40.最後の一手

教皇庁の公使館から離宮へ戻る馬車の中で、アマリアは眠り込んでしまった。身体は疲れ果て、胸はフランシスカへの憐憫の情で満たされ、頭は王妃に対する怒りでいっぱいだったからか、奇妙な夢を見た。


深夜にポルトの王宮が燃えていて、その炎の中を、何者かに追い回されている夢だ。灰と化す中庭の植物たちを横目に肖像画のホールへ逃げ込むと、追っ手は銀の短剣を手にアマリアへ近づいてきた。追い詰められたアマリアは壁の肖像画を1枚はずし、それを盾のように構えた。立派な額縁で飾られていたのは国王の絵だった。鋭い白刃が振り下ろされた瞬間、短剣を握る人物の顔が見えた。


「アマリア、起きろ。着いたぞ」


肩を揺さぶられ、アマリアは目を開けた。そして仰け反った。


「あ、わ、わ、すみません!」


ルイシュの肩にもたれて眠っていたのだ。勢いよく飛び起きたせいで馬車のキャビンの天井に頭をぶつける。


「大丈夫か?」


「……だいじょぶです」


エウゼビオやオリオンとは公使館で別れたため、馬車のキャビンの中にはアマリアとルイシュしかいない。王宮護衛隊の兵士がドアを開けてくれたので、アマリアは頭をさすりながら馬車を降りる。


王家の夏の離宮には夜の帳が下りていた。深い闇の中で海鳴りが響き、潮風に木々の枝葉が揺れ、すっかり静けさを取り戻している。割れた窓や壊されたドアや壁には応急処置が施され、床を汚していた血痕は拭き取られている。


エントランスホールへ足を踏み入れ、赤みを帯びた御影石に囲まれたアマリアは後味の悪い夢を思い出した。アマリアへ短剣を振り下ろしたのはフランシスカによく似た女性だった。彼女はフランシスカより身体の線が細く、気弱そうで、自信なげな表情をしていた。肖像画でしか顔を知らないが、あれはきっと王妃だ。


世界で一番素敵な人の肩を借りて見たのがなぜあんな恐ろしい夢だったのか。もっと甘い夢を見たかった。前向きな不満で恐怖をぬぐおうとするアマリアに、ルイシュは心配そうな目を向けた。


「おい、本当に大丈夫か? 大聖堂に行くまでまだ時間があるだろ。食事して少し寝た方がいい。起こしてやるから」


夜の礼拝は22時から始まるという。女教皇と枢機卿に呼ばれたアマリアはそれに間に合うように大聖堂へ行かなければならない。ルイシュの掌の上の懐中時計は20時45分を差していた。


「ルイシュさんこそ、お疲れなんじゃないですか? 他の人に起こしてもらうので、どうぞ、もう休んでください」


「大丈夫だ。俺も一緒に大聖堂へ行く」


ロウソクの灯りが揺れる暗いホールには出迎えの女官が何人か立っていて、好奇心に満ちた様子でちらちらとこちらを見ている。


「それに、後で話そうと言っただろ。できれば今夜のうちに話しておきたい」


ルイシュから今後について話そうと言われていたことを思い出し、アマリアはどきりとした。彼は「おまえと俺の未来について」考えていると言っていた。期待と不安で頭が真っ白になり、口から心臓が出そうだった。


妙な期待をするな。平静を保て。それしか方法はない。昨夜、ボロボロになってしまった心をこれ以上、傷つけない方法は。ルイシュの真剣な顔を見上げながら、アマリアは自分に言い聞かせた。


「ポルトに帰ったら……」


ルイシュが言いかけた時、爽やかな双子の弟が「アマリアちゃーん!」と言いながら大階段を駆け下りてくるのが見えた。女官たちに一斉に睨まれたことに首を傾げつつ、さわやかの弟は朗らかに言った。


「王女殿下が君を夕食にお招きだよ。服装はそのままで構わないから、すぐ来るようにって。あ、コスタ大臣は遠慮してくださいとのことです」


王女には嫌われている自覚があったので、アマリアは予想外のお誘いに心の底から驚いた。しかも、ルイシュ抜きだ。厳しく叱責されたらどうしよう。


ルイシュは「失礼のないように気をつけろよ」と心配そうに釘をさしてアマリアを見送り、アマリアは恐怖に身を強張らせながら、さわやかの弟についていった。


「来たわね」


王女が待っていたのは2階にある彼女の部屋だった。ややふっくらとした可憐な淑女は4人がけの丸テーブルにつき、疲れた様子でアマリアを迎えた。


「お招きありがとうございます」


アマリアは部屋の入口に立ち、おずおずと礼を述べ、お辞儀をした。王女はいくらか寛いだドレスに着替えていたが、日中と変わらず洗練された愛らしい姿をしていた。一方、アマリアは薬草の染みだらけの普段着のドレス姿だ。自分の身の丈と異母姉妹のそれに大きな差があることを改めて思い知り、気が引けた。


「座って」


王女に促され、アマリアはテーブルに近づいた。椅子を引いてくれた王宮護衛隊の兵士にお礼を言いつつ、王女の向かいに腰を下ろす。複数の給仕係がテーブルに歩み寄り、ふたりのグラスにワインを注ぎ、銀の皿に盛りつけた魚料理を供した。


「今日はどうもありがとうございました。それから申し訳ございませんでした。かくまっていただいておきながら勝手に離宮を出たこと、王女様にフランシスカ様への交渉をお願いしておきながら女教皇様に直談判したこと、反省しています」


怒られる前に謝るのは小心者のアマリアの常套手段だ。王女は人を夕食に招いたとは思えないほど無愛想に応じた。


「もういいわ。あなたが女教皇猊下の思惑を探ってくれたことが功を奏したんだもの」


それなら、どうして呼ばれたんだろう。苦言を呈されると思っていたアマリアは居心地の悪い思いで目の前の皿を見た。太刀魚たちうおらしき魚の切り身のソテーが皿の中央に横たわっている。


給仕係にパンを供され、王女に「食べなさい」と命じられ、アマリアは礼を失さない程度に食事と酒に手をつけた。緊張のせいか味がまったく感じられない。そもそも疲れ切っていて食欲がない。この後、大聖堂に行かなければならないと思うと気が滅入った。


「あなた、コンスタンサの顔を知らないのよね?」


しばらく黙って食事していた王女が、ワイングラスをテーブルに置きながら尋ねた。気のせいだろうか、彼女も緊張しているようだった。


「はい。肖像画は見ましたけど、お会いしたことはありません」


アマリアが頷くと、王女は沈んだような低い声で話し始めた。


「私が初めてコンスタンサに会ったのは4歳の時よ。喘息を患っていたレネ叔父様がポルトで療養なさっていて、コンスタンサは治療をしに王宮へ来たの」


「レネ様から聞きました。当時、母はアルメイダ会長に師事していて、そのご縁でレネ様の治療をすることになったとか」


アマリアがそう言うと、王女の表情が曇った。実母の不倫相手の名前を聞いて愉快なはずがない。完全に失言だった。後悔し、何とか取り繕えないかと考えをめぐらせるアマリアをよそに王女は続けた。


「ええ、私の母上が声をかけたのはアルメイダだったのだけれど、実際にレネ叔父様に香薬を焚いたのはコンスタンサだった。コンスタンサは優しくて楽しい人で、私もレネ叔父様もすぐに彼女を大好きになったわ。でも、初めはどこかよそよそしくて、悲しそうに見えた。ねえ、その時、あなた、孤児院にいたのよね?」


「はい。王女様が4歳ということは、私は5歳ですね。まだエウさんとは出会ってなかったです。たしか、コエントランが孤児院に来たのがその頃です」


「そう。今から思えばね、コンスタンサは私と接しながら、自分の産んだ娘のことを考えていたのじゃないかと思うのよ」


当時、母は孤児院へこっそりやってきてアマリアの様子を覗き見ていたという。娘よりひとつ年下の王女の姿にアマリアを重ねるのは自然なことかもしれない。


「ああ、なるほど、それは、そうかもしれませんね」


アマリアの鈍い反応は今度こそ王女の気に障ったようで、彼女は目を吊り上げた。


「あなたね、少しはコンスタンサの気持ちに思いを馳せてみなさいよ。まったく、親の心、子知らずとはまさに、だわ」


「す、すみません」


思いを馳せろと言われても、アマリアにとって母は知らない人だ。譲り受けた店の様子やレシピ、ルイシュや患者から伝え聞いた話でしか彼女のことは分からない。


「私はね、コンスタンサが王宮香薬師になってから、彼女に香薬学を学んだの。私たちは気が合って、まるで姉妹みたいに仲良くなった。それに、ルイシュは私が産まれた時から私を可愛がってくれた。これはついでだけれど、父上はひとり娘の私をとても甘やかして愛してくださっているわ。つまり、私はね、コンスタンサとルイシュと父上の愛情を一身に受けて育ったのよ」


王女は怖い顔で胸を張り、ドンと拳でテーブルを叩いた。目元や頬が薄っすらと赤い。何が言いたいのかさっぱり分からないし、酩酊しておいでなのだろうか、とアマリアは淑女の体調を心配した。


「アマリア、あなたが孤児院で淋しい思いをしている時に、よ?」


「はい」


「申し訳なく思うわ」


王女はそう言って目を伏せ、悲しげに眉を下げた。アマリアは持っていたカトラリーを皿の上に置き、思わず腰を浮かせて身を乗り出した。


「そ、そんな、王女様がお気になさることじゃありませんよ」


勝気そうな姫君がそんなことを考えてくれていたなんて意外だ。アマリアは失礼に当たらない否定の言葉を必死で探したが、それが見つかるより先に王女が続けた。


「いいえ。私がこの身に浴びていたのは、コンスタンサやルイシュや父上があなたに注ぎたかった愛情なのよ。私はあなたの代わりだった」


涙を溜めた両目でアマリアを睨み、王女はグラスに残っていたワインを飲み干す。空のグラスは給仕係によってすぐに満たされた。


「そんな風に考えたら皆さん悲しみます。王女様は素敵な方です。皆さん、王女様のことが大好きだから、たっぷり愛情を注いでくださったんだと思いますよ。私なんかの代わりのはずがありません」


「気休めはよして」


明るく素直な人だと思っていたけど、こういう一面もあるんだな。アマリアの慰めを頑なに突っぱねる王女を、アマリアは「ちょっとかわいい」と思ってしまった。アマリアは椅子に座り直した。


「王女様、申し訳ないのは私の方です。香薬の種を生成する力は、王女様が持つべきものです。なのに私が受け継いでしまって、王女様が私をお嫌いなのは無理のないことです」


アマリアは王女が欲しかったものを、王女はアマリアが欲しかったものを、それぞれ手にした。互いに、自ら望んだわけではなかった。


「こういうの、都合よく交換できたらいいのに、って思いませんか」


苦い思いでアマリアが微笑むと、異母姉妹も切なげに笑った。


「違いないわ」


もっとワインを飲むよう王女に勧められ、アマリアはワイングラスを空にした。おいしい。香り高い。これまで飲んだどんな酒より。アマリアの両肩からは力が抜けていた。


酒と食事が進むにつれ、ふたりは少しずつ饒舌になり、いつしか話題はルイシュの悪口になっていた。


「どこへ飛んで行くか分からない鉄砲玉? それはルイシュにこそふさわしい呼び名だと私は思うけれど」


アルコールの力か、王女の機嫌は急上昇していた。酒に強いアマリアは平常心ではあったが、気分よく頷いた。


「私もそう思います」


「昔、コンスタンサが言っていたのよ。ルイシュは何かあるとすぐ思いつきで遠くへ行こうとする、って。ポルト、コインブラ、サルバドール、アルガルヴェ。あの人、色々なところで暮らしてきたでしょ」


「じゃあ、もしかしたら明日の朝、ルイシュさんの姿、消えてるかもしれませんね。女教皇様やレネ様にくっついてジュネーヴに行っちゃったりして」


「あり得るわ」


アマリアは王女とともにクスクスと笑い、それから突然、閃いた。


「もしかして、ルイシュさん、私の代わりにジュネーヴへ行こうとしていたのかも」


ポロリと口からこぼれた言葉を王女は聞き逃さなかった。彼女は一瞬にして酔いから醒めたように、真顔になった。


「何ですって?」


重く低い声で問われ、アマリアは慌てて姿勢を正した。


「あ、いえ、失礼しました。こっちの話です」


「な・ん・で・す・っ・て?」


思わず震えあがるほどの迫力だ。目が据わっている。さすがは女教皇の孫娘、レネとフランシスカの姪だ。アマリアは観念した。


「ルイシュさんがおっしゃてたんです。もしも交渉が決裂して私のジュネーヴ行きが避けられなくなったら、最後の一手を打つ、と。でも、具体的に何をするつもりなのか教えてくださらなくて。可能な限り打ちたくない手で、その手を打てば俺は王女殿下に嫌われる、と心配されていました」


しどろもどろに話し始めたアマリアを、王女は黙って睨みつけている。凄まじい剣幕だった。


「もしも私の推理が当たっているのなら。私の代わりにルイシュさんがジュネーヴに行くことを考えていたってことは、つまり、ルイシュさんは……」


「ルイシュは香薬の種を生成できる、そういうこと?」


王女の問いに、アマリアはこくりと頷いた。


「私、一昨日、ルイシュさんから香薬の種をひと袋もらったんです。流通しているものより明らかに大きい種を、ポルト近郊の森の中で、です。どこで手に入れたのか教えて下さらなかったんですけど、ルイシュさんがご自身で生成したものだと考えると納得がいきます」


アマリアはスカートの下のポケットから香薬の種の入った革袋を取り出して王女に中身を見せた。種は時間の経過とともに昇華して小さくなるが、革袋の中のそれは生成してから3日も経っていないサイズだった。


「コスタ子爵家の城で杯をすり替えた時、エンリケさんはサルースの杯をルイシュさんにすぐに取り上げられたと言ってました。ルイシュさんはその時にご自身に種を生成する能力があると知ったんじゃないでしょうか。それで、どこかに杯を隠したんです。サルースの杯の隠し場所を教える代わりに俺をジュネーヴに連れていけ、とフランシスカ様に交渉するために」


説明しながら、アマリアの確信は募った。不可解だったすべてが腑に落ちていく。そして、彼の最後の一手に頼ることなく一件落着してよかったと心から思った。


「330年前にヒュギエイアの杯が発掘されたアスクラピア遺跡はコスタ子爵領のすぐ近くなのでルイシュさんがルシタニア人の血を引いていても不思議ではないと思います」


話し終えると、アマリアは王女の顔色をうかがった。もしこれが真実なら、ルイシュは王女に叱責される。なぜ、こんな大事なことを黙っていたのだ、と。そして、アマリアはルイシュに怒られる。よくも王女に喋ったな、と。


「誰か、ルイシュを呼んで」


案の定、王女は怒りに震えながら言った。5分後、きちんと身なりを整えたルイシュが王女の部屋に現れた。王女が問い詰めるとルイシュは驚き、それから渋々と白状した。アマリアの推理は正しかった。


「ルイシュ、私に黙って勝手にジュネーヴへ行こうとしていたなんて許し難いわ。これからも私のことをずっとそばで支えてくれると思っていたのに」


憤慨する王女を、ルイシュは必死に宥めた。


「も、もちろん、そのつもりです。これはあくまで、どうにもならなかった場合の最後の手段で、私が殿下のおそばを離れることなど、あり得ません」


ルイシュにじろりと睨まれたが、アマリアは果敢に睨み返した。アマリアだって怒っているのだ。黙って身代わりになろうとしていただなんて、信じられない。王女の怒りも収まらなかった。


「嘘よ。今日だって、離宮が襲撃されたと知ってもすぐに戻ってこなかったでしょう? ロペス博士だけこちらに寄越して、自分はアマリアを探し続けてたって知ってるのよ」


そんなことがあったのか、とアマリアは目を見張ってルイシュを見つめる。次期君主よりアマリアを優先するなんて、どうかしている。星空に舞い上がりそうなほど喜ばしい気持ちと、ルイシュに対する不信感でアマリアは混乱した。


「それは……」


弁解に詰まるルイシュに、王女は青天に霹靂へきれきとどろかせるがごとく言った。


「そんなにアマリアが大事なら、ルイシュ、あなたがアマリアと結婚しなさい」


「……え? ええっ? ええええっ?」


アマリアは声を裏返らせて椅子から立ち上がった。理解がまったく追いついていない。ルイシュも同様だろうと思い、彼の顔を見るも、なぜだか平然としていた。対照的な反応を示したふたりに王女は続けた。


「前例は聞いたことがないけれど、普通に考えたら、香薬の種を生成できる者同士が結婚すれば、子供が能力を受け継ぐ可能性は高くなるのじゃない?」


確かにそうかもしれない。アマリアは内心で納得してしまった。


「それに、ルイシュ、あなた、兄弟や親戚が山ほどいるでしょう。ダ・コスタ家がハプスブルク家並みの子だくさんな家系というのは有名だもの。それも好都合だわ」


ルイシュは10人兄弟で、いとこは父方だけで40人以上、甥や姪は20人以上いると言っていた。香薬の種を生成できる子供をひとりでも多く産むことを望まれているアマリアの夫として申し分ないと言えるのかもしれない。


「異論がなければ、私は父上に手紙を書くわ。誰か、手紙と速馬の用意をしてちょうだい」


王女が女官へ命じ、アマリアはようやく慌てふためいた。


「王女様、そのことは私たち、すでに話し合って結論を出しているんです。私は生涯、香薬屋を続けたいと思っています。母の店を閉じるつもりはありません。それに、私には貴族の暮らしは向いていません。私とルイシュさんは住む世界が違うんです。ですから、私はルイシュさんとは結婚できません」


声は震えてしまったが、泣かずに最後まで説明できた自分を褒めたかった。それくらい胸が痛かった。悲しかった。


「あなたの望みについては、あなたがアルガルヴェ公爵位の継承を固辞した時に聞いたわ。でもね、それとこれとは話が違う」


王女は煩わしそうな口調で言って椅子の背にもたれた。


「話が違うって、どういうことですか?」


「ルイシュと結婚しても、あなたは店を辞める必要はないってこと。王宮伯は領地を持たず、国からの給金で家計のやりくりをしているの。つまり普通の貴族と違って領地の運営をしなくていいのよ。だから王宮伯夫人の仕事なんて、家の切り盛りと社交だけよ。ルイシュ、あなたはこれまで何でも自分ひとりでやってきたんだもの、これからも基本的にはすべて自分でやりなさい。アマリア、あなたはどうしても夫婦で出席しなければならない社交の場に最低限、顔を出すだけでいいから、あとはコンスタンサの店を死守することに専念しなさい。王宮伯夫人が下町で商売をしているなんて聞いたことはないけれど、違法ではないわ」


「で、でも、私は、いえ、ルイシュさんは……」


思いがけず提示された活路にアマリアはただ戸惑っていた。言いたいことがあるのではないか、とルイシュへ視線で問うてみたが、彼は神妙な顔で王女の言葉に耳を傾けるばかりだった。


「あとはふたりで話し合ってちょうだい。私は疲れたわ。おさがり」


王女が右手を払うと、両開きの扉の前に立っていたさわやかの弟がすぐに反応した。彼は扉を開け、アマリアとルイシュへ退室を促す。ルイシュは「承知しました。失礼いたします」とだけ言って一礼し、さっさと部屋を出て行った。


ルイシュが何か申し立てるだろうと思っていたアマリアは拍子抜けし、彼の背中にかける言葉を見つけられなかった。いったい、どういうつもりなのか。ルイシュが王女に頭が上がらないということはアマリアも知っているが、それにしても、こんな大事なことまで言いなりというのはいかがなものか。


「ご、ごちそうさまでした。おやすみなさい」


アマリアは立ち上がって王女へお辞儀し、ルイシュを追いかけた。彼はすでに大階段を下り始めている。


「ルイシュさん、どうして王女様に何もおっしゃらないんですか」


後見人の後頭部をめがけて質問を投げ、アマリアも大階段を下りる。ルイシュはアマリアを顧みることも、問いかけに答えることもなく、歩みを進める。アマリアが“最後の一手”について王女に告げ口したことを怒っているのだろうか。


「あの、私、王女様に言いつけるつもりはなかったんですよ。たまたま、王女様とお話ししている時にハッと気がついてしまって、それで……」


アマリアは弁解したが、話しているうちにルイシュに対する怒りが舞い戻ってきた。


「というか、そもそも、ルイシュさん、黙って私の身代わりになろうとされていたなんて、あんまりです。そんなことをして私が喜ぶとでもお思いですか」


「俺はおまえを喜ばせようとしたわけじゃない」


階段を下り切ったルイシュが不機嫌そうにアマリアを振り返る。


「じゃあ、どうして」


亡くなった友人の娘のために、普通、そこまでやるだろうか。大臣の椅子を捨てて、大切な次期君主のそばを離れて、己の身を危険にさらすようなことを。


アマリアが疑問を口にしようとした時、御影石のホールに王宮護衛隊の兵士が現れた。彼はアマリアへ「枢機卿の使者の方が迎えにきてくださってるよ」と告げ、車寄せに止まっている教皇庁の馬車を指した。


「私、大聖堂に行ってきます」


ルイシュと話を着けたかったが、女教皇やレネに呼ばれているのだ。時間に遅れたら何を言われるか分からない。アマリアは疲れた身体に鞭を打ち、ルイシュを追い越して教皇庁の馬車へ向かった。

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