39.後始末(2)

アマリアたちの馬車が教皇庁の公使館に着いたのは20時前だった。晴れ渡る夏空は赤く染まり、町を満たしていた聖スアデラの祝祭の賑わいは落ち着きつつあった。公使館の外観を初めて見たアマリアは、古代ローマ風の派手派手しい白亜の殿堂を仰ぎ、開いた口がしばらくふさがらなかった。


王女と女教皇の会談の場はすぐに用意された。王女がレネに事情を説明し、レネが女教皇へ話を通してくれたのだ。


会場となったのは公使館のメインホールだった。離宮のダンスホールよりはるかにきらびやかな室内で、女教皇は黄金と宝石で飾られたビロード張りの椅子に座っていた。傍らにレネが立ち、背後には教皇庁の紋章が織られたタペストリーが飾られている。


王女は女教皇に恭しく挨拶し、血の繋がった祖母の手にキスをした。女教皇は孫娘に対して親愛の情を見せることもなく、王女の話を気怠げに聞いた。


アマリアはルイシュや王宮護衛隊の兵士たちとともにホールの壁際に立っていた。エウゼビオやオリオンを含む夜明け団の兵士は女教皇の椅子の左右に整列している。フランシスカの姿はない。


アルメイダは公使館の門前に停めた馬車に置いてきた。公使館の敷地に連れてきてしまうと、ポルトゥカーレの法律が適用されず、彼を逃がしてしまう可能性があるからだ。


女教皇は王女の要件を聞き終えると、ルイシュやオリオンが予想したシナリオの通り、フランシスカとアルメイダにすべての罪をかぶせて彼らを切り捨てた。フランシスカは国外追放となり、アルメイダはポルトゥカーレの法律で裁かれることになった。


「それでは、感謝の気持ちとしましてこれからは毎日香薬の種を伝書鳩でジュネーヴへ届けます。我々が推薦する香薬師の派遣やレシピのご提供もいたしますわ」


王女が白々しく申し出て話がつくと、女教皇は眠そうな顔で退室し、夜明け団の兵士たちがぞろぞろと後を追った。あっけない。


「レネ様、王女様、ありがとうございました」


アマリアはレネと王女に歩み寄り、深々と頭を下げた。叔父と姪は「おまえのためではない」「コンスタンサのためよ」と素っ気なく応じた。アマリアの心はやや傷ついたが、もう、何でもいいかなと思った。


笑顔のオリオンに手招きされ、アマリアは彼女に導かれて公使館の裏庭へ向かった。案内されたのは鳩舎で、鳩たちはうつらうつらと眠っていた。一昨日まで一緒に旅していた仲間だ。


「この子たちを後で離宮に届けさせるから、まずはテストをしてみましょう。香薬の種を蝋引ろうびきの防水紙に包んで、この脚の筒に入れて、1日1羽ずつポルトから放してみて。5日後の8月18日から始めれば、私がジュネーヴへ到着する頃に、最初の鳩が夜明け団の鳩舎へ戻るはずよ」


オリオンの立ててくれた計画にアマリアは頷いた。


「分かった。うまくいっても、いかなくても、連絡くれる?」


「ええ。郵便で結果を報告するわね。届くまで少し時間はかかるけど、すぐ返事する。それと、追加の鳩も手配するわ。こちらで訓練した鳩を定期的にポルトに届けないことには、このやり取りは成り立たないものね」


遠いジュネーヴの友人から手紙が届く。アマリアの心は躍った。


「私、エウさん以外から手紙をもらうの、初めて。ついでに、ジュネーヴのこととか、夜明け団のこととか、いろいろ書いてください」


「いいけど。教皇庁の検閲を通さなくちゃならないから、ラテン語で書くわよ。大臣に読んでもらってちょうだいね」


「またラテン語かあ……ちょっとは勉強してみようかな……」


アマリアはがくりと項垂れ、オリオンはそれを見てクスッと笑った。女傭兵はアマリアの身体を抱きしめ、優しい手つきで頭を撫でた。


「あなたの大冒険を最初からずっと見ていたのは私だけよ。できればポルトまで送ってあげたいところだけど。どうか気をつけて帰って」


アマリアも彼女の背中に両腕を回した。このたくましくも美しい身体に残る大火傷の痕や無数の古傷を消し去る新薬を、いつか開発したいなと思いながら。


「ありがとう、オリオン。たくさん、助けてくれて。これからも、よろしくね」


ふたりは微笑みを交わし、互いの身体を離した。遠くから「アマリア、帰るぞ」とルイシュが呼ぶ声が聞こえ、アマリアはオリオンとともにエントランスへ向かった。


「おい、コンスタンサの娘」


短気な男を待たせるのは忍びない、と急ぐアマリアに声をかけたのはレネだった。若き枢機卿は従者を伴い、こちらへ悠然と歩いてくる。アマリアは足を止め、改めて彼に御礼と別れの言葉を述べようと口を開く。ところがレネは平気でそれをさえぎった。


「女教皇猊下からの伝言だ。今夜、大聖堂で祈りを捧げる。おまえも祈りに来い。ついでに香薬を焚け。以上だ」


レネは言いたいことだけを言ってアマリアの横を通り過ぎ、車寄せへ向かい、王家の馬車の傍らに立つルイシュに話しかけた。ルイシュはレネの顔を見ると気まずそうに目を泳がせ、ぎこちなくお辞儀をした。


いつもの不遜な態度はどこへやら、枢機卿は頬を赤らめ、おずおずとルイシュへ握手を求める。彼らは互いの手を固く握り、もじもじと伏し目がちに小さな声で言葉を交わした。


「何かしら……?」


「さあ……?」


奇妙な様子の男たちを遠巻きに眺めつつ、アマリアとオリオンは首を傾げる。あのふたり、知り合いだったのだろうか。


「アマリア」


名前を呼ばれて振り返ると、レネの従者が大きな円柱型の箱を抱えて微笑んでいた。ゲルマン系の中年男はラテン語で何か言いながら、それをアマリアへ差し出した。


「あなたにドレスを返すと言ってるわ。もう、すっかり乾いてるって」


オリオンが通訳してくれたので、アマリアは箱の中身が何か分かった。古代の貯水池で濡らしてしまったルイシュの母親のドレスだ。アマリアは箱を受け取り、レネの従者の顔を見つめ、彼の手を握った。地下遺跡で凍えていたアマリアを温めてくれた手だ。


「ありがとう。あなたは命の恩人です。もし、いつか薄毛に悩むことがあれば遠慮なく私に相談してください」


「……薄毛限定なの?」


「他の治療でもいいですけど、薄毛治療は高額なので、当店では一番のサービスなんです! レネ様の従者をされているなら、ご苦労も多いでしょうし」


オリオンは戸惑った様子でアマリアの言葉を訳した。レネの従者はやや引きつった愛想笑いを顔に浮かべ、別れの言葉らしきラテン語を口にした。


「今夜、レネ様も大聖堂に行く予定だから、そこでまた会えるでしょう、って」


オリオンの通訳を待たず、レネの従者は身体の向きを変えた。主人が公使館の建物内へ戻っていくのが見えたからだろう。彼はアマリアに軽く手を振ると、自分の頭髪を両手で触りながらレネの背中を追いかけた。


「アマリア、乗れ」


アマリアにそう呼びかけたルイシュはすでに馬車のキャビンに腰を落ち着けている。オリオンがアマリアの背中を押した。


「スコルピオンに伝えて。明日の夜明け、カザピア橋の下に来いって。一件落着するまで休戦って約束だったの」


オリオンは思いつめた様子で言って、ポルトゥカーレ王家の馬車へアマリアをエスコートする。アマリアは動揺した。


「もしかして、決闘? エンリケさんは12年前にオリオンを置き去りにしたことをとても後悔してます。もう許してあげて」


「命までは取らないわ。ただ、あいつに改名を要求したいの」


「か、改名? どうして?」


話が読めない。アマリアがオリオンの美貌を見上げると、彼女はそれを悲しげにゆがめた。


「一昨日、アスクラピア遺跡で話したでしょう。私には15歳年長の叔父がいたの。私は両親を早くに亡くしたから、叔父が親代わりで、彼が世界で一番大切な人だった。彼の名前はハインリッヒ」


ポルトゥカーレ風に読むとエンリケだ。オリオンの叔父は農民の反乱によって殺され、街道添いの丘の木に遺体を張りつけにされた。エンリケはその反乱に関わっていた。


「よくある名前だし、偽名だと分かってはいるけど、あいつが亡くなった叔父の名前を勝手に使っているのが許せないのよ」


森でエンリケと再会した時、オリオンが彼に斬りかかったのはそういう事情があったのだ。アマリアは納得しながら、甘い想像を膨らませた。エンリケがオリオンの叔父の名前を拝借したのは、いつかオリオンに見つけてもらいたいと願っていたからじゃないだろうか。それか、オリオンの大切な人の名前で生きたかった、とか。


こんなことを言ったらオリオンは気を悪くするかな、とアマリアが口ごもった時、エウゼビオが建物の中から駆けてくるのが見えた。


「アマリア、フランシスカが呼んでる。おまえと話したいって」


そう言ってエウゼビオは公使館の2階の窓を指した。ぴたりと閉ざされた窓の奥で、黒いドレスを着たマガリャンイス伯爵夫人フランシスカがアマリアを見下ろしていた。いつも通り不敵な微笑みを白皙に浮かべていて、その表情を見る限り、彼女はアマリアへ謝罪する気はなさそうだった。


「行かない。私は話すことない」


アマリアはそう言って、ルイシュが待つ馬車へ歩み寄り、ドレスの入った箱をキャビンのシートに置いた。今さらフランシスカに恨み言を言ったところで、どうにもならない。実母に切り捨てられた彼女へ同情の言葉を述べるつもりもない。


「アマリア」


窓が開く音と、フランシスカの朗々とした声が聞こえ、アマリアは顔を上げた。


「ポルトの暮らしが嫌になったら、ヌーシャルテルへ来るといい。面倒を見てやる」


ヌーシャルテルは王妃やフランシスカの故郷だ。国外追放となった伯爵夫人は故郷に帰ることにしたのだろう。彼女の声は喜びに弾んでいた。


「お元気そうですね。心配して損しました」


アマリアはつい憎まれ口を叩いた。フランシスカはそれを鼻で笑った。


「他人の心配をしている場合か? ポルトに帰れば、おまえは王室にとことん利用されるぞ。種牡馬しゅぼばをあてがわれ、家畜のように何度も出産を強要される。私の姉がまさにそういう人生を送っているが、私には地獄としか思えない。檻の中に自ら入ることを選ぶなんて、おまえはつくづく愚かな娘だ」


「そうだとしても、あなたには関係ないと思います」


アマリアは伯爵夫人を睨め上げ、毅然と言い返した。


「それもそうだな」


フランシスカは自嘲気味に微笑み、それから視線をアマリアの背後に移した。公使館の門前に止まっている馬車の荷台で、アルメイダが立ち上がっていた。幌が開いていて、全身を赤い斜陽に照らされている。


「……役立たずの老いぼれが、どの面をさげてそこにいる」


貴婦人は汚らわしいものでも見るかのように顔をしかめ、悪態をついた。アルメイダは暗い瞳で笑った。


「伯爵夫人、私はあなたの指示に従っただけです。お怒りはご自身へ向けるべきかと」


「僧兵を連れて行けとは私は言っていない。香薬師協会の会長というからにはもう少し賢いと思っていたが、まあ、国王の配偶者に手を出し、長年に渡って不倫関係を続けていた愚者に期待した私が間抜けだった」


フランシスカの発言にその場にいた兵士たちが小さくどよめいた。


「幌を閉めろ。馬車を出せ」


ルイシュはアルメイダの乗る荷馬車の兵士へ指示した。王妃とアルメイダの不倫はルイシュにとっては既知の事実だったのだろう、彼は眉ひとつ動かさなかった。


「アルメイダさん、幌を閉めますから座ってください」


見張りの兵士がアルメイダにそう促したが、顔を真っ赤に染めた白髪の老人は無視した。


「ああ、そうだ、マガリャンイス伯爵夫人。あなたに大切なことをお伝えしていませんでした」


アルメイダはわざとらしい口調で、何かを思い出したように言った。


「あなたの最初のご夫君が最期に何をおっしゃったか、ご存じないでしょうなあ? いつかお教えしようと思っていたのですよ」


フランシスカは青ざめた。


「……なぜ貴様がそんなことを知っている? まさか、貴様が手にかけたのか、私の夫を?」


エウゼビオもアマリアの隣で顔をこわばらせている。17年前、彼の両親は王妃の手の者に殺害された。密会の帰路の交通事故に見せかけて。彼らの最期を知っているということは、少なくともアルメイダはその現場にいたのだ。


「前マガリャンイス伯爵は息を引き取る間際、女の名を呼んでいましたよ。息も絶え絶えに、愛しげに、無念そうに。さあて、あれは誰の名だったか」

 

アルメイダはアマリアが見慣れた好々爺然とした微笑みを顔に貼り付けているが、その瞳の奥には凶暴な光が見えた。地下遺跡でアマリアを殺そうとした時の目だ。アマリアは身震いしそうになった。


「そうそう、彼はこう言っていました。すまない――」


「今すぐ黙らないと叩き切るぞ!」


逆上したエウゼビオが背中の長剣を抜き、アルメイダの馬車へ駆け寄って、荷台へ飛び乗る。長剣の刃先を首元へ突きつけられた老人はエウゼビオをじっと見上げ、ふいに苦悶の表情を顔に浮かべた。遠き日に犯した罪の意識に苛まれるかのように。


「――すまない、フランシスカ、と」


アルメイダは壊れ物を扱うように柔らかな声でそっと告げた。アマリアの心臓はぎゅっと縮んだ。前夫を亡くした時、フランシスカは15歳。嫁いでから1年半が過ぎていた。妾やその息子と過ごす時間に重きを置き、妻を蔑ろにしていた前マガリャンイス伯爵には王妃の鉄槌が振り下ろされた。だが、本当は、彼はフランシスカを愛していたのかもしれない。


フランシスカは片手で己の顔を覆い、こちらに背中を向け、後ろ手で窓を閉めた。養母の元へ向かったのだろう、エウゼビオは長剣を背中の鞘に収めてその場から走り去った。

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