30.枢機卿
アマリアとエンリケは王女のはからいによって豪華な昼食でもてなされ、その後、客用寝室へ案内された。さわやかの弟は金髪の若い女官をアマリアへ紹介し、「この人に何でも言いつけていいんだよ、ゆっくり休んでね」と言ってくれたが、退室しようとはしなかった。彼は訝しむアマリアへ申し訳なさそうに両眉を下げた。
「ごめんね、コスタ大臣に、君から目を離さないように頼まれちゃったんだよ。都合の悪いことがあれば後ろを向くから、その時は遠慮なく言ってね」
さわやかの弟はそう言ってアマリアの部屋の壁際に直立した。狭い部屋の中で女官と兵士と顔を合わせているのは息が詰まった。
アマリアはベッドと窓の間にあるドアを開け、隣室のエンリケを訪ねた。食欲を満たした元盗賊は服を着たままベッドへうつ伏せに寝転んでいて、ベッドの足の方には少年兵が立っている。
「エンリケさん、寝ないでください」
アマリアはずかずかと入室し、遠慮なくエンリケの肩を揺さぶって彼を起こした。彼は顔をわずかに上げてアマリアを睨んだ。
「……僕が君のせいで寝不足だってこと、わかってる?」
「わかってます、すみません」
アマリアの謝罪が聞こえているのか、そうではないのか、エンリケは重力にまかせるように自分の顔を再び枕に押しつけた。
「アマリア、君はもうやるべきことをやったよ。コスタ大臣に言われたとおり、大人しくしてようよ。ここより安全なところはないんだから」
エンリケはすでに半分ほど夢の中にいる。アマリアは彼を誘惑する睡魔に負けじと赤茶の髪を引っ張った。
「エンリケさん、こっそり抜け出して、オリオンの様子を見に行きませんか」
エンリケは今度は顔も上げない。
「馬鹿言ってんじゃないよ。オリオンがいるのは教皇庁の公使館だぞ。敵の本拠地に乗り込むようなもんだよ」
「それはそうですけど、私、オリオンのことが心配で。もしも私のせいで酷いお仕置きを受けていたらと思うと……」
「大丈夫、彼女は強いよ。僕より背もでかいし。1時間でいいから寝かせて」
エンリケはアマリアを追い払うように片手を振った。彼を起こすのを諦め、アマリアはベッドを離れて自室を振り返る。すると、さわやかの弟と金髪の女官が難しい顔で窓の外を見ていた。
「どうしたんですか?」
アマリアは自室へ戻ってふたりの横に並び、窓ガラスに顔を近づけた。糸杉とポプラの立ち並ぶ離宮の前庭に小柄な女が立っていて、ふたりの男に囲まれている。女は離宮へ何かを届けにきた町娘のようで、大きな空のかごを手に持っていた。男たちは王宮護衛隊の制服を着ている。
「マガリャンイス伯爵家のバカ兄弟ですわ。あのふたり、エウゼビオ様の弟とは思えません。いつも、あの調子なんですよ」
金髪の女官が苦々しい口調で言う。エウゼビオの義理の弟たちにはアマリアも王宮で絡まれた。あの夜、彼らはオリオンに完膚なきまでにぶちのめされたが、その割にはまったく懲りていないようで、目の周りに青あざをつくり、前歯を何本か失い、頭や手に包帯を巻いた姿で町娘に迫っている。
「助けてあげなくていいんですか?」
アマリアがさわやかの弟を見上げると、彼は困ったように眉を下げた。
「腐っても隊長の息子だからね、あいつらに何か言えるのは王女殿下か隊長かエウゼビオくらいなんだよ」
「じゃあ、私が助けます。ついて来てください!」
アマリアはさわやかの弟の腕を引っぱり、部屋を飛び出した。彼が「前庭に行くならこっちだよ」と指を差した方向へ走り、いくつかのサロンや御影石のエントランスホールを通過して前庭へたどり着く。
「あ、おまえは!」
マガリャンイス伯爵家の兄弟は駆けつけたアマリアの姿を見て顔をひきつらせた。優男風の兄と陰気な弟は視線を交わし、アマリアが伴っているのが爽やかな双子の片割れだけだと確認するや否や、その毒牙の矛先を変えた。
「今日はあの女傭兵を連れていないみたいだな」
深い恨みのこもった口調で言いながら、頭に包帯を巻いた陰気男がアマリアへにじり寄る。鼻の骨と前歯が折れている優男も続いた。
「この前はひどい目に遭わせてくれたね」
真夏の正午の日差しの下で見る彼らの満身創痍っぷりはあまりに痛々しく、アマリアは笑いをこらえつつ胸の前で両腕を組み、顎を上げ、できる限り迫力のある表情をつくってエウゼビオの弟たちを睨み上げた。頭に血が上って大急ぎで駆けつけたものの、作戦はない。この後どうしようと思いつつ、町娘が正門の外へ無事に逃げおおせる姿を視界の端で確認した。
「この方は王女殿下の客人です。何かあれば殿下からお叱りを受けますよ」
アマリアの横から言ったのはさわやかの弟だ。アマリアと王女の関係については王宮護衛隊の中でも限られた者しか知らないようで、クズ兄弟はうさんくさそうな目でアマリアを見た。
「このぺんぺん草みたいな娘が、王女殿下の客? ファビオ、おまえ、もう少しマシな嘘をつけよ」
ファビオっていうんだ。アマリアは傍らの常連客の顔をちらりと見上げた。今度こそ覚えよう。
「本当です。詳しいことは殿下に口止めされていますのでお話しできませんが、もしこの方に危害を加えたら、隊長閣下でさえ、あなた方を擁護できないと思います」
さわやかの弟は額に汗をかきながら、遠慮がちに上司の息子たちを脅し、制服の上着のポケットから懐中時計を取り出した。
「もう12時です。巡回の時間ではありませんか?」
クズ兄弟を立ち去らせるための口実を提供し、さわやかの弟は端正な顔に作り笑いを浮かべる。兄弟はまだ半信半疑の様子だったが、腕組みしたまま虚勢を張り続けるアマリアを気が済むまで睨んでから前庭を立ち去った。捨て台詞さえ吐かなかったところを見ると「もし本当に王女殿下の客人だったら」という想像力はあるらしい。
「はああ、冷や冷やした」
マガリャンイス伯爵家の兄弟の姿が建物の中へ消えると、さわやかの弟は大きく息をついた。アマリアも組んでいた腕を解き、胸を撫で下ろす。
「危ない橋を渡らせてしまって、すみませんでした……」
個人事業主のアマリアでも、上司の息子に盾突くことがどんなことかは一応、分かるつもりだ。彼や彼の兄の立場や将来を危うくしたことを詫びると、さわやかの弟は紳士的に苦笑した。
「アマリアちゃんとあのお嬢さんが無事でよかったよ」
ルイシュがこの場にいたらアマリアを一喝しただろう。迷惑をかけ、情けをかけてもらったにもかかわらず、アマリアは妙な肩透かしを感じた。それが顔に出たのか、さわやかの弟が怪訝な表情をした時、正門の向こうから坂道を登ってくる馬車の音が聞こえた。
現れたのはみすぼらしい辻馬車だった。王族を訪ねる貴人が乗るようなものではない。正門の兵士たちは馭者へ停車を求め、ものものしい雰囲気で検問が始まる。さわやかの弟も緊張した様子でアマリアを自分の背後に隠した。
ところが、辻馬車の窓から顔を出したのはひょろりとした神経質そうな青年で、アマリアはその人を知っていた。レネだ。今日は灰色の
「枢機卿のレネ・ティリンツォーニ様だ。もうすぐ大聖堂で祈りの儀式が始まるっていうのに、どうなさったんだろう?」
さわやかの弟の独白めいた言葉を聞きながら、アマリアはレネの青白い顔を凝視した。彼のことは“教皇庁の要人”としか聞いていなかった。そんなに偉い人だったとは。それにしても、なぜ供を連れず、あんな辻馬車に乗って離宮にやってきたのか。
「私、知り合いです。ご挨拶して来ます」
アマリアにとってレネはこの世でたったひとりの、洗った手の水気を他人の服でふきとる知人だ。もう一度会いたいなどとは微塵も思っていなかったが、今やアマリアの未来は彼にかかっている。「どうかマガリャンイス伯爵夫人を説得してください」と力添えを直接お願いするチャンスが訪れたのだから、逃す手はない。
「ちょ、ちょっと待って、アマリアちゃん」
正門へ向かおうとするアマリアの進路をさわやかの弟がふさぐ。
「あの方は女教皇猊下の次に偉い枢機卿のおひとりだよ。しかも女教皇猊下のご子息だ。お会いするのは危険なんじゃないかな」
「レネ様は大丈夫です。お供の僧兵も連れていないみたいですし。――レネ様!」
心配そうに顔をゆがめる青年へ気楽に笑ってみせ、アマリアはレネに手を振った。レネとは一昨日、一緒に遺跡を散策して少し話しただけだが、彼は脱走したアマリアにも、姉の企てにもまるで興味がなかったし、女教皇への忠誠心も感じられなかった。おそらく、彼は俗世の面倒ごとに関心がないのだ。
レネはアマリアの姿にすぐに気がつき、馬車の窓から出した顔に尊大な微笑みを浮かべた。マガリャンイス伯爵夫人フランシスカにそっくりな顔だ。
「誰かと思えば、おまえか、コンスタンサの娘。随分とめかしこんで、馬子にも衣装だな。似合ってないぞ」
「レネ様も素敵なご衣装で」
アマリアは正門へ駆け寄り、粗末な辻馬車の前でお辞儀をする。レネは手に持った錫杖でコツコツとドアを叩いた。「開けろ」と催促しているのだろう。アマリアは辻馬車のドアを開け、恭しく右手を差し出す。レネはその手をとって地面へ飛び降りた。
「椅子が硬い。無駄に揺れる。こんなに乗り心地の悪い馬車が文明社会にあろうとはな」
「レネ様、もしや王女様に会いにいらしたのでは? 王女様は先ほど大聖堂へ向かわれましたよ」
アマリアがさっそく伝えると、レネは平然と首を傾げ、自分の腰をさすった。
「そうか。待てど暮らせど可愛い姪っ子が現れないので僧兵をまいて出てきたが、行き違ったか。ではポルトゥカーレ王家の馬車を借りて戻るとしよう」
遺跡で初めて話した時もレネは護衛の僧兵をまいて、ひとりで散歩を楽しんでいた。脱走癖のある枢機卿の警護を任されている教皇庁の僧兵にアマリアは少し同情した。
「しかし、おまえ、どうしてここにいる?」
そう尋ねながら、レネはアマリアへ視線で何か命じた。彼の視線の先では辻馬車の老馭者が掌を差し出している。スペイン語で値段を告げられ、アマリアは仕方なくドレスの下のポケットから小銭の入った革袋を取り出し、20エスクードを支払った。何で私が。
「おまえはポルトへ逃げ帰ったとオリオンから聞いていたが」
オリオンの名を聞いて、アマリアの胸はきゅっと縮んだ。彼女はアマリアの安全のためにフランシスカやレネへ嘘を述べたのだろう。
「いろいろあって今は王女様のご厄介になってます。あの、オリオンは、私のせいでマガリャンイス伯爵夫人から何か罰を受けたんでしょうか?」
おそるおそる問う。レネは鼻で笑った。
「白銀の夜明け団の兵士を罰する権限があるのは私だ。まったく咎めないわけにはいかないからな、休養という名の謹慎処分を与えた。一日中、伝書鳩の世話ができるし、寝不足だからちょうどいいと本人はどこ吹く風だった」
その寝不足はアマリアのせいだ。申し訳なく思いつつ、アマリアはホッと息をついた。
「レネ様、私、お願いがあるんです」
心配事がひとつ消え、アマリアは前のめりに切り出した。背後に立つさわやかの弟や正門を守る兵士たちに聞こえないよう声量を抑えている。
若き枢機卿は渋い表情になり「歩け」とアマリアを促す。アマリアがさわやかの弟に監視されていることを察してくれたのだろう。ふたりは横並びになり、糸杉とポプラが林立する前庭を速足で歩いた。
「マルガリーダから相談事があると手紙をもらった。内容の予想はついている。サルースの杯とおまえのことを諦めろと、そうフランシスカを説き伏せてくれと、そういう話だろう? 私は可愛い姪っ子の頼みは聞きたい。コンスタンサの恩にも報いたい。だが、私にはそれが正しいこととは思えない」
レネの芳しくない応答にアマリアの心は曇った。女教皇の息子は続けた。
「アスクラピア遺跡でも話したはずだ。そもそも、これまでポルトゥカーレが香薬を独占してきたことがおかしな話なのだ。香薬でしか癒せぬ病人は欧州中にいる。教皇庁は杯とおまえを手に入れ、彼らを救うべきだ。おまえは二度とポルトへ帰れないかもしれないが、それもまた神々の思し召しだ。そうだ、私がラテン語を教えてやってもいいぞ」
教皇庁のどこかへ閉じ込められ、来る日も来る日も香薬の種を生成し続け、時々、レネがやってきてラテン語を教えてくれる。最悪の未来を想像し、アマリアは気が遠くなった。だが、レネが金儲けのことを考えていないのは救いだった。
「レネ様、私は香薬の種を生成できるポルトゥカーレ人をたくさん探し出して、種を増産して、国の内外を問わず医師の治療では救われない人たちにそれが行き渡るようにしたいんです。目指しているものはレネ様と同じだと思います。女教皇猊下の治療に使う種も、もちろんジュネーヴへ届けます。賛同していただけませんか」
「種の増産には賛成する。しかし、そうは言っても、ポルトからジュネーヴまでは船と馬で5日か6日はかかる。パリやウィーンはもっと遠いぞ。種に昇華性がある以上は地理的に……」
レネの話の途中で、後ろから「うわ」という小さな悲鳴が聞こえた。アマリアとレネが足を止めて振り返ると、さわやかの弟の肩にカモメの糞が着弾していた。彼は泣きそうな顔で黒い制服の上着を脱ぎ、べったりと生地にこびりついた糞をハンカチでこすった。
「……カモメか」
不運な青年を横目に、アマリアは遥か高き大空を旋回するカモメの群を見上げた。
「……あの、伝書鳩って、どれくらいの重さのものを運べるんでしょう? 白銀の夜明け団の伝書鳩はポルトゥカーレから2日か3日でジュネーヴまで飛ぶとオリオンが言ってました。香薬の種を運べると思います?」
それは、ふと思いついたことだった。レネは豆鉄砲を食らったような顔で答えた。
「香薬の種ひとつくらい持って飛べるだろう。しかし、途中で雨に濡れたり、汚れたりするのは避けられない。人の口に入るものの扱いとしては、ぞんざい過ぎると思うがな」
言葉とは裏腹に、レネの瞳は明るく輝いていた。アマリアの胸も熱くなっていた。スカートの下の革製ポケットから着火具用の火薬の包みを取り出す。
「ぼ、防水なら、これ、これです。種をこれでしっかり包めば心配無用ですよ!」
レネはアマリアの震える手から火薬の包みを取り上げる。
「
火薬の包みをアマリアに返し、レネは考え込むように顎に手をあてた。
「だが、ルシアやフランシスカが納得するだろうか」
ルイシュは「サルースの杯とおまえの両方を持ち帰れば巨万の富を得られることを彼らは知っているんだ。金の卵を産む鶏を簡単に諦めてくれるとは思えない」と言っていた。アマリアがそれを口にすると、レネは口元に薄ら笑いを浮かべた。
「姉たちは金に執着はない。彼女らが最も大事にしているのは己の名誉だ。姉たちは彼女らを軽んじ、蔑ろにした者を決して赦さない」
興味なさそうに息をつき、レネは正門へ目を向けた。ルイシュの祖父の屋敷へ預けていたアマリアたちの馬が兵士に連れられて到着したところだった。3頭の馬は離宮の使用人に引き渡され、厩舎へ連れていかれた。
「ルシアは国王とコンスタンサを恨んでいる。フランシスカは最初の夫とその妾を憎んでいる。そして、あのふたりはおまえやエウゼビオにも激しい憎悪を抱いている。どんな説得をしようと、フランシスカはおまえとエウゼビオをまとめてジュネーヴへ連れて行く、私にはそんな気がしてならない」
背筋がぞくりとして、アマリアは両腕で自分の肩を抱いた。もしかしたら王妃やフランシスカはサルースの杯などどうでもいいのかもしれない。ただただ、コンスタンサの娘をポルトから追放したいだけなのかもしれない。
「じゃあ、私、本当にもう、諦めるしかないんでしょうか……」
誰よりも平穏に暮らしてほしい。毎日元気でいてほしい。いつか生まれてきてよかったと思ってほしい。ルイシュがアマリアに望んでくれたすべてが叶わないかもしれない。
「おまえがどうしてもジュネーヴへ来たくないというなら、方法はまだある。教えてやろうか?」
レネは踏ん反り返り「どうせ、おまえにはできないだろう」とでも言いたげな顔をした。アマリアはカチンときた。
「教えてください」
さわやかの弟はまだ上着をハンカチでこすっている。レネはアマリアを促し、足音を忍ばせて厩舎へ向かった。
「私の母に会い、身の安全を約束してもらえ。そうすればルシアもフランシスカもおまえに手は出せない」
さらりと言い放ち、レネは厩舎の戸をくぐる。馬から馬具を取り外していたふたりの使用人は枢機卿を見て目を丸くした。
「借りるぞ」
レネはさも当然という顔で厩舎へ入り、突然、アマリアの腰を抱き寄せた。アマリアは握った拳を振り上げかけたが、鋭い視線でレネに睨まれ、それを下ろした。彼は空いている馬房の床にアマリアを押し倒し、朱色の祭服をばさりと言わせてアマリアへ覆いかぶさる。
「おまえたち、そこで見ているつもりか?」
茫然としている使用人たちを肩越しに振り返り、レネは色気のある笑い方をした。彼らは慌てて馬を馬房に押し込み、馬具や用具を放り出して厩舎を出ていった。
「思っていたより気分が悪いな。私の女の趣味が激しく誤解されたぞ」
祭服についた飼い葉を手ではらいながら立ち上がり、レネは馬具が取り付けられたままの馬へ歩み寄る。それはオリオンが乗っていた馬で、馬具に教皇庁の紋章がいくつも入っていた。馬はレネを見て目を細め、甘えるように彼へ顔をこすりつける。
「レネ様、あの、私、女教皇様に会うってことですか?」
アマリアは混乱しつつ立ち上がった。レネは馬房の柵を外し、馬を丁寧に連れ出しながら淡々と応じた。
「そうだ。おまえを救えるのは女教皇猊下の鶴の一声だけだ。私は大聖堂に戻る。おまえも来い。祈りの儀式の後で母に会わせてやる」
「わ、私は行けません。もし捕まったら交渉もできず今度こそジュネーヴ行きが確定します」
「ここに閉じこもっていても、おまえのジュネーヴ行きはほぼ確定だと言ったはずだ。大丈夫だ、フランシスカは大聖堂には来ない。あいつは抹香くさい場所が嫌いだからな」
「でも、女教皇様と、私なんかが直接お話しするなんて……」
「困窮する者を救うのは聖職者の務めだ。それに、自分の人生がかかっている状況で、他人にすべてを任せて安全なところに隠れていることを恥だとは思わないのか? それで望まぬ結果が出たら文句を言って嘆くのか?」
レネの厳しい言葉はアマリアの胸を深く貫いた。
ルイシュや王女を信じ、彼らに自分の行く末を託すことは然るべきことだとアマリアは思っている。弱者が強者に頼るのは恥ずべきことではない。人々の善意に頼って生き延びた元孤児として、それは間違いないと思っている。
だが、もしも己の手で自分自身を救えるのだとしたら、そのチャンスをみすみす見送ってはいけない気がした。それに何と言っても、ルイシュの“最後の一手”を不発に終わらせるためなら、何だってやるべきだ。アマリアは意を決した。
「レネ様、私、馬に乗れません」
「そうだろうな。私の前に乗れ」
レネは朱色の祭服の裾を翻して鞍にまたがり、細身の身体からは想像し難い力でアマリアを馬上に引き上げた。つかみ合いになっても勝てると思っていたアマリアは、レネを侮っていたことを少し反省した。
「しっかりつかまれ。振り落とされても拾ってやらないからな」
レネが手綱と
「アマリアちゃん、だめだ! コスタ大臣に怒られちゃうよ!」
馬が厩舎を飛び出すと、異変に気がついたさわやかの弟が声を張り上げる。アマリアが王女に保護されていることを知らないのだろう、正門の兵士たちは馬を駆る枢機卿を見てすみやかに開門した。
「ジョアンさん、すみません!」
アマリアは背後を振り返り、さわやかの弟に詫びた。アマリアを見張るようルイシュから言いつけられていた彼は、きっと後で叱られるだろう。正門を駆け抜けるアマリアたちを追いかけつつ、爽やかな青年は悲しげな顔で叫んだ。
「アマリアちゃん、ジョアンは兄の方だよ!」
兄はジョアンっていうんだ。今度こそ覚えよう。
教皇庁の馬は曲がりくねった坂道を
そこは人通りが少ない細い路地ではあったが、朱色の祭服を着た青年が枢機卿だということは一目瞭然で、人々の注目を激しく引いた。彼は平然とした様子で馬を
「おまえ、震えているぞ」
後ろからアマリアを抱えているレネが馬鹿にしたように小さく笑った。アマリアは歯を食いしばった。ルイシュの言いつけを破って離宮を出てきたこと、女教皇へ会うと決めたこと、どちらも、少しでも気を抜けば後悔してしまいそうだった。
「権威や肩書きに惑わされるな。女教皇などとは言っても、リウマチとアヘンに蝕まれた、ただの不憫な老女だ。必要以上に恐れるな」
揺れる馬上でレネはアマリアへささやいた。その声は彼にしては柔らかく、アマリアは少しだけ彼を見直しそうになった。
「そうだ、おまえにこれをやろう」
思い出したように言って、レネが懐から取り出したのは古新聞に包まれたものだった。
「露店でいくつか買って、ひとつ食べたが非常にまずかったのだ」
レネが押しつけてきた古新聞を開くと、コンポステーラ銘菓の“聖スアデラの舌”が5つ入っていた。ジュネーヴには自分の口に合わなかったものを他人へ贈る風習があるのだろうか。じとりと彼を見やると、レネは偉そうに踏ん反り返って笑った。
「今のおまえには説得の女神の加護が必要だろう。まあ、私には関係ないことだがな」
何かを食べる気分ではなかったが、アマリアは“聖スアデラの舌”を無理やり口に押し込んだ。「食べると雄弁になれる」という迷信を、今だけは信じようと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます