35.地下遺跡(2)

地下遺跡にひとりで取り残されたアマリアは貯水池の縁に横たわったまま、炎で暖を取っていた。鯨油をたっぷりとしみ込ませたレネの従者の上着は勢いよく燃え続け、いくらか身体を動かせるようにはなったが、全身の震えは止まらない。


これは本当に死ぬかもしれない。アルメイダはアマリアに死なれては困ると言っていたが、その思惑に反して。ガチガチとなり続ける奥歯を食いしばり、白い息を吐いた時、階段の上から足音が聞こえた。


「アマリア!」


エウゼビオの声だ。足音は3人分。今度こそ助かった。エウゼビオは真っ先にアマリアへ駆け寄り、妹分の冷え切った身体を抱き起こした。夜明け団の派手な制服から、紺色の地味な制服に着替えていた。


「おまえ、こんなに冷えちまって……」


「しっかりしろ」


泣きそうなエウゼビオの横に片膝をついたのはレネだった。レネも朱色の祭服から灰色の修道士の服スカプラリオに着替えている。


「これを飲め。ヌーシャルテルの薬用酒だ」


レネは小さな酒瓶の口をアマリアの唇へ押しつけた。入っているのは怪しげな緑色の液体で、キツいアルコール臭が鼻をつく。アマリアが躊躇っていると、枢機卿は説明した。


「これはニガヨモギの色だ。他にも様々な薬草が入っている。苦いが身体が温まって元気になる。死にたくなければ、とにかく飲め」


身体が温まるなら、とアマリアは酒瓶を受け取り、一口飲んだ。青臭くて苦い。喉や胃が燃えるように熱い。薬草の独特の風味が気になるが、雑草スープよりはイケる。思い切ってごくごく飲むと、エウゼビオが慌てて止めた。


「それくらいで十分だ。アブサントはちょっと変な酔い方するから、気をつけろ」


さっそく薬用酒が効き始めたのか、強張っていた手足が火照り、身体の震えが収まり、気力が冴え渡ってくる。こんなにいきなり元気になってしまって大丈夫かなと心配になるほどだった。


背中に熱を感じて振り返ると、アマリアの背後でレネの従者が焚火を起こしていた。公使館のどこかの暖炉から持ってきたのだろう、鉄製のまきのせ台の上で太い薪が燃え盛っていた。


「濡れた服を脱いで火に当たれ。着替えはまもなく届く」


レネが言ったそばから、階段を駆け下りてくる足音が聞こえた。現れたのは小柄な若い娘で、身体を拭くための大判の布やドレスやコルセットを抱えている。娘はラテン語でレネに話しかけ、レネは彼女が持ってきたドレスを広げて嘲るように笑った。


「フランシスカの侍女の部屋から適当に持ってきたそうだ。ずいぶんと見すぼらしいドレスだが、おまえにはよく似合いそうだな。あっはっは」


「それ、私の服です」


5日前まで愛用していた普段着の青いドレスだった。マガリャンイス伯爵家で夜会服ボールガウンに着替えた時、伯爵家に預けていたものだが、フランシスカの侍女がアマリアの旅の荷物に入れてくれたのだ。今、アマリアが履いている編み上げ靴もそうだ。行方不明になった香薬師の私物が伯爵家にあるとまずいからだろう。


小柄な娘はにこりと微笑んで軽くお辞儀し、座り込んでいるアマリアの濡れた着衣を脱がせ始めた。男たちが慌てた様子で後ろを向いてくれたので、アマリアは温まった手を動かし、靴や靴下を脱いだ。


小柄な娘がアマリアに向ける眼差しは妙に好意的だった。以前どこかで会っただろうか。アマリアは記憶を探ったが、小さな愛らしい顔に見覚えはない。


着替えを済ませ、靴を履き替え、焚火に当たって身体を温めながら、アマリアは革製ポケットに入れていた商売道具を調べた。小瓶に入れコルク栓をしていた薬草は無事だったが、そうでないものは使い物にならなくなっていた。火薬と木炭片は全滅だ。


「アマリア、ごめんな」


エウゼビオはアマリアの背後に座り、アマリアの濡れた髪を厚手の布でごしごしと拭きつつ、申し訳なさそうに言った。レネは「アルメイダは足止めしているのでしばらく戻ってこない」と告げ、小柄な娘を連れて興味深そうに地下遺跡を歩き回っている。レネの従者はアマリアの着ていたドレスをレネの部屋に干しに行ってくれた。アマリアが「これは大事なものなので、そこら辺に置いておくわけにはいかない」とわがままを言ったせいだ。


「もし駆けつけるのが少しでも遅かったら、おまえ、死んでたよな。フランシスカやアルメイダがここまでするなんて……」


アマリアの髪を拭く彼の指の力が強くなる。


「俺は王妃殿下やフランシスカが怖かった。あいつらの言うことを従順に聞いて、おまえをジュネーヴへ連れて行くのが一番リスクの少ないことだと思ってた。それが一番、アマリアにとって安全な道だって思ってた。なのに、こんなことになるなんて」


エウゼビオは自分の額をアマリアの背中に当てた。アマリアはのけ反り、エウゼビオの頭に体重をかけた。


「エウさんのせいじゃないよ。私が勝手なことばかりして、アルメイダ会長に生意気なこと言ったせい」


「痛ててて」


エウゼビオが痛がり、アマリアは慌てて身体を起こした。


「私もあの人たちは怖い。でも、抵抗せず黙ってたら、あの人たち、どんどん舐めてくるよ。もう、べろべろに舐められちゃうよ、私たち。私はそんなの嫌だよ」


湿った薬草を焚火に放り込み、アマリアは身体ごとエウゼビオの方を向いた。彼はすっかり落ち込んでいる。


「子供の頃、意地悪な男の子が蛇を振り回して私のこと追いかけてくると、いつもエウさんが助けに来て、やり返してくれたよね」


「うん」


「あれから15年以上も経って、私は大人になったけど、エウさん、“困ったことがあったら俺に言え!”ばっかりで、私にはあんまり相談事してくれないよね」


「そうかも」


「私、頼りないかもしれないけど、これからは困ったことがあったら相談してよ。エウさんがひとりで悩むとロクなこと起こらない」


「お、おう。言うじゃねえか。わかった。そうする」


素直でエウゼビオの右に出る者はいない。ふたりは視線を合わせ、ややぎこちなく微笑みを交わした。


「アマリアのことはずっと頼りにしてるぜ。壁のラクガキ、一緒に消してくれた時から」


エウゼビオは孤児院へ来たばかりの頃、孤児院の壁に白銀の夜明け団の紋章をラクガキしてセルジオに叱られた。アマリアが6歳、エウゼビオが10歳。冬の寒い日の夕暮れ時に、ふたりは小さな手を真っ赤にして、丸めた藁で1時間も壁をこすり続けた。


ふたりは友達になった日のことを思い出し、今度は互いに屈託なく笑い合った。


「今度、私のこと騙したら、二度と口きかないから」


「わかったって。俺も懲りたよ。ほら、あっち向け、髪が濡れてると風邪ひくだろ」


アマリアの脅しにエウゼビオは苦笑し、妹分に焚火の方を向かせた。アマリアはアニキに髪を拭いてもらいながら、女教皇やレネやフランシスカやアルメイダと話したことを彼へ聞かせた。もうエウゼビオに何かを隠そうとは思わなかった。


「コスタ大臣がアルメイダに盗ませた失敗作の杯ってやつ、俺は見てないけどさ。フランシスカはすぐに偽物だって気がついたんだろ? そんなものを奪わせた理由は何だ? 本物をどこかへ隠すための、とりあえずの時間稼ぎか? フランシスカを本気で怒らせるだけで、かえって事態を悪化させるような気がするけど」


アマリアの話を聞いて、エウゼビオは首をひねった。彼にしては鋭い指摘だった。


「もしかして、ルイシュさんの“最後の一手”と関係あるのかな」


アマリアが炎を見つめて考え込んでいると、辺りを散策していたレネがこちらへ戻ってきた。いつになく表情が強張っている。


「フランシスカとアルメイダがかなりの人数の傭兵を町で集めているらしい。ポルトゥカーレ王家の離宮を襲撃するつもりだそうだ。おそらく、奴らは本物のサルースの杯が離宮にあると思っているのだろう」


いよいよ強硬手段に出るのか。アマリアとエウゼビオは立ち上がった。


「お逃げするよう、王女様にお知らせしないと」


王家の夏の離宮は優美な宮殿だ。堅牢なポルトの王宮のような防衛力はない。攻め込まれたらひとたまりもないことは素人のアマリアでもわかる。


「あの、失礼ですけど、レネ様にはその襲撃を止めることはできないんですか?」


ご機嫌を損ねるだろうなとびくびくしつつ、アマリアは尋ねた。案の定、枢機卿はご機嫌を損ねた。


「可愛いマルガリーダのためだ、言われずとも私にできることはやる」


レネは少年時代、冬になるとポルトの王宮に逗留して療養していたという。王女のことはその頃から可愛がっているのだろう。できることはやるという言葉は信用できそうだった。


「ありがとうございます。それと、オリオンには会えないでしょうか? 彼女なら力を貸してくれると思うんですけど」


アマリアのさらなる問いに答えたのはエウゼビオだった。


「さっき用事があってオリオンの部屋を訪ねたんだけど留守だった。夜明け団の兵士にも僧兵にも、女教皇猊下から外出禁止令が出てるから屋敷内にはいるとは思うんだけどなあ。あ、ちなみに、レネ様を公使館からお出ししないように、とも命じられています」


エウゼビオが添えた言葉を、レネは鼻で笑った。


「そう言われると出かけたくなるが、私はここに留まろう。エウゼビオ、おまえは正式に忠誠の誓いを立てていない。つまり半分はまだポルトゥカーレの兵士だ。アマリアと一緒に行け。後で咎められたら、地下で迷っていたとでも言え」


「は、はい。かしこまりました」


入団早々、命令違反を強いられたエウゼビオは何とも言えない顔で枢機卿の指示に従った。とは言え、エウゼビオはつい5日前まで王女の護衛をしていた。王女の身を案じているのは間違いない。


「アマリア、地下のことはこのクラーラが詳しい。連れて行け」


レネは傍らに立つ小柄な娘を視線で指した。アマリアはレネに御礼の言葉を述べ、商売道具を革製ポケットに収め、立ち上がった。あの怪しげな薬用酒が効いているのか、指先まで力が漲り、気分が高揚して、恐怖を感じなかった。


「ここは寒い。私は戻る」


そう言ってレネは小さく咳き込みながら階段へ向かう。中年の従者がランタンを持って彼に続いた。アマリアは焚火に水をかけて消火し、ふと、自分に注がれている視線に気がついた。


レネにクラーラと呼ばれた小柄な娘と目が合った。彼女は少し離れたところに立ち、アマリアとエウゼビオが来るのを待っている。王宮の女官のような品のいいドレスをまとい、ボリュームのある長い金髪を後頭部で太い三つ編みにした可愛らしい娘はアマリアへ感じよく微笑んだ。


「あの子、見覚えはないんだけど、もしかして私のこと知ってる?」


乾いた髪を手櫛で整えつつ、アマリアはエウゼビオに尋ねた。


「ああ、クラーラ? そういえば今日、離宮でおまえに会ったって言ってたな」


「今日? 離宮で?」


「クラーラは変装の名人だから、顔は違ったかも。うちの弟どもに絡まれているところをアマリアに助けられたって」


そう言われてアマリアは思い出した。離宮の前庭でマガリャンイス伯爵家の兄弟に絡まれていた町娘がいた。あの子か。


「たしか、おまえと同じくらいの年齢じゃないかな。何年か前に夜明け団の入団試験に応募したんだけど身長だけが基準を満たしてなくて、斥候せっこうとしてスカウトされたんだとさ」


斥候ということは、クラーラは町娘に扮して離宮へ偵察に来ていたのだ。彼女に絡んでいたクズ兄弟たちはきちんと仕事をしていたことになる。本人たちも気がついていないだろうけれど。


「信用して大丈夫な人?」


「よく見ろ。クラーラは、ああいう感じだ」


エウゼビオが苦虫を噛みつぶしたような顔でクラーラを指し示す。彼女は階段を上がっていく枢機卿を熱い視線で見つめていた。頬が赤い。


「あいつはレネ様の言うことは何でも聞く」


「うわあ、たで食う虫も好き好きってやつだね……」


アマリアはレネに絶対に聞こえないような小声で囁く。あんな傍若無人な人を好きになれるなんて、よほど器の大きな女性なのだろう。アマリアはクラーラを一目置くことにした。エウゼビオは真顔で応じた。


「おまえには言われたくないと思うぞ」


アマリアは意味がわからなかった。


クラーラの先導で地下遺跡を通り抜け、アマリアとエウゼビオが地上に出たのは17時を過ぎた頃だった。地上へ上がる階段は大西洋に面した洞窟内にあり、3人はかなり遠回りをして離宮の正門へ続くゆるやかな坂道へたどり着いた。


離宮がただならぬ状況にあることは坂道を登り始めてすぐに分かった。丘の上から黒い煙が上がっていたのだ。太陽はまだ南の空の高い位置にある。


「まさか、もう始まってんのか? 聖スアデラの祝祭の日の、こんな白昼堂々?」


エウゼビオは青ざめ、背中の長剣を抜く。アマリアも事が起こるのは日没後だと思っていた。エウゼビオは斥候の娘にラテン語で何か告げ、クラーラは戸惑った様子で頷いた。


「アマリア、おまえはクラーラと安全なところに隠れてろ! 俺は王女殿下のところへ行く!」


エウゼビオは言い捨て、ひとりで坂道を駆け上がる。クラーラはアマリアのドレスの袖を引き、「引き返そう」と目で訴えた。


アマリアは素直に従った。自分がエウゼビオについて行ったところで役に立たないことは分かっていた。満足に薬草を持っていないので負傷者の手当てさえできない。アマリアはクラーラとともに来た道を戻り、その途中で重要なことを思い出した。


アルメイダはサルースの杯は離宮かルイシュの祖父の屋敷にあると疑っていた。もしかしたら、ルイシュの祖父の屋敷も襲われているのではないか。このことはエウゼビオにも言いそびれていた。知っているのはアマリアだけだ。


大至急、王女かルイシュに知らせなくては。アマリアは踵を返し、坂の上の離宮へと走り出した。

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