44.帰路(2)

コンポステーラを出発したアマリアたちはポルトへ向かって南下を続け、夕方にはコスタ子爵の城へたどり着いた。


湖に浮かぶ古城を再訪すると、コスタ子爵家の面々は恭しく王女を迎え、一行に食事や休息の場を提供してくれた。ルイシュの継母はアマリアの顔を見るなり飛びついてきて「ルイシュとあなたは絶対に結婚するって思ってたのよ!」と大喜びした。ルイシュとエンリケは正午頃に城へ立ち寄り、昼食を食べながら積もる話を済ますと、すぐに出発したらしかった。


本物のサルースの杯はコスタ城に隠されていて、その回収は日が暮れる前に行われた。ルイシュが杯を隠したのは古城とは別の小島にある古い蔵だった。手漕ぎの船に乗って小島へ渡ると、石造の蔵に何が収められているか、すぐに分かった。発酵タラの塩漬けの匂いが漂っていた。


強烈な刺激臭を放つタラにまみれ、国宝の杯は大樽の底に沈められていた。王妃の命令で城を捜索した兵士たちは果敢にも蔵の中を調べたらしいが、さすがに樽を開けて中を改めることはしなかったという。


夕食のもてなしを受けた後、アマリアはルイシュの長兄と継母に呼ばれて書斎へ向かった。暗い書斎の壁には大きな分厚い織物が飾られていて、細い糸で無数の人名が刺繍されていた。ルイシュの継母は「これは我が家の家系図よ」と言って、何十人もの“特に近しい親戚”について細やかに説明した。


家系図を眺め回しながら、アマリアは気がついた。ルイシュの実母はアマリアという名前だった。よくある名前ではあるが、もしやと思い、アマリアは嬉しくなった。


ルイシュの兄は「近々、ここに君の名前を加えますよ」と家系図の末端を指差し、ルイシュの継母は「私のことは母上と呼んでちょうだいね。これからはルイシュの家族はあなたの家族、ルイシュの親戚はあなたの親戚なんだもの」と微笑んだ。


つい1週間前まで天涯孤独だと思っていたのに、突然、家族や親戚が100人以上できてしまった。アマリアは喜びを嚙みしめながらベッドに入り、“母上”からの「今度いらした時には一緒に塩漬け作りをしましょうね」という誘いをどうやって断るべきか思案しつつ眠りについた。


真夜中に寝室のドアをノックする音が聞こえ、アマリアはベッドから起き上がった。同じ部屋の別のベッドで寝ていたクラーラも目を覚ましたようだった。ドアの外から「私よ」という王女の声が聞こえ、アマリアは着火具で燭台のロウソクに火を灯し、裸足でドアへ駆け寄った。


「王女様、どうなさったんですか?」


王女はアマリアの部屋の外に、暗い顔をして立っていた。栗色の長い髪を背中に垂らし、ゆったりとした生成りの寝間着を着た淑女は、湯気の立ち上るカップをふたつ持っていた。背後には燭台を手にした侍女の姿もあったが、王女は「今夜はここで寝るわ。あなたは部屋へお戻り」と言って彼女を閉め出してしまった。


「どうぞ、座ってください」


アマリアは自分が寝ていたベッドを素早く整え、王女に勧めた。異母姉妹はカップのひとつをアマリアに手渡しながらベッドの端に腰かけた。カップには香りのいいお茶が入っていて、カモミールの花びらが浮いている。


「起こして悪かったわ。嫌な夢を見てしまって」


ため息とともにそう言って、王女はアマリアへ隣に座るよう促す。冷たい石の床に裸足で立っていたアマリアは少し躊躇してから従った。


「どんな夢ですか?」


「王宮の肖像画のホールで、母上が死んだ赤ん坊を抱いて泣いていたの」


王妃は臨月で、出産予定日が近い。縁起の悪い夢だ。


「今朝、エウゼビオが届けてくれたレネ叔父様からのお手紙のこと、まだ話してなかったわよね」


王女は寝巻きの胸元から折り畳んだ手紙を取り出し、膝の上に広げる。そういえば「詳しいことは道中で話すわ」と言われていた。アマリアはベッドサイドテーブルにカップを置き、燭台を掲げて手紙を照らす。乱雑な字で書かれた手紙にはラテン語が用いられていた。


「簡単に言うと、打合せの通りに実行せよ、と書かれいてるの」


「打合せの通り、ですか?」


「昨日、レネ叔父様と公使館で話したのよ。母上を断罪しなくては、あなたやルイシュに危険が及ぶ、やるしかないと」


「や、やるって、断罪って、王妃様を裁判にかけるんですか?」


動揺するアマリアに王女は眉をひそめ、カップのお茶を飲んだ。


「さすがに、それはできないわ。お腹の子が無事に生まれたら、産後の療養という名目で王宮から出て行っていただくの。そして永久にポルトの市門をくぐらせない。やれるとしたらその程度だろうとレネ叔父様はおっしゃっていたわ」


「ルイシュさんは何と?」


「ルイシュには話してない。私に黙って勝手なことばかりした報いよ」


「そ、それは、いかがなものでしょうか」


王女に意見するなど不敬で生意気なことだとは思ったが、アマリアはつい言ってしまった。ルイシュが聞いたら嘆き悲しむだろうし、王女がアマリアたちのために思い切ったことを企てていると知ったら、力になりたいと言うはずだ。


「大丈夫よ、何も私ひとりでやるわけじゃないわ。父上にはご協力いただくつもり。父上に話せば、そのうちルイシュの耳にも入るでしょ」


愛らしい姫君は不機嫌そうに唇を尖らせ、アマリアへお茶を飲むよう促した。アマリアは王女の企みについて思案しながらカモミールのお茶を飲んだ。高ぶっている神経がほんの少しだけ宥められた気がした。


「……王女様はよろしいんですか? ご自身のお母上を追放するなんて、おつらくありませんか?」


アマリアにとって王妃はすべての元凶だ。ルイシュは王妃の目を恐れるあまり、アマリアが王とコンスタンサの娘だということを長年に渡って隠さざるを得なかった。細かいことを無視して、なおかつ大袈裟に言ってしまえば、アマリアは王妃のせいで母に会うことができなかった。


そして何と言っても、王妃はエウゼビオの両親の仇でもあり、アルメイダやフランシスカに悪事を働かせた諸悪の根源でもある。アマリアは王妃をきっぱりと憎悪している。しかし、王女にとって王妃は実の母親だ。


「私は大丈夫よ。あなたは自分の身の安全を第一に考えなさい」


言葉とは裏腹に、王女の瞳は悲しげに揺れた。


「ご無理なさらないでください」


アマリアが気遣うと、王女はうんざりした様子でため息をついた。


「確かに、母上を追放することは心苦しいわ。でもね、私はそれ以上に、母上を追放することに躊躇のない私自身の冷酷非道さに落胆しているの。コンスタンサのように慈悲深くありたいと心から願っているのに、結局のところ、私は女教皇猊下の孫娘で、母上の娘なのよ」


突然に吐露された赤裸々な言葉の意味を理解するまで、アマリアには数秒が必要だった。


「王妃様がお嫌いなんですか」


「私の母上はね、世界中の不幸を私がすべて引き受けていますってお顔で生きておいでなの。愚かな人間の考えることよ。己の不幸と正義に酔いしれて、自分勝手でわがままなことばかりして、その割には気が小さくて臆病で」


馬鹿で目障りで己の正義に酔った自分勝手でわがままな小娘。アマリアはアルメイダに言われた悪口を思い出した。


「立ち入ったことをうかがって、すみませんでした」


仲の悪い親子なんてどこにでもいる。しかし、それが国王一家となると、何だか大ごとのような気がした。アマリアは早々に頭を下げた。


「謝る必要はないわ。言葉にしたら気持ちがすっきりした」


王女は言葉の通り、やや晴れやかな表情で微笑んだ。


「眠くなってきたわね。寝るわよ。そこをおどきなさい」


アマリアは慌てて立ち上がり、王女から空のカップを受け取る。王女はベッドカバーを持ち上げ、するりとベッドに入った。アマリアは部屋の中央にある丸テーブルにふたつのカップを置き、燭台の火を消すべく王女の枕元へ近づく。


「明かり、消しますね」


そう声をかけながら、アマリアはベッドカバーを整えた。端がめくれていて、王女の左肩が出ていたのだ。しかし、王女は不満そうにじろりとアマリアを睨んだ。


「鈍いわね。隣で寝ても構わないという意味よ」


王女はベッドカバーの端を再びめくり、自分の隣をポンポンと手で叩いた。


「えええええええ、それは、ちょっと、恐れ多すぎて、無理です! クラーラと寝ます!」


アマリアは後ずさりし、ロウソクの火を消すのも忘れてクラーラのベッドにもぐりこんだ。クラーラは身体の位置をずらしてアマリアに場所を空けてくれた。枕元に短剣と短銃が置いてあるのは理解できたが、手のひらサイズのレネの肖像画らしきものが飾ってあるのが怖かった。クラーラに気づかれないようにそっと伏せた。


「まあ、なんて無礼な」


王女はアマリアの反応に憤慨しながら明かりを吹き消す。室内は真っ黒な闇に包まれた。


「だって王女様を蹴飛ばしてしまったら大変じゃないですか」


「そうね、あなたには私の猫を蹴飛ばした前科もあるものね」


「その節は申し訳ありませんでした。急にドレスの中に入ってきたので、ネズミだと思ったんです」


「どんな理由があろうと、猫を蹴るのは大罪よ」


「本当にすみません」


王女に初めて会ったのは王宮の肖像画のホールだった。あの時、王女は「大恋愛がしたい」「相手はルイシュでもいい」と夢見るように言っていた。


「王女様ってルイシュさんのことお好きなんですよね。どうして私と結婚するよう、ルイシュさんにお命じになられたんですか?」


思い切って暗闇越しに尋ねる。王女は怒ったような口調で応じた。


「ルイシュのことは好きよ。子供の頃からずっと。けれど、まったく相手にされていなかったわ。彼、私が女だってことを知らないのじゃないかしら」


アマリアもほんの1週間前まで同じようなことで悩んでいた。ルイシュは自分に向けられた好意に気がつかない。一昨日の夜、アマリアは恥も外聞も捨てて大泣きし、ルイシュを口説き落としたが、それはアマリアだからできたことで、誇り高き淑女にはきっとできないことだ。


「王妃の出産は大勢の家臣が見物に来るのが伝統なの。ルイシュは私が産まれた瞬間に立ち会ってるのよ。それも問題だと思うわ。口を開けば、“あんなに小さかった殿下が大きくなられて”とか、まるで孫娘を愛でる祖父みたいなことを言うのよ」


王女はルイシュの口真似を交えて不満を述べた。アマリアは笑いの衝動に駆られ、唇を噛んでそれをこらえる。


「22年前、ルイシュは私の産声を聞いてる。一方、あなたは20歳になるまでルイシュに会ったことがなかった。私とあなたの決定的な違いはそこね」


アマリアが産まれた時、ルイシュは父親を看取るために帰省していたという。だからルイシュは3年前までアマリアの顔を知らなかった。初対面のあの日のアマリアは20歳、ルイシュは34歳だった。


「それは……関係あるでしょうか?」


「あるわよ。あるということにしてちょうだい。それが原因だと思えば私の胸はちっとも痛まないわ」


「はあ」


「ルイシュはずっと独身でいるつもりだったみたいだけれど、コンスタンサはそれをとても心配してた。何をしでかすか、どこへ行ってしまうか、あんなに予測不能な男をひとりにしておいてはいけない、誰かが彼の拠り所になって彼をつなぎとめてくれたらいいのに、って。だから、あなたと彼が結婚すれば、きっとコンスタンサは大喜びすると思う」


「そうでしょうか」


「ええ。私の心の中の小さなマルガリーダ姫はお気に入りの遊び相手を取られてヘソを曲げているけれど、コンスタンサが喜んでくれて、ルイシュが幸せになってくれれば、言うことはないわ。今は、そういうことにして」


王女はいくらか明るい声色で言って寝返りを打った。祝福されていると考えていいのだろうか。


「私、ルイシュさんのこと大事にします。必ず幸せにします。ですから、心配なさらないでください」


暗い天井を見つめ、アマリアは決意を口にした。ルイシュが何を幸せだと思い、何を不幸だと思うか、それはよく分かっているつもりだ。彼は「基本的には俺が折れる」と約束してくれたが、それに甘えることのないよう自律しなければならない。アマリアの真剣な発言を、王女は愉快そうに声を立てて笑った。


「私、あなたのこと、最初は無礼で厄介な小娘だと思ってた。私の猫を蹴り、私が考えた最善の策を蹴り、女公爵にはなりたくない、ジュネーヴには行きたくない、香薬屋を続けたいと、自分の望みばかり口にして、誰の言葉にも従わなくて。3時間に1回はあなたの頭をかち割って中身を確認したいと思ってた」


そんなこと思われてたんだ。


「私の人生は生まれた時から決まっていて、私はそれを嘆いたことはなかったけれど、あなたの図々しさと諦めの悪さを見ていたら、私ももう少し、自分に都合のいい人生を望んでもいいのじゃないかと思えてきたわ」


悪戯っぽい口調で語り、王女は笑った。アマリアは信じられない思いでそれを聞いていた。アマリアの自分本位な言動が、他人の心を変えるなんて、しかもそれが次期君主の心だなんて。


「ええと、何と言うか、キョウエツシゴクに存じます……」


アマリアが恐縮すると、王女は笑いながら続けた。


「昨夜、あなた、私にこう言ったでしょう。王女様が私をお嫌いなのは無理のないことです、って。べつに嫌いじゃないわ、今は」


異母姉妹といい関係を築きたいと思っていたアマリアは歓喜し、ベッドから腰を浮かせた。


「ほ、本当ですか!」


「好きでもないけどね」


「ほ、本当ですか……」


がくりと項垂れたアマリアを異母姉妹はクスクスと笑った。これは完全にからかわれている。アマリアは恥ずかしいやら情けないやら、それでもどこか嬉しい気持ちでクラーラの隣に戻り、枕へ頭をのせた。


「ルイシュと仲良くやってちょうだい。もしも私が母上と同じような体質だったら、私は子供を残すことができないかもしれない。その時はアマリア、あなたが頼みの綱よ」


王女は眠たげに言い、深く息をついた。もしかしたら、彼女がアマリアとルイシュを結婚させようと思ったのは、それが一番の理由なのかもしれない。真意を問うてみようかと思ったが、王女はすでに寝息を立てていた。アマリアも目を閉じたが、同じ部屋で王女が寝ていると思うと緊張して眠れない。


心を静めようとしているうちに、女教皇から「これからは寝る前に祈れ」と言われたことをアマリアは思い出した。何か祈ってみようか。切実な願いは「王妃に殺されませんように」しかない。


王女は王妃のことを「愚かで己の不幸と正義に酔いしれていて自分勝手でわがままで、その割には気が小さくて臆病」と言っていた。アマリアは自分のことを言われたのかと思った。もしかして、アマリアと王妃は似ているのだろうか。思いついた共通点は、生まれて間もなく母親から引き離されたことだけ。


他に似通った点がないか頭の中を探っているうちに、アマリアはずっと心に引っかかっていたものに指で触れてしまった。昨日、離宮でアルメイダと対峙した時のことだ。アマリアは怒りに駆られてアルメイダを撃ち殺そうとした。短銃の引き金に指をかけ、狙いを定め、いざという瞬間にオリオンが止めてくれた。それが一瞬でも遅ければアマリアは人殺しになっていた。王妃と同じ、人殺しに。


改めて、自分自身にぞっとした。ルイシュから「人間ってやつは、我こそは正義と確信した瞬間に判断を誤る生き物だからな」と教わったのは、たったの6日前だというのに。


もう眠ろう。あれこれ心配しても、悔やんでも、己の愚かさを嘆いても、時計の針は進み、やがて朝が来る。それならば、身体に残った長旅の疲れを少しでも癒し、いざという時に備えるべきだ。寝不足の頭で判断を誤るようなことが再びあっては、今度こそ悔いが残る。アマリアは胸元のペンダントを握った。母の遺髪と一緒に、女教皇からもらった聖ヒュギエイアの像を入れている。


カモミールのお茶の効果か、アマリアはまどろみ、あっという間に眠りに落ちた。


夜が明けると一行はコスタ子爵の城を出発し、小雨が降る巡礼路をさらに南下した。その日は閉門間際に到着した小さな町で一泊し、翌日の午後にはポルトへたどり着いた。


ポルトの市壁や市門が見えた時、安堵のあまり、アマリアは涙ぐみそうになった。もしかしたら二度と故郷に帰れないかもしれないと思った瞬間がこの1週間で何度かあったのだ。


「おおい、アマリア!」


商人や旅人でごった返す賑々しい市門の前で、そう言ってアマリアに手を振る人影を見つけたのはファビオだった。


「アマリアちゃん、あの人、もしかして……」


アマリアに手を振っているのは肩幅の広い長身の老人だった。豊かな白髪を後頭部で束ね、質素ながら清潔な衣服を適当に着崩した姿でこちらへ歩いてくる。


「セルジオ先生!」


アマリアは窓から顔を出して孤児院長へ手を振り返し、馬車が止まるや否や、キャビンの扉を開けて地面へ飛び降りた。勢いあまってよろけたところを、セルジオの両腕に支えられる。孤児院の子供たちが「むかし海賊だった」という彼の冗談を信じ込むほど、たくましい腕だ。


「おいおい、元気が有り余ってるじゃねえか。顔色もいいな。無事でよかった」


セルジオは嬉しそうな声で笑い、アマリアを固く抱きしめ、それから恭しく王女にお辞儀をした。


「王女殿下、お久しぶりです。事の経緯はルイシュの野郎から聞いています。この度はうちのアマリアがお世話になり、ありがとうございました」


「いいのよ。ルイシュは無事に着いてるのね?」


王女は馬車の中からセルジオを見下ろす。


「はい。昨日の今頃に到着して、すぐに国王陛下へご報告にうかがいました。今日は溜まった仕事を片付けると申しておりました」


「コエントランは?」


「酷い怪我をしていますが、順調に回復しています」


「あなたが治療しているなら心配ないわね。あとで見舞いを持って行かせるわ」


「恐れ入ります」


土埃を上げ、王女の馬車が再び動き始める。アマリアが「王女様、お世話になりました」とお辞儀すると、王女は不安そうな瞳でアマリアを見つめ、小さく手を振った。ファビオが「アマリアちゃんの荷物は店に届けておくよ」と言ってくれたのでアマリアは彼に甘えることにした。クラーラは馭者台から飛び降り、目の前にそびえるポルトの市壁や市門を口を開けて眺めた。


王女の馬車の後には7台の馬車が列をなしていた。その最後尾は国境警備隊の馬車だ。荷台に乗せられたアルメイダの姿が幌の隙間から見えると、セルジオは彼に向かって両手で中指を立てた。アルメイダは暗い笑みを顔に浮かべ、セルジオに何か言った。口の動きから察するに「じゃあな」という別れの言葉のようだった。


「あいつ、すっかり変わっちまったな。昔は仲が良かったんだぜ。同じ師匠の元で修行してたからな」


セルジオは苦々しい表情で馬車の列を見送り、天を仰いだ。晴れ渡った空に無数の白い雲が流れていた。


「セルジオ先生が引退した時、母やルイシュさんをアルメイダ会長に託したのは兄弟弟子だったからなんですね」


「ああ。あいつになら任せられると思ったんだが、ふたりとも全然あいつに懐かなくてなあ。ルイシュに至ってはあいつとつかみ合いの喧嘩をしてコインブラに行っちまうし」


「つ、つかみ合いですか」


それであのふたりは未だに仲が悪いのか。アマリアは8日前のアルメイダとの面談の際、ルイシュが彼に悪態をつきまくっていた理由が分かり、納得した。


「アルメイダの奥方が間に入って止めてくれたらしい。あの人がいなかったら血を見ていただろうってコンスタンサは青い顔してた。あいつにはもったいないくらい賢くて優しい人でな、コンスタンサもルイシュも、彼女には可愛がってもらったようだ」


「会長の奥様には私もご挨拶したことあります。あの方に、母もお世話になってたんですね」


あの優しそうな夫人はアルメイダの悪事のすべてを知っていた。自分の夫が王妃と密通していて、香薬の種の密輸に加担していると知った時、彼女はどんな思いだったのだろう。想像すると胸が痛む。


「しかし、まあ、おまえとルイシュが結婚するってえのは傑作だな。長生きすると面白いもんが見られるぜ」


がははと豪快に笑い、セルジオはアマリアの背中を叩いた。痛い。恥ずかしい。ちょっと嬉しい。アマリアは何と言うべきか迷い、傍らに立つクラーラを紹介することにした。


「先生、この子、私の護衛をしてくれてるクラーラ。教皇庁の斥候せっこうです」


アマリアは視線でクラーラを指し示す。クラーラは自分が紹介されていると悟り、感じの良い微笑みを白皙に浮かべた。セルジオはのけ反って驚いた。


「斥候?!」


「話すと長くなりますけど、枢機卿のレネ・ティリンツォーニ様のお墨付きなので大丈夫です。クラーラ、この人、私の師匠、セルジオ先生」


アマリアは王女にもらった手帖をポケットから取り出し、そこに記されたラテン語の単語を指差した。単語にはポルトゥカーレ語で意味が併記されている。「彼」「私の」「先生」と指をすべらせると、クラーラは頷き、セルジオへ右手を差し出した。


初対面のふたりの握手が済むと、アマリアたちは市門をくぐり、ポルト市の中心部へ向かって歩き始めた。脚を動かしながら、セルジオはアマリアの手帖を覗き込んだ。


「おまえ、便利なもん持ってるじゃねえか」


「王女様とファビオさんが作ってくださったんです。まずはこれで単語を覚えて、いつかラテン語で友達に手紙を書きたいと思ってるんです」


アマリアが決意を語ったその時、クラーラがアマリアのドレスの袖を引いて叫んだ。聞き取れた単語はここ数日でアマリアが覚えたラテン語で「あれ」と「何」だった。


クラーラの視線の先には路面馬車が走っていた。鮮やかな黄色に塗られた木製の大型キャビンが6頭の馬に引かれ、石畳を走る鉄製の軌道に沿ってこちらに近づいてくる。


「クラーラ、路面馬車、知らないの? ジュネーヴにはないのかな」


路面馬車は停留所に止まると、十数人の乗客を降ろし、新たな客を何人かキャビンに乗せた。クラーラは目を輝かせてそれを見ている。市内に張り巡らされた鉄の軌道を走る乗合い馬車のようなもの、と説明したかったが、手帖には必要な単語が見つからなかった。


「先生、中央広場行きですよ、たまには乗ります? 私、香薬師協会本部で香薬の種を買って帰ろうと思ってて」


中央広場や香薬師協会本部があるのは港の近くだ。ここから歩くと30分ほどかけて町を横断することになる。普段なら歩くところだが、クラーラを路面馬車に乗せてあげたかった。


セルジオが同意すると、アマリアは手帖の「あれ」と「乗る」を指した。クラーラは大喜びで停留所へ走り、黄色のキャビンへ乗り込むなり、足取り軽く進行方向へ向かう。窓を背にした座席に腰かけ、身体をよじって街並みを眺める様子から察するに、アマリアを護衛する任務のことは完全に忘れている。


アマリアとセルジオは馭者に運賃を支払い、キャビンへ乗り込んだ。馬が走り始め、車体が揺れる。アマリアはクラーラの隣に、セルジオはアマリアの隣へ腰を下ろした。


「私が留守の間、先生がお店を切り盛りしてくださったとルイシュさんから聞きました。ありがとうございました」


「べつに構わねえよ。今日は勝手に休みにさせてもらったしな」


セルジオは白髪を風になびかせ、鋭い目でアマリアを真っ直ぐに見つめた。


「アマリア、店を開けるのは明日からにして、今日は俺に付き合え。ルイシュから頼まれたんだ、おまえが帰ってきたらコンスタンサの墓に連れていってくれってな」


「母のお墓、ですか」


アマリアは墓参りをしたことがない。亡くなった患者の埋葬以外で墓地に足を踏み入れたことも。


「海食の丘の中腹に小さな教会があってな、コンスタンサの墓はそこにある」


海食の丘は大西洋に面した丘陵だ。坂の多いポルト市内でも最も急勾配な坂がある。


「行きたいです。連れて行ってください」


どんな気持ちで母の墓の前に立てばいいのか分からなかったが、アマリアは頷いた。セルジオは悲しげに微笑み、アマリアの頭を撫で回した。


中央広場に着いて路面馬車を降り、香薬師協会本部へ向かうと建物内は騒然としていた。香薬師協会会長が香薬の種の密輸で逮捕されたのだから、当然といえば当然だった。アマリアはセルジオとクラーラを外で待たせ、何も知らない振りをして窓口へ行き、香薬師の記章を提示して香薬の種を買った。


職員たちのひそひそとした会話から分かったのは、国土保安開発省の調査員が会長室や事務局の帳簿や各種書類の接収を行い、役職者への聞き取りを行っているということだった。


建物を出ると、セルジオとクラーラが香薬師協会本部の窓のひとつに張りついて、室内をのぞいていた。鉄格子のはまった窓の向こうに見えるのは円卓と椅子の並ぶ会議室で、その壁にはアマリアの母の肖像画が飾られている。


8日前、アマリアはこの窓辺に立ち、ルイシュとアルメイダが来るのをひとりで待ちぼうけていた。そして肖像画の母と目が合ったのだ。母は今日も挑むような微笑みを浮かべてアマリアを見ていた。セルジオは「ちょいと美化し過ぎじゃねえか」とルイシュと同じ感想を述べて笑った。


強い日差しに顔をしかめつつ中央広場を横切り、3人は海食の丘へ向かう路面馬車に乗った。路面馬車は軌道に砂を撒きながら急勾配の坂をゆっくりと登った。馬たちの鼻先では馬車馬専用の香薬が焚かれていて、アスクラピア遺跡の石板にそれとよく似たレシピが彫られていたことをアマリアが話すと、セルジオは興味深そうにしていた。


路面馬車が丘の中腹に差しかかり、アマリアたちは小ぢんまりとした教会前で下車した。教会の扉には“聖ヒュギエイアの教会”という青銅の看板が掲げられていた。隣接する施療院せりょういんは2階建てで立派だったが、教会の方は手入れが行き届いていない様子で、石柱を飾るタイルは色褪せ、屋根には板で穴をふさいだ跡まである。


セルジオが扉を開け、3人は暗幕をくぐって教会の中に入った。屋内も経年劣化が激しく、四方の壁一面に敷き詰められた青と白の絵付けタイルがところどころ剥がれている。古めかしい木製の信者席がスペースの許す限り詰め込まれているが、30人も着席できないだろう。


クラーラは入口の床に片膝をついた。その視線の先には聖ヒュギエイアの像を祭るささやかな祭壇がある。聖人の足元には野花や果実やロウソクが供えられていた。


訪問者に気がつき、祭壇の脇の扉から出てきたのは女性の司祭だった。清貧という言葉が祭服を着て歩いているような中年の女性だ。彼女は表情の乏しい顔でセルジオと言葉を交わし、アマリアたちを裏口へ案内した。


教会の裏には背の高い糸杉が立ち並ぶ緑の丘が広がっていた。無数の白い墓石が整然と横たわり、その向こうには青空と大西洋が果てしなく続いている。吹き渡る潮風にドレスの裾と髪を弄ばれながら、アマリアは柔らかな雑草を踏みしめて歩いた。胸がドキドキと高鳴っていた。


「ここだ」


セルジオが足を止めたのは特徴のない墓石の前だった。その周りには小さな花が咲いていた。三角形の紫の葉に無数の白い花がついた草丈の低い植物だ。


「この花、孤児院の庭にも咲いてますよね。母のお店の裏庭にも」


「ああ、コンスタンサが好きだった。昔、ルイシュがブラジル総督府の花壇から拝借してきた花でな、オキザリス何とかっていう長ったらしい名前の、よく分からんやつだ。コンスタンサを埋葬した後、王女殿下が球根を移植してくださったんだ」 


アマリアは花々の上に両膝をついた。墓石の表面は浜辺から飛んできたであろう砂埃にうっすらと覆われていた。この下に棺が埋められ、その中に母の遺体がある。コンスタンサ・フェレイラ・ディアスという人が、間違いなくこの世にいた。肖像画でも、芝居の主人公でも、思い出話の登場人物でもなく、生身の人間として存在していた。突然に大きな実感がわき、アマリアは戸惑った。


墓石には何か文字が彫られていた。砂埃をかぶっていて読めなかったが、姓名や没年ではなさそうだった。アマリアは表面の汚れを丁寧に手で払った。現れたのは、ただ一言「いつか友達みたいに」という言葉だった。


「コンスタンサがよく言ってた言葉だ。いつかアマリアに会えたら友達みたいに仲良くなりたいってな」


それはルイシュからも聞いていた話だった。ポルト近郊の雑木林の小川のほとりで、彼から母の遺髪をもらった時に。だが、母の言葉はその時よりずっと重く感じた。


アマリアは手の汚れをはらい、首から下げたペンダントのふたをスライドさせ、母の遺髪に指で触れた。ここに私を産んだ母親が眠っている。許されぬ相手と恋をして、未婚のまま私生児を産んで手放し、ルイシュに内緒で孤児院を訪れアマリアの成長をこっそりと見守っていたという母が。


「――やっぱり、会ってみたかったなあ……!」


ルイシュの前では決して言えない言葉だった。両目から涙がこぼれていた。


「私も、仲良くなりたかった……友達みたいに……!」


墓石の下の母に届くように、アマリアは花々がひしめく地面へ向かって大声で叫んだ。そして、聞こえるはずのない返事を待った。母はどんな声をしていたんだろう。


ふと、鼻先に白いハンカチが現れ、アマリアは顔を上げた。クラーラがアマリアの隣にしゃがみ込み、気遣うような瞳でハンカチを差し出していた。


「ありがとう」


大事なラテン語をまだ覚えていなかった。アマリアはクラーラのハンカチを借り、頬の涙を拭きながら思った。

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