45.O primeiro beijo

聖ヒュギエイアの教会を後にしたアマリアたちは、ひとつ“寄り道”をしてから3人で夕食を取った。セルジオと別れ、アマリアが自分の香薬屋に帰り着いたのは西の空が黄色く染まり始めた頃だった。


母から譲り受けた店の前に立ち、レネの財力と権力で敷かれた石畳を踏みしめ、アマリアは感慨深い思いでドアに鍵を差し込んだ。アマリアの旅の荷物は隣の印刷屋が預かってくれていた。


「クラーラ、ここ、私の店」


手帖を使って説明すると、クラーラはきょろきょろと辺りを見回しながら店に入った。アマリアも「ただいま」と言ってドアをくぐる。店内はほとんど8日前のままだった。ただ、エウゼビオがくれた紫陽花あじさいは花瓶の中でしおれていた。


「昔、レネ様もここに来たことあるんだって」


アマリアは手帖の単語を指で示してクラーラに伝える。クラーラは瞳を輝かせ、聖地巡礼とばかりに店の中を歩き回った。アマリアも改めて自分の店を眺めた。


ここで母が働いていた。ルイシュやセルジオと語らい、レネを治療し、国王を想い、アマリアのことを考え、ここで生きていた。


アマリアはカウンターテーブルに寄り、椅子に腰かけながら母のレシピを開いた。美しい字で記されたレシピと、薄ピンクのインクの書き込み。何もかも8日前と変わらないのに、胸が詰まった。


レシピの最後の数ページには筆圧の弱い、よろよろとした乱れた文字が並んでいる。病と闘いながら、持てる力を振り絞ってつづられたかのような文字だ。


“この世の誰よりもあなたを愛していると、たとえ死んでも決してそれは変わらないと、自分の声で伝えたかった。”


ぱたん、とレシピを閉じ、アマリアはカウンターテーブルに突っ伏した。店の中を歩き回っていたクラーラに「大丈夫?」と声をかけられるまで、そのままの姿勢で放心していた。


「……大丈夫だよ」


自分自身に言い聞かせるように声を出し、のそりと起き上がる。買ってきた香薬の種を鍵のかかる戸棚にしまい、クラーラとお茶を飲んでから、4日前にディオゴから譲ってもらった薬草を棚に並ぶガラス瓶に収納した。


店の前に馬車が止まる音が聞こえたのは20時を回った頃だった。クラーラとカウンターテーブルに並んで座り、彼女と筆談していたアマリアは背後を振り返った。開け放たれた窓の向こうに辻馬車が止まっていて、降りて来たのはルイシュだった。


アマリアは店の入口に駆け寄り、ドアを開けた。


「……いらっしゃいませ」


妙に緊張した。金曜の日中以外にルイシュが店に来るのは初めてのことだ。そして、アマリアはルイシュに腹を立てていた。数時間前にセルジオと“寄り道”した場所で、ちょっとしたことがあったのだ。


「まだ仕事してたのか?」


アマリアの怒りに気がついているのか、そうではないのか、ルイシュはぎこちない様子で応じた。2日ぶりに見た彼の顔は夕焼けに赤く染まり、アマリアの目には素晴らしく男前に見えた。


「いえ、クラーラとおしゃべりしてただけです」


アマリアはポルトやルイシュについて、クラーラはジュネーヴやレネについて、あれこれと筆談していた。王女からもらった手帖を駆使してもなお言葉は不自由なので、帳面の8割が下手くそな絵や記号で埋め尽くされている。


「王女殿下から聞いてる。枢機卿が護衛にと派遣してくださったんだろ」


ルイシュがクラーラに目を向けると、彼女は椅子から立ち上がり、ラテン語で何か言いながら店を出て行った。


「2階の部屋で仮眠を取るから1時間後に起こせと言ってた」


クラーラの言葉を通訳し、ルイシュはドア上部の黒い石に触れながら店に入る。


「いつもの香薬、焚きますか?」


アマリアはカウンターの帳面を片付けて彼に椅子を勧めた。


「いや、今日はいい」


「じゃあ、お茶、飲みます?」


「構うな。おまえも座れ。長旅から帰ってきたばかりなんだから」


隣に座るよう促され、アマリアは素直に従った。ルイシュに問いただしたいことが胸にわだかまっていたが、口から出たのは別の話題だった。


「コエントランの具合、どうですか? セルジオ先生が治療してくださったって聞きましたけど」


王妃の手の者に尋問を受け、負傷したルイシュの従者とは同じ孤児院で育った。特別に親しかったわけではないが心配だ。拝星教の寺院でアマリアが治療した銃創もまだ癒えていないだろうに。


「指の骨を折られていた。ポルトに帰ってきて、ジョアンと別れた直後に襲われたらしい」


爽やかな双子の兄ジョアンは弟ファビオと同じく“一騎当十”の戦士だ。おそらく、王妃の手の者は彼らを尾行し、コエントランがひとりになるのを待って襲撃したのだろう。アマリアは唇をかんだ。


「怖かったでしょうね」


「ああ。だが、セルジオ先生の香薬なら問題なく治る。おまえが心配することはない」


ルイシュはアマリアの髪をそっと撫でた。その宥めるような優しい仕草にアマリアの機嫌は少し直った。


「おまえにいくつか報告がある。まず、国王陛下に結婚のお許しをいただいた。が、陛下がお忍びで結婚式に来てくださることになった」


「え、ええっ?!」


アマリアはルイシュへの怒りも王妃への憤りも忘れて驚いた。ルイシュは困惑した表情で続けた。


「もちろん、俺はお止めしたぞ。コスタ子爵領くんだりまで陛下に来ていただくわけにはいかないと。そうしたら陛下が、それならポルトの大聖堂でやろうとおっしゃられて」


「だ、大聖堂?! お忍びなのに?!」


ポルトの大聖堂は歴代王族が眠る霊廟であり、王家や公爵家の冠婚葬祭で使用される場所だ。恐れ多いにもほどがある。


「安心しろ。お断りした。だが、国王陛下が頑なに出席したいとおっしゃられてな。あの方はダメだと申し上げると意地を張る方で……しかも王女殿下が俺の味方をしてくださらなかった……」


ルイシュは哀愁を漂わせて遠くを見た。かわいい孫娘に嫌われたことを嘆く祖父のようだった。


「それで、どうしたんですか?」


アマリアが問うと、ルイシュは視線を婚約者へ戻した。


「代案として聖ヒュギエイアの教会を挙げて、何とかご納得いただいた。おまえ、今日、セルジオ先生と行ってきたんだろ?」


海食の丘の中腹にある古ぼけた小さな教会を頭に思い浮かべ、アマリアは不安になった。母の墓前で結婚式ができるのは素敵なことだが、聖ヒュギエイアの教会はあまりにボロボロだった。


「はい。でも、あの教会、屋根に穴が空いてましたし、床も壁もタイルが剥がれてて……」


「さっき、司祭と話してきた。ちょうど多額の献金があって、もう職人の手配をしているそうだ。結婚式までには修繕されている。お忍びとはいえ、あんな状態の教会に陛下をお呼びするわけにはいかないからな」


「そういうことでしたら、私もあの教会がいいです」


アマリアはタイミングのいい献金者に感謝した。ルイシュも嬉しそうに首肯する。


「俺も同意見だ。ちなみに、献金してくださったのは枢機卿のティリンツィオーニ様だそうだ」


「レネ様が?」


「先週、枢機卿がコンスタンサの墓参りをしてくださって、その時に、コンスタンサの眠る教会をこんな有り様にしておくなとお怒りになられたんだと」


明後日、オリオンと計画した伝書鳩の第一羽目をジュネーヴへ向けて放つ。その時、レネ宛に御礼の手紙を忍ばせてみようか。いい人なのか嫌な人なのか、いまだによく分からない枢機卿のことを思い出し、アマリアは微笑んだ。


「それから、明日の夜、国王陛下がおまえにお目通りの時間をくださった」


ルイシュの声はいつになく緊張していた。アマリアも思わず固唾を飲む。父親である国王にはいずれ会うことになるだろうと思ってはいた。


「大丈夫だ、俺も一緒に王宮へ行く。18時に迎えに来る」


アマリアはフランシスカからマガリャンイス伯爵家の衣装部屋の鍵をもらったことをルイシュに話した。彼は何か言いたげな顔をしたが、口では「身支度をどうすべきかと困っていたから有難い」と述べた。


「他にも伝えるべきことが色々ある。まず、エンリケは今朝から遺跡の発掘に戻ったが昨夜食べた大量のカキに当たって腹を壊した。サルースの杯はヒュギエイアの杯とともに厳重に保管されてる。夜明け団の鳩は王宮の中庭で元気にしていて、アルメイダは王宮の地下牢で元気にしてる。この近くに良さそうな空き家を見つけたから近いうちに内見に行こう。ああ、あと、俺は大臣をクビになったぞ」


早口であれこれと告げ、ルイシュは最後に大事なことをさらりと言った。


「こ、国土保安開発省大臣を辞めさせられたってことですか!」


「そうだ。当然の結果だ。これまで色々とやらかしては謹慎や減俸でどうにかしていただいてきたが、さすがにもう庇い切れないと国王陛下にお叱りを受けた。まあ、そろそろ、そうなるだろうなとは俺も思ってた」


アマリアも何となく納得してしまっていた。詳しく聞くのははばかられたが、おそらく、王女に黙ってサルースの杯を隠し、勝手にジュネーヴへ行こうとしていたことがトドメになったのではないだろうか。健全な沙汰だ。


「副大臣とか次官とか、そういう役職につかれるってことですよね?」


アマリアの質問にルイシュはなぜか背筋を伸ばして胸を張った。


「いや、国土保安開発省から離れる。つまり、無職だ」


「無職」


これから結婚して子供をもうけようという時に婚約者が無職になってしまった。アマリアは絶望しかけ、すぐに気を取り直した。


「分かりました、私が責任をもってルイシュさんを養います」


「養ってくれなくていい。一応、来週あたりに辞令を受ける予定だ。今度は王室の外局にあたる新設組織の長に任命される。と言っても、給金は今より減るし、部下は3人だけだ」


ルイシュはどこか清々しい表情で言った。彼が国土保安開発省に入ったのは元ブラジル総督の祖父に呼ばれたのがきっかけだ。古巣への未練はほとんどないのかもしれない。


「新しい組織って、どんなことするんですか?」


「簡単に言うと、今回、教皇庁と結んだ約束を遂行する仕事だ。おまえの考えた伝書鳩作戦やら、サルースの杯を使って香薬の種の生成能力を持つ市民を探す実験やらを主導する」


とりあえずやってみて問題があれば調整する、というのがルイシュの十八番だ。すべてが手探りであろう新しい試みを取り仕切る者として、彼は適任なのかもしれない。


「それから、国内の救貧院や孤児院に対する支援も行っていく。枢機卿にお叱りを受けた例の話を、結局そっくり俺が引き受けることになった」


苦笑するルイシュは楽しげに見えた。


「母の願いと私の妄想をルイシュさんが叶えてくださるなんて、とっても嬉しいです。私もできることがあればお手伝いします」


アマリアは思わず前のめりになったが、ルイシュは急にしかつめらしい顔になって釘を刺した。


「最善は尽くすが、期待はするな。戦争が始まったら真っ先に予算を削られる組織だ」


「戦争、始まるんですか」


欧州各国とその植民地で起こっている大きな戦争にポルトゥカーレも巻き込まれるかもしれない。そんな話はアマリアも聞いたことがあった。


「たぶん数年以内にな。それまでに、できることをやっておく。今すぐに芽が出なくとも、何十年後か何百年後かに何かの役に立つかもしれない」


ルイシュは珍しく気長なことを口にした。この人、こういう一面もあるんだ。アマリアはまじまじとルイシュを見つめ、それからカウンターテーブルに向かって大きなため息をついてしまった。婚約者は目を丸くしてアマリアの顔をのぞきこんだ。


「何だ、どうした? ……おい、何で俺を睨む?」


「私、時々、自分がルイシュさんのことをよく知ってるつもりになるんです。でも、実際は知らないことばかりです」


アマリアは頬杖をつき、カウンターテーブルの木目を指でなぞった。ルイシュは苛立たしげな声でうなった。


「そういう回りくどい話し方はやめろ。具体的かつ単刀直入に言え。俺の何が気に入らない?」


アマリアは頬杖をついたまま瞳だけを動かし、怨嗟の念を込めに込めに込めまくってルイシュをじろりと睨んだ。


「母のお墓に行った後、セルジオ先生がついでだから寄り道をしようとおっしゃって、私、妊娠中の母が隠れ住んでいた立派なお屋敷に行きました」


「……!」


「母が私を産んだという屋根裏部屋を見せてもらったところまでは良かったんです。でも帰り際に、綺麗なお姉さんがたくさん現れて、皆さん、ルイシュさんが最近いらっしゃらなくて淋しいと口々に嘆いてました」


「……!!」


アマリアを身ごもった母は高級娼館の屋根裏部屋に潜伏し、23年前の8月の大嵐の夜にそこで出産した。母を匿ってくれたという女主人はもともとはセルジオの患者で、品のいい老婦人だった。口の堅い彼女が沈黙を貫いてくれたからこそ、アマリアは誰にも存在を知られることなく無事に生き延びることができたのだ。


「私、ルイシュさんがああいうところに出入りされていて、あんな綺麗なお姉さんたちと遊んでらっしゃるなんて聞いてないです……」


下町で香薬屋を営んでいるアマリアは娼婦の治療をすることがあるし、往診で娼館に行くこともある。性風俗産業で生計を立てている人々に対する偏見は少ない方だ。それに元孤児としては、自分が足を踏み入れる可能性があった世界でもある。患者の娼婦たちには親しみに近い感情さえ持っている。しかし、婚約者が贔屓にしている娼婦と鉢合わせて平気でいられるかどうかは話が別だ。


「お、俺があそこに通ってるのはコンスタンサの遺言だからだ! あの女主人には世話になったから、時々様子を見に行って、困っていたら力を貸すよう言われてる!」


ルイシュは額に汗をかきつつ弁解した。


「じゃあ、遊びに行かれてるわけじゃないんですね?」


「遊びに行ってるわけじゃない、とは言ってない」


「やっぱり遊んでらっしゃるんじゃないですか!」


「何で怒るんだ! 意味が分からん!」


「怒ってないです! 悲しいんです!」


アマリアは席を立ち、大股で窓辺へ向かい、怒りに任せて窓を閉めた。“ソル・ド・ポルト”の記者がコソコソとこちらをのぞいていたのだ。痴話喧嘩を明日の新聞記事にされたらたまらない。


暗くなった室内に明かりを灯すべく、アマリアはポケットから着火具を取り出し、カウンターテーブルの上の燭台のロウソクに火をつける。揺らめく火影に照らされたルイシュの顔を見て、アマリアは初めてこの店を訪れた夜のことを思い出した。


ルイシュは椅子から立ち上がり、不服そうな顔でアマリアの手から着火具を取り上げた。彼はカウンターテーブルの内側へ向かい、棚に入っていたロウソクを全部カウンターに立て、それぞれに火を灯した。


「初めて会った時、髪が長かったよな?」


ルイシュは尋ね、今度は入口ドアの横のランプに火を入れた。窓辺の燭台にも点火する。母から譲り受けた香薬屋が、あの日のように十数本のロウソクの火に照らされて煌めく。


「……はい」


孤児院を出て香薬屋を始めた頃、アマリアの髪は背中まであった。彼がそれを覚えていてくれたことがたまらなく嬉しくて、アマリアの怒りは3割ほど鎮まった。


「店を始めてしばらくした頃にばっさり切ってしまって、どうして切ったのか俺が聞いたら、おまえ、手入れが面倒だったとか、ごにょごにょ言っていたが、本当は売っただろ?」


「な、何でご存じなんですか?」


食うに困って髪を売ったなんて、恥ずかしくて誰にも言っていなかったのに。たじろぐアマリアにルイシュは顔をしかめた。


「やっぱりそうか。おかしいと思ってたんだ。それからも何度か長く伸ばしては短く切ってただろ」


「売ったのは2回だけです。私の髪、いい値段がつくんです」


ルイシュはアマリアへ歩み寄り、短い金髪に手を伸ばして丁寧に撫でた。


「こんな綺麗な髪、高値がつくに決まってる。もう売るな。どうしても売りたければ俺が買う」


ルイシュは両腕で婚約者を抱きしめ、その頭のてっぺんにキスをした。アマリアは息をするのも忘れ、身じろぎもできずに彼の声に耳を傾けていた。


「おまえも俺も、互いにすべてを明かしてきたわけじゃない。これから少しずつ相手のことを知っていくんだ。幻滅することもあるだろう」


「私、ルイシュさんに幻滅、するんでしょうか」


アマリアは数十秒ぶりに呼吸した。頭に血が上り、耳の奥がキンとしていた。


「まさに今、幻滅してるだろ? 一緒に過ごす時間が長くなって、これまで見えなかった面が見えてくれば、こういうことは次々と起こる。おまえが俺を嫌いになる日だって来るかもしれない。……それとも、もう嫌いになったか?」


自信なげな低い声で尋ね、ルイシュはアマリアを抱く腕に力を入れる。


「嫌いになってないです。大好きです」


アマリアはルイシュの胸に顔を埋め、彼の背中に両腕を回した。


「初めて会った時から、ルイシュさんは私に隠し事をしてましたよね。私、気がついてましたけど、ルイシュさんを問い質すこと、できませんでした。もしもルイシュさんが私の父親だったらって思うと、すごく怖かったから」


真実を知ることを恐れ、アマリアは疑問や違和感をうやむやにごまかしてきた。強い態度で問い詰めればルイシュはそれを明かしてくれたかもしれないのに、真実と対峙する勇気がなかった。


「今も怖いです。あなたのこともっと知りたいけど、知るのが怖い。私のこともっと知ってほしいけど、知られるのが怖い」


アマリアはルイシュの胸から顔を上げ、彼の双眸をじっと見上げた。ルイシュは両腕の力を緩め、真剣な面持ちでアマリアを見つめていた。短気な男が口を挟まずに話を聞いてくれていることがあまりに意外で、アマリアは小さく微笑んでしまった。身体から緊張が抜けると、不思議と勇気がわいた。切実な気持ちを打ち明ける勇気が。


「すごくすごく怖いです。それでも、あなたのこと知りたいです。いつか幻滅し合うくらい長い時間を一緒に過ごして、いつか嫌い合うほどすべてを分かち合いたい、そう思います」


アマリアはルイシュの茶色の瞳をのぞきこんだ。その瞳の奥に喜びが広がり、自信なげだった表情が明るくなる。彼の唇の端が上を向く。


「俺もおまえのすべてを知りたい。これまでおまえが味わった喜びも悲しみも、誰かをぶん殴りたいほどの怒りも、その心の隅々まで、知りうる限りのすべてを」


ルイシュはそう言ってアマリアを正面から見つめ、顔を近づけた。視線が熱く絡み、鼻先と鼻先が触れ合う。視界がチカチカしていた。


「ま、待ってください、私、まだ心の準備が」


ルイシュがこれからしようとしていることを悟り、アマリアは彼から顔をそむける。ルイシュはアマリアの顎をつかみ、自分の方へ向けた。


「待てと言われて、俺が待てると思うか?」


「思いませんけど、私、内臓という内臓が口から全部、出そうで……」


言いながら、アマリアはルイシュに見惚れていた。彼の目の瞳孔や虹彩や、顔の皮膚や毛穴や、産毛や眉毛や睫毛をこんなに近くで見たことはなかった。いくつもの揺れる炎に照らされたルイシュは誰が何と言おうと世界で一番素敵だ。


「こらえてくれ」


ルイシュはおかしそうに笑い、顔を傾ける。唇に柔らかく熱いものが触れ、アマリアは彼にしがみついて目を閉じた。

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