37.生まれてきてよかった

「や、やめろ……やめてくれ……!」


アルメイダは自分の頭を腕で覆い、情けないうめき声を上げて身体を丸めた。


「アマリア、やめなさい!」


前庭に面した窓を突き破り、室内へ飛び込んできたのはオリオンだった。彼女はコスタ子爵領名物の発酵タラの塩漬けが放つ刺激臭に顔をしかめつつ、床にうずくまっているアルメイダを見下ろした。


「こんな奴のために人殺しになってはだめよ」


オリオンは老人の襟元のクラバットを解き、それでアルメイダの手首を縛り上げた。香薬師協会会長はタラにまみれ、鼻血を流し、小刻みに震えている。


「ちょっと、アマリア、大丈夫?」


美しい女傭兵はアマリアの手から短銃を回収し、その顔をのぞきこむ。アマリアははっと我に返った。今、人を殺しかけた。自分自身にぞっとした。


「あ、そうだ、クラーラが!」


置きざりにしてしまった教皇庁の斥候せっこうのことを思い出し、アマリアは弾かれたように隣室へ走る。すると、3人の僧兵を縛り上げているクラーラがこちらを振り返った。僧兵たちは顔の形が変わるほどの暴行を受けていた。アマリアが念のため確認したところ、3人とも息はあった。


「クラーラ、怪我は?」


アマリアが問うと、クラーラは両拳を振り上げて踏ん反り返り、無事と勝利をアピールした。頬や手には打ち身や擦り傷があり、太い金髪の三つ編みがやや乱れていたが、大きな負傷はなさそうだった。彼女がレネからどんな命令を受けているのか分からないが、同胞をこんな目に遭わせて大丈夫なのだろうか。


案の定、様子を見に来たオリオンがクラーラと僧兵たちを見て青ざめた。オリオンは厳しい表情でクラーラに何か言ったが、可愛らしい金髪の娘は不服そうに頬を膨らませてそっぽを向く。このふたり、仲悪いのかな、とアマリアはついつい身を乗り出しそうになった。


「クラーラは身長が足りなくて夜明け団に入れなかったから、オリオンのこと妬んでるんだよ」


背後から声がして、アマリアはその場から飛びのいた。いつのまに、室内にエンリケが立っていた。顔も手も着衣も血で汚れている。


「エンリケさん、どうして戻ってきたんですか! あ、怪我! 怪我してるんですか!」


「平気。これは返り血」


エンリケはぶっきらぼうに言って、手に持っていた紙の束を床に放り出す。すべて彼自身の似顔絵が書かれた手配書で、20枚以上あった。元盗賊は鏡台に置かれた水差しから洗面器へ水を注ぎ、顔と手を洗った。


「回収できるだけ回収したけど、あいつらのせいで、だいぶ逃がしたよ」


エンリケが視線で指し示したのは窓の外だった。離宮の前庭で見慣れない男たちが傭兵と戦っていた。彼らはそろいもそろって若くて身体が大きく、多国籍な美丈夫だった。


「あれって夜明け団の連中だよね? オリオン、君が連れてきたんでしょ?」


鏡台にかけてあった布で顔を拭きながら、エンリケが尋ねる。


「ええ。彼らに任せておけば、侵入者の制圧は時間の問題よ。逃げる者までは追わないけどね」


オリオンが言ったそばから、傭兵の集団が前庭を駆け抜け、離宮から逃げていくのが見えた。走りながら、略奪した品物をポケットや手からポロポロと落としている。ジュネーヴの女教皇を護る傭兵と、巡礼旅の護衛の傭兵では相当な実力差があるのだろう。逃げ惑う傭兵たちは完全に戦意喪失していた。


「オリオン、ありがとう。でも、どうやって連れてきたの? 女教皇様に怒られない?」


アマリアの問いに、オリオンは歯切れの悪い口調で答えた。


「私たち、女教皇猊下のご命令でここに来たの。王女殿下にこれを届けるように、って」


オリオンが上着の懐から取り出したのは手紙だった。赤い封蝋に押されているのは牡鹿の周りに女教皇の名が記された印章だ。


「夜明け団の傭兵が総勢10人で手紙配達って、おかしいでしょ。つまりは女教皇猊下の黙認。言いにくいけど、猊下はそういう方なのよ」


「誰も聞いてないんだから、はっきり言っちゃえば〜?」


エンリケにけしかけられ、オリオンは彼をじろりと睨んだ。彼女の代わりにアマリアが続けた。


「そういえば、レネ様とマガリャンイス伯爵夫人が言ってました。女教皇様は二枚舌だって。マガリャンイス伯爵夫人が優勢なら彼女を助け、彼女が劣勢なら私を助けるって。曖昧なことをして、どちらに転んでも勝ち馬に乗れるように」


「ふーん、ステキな性格なさってんじゃん。まあ、そうじゃなきゃ教会のトップなんかにはなれないか」


エンリケは愉快そうに笑ったが、アマリアは笑う気にはなれなかった。何だかフランシスカが気の毒に思えてきたのだ。女教皇がアマリアに手を貸したということは、彼女は実の娘であるフランシスカを見捨てるつもりなのかもしれない。


「あ、私、控えの間の怪我人を治療しなくちゃいけないんでした!」


根性のある怪我人のことを思い出し、アマリアは慌ててベッドの上の薬草をかき集めた。エンリケはそれを冷めた目で一瞥し、上着のポケットからウイスキーの瓶を取り出した。


「膝を撃たれてた奴なら2階に運ばれたよ。今頃、治療を受けてるんじゃないかな。それより、腕、どうしたの。血、出てるじゃん。見せて」


「さっき会長に撃たれたんです。これくらい、かすり傷ですよ」


アマリアは強がってみたが、意識が傷へ向かうと、急に左腕がじんじんと痛み出した。エンリケはアマリアの腕を掴み、ウイスキーのコルクを奥歯を使って抜くと、傷口へそっと垂らした。しみる。


「エンリケさん、本当に大丈夫ですか、逃げなくて」


「どうだろうね。スコルピオン・ザッハーがエンリケ・クラヴェイロ・ロペス博士だってことはバレてなさそうだし、手配書はまあまあ回収できたし、大丈夫だと思いたいね」


エンリケは気弱げに両眉を下げ、ため息をつく。ポルト近郊の雑木林で焚火を囲んだ時、エンリケは「いざ自分に死の危険が迫ったら君なんて放り出して一目散に逃げる」と言っていた。彼がそうしなかったのは、きっとアマリアのためではない。彼はアマリアを守ることで、12年前にオリオンを欺き、彼女のそばにいてあげられなかった後悔の念を晴らそうとしている。


「これ、オリオンには本気で内緒だけど」


エンリケは低い声で切り出し、美貌の女傭兵をちらりと見た。オリオンは床に落ちていた僧兵たちの歯を拾って彼らの上着のポケットへ入れてやっていた。3人ともボコボコにされ、何本も歯を失っているので、どれが誰のものかは定かではない。


「僕、ジュネーヴに行ったんだよ。5年くらい前かな。オリオンが夜明け団にいるって風の噂を聞いて」


オリオンとは12年前に別れたきり会っていなかったとエンリケは言っていた。つまり、ジュネーヴには行ったが、オリオンと対面しなかったということか。会えなかったのか、会わなかったのか、それは分からないが。


「今回のこと、僕は大臣に巻き込まれて、君にそそのかされて、ここまで来たわけだけど。実を言うとオリオンに会えるかもしれないってことは最初から分かってたんだよ。舞踏会の夜に王宮で大暴れした夜明け団の女傭兵がいたって噂も……あ、これは君、知らないか」


王宮の庭でオリオンがエウゼビオの弟たちを成敗した、あのことが噂になっていたのか。エンリケはどこか晴れやかな顔で笑った。


「だから、大臣や君のこと、僕はべつに恨んでないよ。……ていうかさ、君、手、洗った方がいいよ、絶対。すんごい臭い」


「え、そんなに?」


アマリアは自分の手を鼻に近づけた。嗅覚が麻痺してしまっているのか、自分ではよく分からない。鼻は商売道具なのに。


「あ、もしかして、クラーラとは、ジュネーヴで知り合った、とか?」


アマリアはふと思いついてエンリケに聞いた。


「お、正解。ちょっと色々ね、世話になったんだ。可愛い顔して、まあまあヤバい子だから気をつけた方がいいよ」


クラーラは室内に漂う耐えがたい悪臭に自分の鼻をつまみ、部屋の窓が開かないと分かるとそれを叩き割ってまわっていた。ラテン語で「毒物!」と叫んでいるのはアマリアにも理解できた。


「アマリア、アマリア、そこにいるんだろう……? どうか、私の話を聞いてくれ……」


開け放たれたドアの先からアルメイダの情けない声が聞こえ、アマリアは水差しの水で手を洗ってから、オリオンとエンリケとともに隣室へ戻った。両手を背中で縛られたアルメイダは芋虫のように床に転がっていた。


「アマリア、覚えているだろう? おまえに香薬師の免許を与えたのはこの私だ。口頭試問で、おまえが回答を少しつっかえたのを見逃してやったのは私なんだ」


恩着せがましい台詞ではあったが、アマリアはただただ、憐憫の情を覚えた。


「その節は、ありがとうございました」


アマリアが香薬師の免許を取得した時、二次試験である口頭試問の試験官はアルメイダだった。能力や知識を測るだけでなく、香薬師としての適性や資質を問われる試験なので、試験官との相性は重要だと言われている。大袈裟に言ってしまえば、アマリアが香薬師になれたのはあの試験でアルメイダが高評価をしてくれたからだった。殺されかけたとはいえ、彼には恩がある。アマリアは最低限の敬意をもってアルメイダに話しかけた。


「会長、どうして王妃様やマガリャンイス伯爵夫人の悪だくみに加担したんですか?」


「すべて誤解なんだ。私は王妃殿下に脅され、利用されていただけだ。私は被害者だ。他にどうすることもできなかったんだ!」


アルメイダは悲しげな目でアマリアへ訴えた。思わず同情しそうになったアマリアが踏みとどまれたのは、老人の瞳から「こんな馬鹿な小娘、丸め込んでやる」という魂胆が透けて見えたような気がしたからだ。


「聞かれたことにまともに答えられないなら、私がすべて話すわよ」


オリオンはそう言ってため息をつき、アルメイダの憐れな姿を見下ろす。悪臭を放つ老人からは、やや距離を取っている。アルメイダは憤慨した。


「黙れ、裏切り者め! おまえなんか夜明け団の軍法会議にかけられて教皇庁を追放されてしまえ!」


「じゃ、話すわね。このおじいちゃん、王妃殿下と不倫してたの」


オリオンは衝撃的なことをさらりと言ってのけた。アマリアとエンリケは一瞬、言葉の意味がわからずに沈黙した。


「うっわ! それは凄いネタ!」


エンリケが人目も憚らず大喜びしたので、ついアマリアも同調しそうになったが、床でアルメイダが歯噛みしているのを見て思いとどまった。オリオンは平然と続けた。


「これはフランシスカ様から聞いた話だけど。王妃殿下がポルトゥカーレに嫁いできた時、この人、王宮香薬師だったんですって。で、慣れない環境で色々な不調を抱えていた王妃殿下を治療して、彼女の愛と信頼を勝ち取ったとか」


抑揚のない声で淡々と語り、オリオンは窓辺に置かれていた背もたれのない椅子へ腰を下ろして長い脚を組んだ。


「やがて、女教皇猊下のリウマチがひどくなると、王妃殿下は香薬の種をジュネーヴへ密輸できないかアルメイダに相談なさったの。で、この人は種の横流しを始めたのよ。10年くらい前かしらね?」


10年も密輸をしていただなんて。アマリアはアルメイダに改めて失望した。怒りを通り越して悲しかった。アルメイダだって、町の人々を癒したくて香薬師になっただろうに。


「なあ、アマリア、王妃殿下の背後には女教皇猊下がいらしたんだよ。私のような小市民に逆らえるはずがないだろう? 私は利用されていただけなんだよ。私は被害者だ。他にどうすることもできなかったんだ……」


アルメイダはつい数分前につむいだ言葉を繰り返す。世紀のスキャンダルに歓喜していたエンリケも気の毒そうに老人へ声をかけた。


「じいさん、諦めな。たぶん、すべての罪をあんたが被ることになると思うよ。さすがに王妃様を吊し上げることはできないだろうから。あんた、妻子いんの?」


無言のアルメイダの代わりにアマリアが答えた。


「奥様は少し前に亡くなられました。お子さんはいらっしゃらないです」


「ふーん、それはせめてもの救いだな。自分の夫や父親が王妃様と不倫して、香薬の種を密輸してたなんて、並の精神で耐えられる話じゃないもん。奥さんにはバレてなかったんだろ?」


エンリケが問うと、アルメイダは狂人のような目で暗い笑い声をたてた。肩を震わせて笑い続ける老人にオリオンとエンリケは顔を見合わせて「こいつ大丈夫かしら」「やばいねえ」と視線を交わす。アマリアはおずおずと尋ねた。


「会長、もしかして、奥様はご存じだったんですか? 王妃様のことも、密輸のことも? いつから?」


アルメイダ夫人にはアマリアも何度か挨拶をしたことがある。穏やかで温厚で繊細そうな女性だった。アマリアの軽蔑の眼差しを受け、アルメイダは小娘に殺気立った視線を寄越した。


「今回の件に協力すれば解放してくださると王妃ルシア様は約束してくださったのに……王妃ルシア様とやっと縁を切れると、種の密輸からも足を洗えると、外国で心穏やかに暮らせると思っていたのに……それなのに、おまえのせいで私の人生はめちゃくちゃだ」


「アマリア、ただの逆恨みよ。真面目に聞いてやることないわ」


オリオンは冷たい声で断言し、エンリケも頷く。


「そうそう。自業自得」


友人たちの助言はもっともだとアマリアは思った。だが、アルメイダは目を血走らせてこちらを睨め上げている。まったくの嘘を言っているようには見えない。アマリアは彼のそばに片膝をついた。


「会長、あなたの話、ひとまず信じます。王妃様とそういう関係になってしまったのは会長の“不徳のイタストコロ”ってやつだと思いますけど、その後のことは、あなたが望んだことではなかった。あなたは王妃様とずっと決別したいと思っていた。香薬の種の密輸にも関わりたくなかった。奥様のことも傷つけたくなかった。王妃様に脅されて仕方なく悪事に手を貸し続けてしまった。ルイシュさんにはそう説明します」


「お人好し。そいつに殺されかけたくせに、甘いこと言ってんじゃないよ」


エンリケになじられ、アマリアは苦笑して立ち上がった。


「いいんですよ。私が擁護したところで判決に大きな影響はないでしょうから。それより、怪我人って2階にいるんですよね? 私、治療しに行きます。アルメイダ会長とあの僧兵たちのこと、頼んでいいですか?」


「私も王女殿下へ女教皇猊下の手紙を届けなくちゃ。あんた、暇でしょ、見張ってなさいよ」


「ええっ、何で僕があ?」


オリオンとエンリケの小競り合いを横目にアマリアは自室へ戻り、薬草や火薬の包みをかき集めてポケットに押し込んだ。結局、アルメイダや僧兵の見張りはクラーラに任せ、アマリアはオリオンやエンリケとともに御影石のホールへ向かった。2階へ上がる階段はそこにあるのだ。


御影石のホールにたどり着くと、大階段の踊り場のバリケードが撤去され始めていた。侵入者の掃討が終わったのだ。巨大なベッドや洋服ダンスを然るべき部屋へ運んでいるのは王宮護衛隊の面々で、エウゼビオの姿もあった。


「エウさん!」


アマリアが声をかけると、エウゼビオは抱えていたカウチを床に落とし、こちらへ駆け寄る。服に返り血を浴びているが、見たところ無傷だ。


「アマリア、どこかに隠れてろって言っただろ! クラーラはどうした?」


アマリアはエウゼビオにこれまでのことを説明し、エンリケを紹介した。男たちは互いにまったく関心がなさそうな様子で「どうもアマリアがお世話に……」「よろしく……」と適当な挨拶を交わした。


「あ、僕、先に王女様のところに行くから。アマリアは残りな。じゃ」


エンリケが何かに気がついたように表情を強張らせ、逃げるように大階段を上っていく。


「私も行くわ」


オリオンもそそくさとアマリアのそばを離れた。王宮護衛隊の面々も作業を中断し、慌ただしげに2階へ去っていく。


「え、何? どうしたの?」


エウゼビオに問うと、彼は「うしろ!」と口の動きだけで忠告し、脱兎の如く大階段を駆け上がって消えた。アマリアは肩越しに背後を見た。


赤みを帯びた美しい御影石のホールの入口に、誰かが立っていた。逆光で顔はよく見えないが、アマリアにはそれが誰かすぐに分かった。アマリアは恐る恐る彼に近づき、顔が見えるところまで距離を詰める。うわあ、どうしよう、めちゃくちゃ怒ってらっしゃる。


「あの、ルイシュさん……?」


後見人に向かって、アマリアはおっかなびっくり声をかける。ルイシュは表情を変えない。目を吊り上げ、唇をきつく引き結び、アマリアを睨んでいる。


これは本格的にまずい。彼をここまで怒らせたのは初めてだ。アマリアは居住まいを正し、きちんと詫びることにした。


「ルイシュさんの言いつけをやぶって、ご心配をおかけして、申し訳ありま……」


謝罪の言葉は最後まで言えなかった。ルイシュがアマリアに勢いよく抱きついてきたのだ。アマリアは後ろによろけ、何歩か後退し、背中を御影石の円柱に打ちつける。ルイシュの身体とひんやりとした円柱に挟まれ、一瞬、息が止まった。


「あ、あの、ルイシュさん?」


返事の代わりなのか、ルイシュはアマリアの背中に回した両腕にぎゅうっと力を込める。苦しい。彼の顔はアマリアの頭に寄せられていて、ほとんど見えない。


「こ、今回は本当に本気で反省してます、ごめんなさい、すごく危ない目に遭って死ぬかと思いましたし、ルイシュさんに二度と会えないかもしれないって……思いましたし……」


言いながら、アマリアは公使館の地下でアルメイダに殺されたかけたことを思い出してしまった。暗い水底へ沈んでいく恐怖がよみがえり、思わず涙がこぼれた。ルイシュの元へちゃんと帰ってこられてよかった。あんなところで死ななくてよかった。


「ルイシュさん……怒ってますか……?」


ルイシュは何も言わない。


「怒ってますよね?」


ルイシュは無言のままだった。きつく抱きしめられながら、アマリアは彼の大きな怒りと安堵と愛を感じていた。


私の愛する人は、私のことをこんなに案じてくれていた。きっとこれから先も私のことを大切に想い続けてくれる。それだけでいいじゃないか。それだけで私は世界で一番幸せな人間だ。アマリアは温かい腕の中で目を閉じ、心から安らいだ気持ちになった。


「私、これからは品行方正に生きます。王様がお決めになったお相手とも仲良くやります。母の店も大切にします。もうルイシュさんにご心配もご迷惑もおかけしませんから安心してください」


結婚すれば未成年の女の後見人は夫になる。もうアマリアがルイシュに面倒をかけることはない。


「もしジュネーヴへ行くことになっても、私、いつか必ずポルトに帰ります。私って結構しぶといんです。どこでどんな風に生きるとしても、毎日元気に、誰よりも平穏に暮らすって約束します。だから許してください」


アマリアは許しを請い、自分の指で涙をふいた。ルイシュの腕の力がわずかに緩んだ。彼の頭も、肩も、腕も、震えていた。アマリアは彼の顔を見上げた。今朝、アマリアが剃った頬の髭が少し伸び、濡れて光っていた。


「ルイシュさん……?」


その時、アマリアは初めて見た。大人の男が涙を流して泣いているのを。


「ルイシュさん、私、思いました。今、思いました。私――」


アマリアはルイシュの背中へ両手を回し、彼の胸に顔を埋め、深く息を吐いて目を閉じた。


「――生まれてきてよかった」

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