38.後始末(1)

床に壺か皿を落としたのだろうか、何かが派手に割れる音が遠くで聞こえた。御影石のホールで抱き合っていたアマリアとルイシュは現実へ引き戻され、互いの身体をそっと離した。


「わ、私、2階へ怪我人の治療に行かないと……」


名残惜しい思いでアマリアは言った。遠慮しつつルイシュの顔を見上げると、彼の涙は乾いていた。恥ずかしそうにあさっての方を向いている。


「あ、ああ、俺も王女殿下に報告を」


「王女様は2階にいらっしゃるみたいですよ」


ぎこちなく言葉を交わし、ふたりは大階段へ向かう。踊り場のバリケードは半分も片付いていなかったが、通行は可能だった。アマリアは階段を上りながら、離れていた間に何があったかルイシュに話した。アマリアがひととおり話し終えると、ルイシュは呆れ顔で天を仰いだ。


「まさか女教皇猊下にお会いしていたとは。俺だってお目通りしたことはないぞ」


「はい。成果は全然なかったですけど」


女教皇の二枚舌に翻弄されただけだ。己の手で自分自身を救うのだと勇んで離宮を飛び出したものの、結局のところアマリアは何もできなかった。自分の身を危険にさらし、ルイシュたちに心配をかけただけだ。


「まったくの無駄ということはないだろう。おまえが女教皇猊下に直談判に行ったおかげで、もしかしたら、おまえも俺もジュネーヴへ行かなくてすむかもしれない」


ルイシュは階段を上がり切り、足を止め、半ば独り言のように言った。深く考え込むように足元の一点を見つめる彼に、アマリアは「どういうことですか?」と聞きたかった。だが、ルイシュは口を挟むのを躊躇うほど真剣な顔をしていた。


「後で話そう」


王女への報告を急がなければならないのだろう、ルイシュは我に返ったように顔を上げ、勝手知ったる足取りで歩みを進める。ドアが4つある広々とした部屋にたどり着くと、前方のドアの向こうに両開きの扉が見えた。王宮護衛隊の兵士が6人も立っているので、おそらく王女の部屋だ。


「あとで、はなそう?」


アマリアはルイシュの背中を追いかけつつ、思わずおうむ返しに聞いてしまった。ルイシュは再び足を止め、怪訝そうに眉をひそめる。


「どうした?」


「いえ、何だか変な感じだなと思って。だって、ルイシュさん、いつもは“おい、ちょっと来い、話がある”とか“いいか、よく聞け”とか、そういう感じなのに、何だか私のことを人間扱いしてくださってるみたいで嬉しいです」


「人聞きの悪いことを言うな。おまえのことはいつだって人間扱いしてただろうが」


アマリアは反論こそしなかったが、納得もしていなかった。かといって不満を抱いているわけでもない。後見人であるルイシュと元孤児のアマリアは対等ではない。彼がアマリアを子供扱いするのは自然なことだ。ルイシュがにわかにアマリアへ寄り添うような言動をとっているのは「昨夜ひどく泣かせてしまった」という罪悪感から逃れるために違いない。何だか申し訳なかった。


「ルイシュさん、昨夜からずっと私に気を遣ってくださってますよね。あんなに泣いて、あんなに取り乱して、びっくりしましたよね。おかしなことを言って大騒ぎして本当にすみませんでした」


もしかしたら情緒不安定な危ない奴だとルイシュに思われているのかもしれない。それか、自暴自棄になって身投げするのではないかと心配されているのかも。だから彼は腫れ物に触れるみたいに優しくしてくれているのだ。なんて情けない。恥ずかしい。惨めだ。


「私、もう平気です。たくさん泣いて、すっきりしました。だから、もう、お気遣いいただかなくて大丈夫です」


すべて嘘だ。でも、そう言わなくては、彼の優しさに甘えていては、彼を暗に責めているようで申し訳ない。これ以上、同情されたくもない。アマリアは無理矢理に笑顔をつくった。


「元孤児の根性、甘く見ていただいては困ります。私のことは気になさらないでください。ご心配おかけして申し訳ありませんでした」


昨夜以上に悲しい出来事は、アマリアの人生には起こらない。あんなに苦しい思いをすることは二度とない。この先の未来で何が起ころうとも、それは大したことではない。今、アマリアは海底の一番深いところにいる。ここより酷い地獄はない。そう考えると、少しだけ心が救われた。


「俺は気を遣ってるわけじゃない」


王女の部屋の前に立つ兵士たちをちらりと見やり、ルイシュは部屋の隅にアマリアを導く。彼は言葉を探すように言いよどんでから、小声で続けた。


「昨夜からずっと考えてる。おまえの未来について、他にいい方法があるんじゃないかと。ずっと、繰り返し、考えてる。そのことについて、あとで話したいと思ってる」


アマリアは目をむいてルイシュの顔を見つめてしまった。この旅が始まってから驚愕すべきことにはたくさん遭遇したが、今より驚いた瞬間はなかった。アマリアの心を読んだのか、彼は不満そうな顔をした。


「俺だって、こんな時くらい考える」


「は、はあ、すみません」


ルイシュが何のために考え込んでいるのかは分からなかったが、これもおそらく彼が抱いている罪悪感がそうさせているのだ。エンリケは「モテない男がたまにモテるとこういうことが起こる」と断言していた。そういう特殊な怪奇現象なのかもしれない。


「アマリアちゃん、こっち、こっち!」


後方から声をかけられて振り返ると、ダンスホールらしき大部屋の入口で、さわやかの弟が手を振っていた。彼は室内に向かって「みんな、アマリアちゃん来たよ~!」と朗らかに叫ぶ。怪我人が集められているのだろう。アマリアはそちらに身体を向けた。


「すみません、行きます。私、本当にもう大丈夫ですから、これ以上は考えるの、やめてくださいね」


慣れないことをすると健康を害する。心配だ。アマリアはルイシュを案じつつ、ダンスホールへ走った。そのつもりだった。ルイシュに腕をつかまれていた。アマリアは身をよじり、肩越しにルイシュを振り向く。


「言葉が足りてなかった。俺が考えてるのは、おまえと俺の未来について、だ」


ルイシュは怒ったような顔で告げ、アマリアを見つめた。その熱のこもった視線を受けて、アマリアは己の全身が溶けて床にぐちゃりと広がる幻を見た。


「俺はおまえを……」


ルイシュが言いかけた時、彼の頭に何かが勢いよく飛んできた。床に落ちたそれは白いレース製の扇だった。ルイシュはアマリアの腕を離し、扇を拾った。彼の視線の先には灰色のドレスをまとった王女の後ろ姿があった。ややふっくらとした可憐な姫君は自室の扉の向こうへ姿を消した。


「後で話そう。必ず」


有無を言わせぬ口調で言い残し、ルイシュは王女の部屋に向かった。アマリアも負傷者の元へ急いだ。心臓は早鐘を打ちまくり、頭の中は混乱していた。目の前に仕事があるのがありがたかった。


広いダンスホールには負傷した兵士が寝転がったり、座り込んだりしていた。応急処置の心得のある兵士や女官たちが治療に当たったのだろう、処置を待っている者はすでにいなかった。控えの間で出会ったあの傭兵の膝にも包帯が巻かれている。


アマリアは重傷を負った兵士から順番に香薬を焚いて回った。ひととおり治療が終わった頃、王女が様子を見にやってきた。王女は離宮を守るために負傷した兵士たちを労い、慈悲深い慰めの言葉をかけたが、アマリアに対しては軽蔑したような冷ややかな眼差しを向けただけだった。


「アマリアちゃん、後で王女殿下に謝っておいた方がいいよ。君の捜索に王宮護衛隊の人手をさいて、そのせいで離宮の警備が手薄になってしまったんだ。それでお怒りなんだよ」


そう教えてくれたのは、さわやかの弟だった。ダンスホールを出ていく王女の背中を見送りながら、アマリアは居たたまれない気持ちで頷いた。


王女の怒りの原因はきっとそれだけではない。アマリアは王女にレネやフランシスカへの交渉を依頼しておきながら、彼女を飛び越えて女教皇に直談判をしてしまった。王女の立場や面目を考えれば、彼女が怒るのは当然だ。


それに、王宮の肖像画のホールで初めて会った時からそうなのではないかと思っていたが、おそらく王女はルイシュを慕っている。ルイシュに目をかけてもらっているアマリアに対して、よく思うはずがない。


身分も立場も雲泥の差のある異母姉妹だが、良好な関係を築けたらいいと思っていた。それなのに、嫌われている確信ばかりが募る。


緑色の怪しい酒による高揚感はすでに切れていた。アマリアの気持ちは沈みこみ、突然、身体が鉛のように重く感じた。アマリアはダンスホールの床に座り込み、シャンデリアの吊り下がる高い天井を見上げた。大きな窓からはオレンジ色の陽光が差している。柱時計の針は19時半を指していた。


ルイシュの姿が視界に現れたのは、それからまもなくだった。彼はエウゼビオとオリオンを連れていた。彼らはダンスホールへ足を踏み入れると、こちらへ真っ直ぐに歩いてきた。アマリアの胸はどきりと跳ねた。先ほどの真剣な眼差しのルイシュを思い出してしまったのだ。


「捕虜となった僧兵や傭兵を教皇庁の公使館へ引き渡しに行く。アマリア、おまえも来い」


アマリアの目の前で立ち止まると、ルイシュはそう言ってアマリアへ右手を差し出した。アマリアは彼の手を借りて立ち上がった。


「え、私も、ですか?」


公使館には二度と行くことはないと思っていた。酷い目に遭ったし、何しろ敵の本拠地だ。


「もしかして、女教皇様から王女様へ宛てた手紙に、私のことが書いてあったんですか?」


アマリアはいくらか期待を込めて尋ねる。ルイシュは首を横に振った。


「いや。手紙には当たり障りのない定型文しか書かれていなかった。オリオンたちをこちらへ寄越すための口実として、適当に用意したんだろう」


誠意のないあの老婆らしいな、とアマリアは皮肉っぽく思った。それとも、大人になるということは、そういうことなのだろうか。


「アマリア、二枚舌の女教皇猊下はフランシスカ様が劣勢になればあなたに協力してくださる、あなた、そう言ってたわよね?」


オリオンに熱っぽい口調で問われ、アマリアは頷いた。


「はい。レネ様やフランシスカ様がそうおっしゃっていました」


「今がその時よ。女教皇猊下にフランシスカ様を切り捨てさせ、あなたを選ばせるの」


オリオンの言葉に頷き、先を続けたのはルイシュだった。


「オリオンたちをここへ派遣してくれたことを考えると、おそらく、女教皇猊下はすでにそのつもりだ。マガリャンイス伯爵夫人は本物のサルースの杯を失った上、アマリアを逃がしてしまったからな、彼女が劣勢なのは明らかだ」


サルースの杯を独断でどこかへ隠した張本人は勝ち誇ったような笑みを顔に浮かべた。説明を代わったのはオリオンだ。


「それに、少数とはいえ僧兵が襲撃に関わった以上、教皇庁としては言い訳が必要なのよ。ポルトゥカーレ側がフランシスカ様やアルメイダを首謀者として断罪すると言えば、それは猊下にも好都合。彼らをかばうことはないでしょうね」


「さらに、だ。狼藉者討伐のために夜明け団を派遣してくださった御礼として、香薬の種を定期的に提供することを王女殿下が女教皇猊下に約束する。何がなんでも勝ち馬に乗りたい女教皇猊下は必ずこちらになびくだろう」


矢継ぎ早の説明をアマリアは何とか理解した。だが、どこかお芝居のワンシーンのようにも感じていた。実感がない。


「アマリア、喜べよ! おまえ、ジュネーヴへ行かずにすむんだ! ポルトへ帰れるんだよ!」


茫然としていたアマリアは、エウゼビオに肘で小突かれ、やっと笑顔になれた。その場しのぎで闇雲にやってきたことが報われたのだ。


「う、うん。みなさんのおかげです、ありがとうございます」


「おまえが猊下の腹を探ってきたから打てる手だ。よくやったな」


ルイシュはアマリアを褒め、オリオンは晴れやかな表情でアマリアを見下ろしている。アマリアは彼らに微笑みつつ、エンリケの姿を探した。どこに行ってしまったのか分からないが、あとで彼にも御礼を言わなくては。


「じゃあ、行きましょ」


オリオンがそう言って先陣を切り、ダンスホールを出ていく。ルイシュとエウゼビオもそれに続く。アマリアは慌てて彼らを追いかけた。


「あの、ルイシュさん、私も行っていいんですか? 公使館へ入った途端、また捕まったりしたら……」


「大丈夫だ。女教皇猊下がおまえを手に入れるつもりなら、夜明け団をここに派遣してはいない。それに、離宮で大人しく待っていろと言っても、どうせ言うことを聞かないんだろ? それなら、初めから連れていく。ちゃんとついてこい」


「は、はい……」


置いてけぼりにされるよりはマシだが、相変わらず、まるで信用がない。


大階段を下りて御影石のホールを抜け、車寄せに出ると、早くも王女の馬車が正門を出ていくのが見えた。その後ろを、アルメイダや僧兵たちを荷台に乗せた幌つきの荷馬車が続く。見張りも兼ねているのだろう、そこにはクラーラや夜明け団の兵士たちが同乗していた。


本当にすべてが終わろうとしている。アマリアは雲の上を歩いているような気分でポルトゥカーレ王家の馬車に近づき、そこで我に返った。


「こんな格好で大丈夫でしょうか」


つやつやとした漆黒の車体に冴えない自分の姿が映ったのだ。薬草の染みがついた青いドレスに、洗い髪、化粧はしていない。ルイシュがいいと言ってくれた“普段のアマリア”だ。


「問題ない。香薬師らしくていい」


ルイシュはそう言ってアマリアをキャビンへ押し込み、アマリアの隣に座った。エウゼビオとオリオンがふたりの向かいに腰を落ち着け、王宮護衛隊の兵士がドアを閉めると馬車はすぐに動き出した。


アマリアの正面に座ったエウゼビオは、よく見ると左頬を腫らしていた。アマリアが「どうしたの?」と問うと、幼馴染は瞳の動きでルイシュを指し示した。ルイシュは知らん顔で窓の外を見ている。


「ルイシュさん、エウさんが私を騙してポルトから連れ出したのは、いろいろ事情が……」


アマリアはルイシュに抗議しかけたが、エウゼビオは「やめろ火に油を注ぐな」と表情だけで言った。「でも」「いいから黙っておけよ」「でも」「いいんだってば」とアニキと妹分の無言のやり取りが続く。オリオンは仲睦まじいふたりに目を細め、それから窓のむこうを指した。


「コスタ大臣、あれは何? 見慣れない紋章をつけた馬車だわ」


前方から曲がりくねった坂道を上ってくる1台の馬車があった。国土保安開発省の国境警備隊の紋章をつけた馬車で、幌つきの荷台には兵士がぎっしりと乗っている。


「ああ、到着したか。スペインとの国境から呼び寄せた部下だ。ちゃらちゃらした王宮護衛隊の連中に、アルメイダの護送は任せられないからな。ポルトまで彼らに送らせる」


ルイシュはすれ違い様、国境警備隊の面々に片手を上げた。エウゼビオは何か言いたげな顔をしていたが、公使館に着くまで口を開くことはなかった。

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