46.王妃と囚人

唇を重ね合わせている数秒が永遠に続けばいいとアマリアが思った時、香薬屋のドアを叩く音がした。ルイシュは名残惜しそうにアマリアの身体を離し、鋭い視線をドアへ投げた。


「こんな時間に誰だ……?」


ルイシュは右手に短銃を持ち、窓辺に寄った。木の窓を薄く開けると、町は闇に包まれ、白い霧が漂っている。店の前の通りには王室の紋章が描かれた黒い馬車が止まっていた。


「王宮で何かあったんでしょうか?」


アマリアはまだくらくらしている頭で思考をめぐらせ、ルイシュに尋ねる。彼は首を傾げつつ「分からん」と言ってドアへ向かった。青いドアの向こうに立っていたのは身なりの整った老人だった。


「国王陛下のご命令により、アマリア様をお迎えに上がりました」


老人がそう言ってお辞儀をすると、ルイシュは短銃を懐へしまいながら顔をしかめた。


「お目通りのお約束は明日の夜のはずだ」


「それが、予定が変わりまして。明日の夜、王女殿下のご婚約者が王宮へおいでになるのです。陛下はアマリア様とのお約束を今夜に前倒ししたいとお望みです」


王女の婚約者は同盟国の貴公子だ。まだ12歳の少年で、結婚式は彼の遊学の終わる数年後だとアマリアも聞いたことがあった。


「殿下のご婚約者はマドリードで学問をお修めになり、そのついでに殿下のお顔をご覧になりにポルトへいらっしゃるようです」


使者の説明にルイシュは小さな声で「ついでか。舐められたもんだな」と毒づき、アマリアを振り返った。


「アマリア、行けるか? 途中でマガリャンイス伯爵家に寄って身支度しよう。こんな時間に訪ねたら驚かれるだろうが、まあ、あの伯爵なら大丈夫だろう」


エウゼビオの養父であり、フランシスカの現夫であるマガリャンイス伯爵は優しくて温厚な人だ。弱気で覇気がないとも言う。


「はい。クラーラを呼んできます」


これから父親である国王に会う。アマリアは覚悟を決めて頷き、クラーラを起こしに行こうとしたが、ルイシュは難色を示した。


「待て待て。さすがに王宮に教皇庁の斥候せっこうを連れては行けない。あいつは寝かせておこう」


クラーラはアマリアの護衛だ。王妃に執拗に恨まれているアマリアを守るよう、レネから命じられてポルトまでついてきてくれた。アマリアから離れたことをレネに叱責されたら気の毒だし、言葉の通じない異国の下町のアパルトメントに置き去りにするのは忍びない。アマリアはそう主張したが、ルイシュは譲らなかった。


「大丈夫だ、陛下にご挨拶したら、すぐに帰ってくる」


火の始末と戸締りを済ませると、アマリアはルイシュによって王室の馬車へ押し込まれた。マガリャンイス伯爵家には当主である伯爵も、その息子たちもいなかった。使用人はアマリアが衣装部屋の鍵をフランシスカにもらったことをなぜか知っていた。アマリアが理由を問うと、フランシスカから届いた手紙に書かれていたと使用人は明かした。


フランシスカの衣装部屋に入れてもらい、急いで身支度を整え、王宮へ到着したのは21時過ぎだった。降るような星々の下、堅牢な王宮のエントランスでアマリアたちを出迎えたのは王宮護衛隊の爽やかな双子だった。


「コスタ元大臣、アマリアちゃん、こんばんは」


中東風の馬蹄形アーチが連なるエントランスで馬車を降りたアマリアとルイシュに、ジョアンかファビオのどちらかがそう言って破顔した。そっくり瓜ふたつの兄弟はふたり同時に現れると、どちらがどちらか見分けがつかない。


「アマリアちゃん、今日は何だか大人っぽいね」


ジョアンかファビオのどちらかが目を細めてアマリアを褒めたので、アマリアは「そうでしょうか」と照れながらルイシュの背後に隠れた。フランシスカの黒いドレスをまとった姿は、我ながら落ち着いていて年齢相応に見えていると思う。


「うんうん、アマリアちゃん、すごく綺麗だよ。やっぱり婚約すると女性は変わるのかな。そう思いませんか、元大臣?」


「元大臣はやめろ。王宮伯と呼べ」


ルイシュの苦言に、爽やかな双子はそろって眉を下げて微笑む。


「では、コスタ王宮伯は私とこちらへ」


「アマリアちゃんは私とおいで。肖像画のホールで陛下がお待ちだよ」


爽やかな双子がアマリアとルイシュを別々に案内しようと二手に分かれる。アマリアは慌てた。


「私、ひとりで王様に会うんですか? ルイシュさんも一緒じゃダメですか?」


実の父親に会ってみたいとは思う。だが、血のつながりはあっても相手は赤の他人だし、何と言ってもこの国の君主だ。何を話せばいいか分からない。うっかり恨み言を口にしてしまったり、無礼を働いてしまう可能性も大いにある。ルイシュが付き添ってくれたら心強い。


「アマリアちゃん、心細いのは分かるけど、ふたりだけで話したいと陛下がお望みなんだよ」


「そうそう、コスタ王宮伯だって、親子の対面に水を差したくはないですよね」


爽やかな双子は言い聞かせるようにアマリアへ説明し、ルイシュはそれに同意した。


「もちろんだ。アマリア、ひとりで行ってこい。陛下はお優しい方だ。俺に言わせれば、王女殿下の方がよほど怖いぞ」


ルイシュがしみじみと顔をしかめた時だ。建物内からランタンを手にした十数人の衛兵が駆けてきた。どの顔も青ざめている。ただ事ではない。


「おい、何だ、どうした?」


ルイシュが問うと、兵士のひとりが足を止めることなく答えた。


「香薬師協会の会長が、地下牢から消えたんです! 我々は王宮の出入口を封鎖するよう命じられています!」


衛兵たちはアマリアたちの横を通り過ぎ、そのまま正門へ走っていった。王宮をぐるりと囲む城壁を見上げると、衛兵たちが騒然と行き交い、各所に大きな松明たいまつが次々と灯されてゆく。


ものものしい雰囲気に気圧されつつ、アマリアは周辺を見回した。どこかにアルメイダが潜んでいて、アマリアに銃口を向けているかもしれないと思ったのだ。その恐怖が伝わったのか、ルイシュがアマリアの肩をしっかりと抱いた。


「元大臣、アマリアちゃん、ひとまず安全な場所へ行きましょう」


いつも暢気で軟派な爽やかな双子も、さすがに険しい表情をしていた。


「こちらへどうぞ」


ジョアンかファビオのどちらかが先導して紅白の馬蹄形アーチをくぐり、アマリアとルイシュが続く。双子のもう片方は殿しんがりを務めた。4人はエントランスホールを抜けて足早に回廊を進み、宮殿の奥へ向かう。8日前にフランシスカが「王族のプライベートなエリア」と言っていた場所だ。


「王宮の地下牢って、そんなに簡単に脱獄できるんでしょうか。アルメイダ会長はあの通りご老人ですし、腕っぷしが強いなんて話も聞いたことないですし、いったい、どうやって……」


恐怖を紛らわせようとアマリアは思いついたことをそのまま口にしていた。すると、アマリアの前を歩く青年が肩越しに答えた。


「地下牢はね、この王宮を拝星教徒が使っていた時代からあるものなんだ。これまでに自力で脱獄した囚人はいないよ」


「誰かが手引きしてアルメイダ会長を逃がしたかもしれない、ってことですか」


アマリアの頭に浮かんだ容疑者はひとり。王妃だ。おそらく、全員が同じことを考えている。4人は辺りを警戒しながら黙々と歩き、双子の片割れが途中で別れた。彼は「念のため、私は国王陛下のところへ行きます」と言って走り去った。


「もし王妃様がアルメイダ会長を地下牢から連れ出したとしたら、目的は何でしょうか? 会長に対して愛情なり罪悪感なりを持っていて、それで逃がしてあげたんでしょうか?」


2階へ続く階段を上りながらアマリアが疑問を口にすると、今度はルイシュが応じた。


「王妃殿下がアルメイダを逃がすことはないだろう。おそらく、裁判で余計なことを話さないよう、口を封じるつもりで奴を地下牢から連れ出したんだ」


言葉を失っているアマリアの代わりに尋ねたのは双子の片割れだった。


「そういうことなら、牢獄の中で殺してしまえばよかったのでは? わざわざ逃がしたからには、やはり王妃様にも慈悲のお心が……」


「アルメイダを生きたまま連れ出したのは、遺書を書かせたいからだと思う。ジジイの直筆で、“すべて私がひとりでやりました”とな。そして遺書を書き終えたら、奴は殺される。たぶん、自殺に見せかけて」


ルイシュは胸糞悪そうに吐き捨てた。犬猿の仲とはいえ、一時期、ルイシュはアルメイダに師事していた。それに、ルイシュは少年の頃にアルメイダ夫人にかわいがってもらっていたとセルジオが言っていた。かつての師匠であり、恩人の夫であるアルメイダがそんな殺され方をするのは我慢ならないのだろう。


「じゃ、じゃあ、王宮の出入口を封鎖したって意味ないじゃないですか! 一刻も早く会長を探さないと」


人が殺されると聞いて黙ってはいられない。アルメイダに対しては殺されかけた恨みがあるが、アマリアも彼を射殺しかけた。


「待て待て、鉄砲玉。落ち着け」


来た道を戻りかけたアマリアの左腕をルイシュがつかんだ。


「おまえだって王妃殿下の不都合な真実を知っているんだ。うろちょろするな。おい、ヴェンセンスラウ、手伝え。今回ばかりはこいつに勝手な行動をさせるな」


「元大臣、私はファビオです。間違えるならせめてジョアンにしてください。誰です、ヴェンセンスラウって」


ファビオは嘆きつつ、アマリアの右腕をつかむ。アマリアはふたりの男に半ば引きずられるように2階へ上がり、王女の部屋に連れて行かれた。部屋の前には10人、部屋の中には7人の兵士が立っていて、王女はほとんど軟禁状態だった。


「ここなら安全だ。騒ぎが収まるまで大人しくしてろよ」


ルイシュは室内にアマリアとファビオを押し込むと、自分はそそくさとドアの外側に消えてしまった。理由はすぐに分かった。広い部屋の壁際に立つ王女の5人の侍女たちが凄まじい剣幕でルイシュを睨んでいたからだ。王女の怒りが伝播したのだろうか。


室内の中央には立派な執務机と応接セットがあり、王女の姿はその向こうにあった。彼女は窓辺に置かれた絹張りのカウチに座り、こちらに背中を向けて窓の外を見ている。アマリアは彼女へ歩み寄り、その背後で丁寧にお辞儀をした。


「王女様、こんばんは。こんな時間にお邪魔してすみません」


王女は微動だにしなかった。返事もない。眠っているのかと思ったが、その割には背筋がピンと伸びている。アマリアはファビオを顧みた。彼は訝しげな顔で王女に近づいた。


「殿下、どうなさいました?」


次期君主の顔を横からのぞき込み、ファビオは「うわっ」とのけ反った。王女だと思っていた人物は、背格好のよく似た別人だった。泣きそうな顔で震えている彼女にファビオや兵士たちは目をむいて詰め寄った。


「おい、殿下はどこへ行かれた!」


「わ、わかりません……寝室の隠し通路からお出かけになられました……つい5分前です……」


兵士たちが「王女殿下を見た者はいないか!」「殿下を捜しだしてお守りせよ!」と口々に叫びながら退室すると、身代わりの娘はわっと泣き出した。侍女たちが娘を宥めているのを横目に、アマリアは明かりのついていない王女の寝室をのぞいた。天蓋付きの巨大なベッドと、部屋の角には木製のクローゼットがあるだけだ。


「あのクローゼットの奥に緊急用の隠し通路があるんだ」


燭台を持ったファビオが寝室内を照らす。


「どこへ続いてるんですか?」


「隣の隠し部屋だよ。隠し部屋には梯子はしごがあって、天井のドアを開けると屋根裏に出る。王宮を知り尽くした殿下ならどこへでも行ける」


苦虫を噛みつぶしたような表情で言うと、ファビオは部屋に残っていた兵士に声をかけ、アルメイダの捜索の進捗を尋ねた。残念ながら「倉庫や営倉や屋根裏などの身を隠せそうな場所にはいなかった」ということだけが分かった。


「王女殿下は、王妃殿下を止めようとなさっているんだろうか? どうしておひとりで……」


ファビオは独り言のようにつぶやき、窓辺に寄ってカーテンの隙間から外を見た。アマリアは彼の問いに対する答えを考えてみた。


王女は王妃を止めようとしている。母親に殺人の罪を重ねさせないよう説得するつもりだ。だが、それだけなら、たったひとりで姿をくらますだろうか。王宮護衛隊の兵士を引き連れて行った方が確実だ。つまり、彼女には母親やアルメイダに単身で面会しなければならない理由があるのだ。それが何かは分からないが。


アマリアは失意のファビオに話しかけた。


「ファビオさん、私、心当たりというか、もしかしたらここなんじゃないかって場所があるんですけど」


アマリアがファビオに教えたのは王宮の敷地のはずれにある白い塔のことだ。350年前まで拝星教徒が天体観測に使用していて、24年前に両親が一夜を過ごし、8日前にアマリアがフランシスカに監禁された“星見の塔”だ。天然痘が大流行した時代には患者の隔離に使用されていたこともあるが、今はもう使われていないとエウゼビオが言っていた。


「ああ、あの塔か。近くに行ったことはないけど、確かに、囚人を秘密裏に連れ込んで遺書を書かせるには都合がいいかもしれないね。囚人が用済みになったら窓から突き落とせばいいだけだし」


さらりと残酷なことを述べ、ファビオは足早に出入口へ向かった。


「情報ありがとう。隊長に報告して、すぐに頭数をそろえて塔に行くよ」


そんな悠長なことで大丈夫なのだろうか、とアマリアは思った。もしも王女がアマリアと同じことを考えていて、星見の塔へ向かっているとしたら、彼女はまもなく塔に着いてしまう。アマリアの焦りに気がついたのか、ファビオは頼もしげに微笑んだ。


「もちろん大急ぎで行くから心配しないで。殿下のことは私たちに任せて、君はここから絶対に動かないでね」


そう言ってファビオがドアの向こうに消えると、アマリアは右往左往している侍女にランタンを借り、ひとりで星見の塔へ向かった。居ても立ってもいられなかったのだ。


宮殿を出て、星明りとランタンとうっすらとした記憶を頼りに、様々な樹木が立ち並ぶ迷路のような庭園を走る。息が切れ、もう走れないと思った時、前方に雑木林が見えた。黒い木々の中から白い塔が頭をのぞかせている。


「アマリア」


頭上から突然に声をかけられ、アマリアは心臓が止まりそうになった。プラタナスの木の枝にクラーラが立っていた。香薬屋の2階のアマリアの居室で寝ていたはずなのに。可愛らしい小柄な娘は枝から飛び降り、アマリアの目の前へ身軽に着地した。


「クラーラ、どうやって王宮に入って来たの?!」


アマリアは足を止め、肩で息をしながらポケットから手帖を引っ張り出した。ページをめくって「どのようにして」「あなた」「入る」「王宮」を指差す。教皇庁の斥候せっこうは得意げに微笑み「努力」という単語をトントンと指で叩いた。まったく理解不能だった。


「あのね、クラーラ、王妃様がアルメイダ会長を殺そうとしてて、で、王女様はそれを止めようとしてお部屋から脱走されて、私、今、王女様を探してるの」


アマリアは身ぶり手ぶりと手帖を駆使して説明した。クラーラは何度か頷いたが、正しく伝わっていない予感しかしない。アマリアが歯がゆい思いでさらに説明しようとした時、クラーラがアマリアの腕をぐいぐいと引いて歩き出した。


「いや、クラーラ、だからね、私、王女様を……」


王女プリンセプス


そう言ったクラーラの視線の先には本当に王女の姿があった。身代わりにされた侍女のものであろう上品で機能的なドレスをまとい、ナラの木の陰から遠くの何かを目で追っている。


「王女様、ご無事でよかった!」


アマリアは心から安堵し、王女に駆け寄った。王女は異母姉妹に鋭い視線を向けた。


「静かに。あれを見て」


王女が指を差したのは塔へ向かう複数の人影だった。いくつかのランタンの明かりがゆらゆらと揺れながら雑木林を進んでいく。距離があるので顔や服装は分からないが、シルエットから察するに、そのうちのひとりは大きなお腹を抱えた臨月の妊婦だった。


「もしかして王妃様ですか」


アマリアが小声で問うと、王女は「そうよ」と渋い顔で頷いた。王妃たちは塔の入口に吸い込まれていった。


「あれはアルメイダでしょうね」


王女が顎で指し示したのは白い円塔の5階の窓だ。オレンジ色の明かりが灯っていて、室内に黒い人影がふたつ見えた。ひとりは窓辺の机に向かって書き物をしていて、もうひとりはその背後に立っている。おそらく、脅迫されたアルメイダが遺書を書かされているのだ。


「王女様、もうすぐファビオさんたちが来ます。それまでここで待ちましょう」


「そんな時間はないわ。アルメイダがあのペンを置いたら、きっと母上は彼を殺してしまう。アマリア、あなたには危険だから来ないで。ここに隠れていなさい」


言い終える前に王女は走り出していた。無礼だと承知でアマリアは王女の腕を両手でつかんだ。


「ダメですよ! いくら王女様でも絶対に安全だという保証はないんですから!」


たとえば、アルメイダが王女を人質にして助命を請うなどということが起こらないとも限らない。アマリアの必死の進言を王女は歯牙にもかけなかった。


「離しなさい。これは私にとって千載一遇のチャンスなの。この機を逃せば私は永久に真実へたどり着けないかもしれない」


「何のお話ですか!」


王女の言葉の意味が分からず、アマリアはただ彼女の腕を握る両手に力を込め続けた。王女はわずかに言いよどみ、それからきっぱりと言った。


「私が父上の子ではないという噂、あなたも聞いたことがあるでしょう」


アマリアは何と答えるべきか迷った。それは下町でも耳にすることのある心無い噂だ。人々が根拠としているのは「王女は国王に似ていない」という、ただそれだけのことで、8日前、ルイシュも「あれは事実無根だ」と怒っていた。


「母上とアルメイダが長年に渡って不倫関係にあったと知った時、私は思ったわ。私はアルメイダの娘かもしれない、この国の正統な王位継承者ではないのかもしれない、って」


「まさか、そんなこと……」


「希望的観測による慰めは要らないわ。この状況で、母上とアルメイダをふたりまとめて問い詰めることができれば、真実に近い話を聞けると思うの。だから行かせてちょうだい。そして、あなたはついて来ないで。3人だけで話したいのよ」


己の出自に関する真実を知ることを恐れ、うやむやにしてきた過去がアマリアにはある。それに比べて、この人は何て勇敢なんだろう。アマリアは感嘆と羨望のこもったため息をついた。


「真実を知ること、怖くないんですか」


王女は苦々しい表情で片頬を上げて笑った。


「怖いわ。でも、何も知らないまま王冠を戴く方がもっと怖い」


アマリアは王女の腕を離した。異母姉妹は「ありがとう」と言うと、塔へ向かって真っすぐに歩いていった。塔の入口には見張りの兵士がふたり立っていたが、現れたのが王女だと分かると慌てて敬礼し、彼女が塔に入っていくのを見送った。


ナラの木陰からその様子をのぞき見ながら、アマリアは考えていた。


今回の出来事で嬉しいことがいくつかあった。最たるものはルイシュと気持ちが通じ合い、婚約したこと。だが、それと同じくらい嬉しいことがもうひとつあった。


6日前、コスタ子爵の城を初めて訪れた夜のことだ。ルイシュの継母に「贈り物がある」と言われ、アマリアはエウゼビオとともに彼女についていった。エウゼビオが古城の罠にまんまとハマって堀に転落し、つかの間、アマリアはルイシュと再会した。彼はアマリアを固く抱きしめ「無事でよかった」と同じことを3回も言った。


あの時、ごく限られた時間でアマリアもルイシュも優先順位の高いことだけを話した。互いの身を案じる言葉や今後について意見を交わした後、ルイシュは「おまえの患者については手を打った。心配はいらない」と言った。彼は孤児院長のセルジオにアマリアの店や患者を託してくれていた。


ルイシュはアマリアが何を大切にしているか、何に重きを置いているか、よくよく理解してくれている人だ。それを改めて実感できたことが、アマリアにはとてつもなく嬉しかった。そして、アマリア自身も彼に対してそうありたいと思った。


「クラーラ、私も行く。邪魔しないように、こっそり」


ルイシュなら王女をひとりでは行かせない。自分自身がどんなに危険だろうと、彼女から離れるわけがない。アマリアは地面に落ちていた手頃な長さの木の枝を拾い、それを剣のように握りしめて塔へ走った。


クラーラはラテン語で「危険!」と言いながらアマリアの横に並んだ。アマリアを守り切る自信があるのか、レネの可愛い姪っ子のことが心配なのか、ひょっとしたら両方かもしれない。彼女がアマリアを力づくで止めることはなかった。


塔の入口に立つふたりの兵士はアマリアたちに気がつくなりマスケット銃を構えたが、不審な娘たちへ誰何すいかや警告をする前にクラーラに殴り倒されてしまった。足音を忍ばせて入口をくぐり、暗い螺旋階段を見上げながらアマリアは思った。


もしもアマリアの身に何かあっても、その後のことはルイシュにすべて任せられる。母も同じだったんじゃないだろうか。病の床の中で、この世に遺していく様々なものに対して「ルイシュになら任せられる」と思っていたんじゃないだろうか。


高鳴る胸を押さえ、深呼吸し、アマリアはクラーラと視線を交わした。スイス人の娘は「私に任せて」とでも言いたげに胸を張り、アマリアは「よろしくね」という気持ちを込めて頷く。


言葉なき意思疎通を遂げたふたりは螺旋階段を上り始めた。

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