34.地下遺跡(1)

修道院のダイニングルームで、アマリアはレネを待っていた。彼はエウゼビオを探しに行ったきり戻ってこない。こんな風にひとりで待ちぼうけたことが、最近、他にもあった気がする。そうだ、香薬師協会本部の会議室で、アルメイダとルイシュが来るのを待っていた。5日前の朝のことだ。


みんな心配してるかな。柔らかな布張りの椅子に浅く腰かけ、巨大な長テーブルに頬杖をつき、ドレスの上からペンダントに触れ、アマリアがそう思った時だ。にわかに目の前が暗くなり、身体が宙に浮きあがった。大きな麻袋を頭からかぶせられ、誰かの肩に担がれたと分かるまで数秒かかった。


「誰か! レネ様!」


アマリアは袋の中から叫んだ。隣の部屋では女教皇が眠っている。白銀の夜明け団の兵士もいる。聞こえているはずだ。ところが、誰かがアマリアを助けにくる気配はない。


アマリアの身体は何者かによって、どこかへ運ばれていく。前後左右の感覚がない。四肢をばたつかせるアマリアに、低い男の声が申し訳なさそうに何かつぶやいた。ラテン語だった。


男は小走りで移動し、やがて重そうな金属製のドアを開けると、階段を駆け下りていく。もともといた部屋は地上階だったはずだ。つまり、修道院の地下へ向かっているのだ。


「アマリア、諦めろ。この階段のことはレネは知らない」


遠くから聞こえたのはフランシスカの声だった。男は階段を下りきり、平坦な場所を歩いている。足音が奇妙に響く。麻袋越しでも風が吹いているのが分かった。そして寒い。ここは、ただの地下室ではない。おそらく天井が高く、広々とした空間だ。


そういえば、エンリケが言っていた。コンポステーラの地下には古代ローマ時代の遺跡が眠っている、どこを掘るにも教皇庁の許可が必要で思い通りに調査できず謎が多い、と。まさか、ここはその地下遺跡なのだろうか。


吹き抜ける冷たい風にアマリアがくしゃみをすると、フランシスカが低い声で笑った。すぐ近くにいる。


「我々には適温だが、ポルトゥカーレ人には、ここは寒いかもしれないな」


伯爵夫人はアマリアを担ぐ男と言葉を交わしながら、どこかへ向かって歩き始めた。足音がもうひとつあるのでフランシスカの侍女も一緒なのだろう。会話に用いられているのはまたラテン語だった。もうラテン語なんて、この世からなくなってしまえ。それか、エウゼビオから少しでも教わっておけばよかった。


彼らが何を話しているのか。アマリアはどこへ連れていかれるのか。不安と怒りの捌け口は、こんな状況ではひとつしか見当たらない。


「あの、ここ、どこですか! 教皇庁の公使館って、古代の地下遺跡の中にあるんですか! 町の北のはずれにあるって聞いたような気がするんですけど!」


腹から大声を出さないと、恐怖に震えていると悟られてしまう。アマリアが張り上げた声は地下空間に響き渡った。


「おまえ、この遺跡のことを知っているのか」


感心したようにフランシスカが言った。


「コインブラ大学の考古学博士と友達なので」


「ほう。この遺跡の調査は教皇庁が極秘で行っている。コインブラ大学にも立ち入りを許していないはずだ。いざという時、戦術的な切り札になりうるからな」


「いざ?」


「拝星教徒との戦争が起こった時だ。ご苦労なことに、教皇庁はこの聖地だけは何を失ってでも守らなければならないと躍起なのだ」


フランシスカは馬鹿にしたように笑いながら、アマリアにかぶせた麻袋を取り去った。フランシスカの侍女がふたつのランタンを持っているが、地下空間は漆黒の闇に包まれ、周囲の様子はよく分からなかった。


「コンポステーラの地下にはいくつかの地下遺跡がある。いずれも古代ローマ時代につくられた建物の地下部分だったものだ。たとえば、ここはローマの神々を祭る神殿だったらしい。つまりは野蛮なことに、異教徒の神殿を壊して大聖堂や修道院を建てたということになるな」


アマリアは男に担がれたまま、天井を見上げた。地上部分は壊されて新しい建物に取って代わったが、地下だけは当時のまま残っているということだ。天井には何かが描かれていたが、色が褪せ、もはや判別できない。


「このトンネルの先には別の建物がある」


言いながら、フランシスカは行く手を指で示す。ポッカリと口を開けた狭いトンネルが見えた。


「あちらのトンネルはまた別の建物へ。そんな風に地下通路が張り巡らされているのだ。見ろ。石畳にわだちの跡があるだろう。もしかしたら、この地下を、馬車が走っていたのかもしれないな」


ランタンに照らさられたフランシスカの足元には不揃いな石畳が敷かれていて、白く太いロープが横たわっていた。フランシスカはそれをたどるように歩いている。教皇庁の公使館と大聖堂や修道院を結ぶ道しるべなのかもしれない。


「この地下遺跡が発見されたのは200年前だ。運河の建設中に掘り当てたらしい。スペイン統治時代のことだから、ポルトゥカーレは一切の情報を持っていないだろう。教皇庁の中でも全貌を知る者はごく少数で、地図も存在しない。もしもここで迷ったら、二度と太陽を拝めないかもしれないな」


フランシスカは優越感を滲ませた目でアマリアを見上げた。逃げても無駄だと言っているのだろう。


「あなたについて来たんですから、ルイシュさんと何を話したか教えてください」


正確には、ついてきたのではなく誘拐されたのだが、結果は同じだ。約束は守れと念じ、アマリアはフランシスカを睨んだ。貴婦人は淑やかな所作で口元を覆い、くすくすと愉快そうに笑った。天井の低い狭いトンネル内に彼女の涼やかな声がこだまする。


「コスタ大臣には会っていない。もし会っていたら、彼は私につかみかかっただろうな。会話になどならん」


男の肩の上でアマリアは自分の愚かさを責めかけ、すぐに思い直した。私が愚かなんじゃない。相手が醜く汚いだけだ。怒りに身を任せ、アマリアはフランシスカに尋ねた。


「あなたは何のためにこんなことをしているんですか? 王妃様が私を嫌っているのは理解できなくもないです。でも、あなたと私は無関係のはずです」


伯爵夫人は白い息を吐き、思案顔で何度かゆっくりと瞬きした。アマリアが問うたのは悪事の動機だ。即答できないわけがない。アマリアは違和感を覚えながら、思わず彼女の美しい横顔に見入った。薄幸の貴婦人は暗く淋しげな目で深い闇を見つめている。


「かつて、姉は私のために手を汚してくれた。今度は私がやらねばならない。それだけだ」


「王妃様がエウさんのご両親を手にかけたことですか? それ、あなたが王妃様に頼んでやってもらったんですか? 王妃様が勝手にやられたことなんじゃないんですか?」


それは当てずっぽうの憶測だった。だが、アマリアは奇妙なほどよく覚えているのだ。王宮の舞踏会へ向かう馬車の中で、フランシスカがアマリアの着ていた夜会服ボールガウンへ向けていた瞳を。彼女はひどく懐かしそうに、そして悲しげに、前夫に初めて仕立ててもらったという夜会服ボールガウンを見つめていた。今、彼女が前方の闇に向けているのと同じ目だ。


「あなたは最初のご夫君のことを、とても愛しておられたんじゃないですか? 殺そうなんて思っていなかったんじゃないですか?」


きっと、フランシスカは「黙れ」とアマリアを怒鳴りつける。どうせ怒鳴られるなら言いたいことはすべて言ってやろう。アマリアは早口で続けた。


「あなたは王妃様に対して“自分の代わりに手を汚させてしまった”と、恩義だか後ろめたさだかを感じておられるようですけど、本当は、あなたは王妃様に怒るべきなんですよ。“よくも私の夫を殺したな”って」


「おまえに何がわかると言うんだ」


フランシスカは苦悩するように額を手で押さえた。しけた海のようにフランシスカが荒れ狂うだろうと思っていたアマリアは、その反応を意外に思いながら、自分の胸が痛むのを感じた。


「わかります。私にも愛する人がいます。もしその人が誰かに殺されたら、私は地の果てまで追いかけて復讐します。その人は私を愛してはいませんけど、完全に私の片想いですけど、それでも、そんなことは関係なく、私は絶対に犯人を赦しません。だから、フランシスカ様だって怒っていいんです」


「私が最初の夫に愛されていなかった、私の片想いだったと、そう言っているのか、おまえは」


「そうじゃないんですか?」


こちらを顧みたフランシスカの瞳が激しい怒りに燃えていた。殴られるかもしれないとアマリアは思ったが、貴婦人は突然、興味をなくしたように目を伏せ、進行方向へ顔を向けた。


「姉の復讐の代行だけが私の目的ではない。母に良質な治療を受けさせたい。香薬を毎日、必要なだけ焚かせてやりたい。そのためにお前が必要なのだ」


身勝手な願望を口にし、フランシスカは鋭い刃物のような視線をアマリアへ寄越した。


「私の機嫌を損ねない方がいい。金の卵を産む鶏を殺すことはできないが、羽根をむしり、足をつぶし、舌を切り取ることに躊躇はしない。要は卵が産めればいいのだからな」


フランシスカの残酷な脅しにアマリアがぞっとした時、音の反響の仕方が変わった。アマリアは顔を上げた。トンネルを抜けた先に、ランタンを持つ人影が見えた。


「やあ、アマリア」


そう言ってその人はアマリアへ手を振る。顔は見えなかったが、暗い地下空間に響いた朗らかな声をアマリアはよく知っていた。香薬師協会会長のアルメイダだ。


「ずいぶんと遠回りをしたな。素直に私の養子になっていれば、こんなまどろっこしいことにはならなかったのに」


アルメイダの好々爺然とした微笑みは、5日前に協会本部で会った時と何も変わらない。だが、彼を見るアマリアの目は180度変化している。


「会長、あなたが香薬の種を密輸していたことは、すでにルイシュさんが早馬で王宮に伝えています。こんなところに隠れていないで、自首してください」


トンネルを抜けると、アマリアは男の肩の上から降ろされた。ここまでアマリアを運んできた男の顔や服装をちらりと見る。僧兵ではなさそうだが、胸に教皇庁の紋章が刺繍された詰襟の制服のようなものを着ている。ゲルマン系の顔立ちには見覚えがあるような気がした。


「ここがどこだか分かるのか?」


アルメイダはランタンを持ち上げ、闇を照らした。光が届く範囲一面に、滑らかな水面が広がっていた。水の中から天井に向かって等間隔に太い列柱が伸びているので、明らかに人工的な施設だ。古代の貯水池か何かだろうか。


「公使館の地下でしょう」


教皇庁の公使館の敷地内は現地の法律が適用されないと聞いたことがある。犯罪者であるアルメイダが逃げ込むとしたら、それ以外は考えられなかった。


「母親の賢さを少しは受け継いでいるようだな」


にやりと片頬を上げ、アルメイダは掲げていたランタンを下ろす。フランシスカは気のない表情でアルメイダを見やった。


「後は頼む。目を離すと何をするかわからないから気をつけろ」


フランシスカは言い捨て、アマリアを担いできた男と侍女を引き連れて、貯水池の脇の階段を上っていく。彼女の背中に何か言ってやろうとアマリアが口を開きかけた時、アルメイダに肩を突き飛ばされた。背中に強い衝撃を感じた次の瞬間、アマリアは水の中にいた。


貯水池の水は凍えそうなほど冷たかった。雨水や地下水が溜まったものなのだろう、浮力は感じない。水を吸ったドレスが重い。水底に足が届かない。自分の手さえ見えぬほど暗い水の中、身体が沈んでいく。息が苦しい。怖い。


子供の頃、レネは喘息の発作に苦しんだと言っていた。暗い水の底に沈められ息ができずもがき続けているようだった、毎回今度こそ死ぬのではないかと本気で思っていた、と。それは、こんな感じだったのだろうか。


アマリアはがむしゃらに四肢を動かして水面へ浮上した。口に入った水を吐き出し、空気を吸い込み、周囲を見回す。暗くてよく分からない。方向感覚がない。明かりが見える方へ身体を向け、無我夢中で水をかく。


「アマリア、大丈夫か?」


頭上からアルメイダの心配そうな声が聞こえた。彼はランタンの明かりでアマリアを照らし、太いロープを放った。アマリアがそれにつかまると、老人はロープを手繰り寄せた。


貯水池の縁に両手が届くまで生きた心地がしなかった。唇や歯が震え、深く呼吸ができない。咳き込むアマリアにアルメイダは目を細めた。


「よかった、死なれちゃ困るんだ」


それなら、どうしてこんなことを。そう尋ねたかったが、声を出せる状況ではなかった。アルメイダの靴底がアマリアの頭を踏みつけ、水中へ沈めていた。


「アマリア、サルースの杯はどこにあるんだい?」


アルメイダの足が離れ、アマリアは水面から顔を出した。自分が受けているのが拷問だということは理解したが、質問の意味がわからなかった。サルースの杯は、アルメイダがルイシュから奪い取ったはずだ。


「コスタ君がどこかへ隠しただろう? 隠し場所を教えてくれたら助けてあげよう。王家の夏の離宮か?」


また頭を踏みつけられる。水を少し飲んでしまった。身体が芯まで冷えて、思うように動かない。


「あなたが、持っている、はずでは……?」


水面に浮きあがると、アマリアは咳き込み、息継ぎしながら尋ねた。ガチガチと歯が鳴っていた。アルメイダは驚いたように眉を上げた。


「なんだ、知らないのか? 案外、彼に信用されていないのかな」


痛いところを突かれ、アマリアは老人を睨んだ。彼はアマリアの心の動きを察したように、意地の悪い笑みを顔に浮かべた。


「ポルト近郊でコスタ君が私に奪わせた杯は偽物だった。私は本物を見たことがないから分からなかったが、フランシスカはすぐに気がついた。偽物というより、失敗作というレベルの粗悪品だと激怒していたよ」


アマリアが後生大事にコンポステーラまで運んできた偽物の杯はエンリケが鋳造したものだ。もしかしたら、制作の過程で発生した失敗作をルイシュは利用したのかもしれない。


サルースの杯と偽物の杯がすり替えられたのはコスタ子爵の城だった。その際、エンリケはサルースの杯をルイシュに「すぐに取り上げられちゃった」と言っていた。ルイシュがサルースの杯を隠すとしたら、あの湖の中の古城のような気がする。


「ちなみに、王妃殿下が手を回してくださって、コスタ子爵の城はすでに調べ済みだ。あの城にはなかったよ。コスタ君が先にポルトへ帰した従者にも話を聞いたらしいが、彼は何も知らなかった」


王妃とて、ルイシュの家族に対してはそこまで手荒なことはできなかっただろう。だが、おそらくコエントランはアマリアと同じように酷い目に遭ったのではないだろうか。何の後ろ盾もない庶民は、いつだって力を持つ者にこうして踏みつけられる。そして踏みつけた方は、それを当然のことだと思っている。


「残る可能性は離宮か、コスタ君の祖父の屋敷か。どちらかというところだろうが、できれば確実な方を知りたい。何か些細なことでもいい。コスタ君の言動から、手がかりとなるようなことを思い出さないか?」


アルメイダは猫なで声でささやきながらアマリアの頭を足で水中に沈めた。これで3回目だ。アマリアはいくらか落ち着いていて、大げさにもがく振りをしてロープを手放し、老人の足首を両手でつかんだ。反撃されるとは思っていなかったのだろう、アルメイダは驚き、悲鳴を上げた。


「やめろ、離せ!」


抵抗も虚しく、アルメイダは貯水池に落下し、水中へ引きずり込まれた。老人とは思えない力で暴れられ、アマリアはアルメイダの足首を放した。彼はアマリアの顔と冷たい水を蹴り、自力で水面へ浮上した。


アマリアにはアルメイダに追いすがる余力はなかった。暗い水底へ向かって沈みながら、アマリアはこの6日間のできごとを思い出していた。香薬師協会会長、伯爵夫人、王妃、女教皇。権威ある人々の身勝手な思惑や事情に振り回されながら、アマリアは自分なりに活路を見出そうとしてきたつもりだ。勝算はなかったし、その場しのぎの苦肉の策ばかり試みては失敗を重ねた。


結局、私がしてきたことは何にもならなかった。すべて無駄だった。大人しくジュネーヴへ行けばよかった。エウゼビオの言う通り、権力者には従順であるべきだった。その方が、こんなところで死ぬよりはましだった。


――セルジオ先生、私は、Aにはこの世の誰よりも平穏に暮らしてほしいのです。


頭に浮かんだ文字を想像の指でなぞる。その文字のひとつひとつを、そのインクのかすれさえもアマリアは鮮明に覚えている。あの手紙の手触りも、窓から差し込んでいた陽光も。思い出せるすべてが愛おしい。


私の幸せを願う人は、私がここで死ぬことを許さないだろう。私が誰かから侮られ、いいように利用されることに憤るだろう。私が無事に帰ることを祈っているだろう。その意に背くことなど、あってはならない。


靴が貯水池の底に触れたような気がした。なけなしの力で両足を動かす。膝を深く曲げ、足の裏で思い切り水底を蹴った。


アマリアは水面に顔を出し、大きく呼吸した。目の前にアルメイダの白髪頭があった。アマリアはとっさに彼の髪をつかんだ。後頭部でひとつにまとめた馬の尾のような長髪が、命綱としてちょうど手頃だったのだ。


老人は憎たらしそうにアマリアを振り返り、小娘の頬を平手で殴った。不愉快だったが、感覚が麻痺しているので痛くはなかった。彼が手加減しているようにも見えた。アマリアを死なせてしまったら、フランシスカに怒られるのだろう。


アマリアは鼻で笑ってやった。もう声は出せない。アルメイダは乱暴にアマリアのドレスの襟首をつかみ、貯水池の縁まで引っ張り、そこへアマリアの頭をのせた。


「コンスタンサは賢い女だったよ。未来の国王陛下や枢機卿に取り入って、うまい具合に自分の出世の踏み台にしていた。誰に媚びれば己が生き残れるか心得ていたんだ。それに比べて、君はまったくダメだな」


水から上がりながらアルメイダは忌々しそうに吐き捨てた。全身ずぶ濡れの香薬師協会会長は足元に落ちていたランタンを拾い、小刻みに震えながら階段へ向かった。


「私が戻ってくるまでに、サルースの杯の隠し場所の手がかりを思い出しておきなさい。君から情報を得られなければ、今度はコスタ君に直接、聞かせてもらう。フランシスカは、彼を殺すなとは言わないだろうね」


アルメイダの不気味な脅し文句と足音が遠ざかり、アマリアは目を閉じた。ランタンを持って行かれてしまったので、目を開けていても閉じていても見えるものは同じなのだ。少しでも体力を温存したい。アルメイダが戻ってきたら、何かやってやる。ルイシュに危害を加えるとほのめかしたことを後悔させてやるのだ。


煮えたぎるような怒りは熱となり、指の先まで届いたような気がした。だが、胸から下は冷水に浸かったままだ。貯水池から這い上がることはおろか、指一本を動かすことさえできない。


ジュネーヴってここより寒いのかな。雪ってこの水より冷たいのかな。ルイシュさんのお母さんのドレスをちゃんと返したかったな。ポケットの中の薬草や火薬が濡れちゃったな。


とりとめのないことを考えていたアマリアの身体が、突如、水から引き上げられた。誰かがアマリアの脇の下に両手を入れ、貯水池の縁へ身体を横たわらせたのだ。


目を開けると、ランタンの明かりにゲルマン系の中年男の顔が照らされていた。アマリアをここまで担いできた男だ。フランシスカとともに立ち去ったはずだが、どうして戻ってきたのだろう。


アマリアの疑問に答えるかのように、男はズボンを下ろした。ああ、そういうことか、とアマリアは納得し、再び目をつぶった。大丈夫、痛みは感じないはずだ。


「アマリア」


男はアマリアの名を呼び、ラテン語で何か語りかけ、温かい両手でアマリアの頬を包んだ。アマリアが目を開けると、彼は自分の太腿を明かりで照らして指で示した。治りかけの銃創がある。見覚えのある傷だ。


アマリアは思い出した。この人はレネの従者だ。コスタ子爵領でアマリアが治療をした。盗賊団を装ったルイシュたちに銃撃された時だ。


レネの従者は恥ずかしそうにズボンを上げ、今度は上着を脱ぎ、ランタンを傾けて燃料タンクから鯨油をたっぷりと垂らした。ランタンから火を移すと、上着は一気に燃え上がった。暗闇の中で凍えていたアマリアにとって、その炎は涙が出るほど眩しく、暖かかった。


レネの従者は燃える上着をアマリアから少し離れたところに置き、「ちょっと待ってろ」と身振り手振りで言い残して、階段を駆け上がって消えた。

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