43.帰路(1)

翌朝、アマリアはルイシュとともに王女に婚約の報告をした。王女はルイシュのことをまだ怒っていて、ふたりは非常に素っ気ない祝福の言葉を賜った。王女の部屋を辞すると、ルイシュはすぐに旅の荷物を持って厩舎へ向った。


「俺は先に馬で帰る。おまえは王女殿下と一緒に馬車でゆっくり帰ってこい。その方がはるかに安全だ」


ポルトまで彼と一緒に帰るものだと思っていたアマリアはエントランスの車寄せを横切りながらルイシュに追いすがった。糸杉並木がオレンジ色の朝陽を浴び、前庭には細長い影が無数に横たわっている。


「私も一緒に帰ります。ルイシュさんの馬に乗せてください」


「ダメだ。二人乗りは速度が出せない。俺は一刻も早く帰らないと、仕事が溜まってるし、コエントランのことも心配だ」


私だって早く帰って仕事に戻りたいのに。不満を抱えつつ、アマリアは引き下がった。そろそろ月経が始まりそうだということを思い出したのだ。馬の背にまたがるのは都合が悪い。


厩舎の前では、2頭の馬を連れたエンリケがルイシュを待っていた。アマリアが「私を差し置いてルイシュさんとふたりきりで旅するなんて」と恨みと妬みを込めてエンリケを見ると、彼は面倒くさそうに顔をしかめた。


「あのね、アマリア、僕だって何も好き好んでこのオッサンとふたり旅するんじゃないんだよ」


言いながら、エンリケは馬の手綱のひとつをルイシュに渡す。その時、アマリアは彼の異変に気がつき、ぽかんと口を開けた。エンリケの髪が短くなっていた。彼のトレードマークであるさそりの形に編み込まれた赤茶の髪が、襟足から先がない。


「エンリケさん、髪、どうしたんですか?」


「オリオンに持ってかれた。さそり退治だってさ」


エンリケは憮然とした顔で言って、自分の首筋を撫でた。夜明け前にオリオンとの決闘に出かけたことは知っていた。見たところ無傷の様子だが、髪を切られたということは、勝負に敗れたのだろうか。


「オリオンに負けたんですか?」


「僕が負けるわけないでしょ。あ、例のものはオリオンに渡しておいたから、女教皇のところに届いてると思うよ」


アマリアは決闘に向かうエンリケにお使いを頼んだ。女教皇の治療に使ってほしいという手紙を添えて、手持ちの香薬の種すべてと調合済みの薬草を託したのだ。


「ありがとうございます。使い走りをさせて、すみませんでした」


「君もなかなかのお人好しだよね。じゃ、王女様の言うこと聞いて、勝手なことや危ないことするんじゃないよ?」


子供に諭すように言い聞かせ、エンリケは馬に跨る。ルイシュもすでに馬上の人となっていた。


「香薬は嫌いだけど、君の店にはたまに行くよ」


ややしんみりとした様子でエンリケが告げた時、アマリアはようやく理解した。アマリアもエンリケも、それぞれの日常に戻るのだ。故郷に帰ることができるのは嬉しかったが、アマリアはそれを心から淋しく思った。


「私もエンリケさんの顔を見に、古の王墓の発掘現場、行きますね」


「なんか壊しそうだから来なくていい」


エンリケは片頬を上げて笑うと馬を駆り、前庭の糸杉並木を通り抜け、離宮の正門を出て行った。言いたいことを何もかもエンリケに言われてしまったのだろう、ルイシュは「じゃあ、またポルトでな」という言葉だけ残し、元盗賊に続こうとした。


「あれ、コスタ大臣、婚約者にそれだけですか?」


アマリアの背後から現れ、そう言ったのはさわやかの弟だった。王宮護衛隊の中でも王女からの信頼が厚い彼は、ふたりが婚約したことを知っている。にやにやと笑いながら近づいてくる青年に、ルイシュは不機嫌そうな顔を向けた。


「余計なお世話だ。それより、今度こそ頼んだぞ。目を離すとどこへ飛んでいくか分からないからな」


「ええ、昨日のことでよく分かりました。アマリアちゃん、王妃殿下のこともあるし、私から離れないでね」


アマリアの横に立ち、さわやかの弟はにこりと頼もしげに微笑む。昨日は彼の隙をついてレネとともに離宮を抜け出したが、今日からは監視の目が厳しくなりそうだ。金髪碧眼の爽やかな青年を見上げ、アマリアは「はーい」と力なく返事をした。


「アマリア」


ルイシュは馬上から腕を伸ばし、アマリアの頬に指で触れ、甘い眼差しで婚約者を見つめた。


「無事に帰ってこい」


「はい。ルイシュさんもお気をつけて」


ドキドキしながら彼を見つめ返すと、ルイシュは馬にまたがったまま身を乗り出し、アマリアの額にキスをした。彼は照れくさそうな顔で再び「じゃあな」と繰り返し、馬を操って走り去った。アマリアは腰を抜かした。


「うわ、アマリアちゃん、大丈夫?」 


さわやかの弟が地面にへたり込んだアマリアを助け起こす。厩舎前はあまり清潔ではない。


「あ、わ、わ、ジョアンさん、私、私……!」


全身に大汗をかき、浅い呼吸をしながら、アマリアは自分の鼻を触った。鼻血は出ていない。


「アマリアちゃん、落ち着いて。ジョアンは兄の方。私はファビオだよ」


そうだった。今度こそ覚えよう。


「結婚式って来月なんだよね? おでこにキスくらいで腰を抜かしてるようじゃ、心配だなあ」


ファビオはふらつくアマリアを連れてエントランスへ戻りつつ苦笑した。アマリアとルイシュの結婚式は9月にコスタ子爵領内の教会で行われることになった。つい先ほど、ルイシュと王女がアマリアの目の前で決めてしまったのだ。


「どうしてですか?」


「どうして、って。もしかして、アマリアちゃん、結婚式に参列したこと、ない?」


「ないです」


元孤児のアマリアにとっては結婚も結婚式も縁遠い話だ。孤児院出身の仲間で結婚した者はいない。ファビオは事情を察したようで、遠慮がちに教えてくれた。


「そっか。あのね、結婚式って、天の神々と司祭様と参列した人たちの前で結婚の誓いを立てるでしょう。その時、新郎新婦は誓いのキスをするんだよ」


「そ、それって、私とルイシュさんがキスするってことですか? あんな世界一素敵な人と、私が?」


「コスタ大臣が世界一素敵かどうかはさておき、君たちの結婚式なんだから、他に誰と誰がするのさ?」


ルイシュとのキス。想像しただけでくらくらした。


「あの、すいませんけど、出発ってまだなんすか?」


横から声をかけられ、アマリアとファビオは足を止めた。振り向くと、国境警備隊の制服を着た屈強そうな3人の若者が立っていた。普段はスペインとの国境に配置されている彼らは、アルメイダをポルトまで護送する任務を与えられている。


「準備はほぼ整っています。王女殿下のお支度が整い次第、出発します」


ファビオは礼儀正しく朗らかに答えた。国境警備隊の兵士たちは不満げな顔を見合わせた。彼らはルイシュの部下だ。上司に似て短気なのかもしれない。


「アルメイダ会長はどんな様子ですか?」


香薬の種の密輸、未成年誘拐、離宮の襲撃の容疑をかけられた老人は、地下牢で夜を明かしたと王女から聞いた。年齢も年齢なので、アマリアはアルメイダの体調を案じ、思わずそう聞いてしまった。


「まあまあ元気だぜ」


「うん、朝飯も結構しっかり食ってたな」


「得体の知れない、ひでえ匂いを放ってるけどな」


悪臭の原因はアマリアが発酵タラの塩漬けをアルメイダの顔にぶちまけたせいだ。


「会長と会ってもいいですか? 少し話すだけです」


思い切ってアマリアが申し出ると、隣に立つファビオが「え?」と仰天した。アマリアにはアルメイダに確かめたいことがあったのだ。


兵士たちは再び顔を見合わせ、小さな声で「コスタ大臣が後見人をしてる香薬師だ」「ああ、例の」「話すだけなら、いいんじゃねえか」とささやき合ってから、アマリアを手招いた。


アマリアとファビオが案内されたのは厩舎の裏だった。そこには国境警備隊の幌つき馬車が止められていて、兵士が荷台の幌を上げると、両手を背中で縛られたアルメイダが座っていた。傍らには国境警備隊の兵士がふたりいて、あぐらをかいて向かい合い、携帯用のチェスに興じている。


アルメイダは立てた膝に顔を埋めていたが、気配を察したのかゆっくりと顔を上げた。


「会長、おはようございます。馬鹿で目障りで己の正義に酔った自分勝手でわがままな小娘のアマリアです」


アマリアが声をかけると、アルメイダは虚ろな目でこちらを見た。髪が乱れ、髭が伸び、悪臭を漂わせていて、廃人のようだった。


「意外と根に持つんだな」


「持ちますよ。面と向かってあんな悪口を言われたのは子供の頃以来です」


アマリアはドレスの裾を持ち上げ、荷台によじ登った。背後でファビオが「ちょっと、アマリアちゃん!」と悲鳴を上げたが、気にせずアルメイダに近づき、彼の正面に両膝を着いて座る。


老人からは覇気がまるで感じられず、アマリアはアルメイダを危険だとは思わなかった。斜め後ろにファビオが立ち、腰の剣をいつでも抜けるよう身構える気配がした。見張りの兵士たちもチェス盤から目を上げ、わずかに警戒するような素振りを見せた。


「何の用だ? 私に仕返しをしに来たのか?」


アルメイダに問われ、アマリアは内心でため息をついた。答えるのもばかばかしい質問だ。アマリアには仕返しなどしている暇はない。


「違います。王妃様について、教えていただきたいことがあります」


アマリアはさっそく本題を切り出した。自分自身やルイシュの安全がかかっているので真剣だ。


「オリオンから聞いたんですけど。何年か前に、教皇庁がポルトゥカーレに香薬の種の輸出について打診した時、香薬師協会が断固としてそれを認めなかったって」


3日前にその話を聞いた時は何とも思わなかったが、王妃とアルメイダの関係を知ってしまってからは別だ。


「会長の背後には王妃様がいらしたわけですよね。それなのに、なぜ王妃様は“教皇庁の申し出を受けろ”と会長へお命じにならなかったんですか?」


老人は小馬鹿にしたような顔でアマリアを笑った。


「単純な話だ。ルシア様は御母堂を恨み、憎んでおられる。密輸によって得た利益はほとんどルシア様の懐に入っていた。あの方は病に苦しむ実の母親から、10年以上に渡って大金を巻き上げ続けていたのさ」


アルメイダの答えはアマリアがある程度、想像していたものに近かった。しかし、肖像画で見た、あの繊細そうで気が小さそうな女性がそんなことをするなんて、にわかには信じがたい。


「今回のことも、母親に質の高い治療を受けさせたいと願っていたのはマガリャンイス伯爵夫人だけだ。ルシア様はおまえをこの国から追放して、一生、ジュネーヴで種の生成をさせることしか考えておられなかった」


アマリアは思わず自分の両肩を抱いた。


「王妃様って怖い方ですか?」


アマリアの問いをアルメイダは再び笑った。ぞっとするほど暗い目をしていた。


「本当に怖い人間とは、話が通じない上に権力を持っているものでな。ポルトに帰れば、ルシア様に殺されるぞ。おまえも、私も」


「アマリアちゃん、もう行こう。そろそろ王女殿下がおでましになるだろうから」


ファビオに促され、アマリアは立ち上がった。馬車の荷台から飛び降り、アルメイダの脅しを真に受けまいと大股でエントランスへ向かうも、膝が震えていた。


「ファビオさんは王妃様の護衛をしたこと、ありますか?」


隣を歩く王宮護衛隊の青年に問うと、彼は歯に物が挟まったような返答を寄越した。


「いや、私や兄は一度も。王妃殿下のおそばに寄れるのは限られた兵士や侍女だけなんだ。王妃殿下はちょっと難しいお方だから」


「それは繊細な性格をされてる、ってことですか?」


「うーん、何と答えるべきかな」


ファビオが首をひねった時、御影石のエントランスホールから王女が出てくるのが見えた。可憐な姫君は旅行用のドレス姿で馬車に乗り込みつつ、アマリアへ目を向ける。


「アマリア、あなたもこちらへ乗るのよ。早くいらっしゃい」


王女に呼ばれ、アマリアとファビオは王女の馬車に駆け寄った。キャビンの後ろにはアマリアの荷物がすでに積み込まれている。ファビオの手を借りてシートに座ると、馬車はすぐに動き出した。


愛する人から求婚された思い出の場所があっという間に遠ざかる。もしも再びここを訪れることがあるとすれば、その時は母親になっているのかもしれない。感慨深い思いで離宮を見つめるアマリアに、王女は不機嫌そうに口を開いた。


「アマリア、あなた、本を出したらどう? タイトルは“24時間以内に意中の男に求婚させる七つの法則”」


アマリアの向かいに座る王女は淑女らしからぬ大変なしかめ面をしていた。“最後の一手”を内緒にしていたルイシュへのお怒りが収まらず、その上、アマリアがルイシュの心を射止めたこともお気に召さない様子だった。最初に「結婚しなさい」と言い出したのは王女様なのになあ、とアマリアは少し理不尽に思った。


「だ、出しません。そんな法則ないですし。ただ泣き落としただけですし。というか、全面的に、ルイシュさんの短気で短慮のなせるわざですし」


「あーら、そうなのお? 本当にい?」


この調子でポルトまで2泊3日の旅が続くと思うと、胃に穴が開きそうだ。隣のファビオを見ると、彼も居心地の悪そうな顔をしていた。


今朝のコンポステーラは快晴だった。雲ひとつない夏空に眩い太陽が輝き、大西洋から穏やかな潮風が吹いている。祝祭の余韻を楽しんで街を歩く観光客もいれば、家路へつくのか大きな荷物を背負って市門へ向かう巡礼者もいた。その頭上には無数のカモメが飛び交っている。


「何かしら」


王女が首を傾げたのは中央広場の手前に差しかかった時だった。馬車が停止したのだ。アマリアが窓から顔を出すと、よく知った人が前方から歩いてくるのが見えた。


「エウさん!」


「よう、アマリア!」


中央広場の石畳を悠々と歩いてくる幼馴染は太陽のように明るく破顔した。夜明け団の制服ではなく私服を着ていて、なぜかクラーラを連れていた。


「大臣と婚約したってオリオンに聞いたぞ、おめでとう! あ、王女殿下、どうもご愁傷様です!」


「やかましいわよ、エウゼビオ、さっさとジュネーヴへ行っておしまい!」


エウゼビオの気遣いは傷心の王女には届かなかった。


「殿下~、そんなこと、おっしゃらないでくださいよ。あ、今日はこれをお持ちしたんです。レネ様からのお手紙です」


そう言ってエウゼビオが差し出したのは赤い封蝋のついた手紙だった。ファビオが窓から手を伸ばしてそれを受け取り、王女へ手渡す。


王女は細い指で封蝋を割り、手紙を広げて目を通した。もともとご機嫌ななめだった姫君の表情はさらに険しさを増した。


「レネ叔父様はまだ公使館におられるのよね?」


手紙を読み終えると、王女は悩ましげな顔を上げた。エウゼビオは首を横に振った。


「いえ、女教皇猊下とご一緒に船に乗られて、もう出港なさいました」


「エウゼビオ、あなた、置いていかれたの?」


「違いますよ~。私はフランシスカをヌーシャルテルまで送り届けるようにと、猊下のご命令を受けたんです」


エウゼビオが説明した時、彼の背後からクラーラが進み出て、馬車の馭者台へ勝手に上がった。長い金髪を太い三つ編みにした背の低い娘は、馭者を務める王宮護衛隊の兵士の隣にちょこんと座った。


「アマリア、クラーラはおまえに預ける。レネ様がおまえの護衛として連れていくようにって、お気遣いくださったんだ。こいつの強さは知ってるだろ?」


「え、私の護衛?」


アマリアは驚き、王女の顔色をうかがった。案の定、姫君は表情を曇らせた。


「レネ叔父様のお気持ちは有難いけれど、教皇庁の斥候せっこうを連れてはいけないわ」


「ご心配には及びませんよ。クラーラは骨の髄までレネ様派ですから。ポルトゥカーレ語も分かりませんし、大した脅威にはなりません。それ以上に、必ずお役に立ちます」


エウゼビオは意味深な笑みを顔に浮かべ、王女が手に持つレネからの手紙に視線を注いだ。王女は彼の視線に気がつき、頷いた。


「わかったわ。事が済んだらジュネーヴへ帰せばいいわね?」


「はい、レネ様からもそのように仰せつかっています」


彼らのやりとりに不穏なものを感じ、アマリアは異母姉妹と幼馴染の顔を交互に見た。アマリアの心中を察したのか、王女がアマリアの手に自分の手を重ねた。


「アマリア、詳しいことは道中で話すわ。大丈夫、心配は要らないわよ」


他の誰に同じことを言われても、こうも頼もしくは思わなかっただろう。アマリアは王女に頷き、窓から身を乗り出して、馭者台に座るクラーラに「よろしくね」と言った。王女の侍女のような落ち着いたドレス姿のクラーラは可愛らしくにこりと微笑み、アマリアへ小さく手を振る。


「あ、そうだ、アマリア、これ、おまえにやる」


エウゼビオは思い出したように言って、背後に隠していた何かをアマリアへ突き出した。青い紫陽花あじさいの花束だった。


「ちゃんとしたお祝いは後日、改めて送るけどな」


「ありがとう!」


アマリアは御礼を言って花束を受け取ろうとした。


「おい、ボンクラ息子」


横から現れてエウゼビオの肩を拳で小突いたのは小柄な女性だった。つばの広い帽子をかぶり、男ものの服で旅支度をしている。アマリアは自分の目を疑った。その人はマガリャンイス伯爵夫人フランシスカだった。


「紫陽花はやめろと、この前も言ったはずだ。額の色がころころ変わって、心変わりを連想させるから縁起が悪いと」


フランシスカはそう言って義理の息子から花束を奪い、道端に放り捨てた。


「あ、おい! なんて横暴な母親だよ~!」


エウゼビオは悲鳴を上げ、慌てて花束を追いかける。


「あの、フランシスカ叔母様、そのお姿は……?」


おずおずと尋ねる王女に、フランシスカは得意げな笑顔を見せた。よく見ると美しい黒髪も肩口で切りそろえている。


「べつに構わないだろう? しばらくは自由の身なのだから」


フランシスカは驚いて言葉を失っているアマリアに目を向け、一本の鍵を差し出した。


「マガリャンイス伯爵家の私の衣装部屋の鍵だ。これからは王宮に参ずることも、社交の場に出ることもあるだろう。使えるものがあれば好きなだけ持って行け。特に、私が14歳の時に着た花嫁衣装はおまえの丸太のような体型にはちょうどいいはずだ」


アマリアが戸惑っていると、フランシスカはアマリアの手に鍵を握らせ、その場から立ち去った。男装姿の彼女は人々で賑わう中央広場を颯爽と歩いていく。


「あ、おい、待てよ、フランシスカ! では、殿下、今度こそ失礼します! アマリア、俺が帰るまで元気でいろよ! ファビオ、アマリアを頼んだぜ!」


エウゼビオは大慌てで別れを告げ、紫陽花の花束を握りしめてフランシスカを追いかけた。王女は「落ち着きのない男ね」とぼやき、ファビオは苦笑しながら「出してくれ」と馭者へ声をかけた。


馭者台の兵士が手綱を操り、馬車がゆっくりと動き出す。アマリアは窓から顔を出し、目を凝らした。遠くに見えるフランシスカは大道芸人の曲芸を興味深そうに眺めていた。エウゼビオは彼女の隣に並んで立つと、ポケットから小銭を取り出して、それを芸人の足元の帽子に投げ入れる。彼がフランシスカに小銭を渡すと、伯爵夫人は見よう見まねでおひねりを投げた。


深い因縁を持つ義理の母子が仲睦まじく会話しているのを、アマリアはこれまで一度も見たことがなかった。しかし今、中央広場にたたずむ彼らはどこか打ち解けた様子だった。


「これはレネ叔父様から聞いたのだけど」


王女が語り出し、アマリアは視線を彼女へ向けた。次期君主は胸を痛めるような表情で、二度と会うことのない叔母の姿を見つめていた。


「フランシスカ叔母様とエウゼビオの父親はジュネーヴで出会って、互いにひと目で恋に落ちたんですって。当時、エウゼビオの父親は夜明け団にいて、女教皇猊下にとても気に入られていたそうよ。ふたりは愛を育み、縁談はとんとん拍子に進み、エウゼビオの父親が任期を終えて帰国する時に、フランシスカ叔母様は彼に嫁いだの」


前マガリャンイス伯爵夫妻の馴れ初めは、そこまで聞いた限りではとても素敵だ。だが、アマリアも王女もその結末を知っている。


「けれど、いざ嫁いでみれば、彼には妾と9歳の息子がいて、彼は妾の言いなりだった。そして、そのことを社交界の誰もが知っていた。女教皇猊下がそんな大ぴらな情報をつかんでいなかったわけがないし、私の母上がそれを知らなかったわけがないのよ」


「女教皇様も、王妃様も、フランシスカ様が不幸になると分かっていて、黙っていたってことですか?」


「ええ。結婚とはそういうものと言ってしまえばそれまでだけれど、フランシスカ叔母様のお気持ちを考えると、私は切ないわ」


アマリアも同感だった。フランシスカへの恨みや怒りが消えることはなかったが、彼女の半生には同情を禁じ得ない。


アマリアが遠ざかる義理の母子に視線を戻したその時、エウゼビオが持っていた花束をフランシスカに差し出した。彼は照れた様子で頭をかき、花束とともに彼女へ短い言葉を贈ったように見えた。


フランシスカは青い紫陽花の花束を一瞥して眉をひそめ、エウゼビオを睨んだものの、不愛想な顔で何か言ってそれを受け取った。そして次の瞬間、花束をあさっての方へ放り投げた。


強い日差しが照りつける中央広場の真ん中で、フランシスカは天を仰ぎ、口を開け、腹を抱えて大笑いした。エウゼビオは両手を広げて大袈裟に抗議したが、やがて彼も顔をくしゃくしゃにして笑い出した。笑い転げるふたりの姿はすぐに群衆の向こうに見えなくなった。


「あのふたり、ひょっとすると、ひょっとするかもしれないわね」


王女が真剣な声色で言うと、ファビオが深く頷いた。


「殿下、私も同じことを考えていました」


アマリアの胸にも「もしかして」という期待は膨らんでいたが、何と言ってもフランシスカには10歳のエウゼビオを孤児院送りにした過去があるし、エウゼビオは彼女の前夫の庶子だ。


「お似合いだとは思いますけど、ちょっと因縁が深すぎませんか」


アマリアの慎重な意見に王女とファビオはやれやれという顔をした。


「分かってないわね、アマリア」


「そうだよ、アマリアちゃん」


「因縁は恋の燃料」


「いいお言葉です、殿下」


「一度火がつけば、あっという間に勢いよく燃え上がるものよ」


そういうものか。アマリアはシートの背にもたれ、王女が「私も大恋愛がしたいわあ」と嘆く声を聞きながら、フランシスカにもらった鍵を手の中で転がした。馬車は市門をくぐり抜け、石畳の巡礼路を南へ走り始めた。


ヌーシャルテルに着いたら、フランシスカは女子修道院で暮らすことが決まっているという。レネが「フランシスカは抹香くさいところが嫌い」と言っていたので少し心配だ。


アマリアは彼らが無事に目的地へたどり着くことを祈り、小さくなるコンポステーラの市壁を見えなくなるまで眺めていた。

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