33.初めての熟考

大学を辞めてポルトに帰ってきたルイシュが「来月からブラジル総督府で働くことになった」と告げた時、コンスタンサは呆れ顔で言った。


「ルイシュ、あんたねえ、何かあるとすぐ思いつきでどこか遠くへ行くの、やめなさいよ」


実家に居づらくなってポルトへ出てきたこと、ポルトでの暮らしに嫌気がさしてコインブラ大学に入学したこと、どちらもコンスタンサは詳細に知っている。特に、アルメイダと大喧嘩をしてコインブラへ向かった際は、彼女にも迷惑をかけた。元々の師匠であるセルジオが孤児院を創立し隠居したので、ルイシュとコンスタンサはアルメイダの世話になっていたのだが、ルイシュはアルメイダと死ぬほど馬が合わなかった。


「今回は何かあったというわけじゃない。それに、別の土地へ行くのはおもしろいぞ。熱帯雨林にはこんなでかい蛇がいるらしい。生け捕りにして持って帰ってきてやる」


ルイシュはブラジル総督である父方の祖父に副官として呼ばれた。つまり雑用係だ。半分は遊びに行くような気分だった。蛇が嫌いなコンスタンサは目を吊り上げて怒った。


「そんなもの持って帰ったら、ぶっ飛ばすわよ。お土産なら珍しい綺麗な花の種がいいわ。セルジオ先生に頼んで孤児院の庭に蒔いてもらうの。あの子の遊ぶ庭と、私の店の庭に同じ花が咲いていたら素敵だと思わない?」


目尻を下げ、夢見るような瞳でコンスタンサは微笑んだ。少し、悲しげに。


「蛇の方が喜ぶんじゃないか、子供は」


「ぶっ飛ばすって言ったの聞こえなかった?」




     *




祈りの儀式が終わるや否や、ルイシュは王女に断りを入れて大聖堂を出た。といっても、聖職者や巡礼者でごった返す堂内を歩くのは至難の業で、堂外へ出るまで数分かかった。隣接している修道院へ着いたのはさらに数分後だ。


女教皇や枢機卿の控室として修道院が使用されていることは知っていた。王女が叔父であり枢機卿であるレネ・ティリンツォーニと、儀式の前に修道院で会う約束をしていたのだ。だが、会談は行われなかった。レネが警備の僧兵の目を盗んでどこかへ行ってしまったらしい。


アマリアがレネとともに離宮を抜け出したという話をエンリケから聞いたのは儀式が始まる5分前で、レネは儀式が始まる直前に大聖堂へ姿を現した。きっとアマリアはこの辺りにいる。居場所はレネが知っているはずだ。


「枢機卿のティリンツィオーニ様にお会いしたい。緊急の要件だ」


ルイシュは修道院の入口に立っていた僧兵にラテン語で申し出る。いつのまにか、エンリケが隣に立っていた。どこへ行くか分からない鉄砲玉から目を離したことを、元盗賊は気にしている様子だった。


「枢機卿は教皇庁の公使館へお戻りになられました」


僧兵は感情のない顔を横に振った。


「そうか。彼に連れはいたか? これくらいの身長の、金髪の可愛い娘じゃなかったか?」


「分かりかねます」


枢機卿が女を連れていたとは言えないのかもしれない。


「公使館へ行ってみよう」


ルイシュはエンリケに提案しながら踵を返す。アマリアが離宮を抜け出したと聞いて、ルイシュは胃に穴が開きそうなほど心配していたが、レネはコンスタンサを崇拝していた。アマリアの脱走の目的はわからないが、レネならばアマリアを危険な目には遭わすまいとも思っている。


エンリケは茶色の瞳をくるりと動かし、顔をしかめた。


「今朝あの辺りに行ったけど、警備が厳しそうで近づけなかったよ」


「だとしてもアマリアの居場所は枢機卿に聞くしかない。面識こそないが、俺は彼とは浅からぬ縁がある。知り合いだと言って正面から訪ねてみるさ。実際、彼には会ってみたいとずっと思っていた」


ふたりは小声で会話しつつ、巡礼者が跪いて祈りを捧げている広場を足早に突き進む。時刻は15時過ぎ。強い日差しが頭上から降り注ぎ、汗ばんだ肌を潮風が優しく撫でていた。


「浅からぬ縁って何?」


「枢機卿はコンスタンサの患者で、ふたりは11年間も文通をしていた。教皇庁の検閲を通すため、手紙はどちらもラテン語で書かなければならなかったが、コンスタンサはラテン語ができなかった。だから届いた手紙を俺が訳してやっていた。返事を代筆していたのも俺だ」


コンスタンサが20歳、レネが10歳の頃にふたりの親交は始まった。喘息を患っていたレネをコンスタンサは懸命に治療し、4年後、少年の病は完治した。それ以後、ふたりは文通を続けていて、コンスタンサが死ぬまでやり取りが途切れることはなかった。


レネから手紙が届くと、コンスタンサはルイシュを呼びつけ「読んで」「書いて」とこき使った。ルイシュがアルガルヴェで働いていた頃は、ルイシュが休暇を取って帰るまで手紙の封を開けずに待っていた。「誰か他の奴に訳してもらえよ」とはルイシュは言わなかった。誰にでも見せられる内容ではなかったのだ。


「ふーん。検閲を通すなら、そんなにヤバいことは書けなかったんじゃない?」


「もちろん、機密とか、そういう内容じゃない」


レネがコンスタンサへ手紙を送り続けていたのは14歳から25歳までの悩める年頃だ。手紙には女教皇のひとり息子が抱える様々な苦悩や葛藤が記されていた。そして、コンスタンサへの情熱的な愛の言葉も。


「へー。そういうの、教皇庁の検閲、通るんだ?」


「ところどころ黒塗りされていたが、手紙を裏から透かすと文字が読めた」


「検閲官……」


コンスタンサは遠きジュネーヴの少年から届く恋文に戸惑い、レネへの返信では「心から慕っている男性がそばにいる」「愛する人への想いは生涯、変わることはない」と正直に打ち明け、思わせぶりな言葉はけっして返さなかった。それでもレネはコンスタンサに自分の想いを送り続けた。


「コンスタンサが香薬師としてひとりでも多くの人々を救いたいと書けば、彼は、自分は聖職者としてひとりでも多くの人々を救いたいと返事を寄越した。若いのに、志の高い立派な方だと感心した。王女殿下も彼のことをお慕いしているし、一度お会いしてみたいとずっと思っていた」


レネがポルトで療養していた頃、ルイシュはブラジル総督府で働いていた。病が完治してからもレネは何年かに一度はポルトを訪ねてきていたらしいが、タイミングが合わず、ルイシュは彼に会ったことがなかった。もしかしたらレネに避けられているのではと疑うほど。


「それって志が高いって言うのかなあ? 好きな女の前で恰好をつけてただけなんじゃないかって気がするけどねえ……」


エンリケがひねくれた発言をした時、ルイシュを呼ぶ声が前方から聞こえた。群衆の向こうに、コンポステーラに住む母方の祖父の丸顔が見えた。停車した馬車の窓から顔を出し、満面の笑顔でこちらへ手を振っている。


「大臣殿、どこかへ行くなら吾輩がお送りいたしましょうか?」


冗談めかして言いながら、祖父は馬車のドアを開けた。コルク樫の貿易で財を成した祖父は80歳を超えているが、孫より明朗快活だ。祈りの儀式の前に大聖堂内で出くわしたので、再会の挨拶はすませていた。


「教皇庁の公使館へ行くところなんだ。辻馬車代わりに使ってよければ乗せてくれ」


孫のおねだりに、祖父の表情は曇った。


「お安い御用だが、教皇庁の公使館の周辺は昨日から封鎖されてるぞ。女教皇猊下や枢機卿がご滞在されてるからな。大臣閣下なら通してもらえるかもしれないが、今朝、市長が僧兵に追い返されているのを見かけたから、ひょっとするとダメかもしれない」


祖父の情報にルイシュとエンリケは顔を見合わせた。僧兵は「身内以外は誰であろうと追い返せ」と命じられているのかもしれない。


「公使館を近くで見たいなら、私の船に乗せてやろうか? 公使館の裏手を走る運河を行けば建物にかなり近づける。一番いいのは建物正面だとは思うが、裏から見てもあの白亜の御殿はなかなか美しいぞ。水面に建物が反射して実に見事なものだ」


まるで観光スポットだな、と思いつつ、ルイシュは頭の中でコンポステーラの地図を広げた。確かに、公使館の裏を大きな運河が通っている。スペイン統治時代に建設された運河だ。


「じいさん、頼む。こいつがどうしても公使館を近くで見たいと言ってきかないんだ」


ルイシュは身を乗り出し、エンリケを視線で指す。エンリケは「み、見たい見たい! とても、すごく!」と慌てて調子を合わせた。


快諾してくれた祖父にエンリケを紹介し、ルイシュは馬車に乗り込んだ。走る馬車の中でルイシュは祖父へ近況を報告し、エンリケは「最近は古代遺跡を壊したり、若い娘の心を弄んで泣かせたりしてますよ」と余計なことを言った。祖父は健康上の悩みを切々と語り「おまえも80歳を過ぎればわかる」と締めくくった。


日あたりの悪い路地にある小さな船着き場に着いて馬車を降りると、ルイシュの祖父は木材運搬用の小船へ孫たちを乗せた。老人は船底に横たえていたかいを拾い上げ、もやい綱を解き、小船を離岸させた。小船には小さな帆がついていて、祖父は風を読みながらその向きを調整し、時々、櫂で運河の水をかいた。慣れた様子だ。


「君のじいちゃん、何者? もしかして貴族じゃない?」


船を操るルイシュの祖父を眺めつつ、エンリケが小声でルイシュに尋ねる。元盗賊は揺れる船上で平然と立っている。ルイシュは身体のバランスを取るのに苦戦し、潔く船底に片膝をついた。


「コルク樫の貿易商だ。爵位は持っていないが、金はたんまり持っている。俺の父はその資産を目当てに母と結婚した」


「ひょっとして、あの発酵タラの塩漬けの瓶にハマってるコルクは、じいちゃんの?」


「よくわかったな。大昔の話だが、あのコルク栓の取引がきっかけでダ・コスタ家とシウバ家は懇意になった。で、縁があって俺の両親が結婚した」


「大臣は発酵タラの塩漬けの副産物だったんだあ……」


小船は緩やかなカーブを描く運河をゆったりとたどる。頭上から太陽が照りつけてはいたが、ときどき爽やかな潮風が吹き、水面にはほとんど波はない。船底に座って変わり映えのしない町並みをぼんやり見ていたルイシュは次第に眠気に襲われた。


昨夜は一睡もできなかった。巡礼宿の大部屋の隣の寝台で、アマリアが声を殺して泣いていたからだ。ルイシュはアマリアに背中を向け、目を閉じ、必死に眠ろうとしたものの、罪悪感に苛まれ、まんじりともせず、いたたまれない気持ちで朝を迎えた。


「いかん、寝そうだ」


船上で船を漕ぎかけ、ルイシュは頭を振った。


「自業自得だよ。モテない男ってのは、女を振るのもヘタクソなんだねえ。あんなに泣かすなんてさ」


離宮で仮眠を取ったエンリケはルイシュより多少は元気そうで、ルイシュへ憐みの眼差しを向けた。ルイシュは言い返さなかった。アマリアをひどく傷つけてしまったのは紛れもない事実だ。


「アマリアのこと、可愛いと思ってんだろ? しちゃえばいいのに、結婚」


軽い口調でルイシュをけしかけ、エンリケは不満そうに唇を尖らせた。アマリアはこの元盗賊をすっかり味方に引き込んでしまったようだ。遊ぶ女に困っていないからか、好みのタイプではないからか、エンリケの言動にはアマリアに対する下心のようなものは感じない。いいことだ。


「やかましい。できないから断ったんだ」


ルイシュは青空を流れる小さな雲を見上げ、8割ほど死んでいる脳みそでアマリアから告げられた言葉を思い出す。


――子供を産めばいいだけなら、私をあなたの妾にしてください。私はそれで構いません。ルイシュさん以外の人なんて考えられません。


これまで、ルイシュはアマリアに恨まれて当然のことをしてきた。彼女に対しては後ろめたい思いしか抱いてこなかった。歳の離れた友人の娘を異性として意識したことはなかった。


だから、アマリアの気持ちをコエントランから聞いた時、ルイシュはただただ驚いた。なぜアマリアが自分などを好きになったのか理解できなかった。コエントランの勘違いではないのかと疑った。だが、そうではないと分かると、次に胸へ押し寄せてきたのは喜びだった。


事実を知った後に思い返してみると、思い当たる節がないわけではなかった。ルイシュは毎週金曜日にアマリアの店に行く。時間はその日の予定によってばらばらだ。ルイシュの乗る馬車がアマリアの店の前に止まるや否や、店のドアが勢いよく開き、青いドレスにエプロンをつけたアマリアが子犬のように道へ飛び出してくる。瞳を輝かせ、明るい声でルイシュを歓迎する彼女の存在は、コンスタンサのレシピで焚いた香薬よりもルイシュを癒した。


――私だって、ずっとルイシュさんを想っていたいです。ずっと好きでいたい。ただ、それだけなのに……。


――何でも構いませんから私をあなたのものにしてください。


「理解が追いつかない……」


ルイシュは片手で顔を覆い、独り言ちた。あんなに健気でいじらしい生き物から、あんなに一途で真っ直ぐな情熱をぶつけられて平静でいられる男などいない、とルイシュは思う。特に、色恋沙汰と関わらないように生きてきた男にとってはひっくり返るほど衝撃的で、陳腐な言い方をすれば、雷を3発くらい食らったような気分だった。


屋上の星明りの下で見たアマリアは、これまでに見たどんな彼女より真剣で、愛くるしかった。彼女がコンスタンサの娘だということを忘れ、たまらず抱きしめてしまったが、あれは果たして正しい対応だったのだろうか。


美しくて清廉な恋など物語の中にしかない、現実にあるのは痛々しくて気色が悪い恋ばかりだ、エンリケは今朝そう言っていた。もしも、にわかに浮つき始めたこの感情が恋だとしたら、我ながらあまりにも痛々しい。若く可愛らしい娘に好意を寄せられ、簡単にその気になるなんて、みっともなくて、間抜けで、愚かしくて、恥ずかしくて、そして、幸せだった。


「あのさ、君、ちょっと頭で考え過ぎなんじゃない? いつもは短慮なのに、こんな時だけ熟考するの?」


エンリケが嘆息混じりに言った時、前方左手に教皇庁の公使館が見え始めた。庶民的な住宅街の中に突如として現れた白亜の殿堂は、古代ギリシア風というのか古代ローマ風と呼ぶべきか、古の聖地に似つかわしくないほど大仰で節操のない建築物だった。


祖父に船のスピードを落としてもらい、ルイシュは目を凝らした。高い塀からのぞく数十個の窓のいずれかにアマリアやオリオンの姿が見えないかと思ったのだが、そんなに簡単に見つかるわけはない。


ルイシュは接岸できそうなポイントに小船を寄せるよう祖父に頼んだ。祖父は帆を畳み、櫂で水をかき、公使館の裏手の岸辺へ船を近づける。


地元商人の木材運搬船とはいえ、教皇庁の公使館の裏に長時間に渡って停泊していては僧兵から怪しまれるだろう。ルイシュは祖父へこの場から離れるよう告げ、エンリケとともに岸辺へ上がった。


祖父の小船が元の船着き場の方へ去っていくと、エンリケは自分の唇に指をあて、変わったメロディーを奏でた。それは指笛の概念を覆すような大きな音で響いた。


「何だ、それは?」


ルイシュが尋ね、エンリケはわずかに目を泳がせた。


「昔、僕とオリオンの間で使ってた秘密の合図ってやつかな。気がついてくれればいいけど、覚えてるかなあ」


「おまえら、そういう関係だったのか?」


白銀の夜明け団の女傭兵と、元盗賊の考古学博士。ルイシュの理解の範疇を越えた組み合わせだ。エンリケは気まずそうに頭をかいた。


「君には言ってなかったっけ? 興味ある?」


「ない」


今は自分のことで精いっぱいだ。たとえ暇つぶしだろうと、他人の色恋にまで気が向くような状況ではない。アマリアに再会したら、ルイシュは彼女に何かを伝えたいと思っている。しかし何を言えばいいのか分からない。


公使館の高い塀と運河の間の狭い岸辺に座り込み、ぼんやりと水面を眺めつつ悩むこと10分。オリオンが塀の向こうから驚いたような顔をのぞかせた。


「あなたたち、こんなところで何してるの?」


女傭兵は身軽に塀を飛び越え、エンリケの隣に着地する。ルイシュは事の次第を説明し、彼女に協力を求めた。オリオンは二つ返事で頷いた。


「わかった。謹慎中だけど公使館の中なら自由に歩き回れるの。レネ様にアマリアのことを聞いてあげるわ」


「できれば枢機卿と直接、話したい。引き合わせてくれないか?」


ルイシュの要望にオリオンは困ったように顔をしかめ、迷うような素振りをしてから異国の大臣へ忠告した。


「あなたたちは帰った方がいいわ。フランシスカ様やアルメイダが町の傭兵を集めているらしいの。ポルトゥカーレ王家の夏の離宮を襲撃しようとしてるって噂よ」


「離宮を? 何で?」


エンリケの声が裏返る。オリオンは美貌をわずかにゆがめ、ルイシュを睨んだ。


「アルメイダが大臣から奪い取った杯、あれ、偽物だったんでしょう? フランシスカ様がお気づきになられて、怒り心頭って話よ。で、本物のサルースの杯を離宮から力づくで奪うおつもりだとか」


「偽物? どういうこと? 僕がつくった偽物の杯はアマリアが後生大事にずっと持ってたよね? あれは今、離宮にあるはずじゃない? 大臣が持ってたのは本物のサルースの杯だよね?」


「偽物はふたつあったのよ。そうでしょう、大臣?」


オリオンとエンリケに詰め寄られ、ルイシュは白状することにした。


「俺がアルメイダに奪われたのは、サルースの杯の偽物をつくった時の、失敗作だ。サルースの杯を見たことのないアルメイダは騙せたが、マガリャンイス伯爵夫人は気がついたか」


アルメイダに襲われた時、ルイシュが短銃で応戦しなかったのは、そこまでして杯を守る必要がなかったからだ。コエントランとさわやかに怪我を負わせてしまったのは誤算だったが。


「失敗作って、もしかして、あの、蛇の金メッキが変になっちゃったやつ?」


「それだ」


「あれかー!」


エンリケは頭を抱えて悔しがった。騙されていたことがよほど腹立たしかったようで、元盗賊は唇をひん曲げてルイシュを睨め上げる。


「杯を奪われたのに平然としてたのは、あれが失敗作だったからってこと? アマリアや僕たちにまで内緒にしてたんだ。へー。ふーん。べつにいいけど」


「悪かったな。だが、本物のサルースの杯は離宮にはない。王女殿下も無関係だ。これは俺の独断でやったことだ」


ルイシュが真実を打ち明けると、オリオンとエンリケは言葉を失ったように固まった。やがてルイシュの胸倉をつかみ、声を荒げたのはエンリケだった。


「何やってんだよ、君。あれは国の宝だ。君の一存でどうこうしていいものじゃない。いくら王様と仲良しだからって、さすがにクビが飛ぶぞ」


ルイシュは答えに窮した。これはアマリアをジュネーヴに行かせないためにルイシュなりに考えてやったことだ。偽物だと気づかれるのも想定内だ。しかし、フランシスカやアルメイダがこのタイミングで、こんな形で実力行使に出るとは思っていなかった。ルイシュは己の甘さを1秒で反省し、3秒で次の手を決めた。


「エンリケ、おまえは離宮に戻って、このことを殿下に知らせてくれ。あの宮殿には要塞としての機能はない。殿下をお連れしてどこかへ身を隠せ。俺は枢機卿に会う」


エンリケは納得がいかないという顔をした。


「君のせいで王女様に危険が迫ってるのに、君が駆けつけないでどうするんだよ。アマリアのことは僕に任せて、離宮には君が戻れ」


「いや、おまえは俺より役に立つ。おまえが殿下のそばにいてくれたら安心だ」


エンリケは器用で手際がよく、頭と口が回る上によく働く。絶対に断られるので口にはしないが、ぜひ部下にほしいとルイシュは思っている。


ルイシュに褒められたことがよほど意外だったのか、エンリケは目を丸くして驚き、照れくさそうにあさっての方を向いた。


「……まったくもう、あの約束ひとつで僕をどれだけ働かせれば気が済むんだか」


ポルト郊外の丘に見つかった古の王墓の遺跡を保存し、新市街地の建設計画に修正を加える。ルイシュはエンリケにそう約束した。おかげで測量からやり直しだが、背に腹は変えられない。


「この運河、泳いで渡るのはきついよ。オリオン、どこかに抜け道ない?」


教皇庁の公使館の周辺は警備が厳しい。エンリケがオリオンに問うと、彼女はあっさりと教えてくれた。


「この岸辺を歩いて行くとカザピア橋の橋脚きょうきゃくにぶつかるの。一見すると行き止まりだけど、あんたなら通れるはずよ。というか、それ以外の道には検問がしかれてるから、そこを通るしかないわ」


「ありがと。じゃあ今度こそ、アオフ・ビーダーゼーヘン」


エンリケは名残惜しそうにオリオンへ微笑み、真剣なのかふざけているのか判別不能な別れの言葉を置いて立ち去った。高い塀に沿い、軽い足取りで岸辺を駆ける元盗賊の後ろ姿を一瞥し、オリオンは苛立たしげに口を開いた。


「あいつのこと、ずいぶん評価しているみたいだけど、あまり信用しない方がいいわよ。いざとなったら王女殿下を放り出して自分だけ逃げるに決まってるわ」


「そうか」


ルイシュは短く応じた。よくわからないがオリオンとエンリケの間には何やら因縁があるようだ、余計なことは言うまい、痴話喧嘩に巻き込まれるのは面倒だ。


「そうか、って、あっさりしてるのね。王女殿下の安全がかかっているのに」


オリオンに身振りで命じられ、ルイシュは雑草の覆い繁る岸辺へ両膝を着く。彼女はルイシュの肩を踏み台にして高い塀の上へ跳躍し、体勢を整えると長い両腕をルイシュへ伸ばした。ルイシュも彼女へ向かって両手を差し出す。


「あいつはアマリアから目を離したことを結構、気にしているように見えた。ああ見えて、俺なんかより、よほど根が真面目だ。アマリアもあいつを信用しているようだし、古の王墓の取り扱いについて約束もしている。任せた仕事はまっとうしてくれると思う」


オリオンは描いたように美しい眉をひそめ、ルイシュの両手首をつかんだ。


「ふうん。じゃあ、私は? 私がこのままあなたを僧兵に突き出すかもしれないって思わないの?」


「その時はその時だ。現状、他に打つ手がない。俺はあんたを信じるしかないんだ。今はとにかく、アマリアがどこにいるか一刻も早く知りたい。覚悟さえ決めてしまえば、信じることは容易たやすい」


オリオンの腕力によって塀の上に引っ張り上げられながらルイシュは答えた。ルイシュの回答を気に入ったのか、オリオンは切なげに微笑み、公使館の敷地内へ飛び降りる。


「余計なお世話だと承知の上で言わせてもらうけど。アマリアのことがそんなに心配なら、生涯、あの子の一番近くで、あなた自身の目で、しっかり見張っていた方がいいんじゃないかしら」


暗に責められているのだと思う。ルイシュがアマリアを振ったことを、オリオンにまで。ルイシュは塀から飛び降り、気まずい思いで頭をかいた。


「できるものなら、そうしたいとは思ってる」


「できない理由ばかり探して並べ立てる人って、決まってそう言うのよね」


オリオンは艶やかな笑顔でずけずけと述べ、二の句を告げられないルイシュを鼻で笑った。エンリケより手厳しい。


「あんたもエンリケも、すっかりアマリア党だな」


悔し紛れにルイシュは言った。オリオンは公使館の裏口へルイシュを導きながら少女のような目をした。


「そうね。あの子って、敵中に身を置いていても自分に寝返りそうな人間を嗅ぎ分けて、ちゃっかり味方を増やす謎のセンスがあるのよ」


オリオンの言う通りだ、とルイシュは思った。アマリアは誘拐され軟禁されながらオリオンと打ち解け、エンリケを味方に引き込み、今度はレネと何かしようとしている。


「今頃、新しい仲間を引き連れて、あなたのところへ帰ろうとしているんじゃないかしら」


「あり得るな。それでは行き違いになってしまうかもしれないし、もしもアマリアが今、離宮に戻るようなことがあれば、むしろ危険だ。それはまずい」


胸の中で不安をむくむくと募らせながら、ルイシュは独り言のように呟く。それを見て、オリオンはおかしそうに笑った。


「ふふっ、意外と熟考する人なのね。考えるに値することについては」


ひと回り近く歳下の若者に手玉に取られている。何ともシャクだったが、どうにも言い返せず、ルイシュは「やめてくれ」と女傭兵に懇願した。


オリオンは白亜の殿堂へルイシュを招き入れながら明るい声色で言った。


「あら、失礼。でも、アマリアはきっと大丈夫。あの子はしぶといわよ」

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