41.女教皇の杖

教皇庁の馬車の前にはレネの従者が立っていた。アマリアの命の恩人だ。彼はアマリアへにこりと微笑み、漆黒のキャビンのドアを開けた。彼の手を借りてアマリアがシートに腰を下ろすと、ルイシュが乗り込んできた。


「俺も行くと言っただろ」


ルイシュはアマリアの隣に座り、キャビンのドアを自ら閉める。まもなく馬車は大聖堂へ向かって走り出した。


アマリアは暗いキャビンの中でルイシュの横顔を見上げた。つい数日前に軟禁されていた教皇庁の馬車に彼とふたりで乗っているのは不思議な気分だった。


「おまえの身代わりになろうとしていたのは俺の自己満足だ」


馬車が離宮の正門を出た頃、ルイシュは低い声で淡々と告げた。先ほどのアマリアの問いに対する答えだった。


「俺は、最も穏便に事を済ますために、おまえに孤児院で淋しい思いをさせ続け、真実を隠し続けてきた。それを後悔している。おまえひとりを犠牲にするなんてこと、二度としたくなかった」


闇に目が慣れてなお、ルイシュの表情はよく分からない。彼がアマリアのことを真剣に考えてくれた結果だということは理解できたが、そのために地位や仕事を捨て、王女の厚い信頼を裏切ろうとしていたなんて、やはり、どうかしている。


「王女殿下に何も申し上げなかったのは、俺も殿下と同じことを考えていたからだ。さっき、後で話そうと言ったのは、そういうことだ」


御影石のホールで再会した時、確かにルイシュはそう言っていた。それに「俺が考えてるのは、おまえと俺の未来についてだ」とも。


「私と結婚することを考えてたってことですか……? ルイシュさん、本気ですか……?」


巡礼宿の屋上でアマリアが彼に振られたのはたったの24時間前だ。アマリアは自分の手をつねった。痛い。


「昨夜、私、ルイシュさんからきっぱり振られました。ずっと胸にしまっていた気持ちも、恥を忍んで言った言葉も、すべて徹底的に拒絶されました。それなのに急に掌を返されたら、怖いです」


「こ、怖い?」


ルイシュは焦ったように声を上ずらせた。


「ええっと、つまり、どういう心境の変化なのか理解不能で気持ち悪いってことです」 


「気持ち悪い……それは、俺のことはもう嫌いになったってことか?」


ルイシュは憮然とした声で言って身を乗り出す。


「ま、まさか!」


気持ち悪い、は言い過ぎだったかもしれない。アマリアはこの上なく慎重に自分の想いを口にした。


「何と言うか、これは私の気持ちの問題で、ルイシュさんを責めるつもりはないんですけど、私、昨夜、とても傷つきました。言葉を尽くしてルイシュさんを説得して、でも全く取り合ってもらえなくて、この世の終わりだと絶望しました。それなのに、突然にそんなこと言われても、腑に落ちないと言うか、おもしろくないと言うか」


エンリケ風に言うなら「私の涙を返せ」というやつだ。


「それに、私が店を続けながら王宮伯夫人になる方法があるなら、どうして昨夜、教えてくださらなかったんですか?」


アマリアが香薬屋を畳むか、ルイシュが大臣職を辞するか、どちらかを選ばなければふたりは一緒になれない。そういう話だったはずだ。


「俺はつい数時間前まで、ジュネーヴへ行くつもりでいたんだ。だからおまえの気持ちに応えることはどうやってもできないと思っていた。だが、このとおり、状況が変わっただろ」


アマリアもルイシュもポルトに帰れる。それがはっきりしたのは数時間前のことだ。


「まあ、そうは言っても、簡単な話じゃない。王女殿下は違法ではないとおっしゃられたが、王宮伯夫人が下町で商売をやっているなんて話は聞いたことはない。おまえも俺も後ろ指を差されるのは間違いない。だが、不可能ではない。試してみてもいいと俺は思う。おまえはどう思う?」


とりあえずやってみて問題があれば調整する、というのが彼の十八番だ。


「ど、どうと言われても……」


暗闇の中、ルイシュの手がアマリアの膝の上の手に触れた。アマリアは思わずびくりとして、彼から距離を取ろうと腰の位置をずらす。しかし、狭いキャビンに逃げ場はない。内壁に肩をぶつけ、両手をルイシュに捕らえられる。アマリアの手を握る彼の手は、燃える炎のようだった。


「俺のものになりたいんじゃなかったのか?」


我ながら何て大胆な発言をしたのだろう。アマリアは今さらのように恥じらい、背中を丸めてうつむき、赤面した。


「な、な、なりたいですけど、でも、私、自分に王宮伯夫人が務まるとは思えませんし、それに、自分に貴族の暮らしが送れるとは思えません。王女様は最低限でいいとおっしゃいましたけど、着飾ったり踊ったりする暇があるなら薬草の仕込みをしたいです。若くて健康なのにお風呂や着替えを他人に手伝わせたり、どこに行くにも従者がついてくるとか、そういうのも嫌ですし。たぶん、私、そういう生活を軽蔑してると思います……」


「そうか」


残念そうに言って、ルイシュの手が離れる。アマリアはそれを追いかけ、両手で彼の手をつかんだ。が、自分の手が汗だくだと気がつき、恥ずかしくなってルイシュの手を放り出す。もう、自分でも何がなんだか分からない。


「あの、でも、ルイシュさんのことは大好きです! 私はルイシュさんとは結婚できませんけど、私はルイシュさんがいいです! ですから、やっぱり、ルイシュさんの妾に……!」


「それはダメだと言っただろ。それに俺は独身だから妾とは言わない」


「じゃ、じゃあ、恋人。恋人でいいです」


「何が“じゃあ”だ。譲歩してるつもりか。ダメだ」


にわかに馬車のスピードが落ち、アマリアは窓の外に目をやった。中央広場に到着していた。馬車は大聖堂の正面階段の下にぴたりと止まり、ふたりの会話内容を知らないレネの従者が朗らかな笑顔でキャビンのドアを開ける。


アマリアとルイシュは一時休戦して馬車を降りた。背中にぐっしょりと汗をかいていて、夜風が吹くと、火照った身体の熱を冷やしてくれて心地よかった。


中央広場には夜間礼拝に訪れた市民や巡礼者が集まっていた。彼らは満天の星の下、つづら折りの正面階段を上り、大きく開かれた大聖堂の扉をくぐって建物内へ入っていく。


アマリアとルイシュもそれに倣い、大聖堂へ足を踏み入れた。扉をくぐったところでルイシュが一瞬、床に片膝をつく。意外と信心深い人だったんだ。アマリアは後見人の新たな一面に目を見張り、堂内を見回す。主祭壇の周辺や堂内に立ち並ぶ列柱には太いロウソクが無数に灯り、側廊の壁際には小さな炎が揺れ、厳かで幻想的な雰囲気だった。


「寝る前にお祈りはしますか?」


ふと思いついてアマリアはルイシュに小声で聞いた。


「する。忘れることもあるが、一応、5秒くらい。子供の頃からの習慣だ。やらないと乳母に叱られた」


「へええ」


主祭壇の前に女教皇とレネの姿を見つけ、アマリアとルイシュは身廊を進んだ。白い祭服姿の母親と、朱色の祭服をまとった息子は聖スアデラの像の前に両膝をつき、祈りを捧げていた。


アマリアとルイシュは主祭壇の近くの信者席へ着き、熱心に祈る女教皇と枢機卿の後ろ姿をしばらく眺めていた。やがて鐘楼の鐘がひとつ鳴った。22時になったのだ。鐘の音の余韻が滑らかな石の床に溶けた頃、レネがバルコニー状の説教壇へ上り、有難そうな言葉を唱え始めた。


枢機卿の短い説教が終わると、参列した人々は信者席から立ち上がり、小さなロウソクを手に、列をなして祭壇へ歩いて行く。彼らはロウソクを祭壇に供えて祈りを捧げ、三々五々に側廊側の扉から出て行った。


「女教皇猊下がお呼びです。どうぞこちらへ」


アマリアとルイシュに声をかけてきたのは若い僧兵だった。3日前、教皇庁の馬車に同乗していた青年だ。ふたりは信者席から腰を上げ、僧兵に導かれるままに側廊の脇にある礼拝室へ向かった。


側廊と礼拝室を区切る黄金の格子の向こうでは、女教皇が祈っていた。彼女が跪いているのは杯を手にした女性の像。杯には蛇が巻きついている。ギリシア神話の女神ヒュギエイア由来の聖人だ。


「入れ」


女教皇はアマリアに気がつき、関節が変形した右手で手招きをした。僧兵が黄金の格子のドアを開け、アマリアはそれをくぐって礼拝室に入った。


僧兵とともに側廊に留まったルイシュの視線を感じつつ、アマリアは女教皇へ近づく。そこは小さな祭壇に向かって長椅子が4つ並ぶだけの狭い礼拝室で、アマリアと女教皇と健康を司る聖人ヒュギエイアしかいない。


欧州の教会を統べる女傑と一対一で膝を突き合わせるのは恐ろしかった。レネに「権威や肩書きに惑わされるな。女教皇などとは言っても、リウマチとアヘンに蝕まれた、ただの不憫な老女だ」と言われたことを思い出しながら、アマリアは女教皇にお辞儀をした。


「おまえが焚いた香薬はよく効いた。アヘンや酒よりもな。だが、さすがに効き目が切れてしまった」


純白の祭服を着た老婆は聖ヒュギエイアの像の前から立ち上がり、木製の長椅子に腰かけ、気怠げな顔で自分の肘をさすった。アマリアは女教皇の傍らの床に膝をつき、スカートの下のポケットから商売道具を取り出し、さっそく治療の支度を始めた。


「今はどこが痛みますか?」


「首と肩と肘と手首と指と足の付け根と膝と足首と足の指だ」


つまり全身だ。アマリアは女教皇へ香薬の種を手渡し、薬草を調合して木炭片とともに振り香炉へ入れる。


振り香炉から白い煙が立ち上ると、女教皇は目を閉じ、ふうっと息をついた。揺れるロウソクの明かりに照らされ、治療を受ける老婆にはもう威厳を感じなかった。レネの言ったとおり、病と闘うひとりの患者だ。


「リウマチを発病してから10年以上が経つが、それからずっと、私は痛みと闘っている。寝ても覚めても身体のあちこちが痛い。最近は頭痛も酷い。手や足に力が入らなくなってきた。できないことがどんどん増えている。アヘンと酒に頼らなければ、心身が休まる瞬間がない」


スラム街に住むアマリアの患者もいつか似たようなことをこぼしていた。香薬師は患者に寄り添うことはできても、本当の意味で彼らの苦しみを理解することはできない。アマリアは歯がゆい思いで女教皇の話に耳を傾けた。


「だが、今日、おまえが香薬を焚いてくれた時、十数年ぶりに元の身体に戻ったようだった。完治したのではないかと錯覚するほど」


自嘲するように唇の端を上げ、女教皇はアマリアを睨んだ。


「香薬の種とコンスタンサのレシピは確実に寄越せ。約束をたがえれば、エウゼビオの命はないぞ」


女教皇の目の形はフランシスカにそっくりだった。この人はかつて美しい娘だったのだろうなとアマリアは思った。


「お約束は守ります。ですから、エウゼビオさんのことは5年後にきっちり帰してください」


「いいだろう。その頃、私が生きていればな」


「女教皇様はまだまだ大丈夫ですよ」


アマリアは「女教皇はもう長くない、余命数年だ」という噂を聞いていた。しかし、実際に本人に会ってみると、そんな風には感じられなかった。とはいえ、元気そうに見える人が突然に亡くなることもある。人の死期は分かるようで分からない。


「私をジュネーヴへ連れていくこと、どうして諦めてくださったんですか? フランシスカ様の策が失敗したからって、何だか諦めが早過ぎるような気がするんですが」


アマリアはふと思いついて聞いてみた。治療中に患者と世間話をするような感覚だった。


「卑劣な手を使えば、私とサルースの杯を手に入れる方法はいくらでもありますよね。たとえば、今ここで私を人質にしたら、あの方はサルースの杯の隠し場所を簡単に教えてくださると思います」


そう言ってアマリアは黄金の格子の外に立っているルイシュを視線で指し示した。国土保安開発省大臣は枢機卿と熱心に立ち話をしている。


「やってみても構わないが、やめておこう」


女教皇はアマリアの案を鼻で笑い、目を閉じて長椅子の背にもたれた。


「レネに説得されたのだ。リウマチは母から娘へ受け継がれることが多い病だから、いつかルシアやマルガリーダが発病しないとも限らない。その時、おまえとコンスタンサのレシピは老い先短い私の元にあるよりも、ポルトにあった方がいい、とな」


女教皇が、王妃と王女のために、レネの説得に従った。その回答にアマリアは違和感を覚えた。この人にも血や涙があるのだろうか。


振り香炉の鎖を振りながら、アマリアはふと何者かの視線を感じた。顔を上げると聖ヒュギエイアと目が合った。それは肖像画で見た母に少し似ていて、レネが「私にとって、コンスタンサはヒュギエイアだった」と言っていたことを思い出した。


「女教皇様、神々は万物をおつくりになったんですよね。つまり、病や痛みをつくって人に与えたのも神々ですか?」


「もちろんだ。人生とは長き巡礼路を行くがごとし。何も持たずに生まれた我々に、神々はおもりのついた足かせと杖を与え賜うた」


女教皇は信者に語りかけるような声で語った。


「足かせと、杖ですか?」


難しい話が始まりそうだ。アマリアは何度か瞬きし、疲労と眠気でぼんやりしている頭を無理矢理に起こした。


「そうだ。足かせとは病や老い、望まぬ運命や不運。杖とは信仰だ。私の場合はアヘンと酒も杖だがな。良きものも悪しきものも神々の与え賜うたもの。耐えがたいほどの苦しみにさえ、必ず何かの意味がある」


女教皇は安らかな顔に微笑みを浮かべていた。アマリアは鎖をしっかりと握り、振り香炉をゆっくりと振り続けた。


「どんな意味があるんですか。痛いのも苦しいのも私は嫌です」


「それは旅が終わった時に、己にだけ分かることだ」


詭弁めいた回答にアマリアは首を傾げた。やっぱり信心を持つのは難しい。アマリアの心の声が聞こえたのか、女教皇はおかしそうに笑った。


「おまえは馬鹿みたいに正直だな。いいか、関係ない事柄同士に意味をこじつけ、すべては神々の思し召しだと信じなければ、この世は闇だ」


アマリアは今度は素直に頷いた。信仰によって救われる人がいるということは理解しているつもりだ。しかし、女教皇自ら“こじつけ”と言ってしまうなんて、問題にならないのだろうか。アマリアが周囲に視線を走らせると、黄金の格子の外に立つ夜明け団の傭兵と目が合った。長身で北欧系の顔立ちをしているので、おそらく、ポルトゥカーレ語話者ではない。


「病、飢餓、苦痛、絶望、苦悩、悲哀、恥辱、憤怒、悔恨。我々はそれらを引きずって、杖を頼りに自らの足で巡礼路を進むしかない」


女教皇はすっかり寛いだ様子で思いつくままに話しているように見えた。


「女教皇様はリウマチの他に、どんな錘のついた足かせを引きずっておいでなんですか」


「さあて、もうよく分からんな」


老婆は右手に握る黄金の杖でコツコツと床を鳴らし、礼拝室の暗闇を遠い目で見つめた。


「私の父は前教皇だった。教皇の位は世襲制ではないが、私には出世が期待されていた。今から思えば、それが最初に与えられた足かせだったのかもしれない」


血縁。それはアマリアも引きずっているおもりだ。国王の娘であること、そして香薬の種の生成能力があること、どちらも重い。


「教皇庁の連中は己の出世と保身のことで頭がいっぱいだ。祈ることや民を救うことよりも、競合する相手を貶め、出し抜くことに注力している。彼らは私のことも隙あらば蹴落とそうと考えている。だから私も彼らと同じことをしてきた。25年もの間、教皇の椅子を守ってこられたのは、私が手段を選ばなかったからだ。不毛な醜い争いを重ね、教会に信頼を寄せてくれる信者たちを裏切り続けた過去。それもまた足かせなのだろうな」


「じゃあ、レネ様やフランシスカ様は、女教皇様の杖でしょうか?」


「杖? あの子らが杖なものか」


女教皇は声を立て、己を嘲るように笑った。


「私が秘密裏に産んだ3人の子供は、分娩後にすぐに取り上げられ、父親の家で育てられた。私はあの子らに乳を与えることも、自分の手で抱くこともできなかった。私のような女が、子供を杖にしていいわけがない」


アマリアは振り香炉を持っていない方の手で、ドレスの下に提げたペンダントに触れた。母の遺髪の入ったペンダントだ。


「私の母も同じような感じです。ひっそりと私を産んで、すぐに孤児院へ預けて、それから一度も私に会わずに自分の仕事をまっとうして、亡くなりました。それでも、私は母に感謝してます。愛しいとさえ思います。レネ様やフランシスカ様も、女教皇様のことを愛しておられるんじゃないでしょうか? 特にフランシスカ様は、女教皇様に良質な治療を受けさせたい、香薬の種を湯水のように使わせてあげたいとおっしゃってました」


女教皇にもフランシスカにも、二度と会うことはないだろう。女教皇にフランシスカの言葉を伝える機会もこれが最後だ。その確信がアマリアの舌を動かしていた。説得の女神の加護なのか、女教皇は機嫌を損ねることもなく、感情のない目でアマリアを見た。


「この私の娘がそんなことを考えるものか」


女教皇はため息混じりに言って、黄金の杖をついて長椅子から立ち上がった。香炉の煙はすでに途切れていた。


「フランシスカ様はレネ様が遺跡で怪我をされたと聞いた時、とても心配なさってました。私が食べるものに困っていると知れば、余計に治療費をくださることもありました。10歳のエウゼビオさんを引き取らず孤児院へ放り込んだり、冷酷で非情なところもおありですけど、近しい相手に対しては情け深い方だと私は思います」


フランシスカはアマリアが香薬屋を始めた頃からの常連客で、大切なお得意様パトロンだった。彼女の人となりは知っているつもりだ。その彼女のことを根拠もなく一方的に決めつけた女教皇に腹が立ち、アマリアは生意気にも言い返してしまった。


「おまえの砂糖漬けの妄想に興味はない。これは治療代だ、とっておけ」


女教皇はアマリアの言葉を歯牙にもかけず、格子戸へ向かいながらこちらへ何かを投げて寄越す。


「ではな。これからは寝る前に祈れよ」


宙に弧を描いて飛んできたそれを片手でつかみ取ると、親指の爪先ほどの大きさの青銅製の像だった。経年劣化が激しく、彫刻の角は取れているが、杯を手にした女性だということは分かる。聖ヒュギエイアだ。


「女教皇様、私、フランシスカ様の胸の内、少し分かるような気がするんです」


アマリアが女教皇の背中に言った時、礼拝室に一陣の風が吹き込んだ。聖ヒュギエイアの祭壇に灯るロウソクの火が消え、闇が濃くなる。


「私も母に元気でいてほしかった、長生きしてほしかった、健やかに平穏に生きていてほしかったって思ってます。フランシスカ様もきっと、あなたに毎日元気でいてほしいと思っておいでです」


アマリアの目には女教皇の表情は見えなかった。彼女は煩わしそうに小さく息をつき、格子戸をくぐった。彼女が大聖堂の出口へ身体を向けると、その身はあっという間に夜明け団の兵士に囲まれる。兵士の持つランタンに照らされた女教皇の表情は硬く強張っていた。


「おまえ、神々の他にも心のよりどころがあると言っていたな? その杖は、せいぜい大事にしろ。決して手放すことのないようにな」


日中に修道院の一室で交わした会話を引っ張り出し、女教皇は威厳たっぷりに言った。病に苦しむ老婆の顔から、教皇庁のヒエラルキーの頂点に君臨する女教皇の顔に戻っていた。彼女は枢機卿や兵士たちを引き連れ、肩で風を切り、大聖堂を出て行った。

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