42.愛くるしい花
女教皇と枢機卿が立ち去った後も、大聖堂を訪れる人々は途絶えることがなかった。アマリアはルイシュとともに主祭壇へロウソクを捧げ、堂外へ出た。
つづら折りの正面階段の前には教皇庁の馬車が止まっていて、レネの従者がアマリアたちを待っていた。アマリアは欠伸を噛み殺しながら馬車に乗り、ルイシュも似たような表情でそれに倣う。
「さっき、レネ様とどんなお話をされていたんですか?」
馬車が動き出すと、アマリアは尋ねた。アマリアが女教皇を治療している間、ルイシュはレネと熱心に話し込んでいた。
「コンスタンサの最期がどんなだったか詳しく聞かせてほしいと請われた。それと、これは国王陛下に伝えるつもりだが、ポルトゥカーレには福祉政策を担う行政組織がないので大変けしからんとお叱りを受けた。教会が運営している救貧院や孤児院を頼りにするばかりで、おまえたちは何もしないのか、と」
「それは、ルイシュさんがお叱りを受けることではないと思います。それに、私がいた孤児院は貴族や商人の方の支援で運営されていました。私の血肉を作ったのは人々の善意です。教会じゃありません」
アマリアは熱意を持ってルイシュをかばった。孤児院の支援者の筆頭は母やルイシュではあったが、その他にもたくさんの人々がアマリアの成長を支えてくれた。
ルイシュは困ったように眉を下げた。
「落ち着け。実は俺も枢機卿と似た意見をずっと持っていた。3年前、コンスタンサの遺言で、あいつの莫大な遺産を国中の施設へ贈与しただろ。国内にどんな施設がいくつあるか、どこの省庁も把握していなかった。各領主に手紙を出して納税の記録を見せてもらったり、シラミつぶしに調べて遺産を分配したが、漏れも相当にあったと思う。一度、徹底的に調査して、施設が不足している地域があれば補填を考えるべきだし、経営に苦しんでいる施設があれば支援すべきだ」
半ば独り言のように持論を述べてから、ルイシュはやけに嬉しそうな顔で続けた。
「コンスタンサはおまえがきっかけで慈善活動を始めたが、途中からは活動そのものに傾倒していた。教会や善意の支援には限界がある、国が支援すべきだと、枢機卿宛の手紙にもそう書いたような気がする。あの方はそれを覚えておいでだったんだ」
ルイシュは穏やかな微笑みを顔に浮かべ、「コンスタンサと枢機卿は長年に渡って文通を続けていて、コンスタンサはラテン語ができなかったから俺が代筆していた」と説明を加えた。
母の願いが叶い、困っている人への支援が厚くなるなら、それは喜ばしいことだ。アマリアはそう言おうとしたが、口を開きかけた瞬間にルイシュが「ああ、そうか」とつぶやいた。
「どうしました?」
「例の遺跡を壊した時、王女殿下がこうおっしゃっていた。死者はもう何も言えない。何も成し遂げられない。だから彼らが遺した言葉や物や切なる願いは大切にしなくちゃいけない、と。こういうことなんだな」
ルイシュはしみじみと述べ、窓の向こうに広がる夜の闇を眺めた。叱られてきちんと反省するなんて立派だ、とアマリアは彼にときめいた。あまり反省しない自分が異常だということは薄々は知っている。
アマリアの熱い眼差しには気がつかず、ルイシュは視線をアマリアへ戻した。不安そうな目をしていた。
「枢機卿ともうひとつ、大事な話をした。ポルトに帰ったら王妃殿下にはくれぐれも気をつけろとご忠告をいただいた」
王妃に気をつけろ。アマリアは数時間前に見た悪夢を思い出した。燃える王宮で、短剣を握りしめた王妃に追い詰められる夢だ。
「王妃殿下のコンスタンサに対する恨みは病的に深いと枢機卿はおっしゃっていた。アマリアをポルトゥカーレから追放できなかったことを不満に思っているはずだ、と」
つくづく勝手な話だ。恨むなら夫である国王を恨むべきだろうに。アマリアは改めて王妃に腹が立った。エウゼビオの両親を殺害し、アルメイダを利用し続け、フランシスカに復讐の代行をさせようとしていたことも許し難い。
「私、王妃様に殺されるつもりはないです」
「その意気は頼もしいが、余計なことはするなよ」
ルイシュの顔には「言っても無駄だろうな」と書いてあった。
「まあ、王妃殿下はご出産が近い。マガリャンイス伯爵夫人やアルメイダといった近しい協力者も失った。今すぐにおまえが危害を加えられることはないだろう」
そうであってほしいという願望のこもった言葉を述べ、ルイシュはため息をついた。
「レネ様が気をつけろとおっしゃったのは、私だけではないんじゃないでしょうか」
アマリアはふと思いついて言った。
「サルースの杯を隠したり、私をフランシスカ様から取り返したり、今回、ルイシュさんは色々してくださいましたから。王妃様に恨まれている可能性はありますよ」
王妃はアマリアに対して理不尽な怨嗟の念を抱いている。くだらない理由でルイシュに危害を加えても不思議ではない。
「そうかもしれないな。……コエントランは大丈夫だろうか」
アルメイダによれば、王妃はサルースの杯の隠し場所を突き止めるべく、コスタ子爵の城に立ち入ったり、コエントランに尋問をしたという。
「酷い目に遭っていなければいいが……」
ルイシュは自分の屋敷に引き取った元孤児たちを大切にしている。彼は心配そうに表情を歪め、再び窓の外を見た。馬車は離宮へ続く曲がりくねった坂道を上っていた。
正門を抜け、離宮の車寄せに馬車が止まると、ふたりはキャビンから降りてレネの従者に別れを告げた。アマリアの命の恩人は馭者台に座ったまま朗らかに微笑み、ラテン語で何か言ってから、慣れた手つきで手綱を操って去っていった。
「今、あの方、何ておっしゃったんですか?」
アマリアは隣に立つルイシュに通訳を頼んだ。
「私の髪のことは心配しないでくれ、いつまでもお元気で、と言ってた」
いつまでも元気で。定型文なのかもしれないが、アマリアは嬉しかった。酷いことばかりの1週間だったが、彼とはこんなことがなければ出会うことはなかった。遠きジュネーヴの教皇庁職員と心を通わせたことを幸せに思いながら、アマリアは御影石のホールへ向かおうと身体の向きを変えた。
「おい、まだ話が終わってないだろ。少し歩こう。いいところに連れて行ってやる」
ルイシュはそう言ってアマリアを呼び止め、車寄せに立っていた兵士からランタンを借りると厩舎の方へ足を向けた。
アマリアとしては、結論はすでに出ている。王宮伯夫人にはなりたくない。ルイシュの恋人になりたい。一瞬、このまま逃げてしまおうかと思ったが「いいところ」がどこなのか気になり、アマリアは彼について行った。
「足元に気をつけろよ」
今夜は新月だ。空は暗く、星々の光がいつもより強く感じた。ルイシュはランタンの明かりで足元を照らし、厩舎の脇の細い階段を下り始めた。階段は離宮の裏の海岸へ続いていた。
「どうして恋人じゃダメなのか、説明していいか」
階段を下りながらルイシュが低い声で切り出した。アマリアは小さな声で「はい」と答えた。彼に言いくるめられそうな予感がして、心の中で眉に唾をつける。
「理由はふたつある。ひとつは、おまえに私生児を産んでほしくない。もうひとつは、俺は配偶者以外に自分の子供を産ませたくない。コンスタンサと国王陛下をずっと見てきたからだ」
23年前、母は未婚で出産した。その時、父には妻がいた。ルイシュは友人として、臣下として、彼らの悲喜交々を目の当たりにしてきたのだ。
「俺はコンスタンサを不幸だとも憐れだとも思わない。あいつは死ぬまで陛下を想い続け、自分の望んだ人生を生きたと思う。あいつの心残りはおまえだけだ。でもな、コンスタンサが陛下のことで傷つき、長年に渡って苦しんでいたのは確かだ。おまえにはあんな思いはさせたくない。そして、陛下と同じことを、俺はしたくない。このふたつは、絶対に譲れないことだ」
岸辺にぶつかった波が砕け散る大きな音がした。白いしぶきが風に乗って飛んでくる。ルイシュは階段を下りきり、ごつごつとした岩場に立った。彼はアマリアを振り返り、真剣な顔つきで手を差し出した。アマリアはルイシュに自分の手を委ね、彼と並んで岩場を歩いた。
「王様のこと、お嫌いなんですか?」
「陛下のことは尊敬してる。恩義も友情もある。だが、本音を言えば、そういう気持ちも多少あると思う。最低だよな、忠臣のような振りをして」
厳しい口調で己を責め、ルイシュは暗い声で笑った。聞いてはいけないことを聞いてしまったのかもしれない。アマリアが謝罪の言葉を口にしようとした時、ルイシュが足を止めた。
「ここだ。子供の頃の秘密の釣り場。……こんなに狭かったかな」
ルイシュは懐かしそうに目を細め、辺りをランタンで照らした。そこは比較的に平坦な岩場で、小さな入江のようになっていた。大木の枝葉が覆いかぶさるように伸び広がり、日中は魚が好みそうな影を海面に落としていることだろう。
「30年前の夏に、ルイシュさんと王様が毎日、釣りをしたって場所ですか?」
「そうだ。陛下とはこの先の海辺で出会って、俺がここにへお連れした」
得意げに言うルイシュにアマリアは思わず笑ってしまった。離宮の裏の海岸を秘密の釣り場にしていて、そこへ王子殿下を連れて行くなんて、なかなかの大物だ。
「あの時、国王陛下に声をかけたのは俺だ。コンスタンサと出会ったのは、俺が家出をしてセルジオ先生のところへ転がり込んだからだ。そして、俺が陛下とコンスタンサを引き合わせた」
「もしも、この海辺でルイシュさんが王様に声をかけていなかったら、ルイシュさんが家出していなかったら、私、生まれてなかったってことですよね」
アマリアは胸を高鳴らせながら、夜の海を見渡した。この海辺が、ルイシュが、アマリアのすべての始まりだったのだ。
「実はそれだけじゃない」
ルイシュはわずかに迷うような素振りをしてから言った。
「国王陛下と王妃殿下のご婚約が正式に発表された日、コンスタンサは王宮へ陛下に会いに行こうとした。セルジオ先生も夫人も寝静まった頃、遠雷が轟く真夜中だった」
突然に始まった昔語りに戸惑いつつ、アマリアはルイシュの話に耳を傾けた。
「セルジオ先生の家の前に馬車が止まる音がして、俺は2階の寝室の窓から外をのぞいた。止まっていたのは一見すると普通の辻馬車だったが、馭者台に座っていたのは陛下の従者だった。コンスタンサの寝室のドアが開く音が聞こえて、俺はあいつを追いかけた。そして家の前で、馬車に乗ろうとするコンスタンサの腕をつかんだ」
アマリアの手を握るルイシュの指に力が入った。
「その時、陛下とコンスタンサはすでに想い合っていた。だが、コンスタンサがどう足掻いても、女教皇の娘と婚約した次期国王との未来なんてない。妙な噂が立てば、陛下のご名誉を傷つけ婚約が破談になる可能性もあった。国と教皇庁との関係も危うくなる。陛下のことは諦めろと、俺はそう言った」
それは次期君主のため、友人のためを思えば正しい行動だ。しかしルイシュは苦しげな顔をしていた。
「コンスタンサは行かせてくれと泣いた。俺は一瞬、決意が揺らいだ。しかし、行かせればあいつがさらに深く傷つくと分かっていた。俺はコンスタンサの腕を離さず、陛下の従者に帰ってくれと頼んだ.」
激しい波しぶきが飛び散り、ルイシュは語りながら、アマリアを自分の方へ引き寄せた。
「馬車が動き出したその時、おそらく、俺はホッとしたんだろうな。コンスタンサの腕をつかんでいた手からわずかに力を抜いてしまった。コンスタンサはそれを察して、驚くような力で俺の手を振りほどいた」
ルイシュはアマリアの手を離し、自分の右手をじっと見つめた。彼のその表情と仕草をアマリアは見たことがあった。5日前、舞踏会の夜に王宮でだ。アマリアを連れ帰ろうとするルイシュの手を、アマリアが渾身の力で振りほどいた時だ。
「コンスタンサは馬車に飛び乗り、陛下の元へ行ってしまった。帰ってきたのは翌朝だった。王宮の敷地内のはずれに星見の塔という、もう使われていない白い塔がある。そこで一夜を過ごしたと言っていた」
それは舞踏会の夜に、アマリアがフランシスカたちに軟禁されていた塔だった。
「もしも、あの時、俺がコンスタンサの手を離さなければ、きっとおまえは今ここにいない。こんなことを言うのはおこがましいし、笑ってくれて構わないが、おまえが生まれてからずっと、俺はおまえの人生に責任を感じてるんだ」
ルイシュは毎月初に孤児院長へ手紙をくれていた。遠く離れたコインブラやサルバドールやアルガルヴェでもアマリアのことを気にかけてくれていた。己の地位や仕事や安全を投げ出し、アマリアの身代わりになろうとしてくれた。
なぜ、単なる友人の娘にそこまで彼が肩入れしていたのか。大きな謎が解け、アマリアは安堵した。心のどこかではルイシュのことを「やっぱり私の父親なのかもしれない」と恐れていたのだ。特に、彼に香薬の種の生成能力があると知ってからは。
「私のことを気遣ってくださっていたのは、そういうことなんですね。3年前まで一度も会ったことがなかったのに不思議だと思ってたんです」
「顔を見たことはなかったが、コンスタンサの腹の中にいるおまえには、よく話しかけていたんだぞ」
それを聞いてアマリアは思い出した。ルイシュに初めて会った時、アマリアは彼の声を「柔らかくて温かい」と感じたのだ。あれは母の胎内にいる時の遠い記憶を、無意識に思い起こしていたのかも。
「アマリア、おまえは俺のせいでこの世に生を受けた。そのおまえが辛い目に遭うのは見たくない。おまえには、この世の誰よりも平穏に生きてほしい」
ルイシュは再びアマリアの手を取り、いつになく真摯にアマリアを見つめた。
「他のことは基本的に俺が折れる。おまえが俺なんかを選んでくれるなら、俺のことは好きにしてくれていい。だから、おまえもこれだけは折れろ。妾でも恋人でもなく、俺の妻になってくれ」
アマリアは自分の胸を押さえた。胸が締めつけられたように痛かった。愛する人から求婚されたのに胸が痛いなんて変だ。普通だったら涙を流して相手に抱きついたりするだろうに、嬉しいと思えない。歓迎できない。むしろ絶望している。アマリアは自分の反応に戸惑い、口ごもった。
「あの、でも、私……」
「おまえの言いたいことは分かる。貴族の暮らしは
ルイシュの屋敷にはアマリアと同じ孤児院出身の元孤児がいる。多少どころか、とても気まずい。
「でも……」
「それから、おまえ、弟子を取れ。そうすれば薬草の仕込みやら何やらがラクになる」
「弟子はまだ早いですよ」
「じゃあ俺が店を手伝う。俺も香薬師の免許は持ってる」
外堀を埋め尽くされ、アマリアはいよいよ逃げ場をなくした。
「一介の香薬師が、王宮伯と結婚なんてできますか?」
苦し紛れながら尋ねたのは重要な質問だった。身分差は大きな障害だ。しかし、ルイシュはあっさり答えを寄越した。
「陛下のご許可をいただければ、方法はある。どちらかと言うと、後見人と元孤児が結婚する手続きの方が厄介だと思う。まあ、それもどうにかする。他に何かあるか?」
「……ないです」
問題は解決した。アマリアとルイシュの婚姻に障害はもうない。ただ、アマリアの心は沈み込んだままだ。
「じゃあ、とりあえず、それでやってみよう。上手くいかないことがあれば、また考えよう」
それは短気で短慮な男の信条だった。
「あの、自分で言うのも何ですけど、ルイシュさん、私のこと、今まで女だと思ってなかったですよね? どうして私と結婚する気になったんですか?」
アマリアが勇気を振り絞って疑問を投げかけると、ルイシュは驚いたような顔で目を泳がせ、不思議そうに答えた。
「どうしてって、昨夜、言っただろ。おまえが俺に想いを寄せてくれていたと知って、とても嬉しかった。おまえの気持ちに応えられればいいと思った。おまえと結婚したら面白い人生を歩めると思った。あとは、おまえに口説き落とされたんだ」
エンリケがルイシュのことを「結構チョロいんじゃないかな」と言っていたことを思い出し、アマリアは彼のことが心配になった。そんなに簡単に求婚してしまって大丈夫なのだろうか。
アマリアが黙り込んでいると、ルイシュはにわかに気弱な顔になった。
「なんだ、不満か?」
不満。彼の求婚を歓迎できない理由はそれだ、とアマリアは思った。好きだとか、愛しいだとか、そういう言葉をうっすらと期待していたのだ。彼が事務的に淡々と話を進め、追い込むようにアマリアを頷かせたことにも落胆していた。
とはいえ、仕事を続けたい、ずっと彼を好きでいたい、彼のものになりたいという一番の願望は叶う。上流階級の暮らしに染まりたくないというワガママも、ある程度は通る。その上で彼の愛まで欲しがっては、欲が深すぎるというものだ。
「いえ。ただ、ルイシュさんの単純さと、即断即決ぶりにびっくりしてるだけです」
「今さら驚くな。俺は単純で即断即決だ。納得したなら戻ろう。俺は眠い。誰が何と言おうと寝る。スペイン軍が国境を越えてきても起こすな」
アマリアも眠かった。ふたりとも昨夜は一睡もしていない。ルイシュはアマリアの手を引いて、来た道を戻り始めた。暗い海岸を照らすのは彼の持つランタンの火と頭上の星々の明かりだけだ。やや冷たい海風には細かな波しぶきが霧雨のように混じっていて、アマリアの髪やドレスをしっとりと湿らせた。
ルイシュに導かれるままに岩場を歩き、離宮へ続く細い階段を上る。空いている方の手が自然と胸元のペンダントに伸びた。
「あの」
「何だ?」
「私、今日、王女様から、望むものすべて手に入ると思うなと苦言を呈されて」
「ああ」
「その通りだなって思ったんですけど」
「うん」
「でも、諦めたら何も得られないとも思うんです」
「そうだな」
「無理そうなことは潔く諦めて、自分の心の中の、野望を入れるための杯のサイズを小さくしてしまえば、ほんのちょっとの幸せで満たされますけど。それって錯覚だなあって」
「そういう生き方もある」
「はい。ささやかな幸せを大切にしながら生きている人を私もたくさん知ってます。でも私は、満たされなくてもいいから望むことはやめたくないです。私の母もそういう人だったんじゃないですか」
「ああ、あいつはそういう奴だった」
「ふふ、やっぱり。私、どんな分不相応な大きな望みも、諦めずに大事に持っていたいです」
「分不相応な望み?」
「アマリアのことが大大大大大好きで、超超超超超愛しいから、おまえがいないと俺は生きていけない、っていつかルイシュさんに言わせることです」
「……妙な野望を抱くな」
「私、真剣です」
「……昨夜、似たようなことは言ったと思う」
「昨夜ですか? ルイシュさんが? いえ、絶対、聞いてません」
「言った。3年前、おまえは俺の心に火を灯して明るく照らしてくれたと。俺にとっておまえは道標となる不動の星だと」
「……そういうのは言ったうちに入りません」
「どうして」
「全っ然、伝わってこないからです」
「こういうことは分かりやすくはっきり言うものじゃない」
「そんな高尚で典雅な常識、私の辞書にはありません」
「おまえが好きで愛しい」
「い、い、い、今、今、今、はっきり言うものじゃない、って、おっしゃった、のに……」
「基本的に俺が折れるとも言った」
階段を上りきり、厩舎の脇へ戻ってきたふたりはそこで足を止めて向かい合った。ルイシュはランタンを地面に置くと、両手でアマリアの頬を包み込んだ。大きな掌も、アマリアを見下ろす眼差しも、焼けつくように熱かった。
「おまえが好きで愛しい。他の誰にも渡したくない。おまえがいなくても生きてはいけるが、おまえがいてくれたら超超超超超幸せだ。だから妻になってくれ」
アマリアは黙って頷いた。何度も頷いた。頭の中が真っ白だった。身体が熱くて溶けそうだった。言葉を失っていた。涙が出た。生まれてきてよかったを通り越して、このまま死んでしまってもいいと思った。
ルイシュは甘い微笑みを顔に浮かべ、両腕をアマリアの背中に回し、その細い身体を抱きしめた。新生児を抱くより優しい手つきだった。アマリアは彼の胸に顔を埋めて目を閉じた。昨夜、アマリアの涙を受け止めてくれた胸は、今夜も温かかった。
彼の名前を知ったのは9歳の時。彼からの手紙を盗み見たのは12歳。それからアマリアは彼の存在を心の支えにして生きてきた。20歳の夏に彼と初めて対面し、恋に落ちた。
9歳のアマリアも、12歳のアマリアも、20歳のアマリアも、こんな未来は想像していなかった。1週間前のアマリアの妄想にさえ、こんなシーンはない。夢を見ているのかもしれない。そう思ったが、それにしては厩舎から漂う馬糞の匂いがうっとうしかった。これはきっと現実だ。
「私のような路傍のぺんぺん草なんかを妻にして、本当に後悔しませんか?」
ルイシュの腕の中で、アマリアはしつこくも尋ねた。彼はアマリアの髪に愛しげに頬を寄せた。
「ぺんぺん草の何が悪い。世界で一番しぶとくて、健気で愛くるしい花だ」
アマリアの婚約者は幸福そうな声で笑った。
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