯を食いしばって痛みに耐えている。


「クラーラ、心配しないで。太い血管が傷ついてないから、止血して弾を抜いて、しっかり治療すれば治るよ」


アマリアの言葉をファビオ(?)がラテン語に訳すと、教皇庁の斥候はわずかにホッとしたようだった。アマリアはルイシュが投げてよこしたクラバットでクラーラの太腿を縛り、止血と痛み止めの香薬を手早く焚いた。


クラーラを宮殿の王宮医師の元へ運ぶようファビオ(?)に頼み、アマリアはドアの壊された入口から室内をのぞいた。ほんの数分の間に景色がまた変わっていた。王妃に命じられたのだろう、ルイシュが床に片膝をつき、ベッドの下から何かを引き出したところだった。それは両腕で抱えるほどの大きさの木箱で、ルイシュは王妃に促されてふたを開けた。


室内の光源は机の上のランタンと、ルイシュが持ってきたランタンだけだ。木箱の中身はよく見えない。ルイシュは自分のランタンを木箱に近づけ、すぐにそれを遠ざけて叫んだ。


「アマリア、今すぐ塔を出ろ!」


一瞬のことだったが、アマリアにも見えた。木箱に収められていたのはマスケット銃の弾薬だった。弾丸と点火薬が蝋引ろうびきの防水紙にひとつひとつ包まれたものが、木箱にぎっしりと詰まっていた。それらに火がつけばどうなるか、ルイシュの殺気立った声を聞かずともアマリアにも分かった。


「塔を出ていくのはあなたよ、コスタ元大臣。マルガリーダを連れてお行きなさい」


王妃はそう言いながら王女の背中を突き飛ばし、短銃の銃口をルイシュへ真っ直ぐに向けながら机の上のランタンを手に取った。ルイシュは転倒しそうになった王女を抱きとめ、悲痛な面持ちで王妃に懇願した。


「王妃殿下、どうしてもお供が必要でしたら、アマリアではなく私にしてください」


ルイシュの言葉を聞いて、アマリアは王妃の目的をようやく理解した。身重で孤立無援の王妃に勝ち目はない。どこかへ逃げおおせることもできない。彼女は憎きコンスタンサの娘を道連れにして死のうとしているのだ。


「自殺なんかしたら、お腹の赤ちゃんも死んじゃうじゃないですか」


アマリアは恐怖に震えながら声を絞り出した。王妃は薄ら笑いを顔に浮かべ、自分の足元をランタンで照らした。石の床が濡れていて、どことなく生臭い匂いがした。


「陣痛が来ていないのに破水したの。この子も、きっとダメだわ。衆人環視の中、死ぬような思いをして産んでも、どうせまた死産よ」


「陣痛より破水が先ということは普通にあります。大丈夫ですよ。宮殿に戻って、王宮医師に診てもらいましょう」


アマリアは産婆や患者に呼ばれてお産の手伝いに行くことが時々ある。陣痛を和らげる母の香薬が人気なのだ。陣痛が起きて子宮口が開ききってから破水するのが一般的だが、そうでない場合でも胎児は問題なく生まれてくるものだ。


「いいえ、無駄よ。前に産んだ子がそうだった。無事に生まれても、数ヶ月で弱って死んでしまうの。私の子はみんな、そう」


王妃は頑なにアマリアの提案を聞き入れなかった。彼女はこれまでに5人の子供を産んだ。そのうちのふたりは死産、ふたりは数ヶ月で亡くなったという。


「でも、母上、私はこのとおり健康に育ちました。その子だって、きっと大丈夫です」


「そうですよ、今度こそ元気に育ちます。宮殿へ戻りましょう」


王女の懸命な励ましにルイシュも同調したが、王妃は冷笑した。


「今度こそ、次こそ、きっと、おそらく。分かっているのよ、誰も彼もが無責任な言葉を並べ、心の中では私に期待していない。もう、たくさんだわ。さあ、マルガリーダ、出てお行き。従わなければこの男を撃つわ。それとも、あなたも母と一緒に行きたいのかしら……?」


王妃が眩いランタンを頭上に掲げ、弾薬の詰まった木箱へ投げ込もうとした時だ。ほんの一瞬、アマリアの目によく知った人物の顔が映った。王妃の背後、暗い窓の外だ。見間違いかと思ったが、それはルイシュにも見えていたようで、アマリアは彼と目を合わせて「今、いたよな?」「いました」と無言の会話を交わした。


「王妃様、待ってください! お供は私ひとりにしてください!」


アマリアは頭の中を空っぽにして室内へ飛び込み、真っ直ぐに王女の元へ向かった。憔悴しきった姫君の冷たくなった手を固く握る。


「王女様、短い間でしたがお世話になりました。私、親も兄弟も親戚もいなくて、自分がどこから来た何者なのか分からなくて、物心ついてからずっと、とても淋しかったんです。だから、王女様にお会いできてよかったです。血を分けた妹がいるって素敵なことですね」


時間を稼ぐために長々と語ったところ、王女が大粒の涙を流して泣き始めたのでアマリアは慌てた。異母姉妹の耳元で「大丈夫、これはお芝居です」とささやいたものの、それが聞こえていないのか、王女は「お別れなんて嫌よ!」と言ってアマリアの身体に両腕でしがみついてしまった。


「ルイシュさん、王女様をお連れしてください」


「お、おまえを置いて行けるか!」


ルイシュの下手な演技にヒヤヒヤしつつ、アマリアが王妃の様子をちらりと見やった時だ。王妃がうめき声をもらし、苦悶の表情を顔に浮かべた。


「母上……? 陣痛が始まったのでは……?」


王女が指で涙をふきながら問う。痛みに耐える王妃の手は下がり、ルイシュに向けていた短銃の銃口が下がる。その瞬間、窓から小柄な人影が飛び込んで来て王妃の手から短銃とランタンを叩き落とした。


ルイシュは大急ぎで床に落ちた短銃を拾い、アマリアは王女を押し退けて弾薬の詰まった木箱に蓋をした。ランタンはクラーラが破壊した木製のドアの上で割れ、漏れ出た鯨油によって炎が燃え広がるかと思われたが、それまで室外で固唾を飲んでいた王宮護衛隊の兵士たちが一斉にやってきて、あっという間に消火してしまった。王妃に気がつかれることなく秘密裏に水を桶に何杯も用意していたようだった。


「エンリケさん、お腹、大丈夫ですか!」


アマリアは窓から飛び込んできた助っ人に駆け寄った。エンリケは不服そうな顔をした。


「何で先にそれ。まずはお礼を言いなよね」


元盗賊に睨まれ、アマリアは数日ぶりに会った友人に微笑んだ。


「助けてくれてありがとうございました。お腹を壊したってルイシュさんから聞いて心配してたんですよ」


「町の香薬屋に行ったら治った。もうカキは一生、食べない」


医師や薬が嫌いだと言っていたエンリケが自ら香薬屋に行った。アマリアは彼の変化が嬉しくて、つい、にやついてしまった。


「でも、どうして王宮にいらしたんですか?」


エンリケは今朝から遺跡の発掘現場に戻ったとルイシュは言っていた。こんな時間に王宮に用事があるとも思えない。


「さっき、君の店に行ったんだよ。そしたら君の部屋からクラーラが出てきてさ、何か怪しいから後をつけてたんだ。あの子、隣の印刷屋の前をうろうろしてた“ソル・ド・ポルト”の記者の首根っこつかまえて王宮に案内させてたよ」


エンリケとクラーラが王宮にやってきた道筋が分かり、アマリアはいつかの記事でルイシュをこきおろした新聞記者を赦そうと思った。


アマリアが王妃へ目を向けると、彼女は腹部を押さえて床にしゃがみこみ、肩で息をしていた。ルイシュは拾った短銃を自分の懐にしまいつつ、王妃に「ちょっと失礼します」と声をかけて彼女が武器を隠し持っていないかドレスの上から改めた。クラーラの二の舞は御免というわけだ。


王妃が丸腰だと分かると、ルイシュは彼女を抱きかかえてベッドに運んだ。粗末なベッドに横たえられた王妃は涙を流し、ルイシュに請うた。


「私を殺して」


「できません」


ルイシュがにべもなく告げると、王妃は肩を震わせて両手で顔を覆った。


「もう産みたくない……死んだ我が子の姿を、いったい、あと何度見ればいいの……?」


悲哀に満ちた王妃の言葉に同情しそうになり、アマリアはすぐに思い直した。この人はすべての元凶だ。エウゼビオの両親を殺し、フランシスカとアルメイダに悪事の片棒を担がせ、香薬の種の輸出を阻んで女教皇を苦しめ、コエントランの指の骨を折った諸悪の根源。悲しいほどに不幸な、悪だ。


王女は険しい表情でベッドへ歩み寄り、嫌悪と敬愛の入り混じった瞳で母親を見下ろし、きっぱりと言った。


「母上、お腹の子は無事に生まれ、元気に育ち、立派なアルガルヴェ公爵となるでしょう。そして、あなたの王妃としての務めはこれが最後になります。最後の務めをお果たしください」


王女は身を翻して退室し、ルイシュと何人かの兵士がそれに続いた。弾薬の詰まった木箱が慎重に運び出され、王妃の3人の護衛が連行された。残されたのはアマリアとエンリケと数人の兵士だけだった。陣痛の波が一時的に引いているのか、王妃は静かに泣き続けていた。


がらんとした室内を見て、アマリアは思った。コンポステーラの離宮で、アマリアは怒りに駆られてアルメイダを撃ち殺そうとした。あわやというところでオリオンが止めに入ってくれたが、彼女がいなければアマリアは王妃と同じ人殺しになっていた。


「王妃様、あなたに間違いをいさめてくれる人がいたら、きっとこんなことにはならなかったでしょうね」


アマリアはベッドの傍の床に膝をつき、首に下げたペンダントの蓋を開けて聖ヒュギエイアの像を取り出した。女教皇からもらった小さな青銅の像を王妃の手に握らせると、彼女はそれを顔の前へと持ち上げ、じっと見つめた。


「私、3日前に女教皇様とお話をしたんですけど。人生とは長き巡礼路を行くがごとしで、私たちは神々からおもりのついた足かせと杖を与えられているそうです」


アマリアはポケットから商売道具一式を取り出し、薬草を調合しながら語った。背後でエンリケが「お人好し」とアマリアをなじったが、気にせず続けた。


「どんなに足かせが重くても、私たちはそれを引きずって、杖を頼りに最後まで歩かなければならないと、女教皇様はそうおっしゃっていました」


「……私には足かせしか与えられなかったわ」


王妃は顔を壁の方へ向け、かすれ声で言った。


「王妃様がたくさんの足かせを与えられたことは間違いないと思います。でも、きっと杖も持っていたはずです。たぶん、途中で手放してしまったんですよ」


アマリアは香炉に薬草を詰め、木炭片に点火した。


「アルメイダ会長と密通して王様を裏切り。フランシスカ様の大切な旦那様を殺してフランシスカ様の友情を失い。私の母を目の敵にしたことで王女様やレネ様に疎まれ。香薬の種の輸出を阻んで女教皇様の信頼を失い。アルメイダ会長を脅して彼の愛を失ったんです」


「これは私自身のこれまでの行いの結果だと、私がすべて悪いと、おまえはそう言うの?」


王妃は傷ついた少女のような瞳で問う。


「そうです」


真鍮製の振り香炉から白い煙が立ち上り、渋みのある、ややスパイシーな香りが広がる。アスクラピア遺跡の石板に彫られていたレシピのとおりに焚いた香薬だ。陣痛を和らげる香薬より、痛みも疲れも恐怖もなく命果てるまで戦い続ける狂戦士のための香薬が、今の王妃には必要な気がしたのだ。


「そんなはずないわ。私はこんなに不幸で不運なのに、どんなひどい目に遭っても耐えに耐え続けて生きてきたのに、何もかも私のせいだなんて、そんなことは絶対にありえない。撤回しなさい」


アマリアは返事の代わりに王妃の口に香薬の種を押し込んだ。彼女は香薬の煙を吸い込み、血走った目でアマリアを睨んだ。


「国王陛下は私に目もくれなかったし、他の誰かを愛しているとすぐに分かったわ。フランシスカは夫の不貞に悩んでいた。母は私をこんな国へ嫁がせた。アルメイダは私を裏切ろうとしていた。そもそも最初に私に言い寄ってきたのはアルメイダよ。私は何も悪くない。むしろ被害者よ。発言を撤回して」


己の正しさに固執する貴婦人に、アマリアは今度こそ同情してしまった。


「王妃様、ひとつ、いいことを教えて差し上げます。いつか間違いを諫めてくれるご友人ができるまで、どうか忘れないでいてください」


振り香炉の鎖を振りながら、アマリアは後見人の教えを彼女に伝授した。


「人間は、我こそは正義だと確信した瞬間に、判断を誤る生き物なんです」


自分の言葉が王妃に届く確信はまるで持てなかった。

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