31.女教皇

丸屋根とふたつの鐘楼を擁する巨大な大聖堂の周りには、中に入れなかった巡礼者が大挙していた。人々は長い旅路の果てに到着した聖地へ膝をつき、深い祈りを捧げていた。


アマリアとレネは広場の手前で馬を降り、厳かでいて雑然としたその中を、群衆をかきわけて大聖堂へ向かった。といっても、朱色の祭服をまとったレネが胸をそらして歩くだけで人々がさっと道を開けてくれたので、アマリアはその後ろを馬を引いてついて行くだけでよかった。


500年前に建造が始まり、修復や改築や増築を繰り返された大聖堂は複数の時代の建築様式が取り入れられており、奇妙にちぐはぐな印象だった。その美しくも堅牢な姿を見て、アマリアはオリオンを思い出した。


ふたりが中央広場の噴水横を通過した時、大聖堂の正面階段で辺りを見回していた僧兵がレネを見つけて大声で叫んだ。教皇庁の公用語のラテン語だ。おそらく「レネ様がおられたぞ!」と仲間に知らせたのだろう、レネがあっという間に僧兵たちに取り囲まれる。


「儀式が終わったら母に会わせてやる。それまでは彼らの言うことを聞いていろ。私は忙しい」


レネはうんざりした様子でアマリアに言い捨て、僧兵たちに従順に連行された。彼らは鬼気迫る表情でレネへ何か言いながら、脱走癖のある枢機卿の背中を押して大聖堂の裏口へと導く。レネはアマリアを振り返り、僧兵へ何かを命じた。何人かの僧兵が一斉にアマリアの顔を見た。


数日前まで一緒に旅していた11人の僧兵の顔をアマリアは完全には覚えていなかったが、そこには見覚えのある人物もいた。彼らはアマリアがフランシスカに軟禁されていたことを知っている。


僧兵のひとりが感情のない目でアマリアを見つめ、アマリアの前に進み出た。彼はアマリアの手から教皇庁の馬の手綱を受け取り、身振りと視線で「ついてこい」と言った。


アマリアは一瞬、躊躇った。言葉が分からない不安のせいかもしれない。「もしもレネに騙されていて、ここで僧兵に捕らえられジュネーヴへ連行されたら」と考えてしまったのだ。エンリケの言葉を借りるなら、これは「敵の本拠地に乗り込むようなもの」で、しかし、レネの言葉を借りるなら、ここで逃げても「ジュネーヴ行きはほぼ確定」だ。


アマリアは歩き出した僧兵の背中を追った。彼が向かったのは大聖堂に隣接する修道院だった。入口に立っていた修道士に馬を引き渡し、僧兵は建物の中へアマリアを導いた。


中世の時代に建てられたのだろう、エントランスや通路の窓は小さく、建物内は暗かった。僧兵はひんやりとした通路をよどみなく歩き、アマリアは小走りでそれを追う。履き慣れない靴のせいで足が痛む。修道士は儀式の準備のために出払っているのか、誰とも遭遇しなかった。ふたり分の靴音がやたらと大きく響いた。


この数日間で、こうして誰かについて行って、何度、私は騙されたのだろう。私は何度欺かれたら懲りるのだろう。僧兵についてきたことをアマリアが悔やみかけた時、通路の先に光が見えた。そこは中庭を囲む明るい回廊だった。


「アマリア!」


回廊に出た途端、よく知った声に名を呼ばれ、アマリアは声の出どころを探した。中庭を挟んだ反対側の回廊に派手派手しい極彩色の服を着た長身の男が立っていた。目が合うと、彼は中庭の池を飛び越えて真っしぐらにこちらへ駆けてきた。


「エウさん、何その変な格好〜!」


「開口一番それかよ〜!」


アマリアとエウゼビオは抱き合って再会を喜んだ。離れていた時間は丸2日程度だったが、それ以上に長かったような気がした。少し涙が出た。


「よしよし、元気そうだな。オリオンから無事だって話は聞いてたけど、心配したんだぜ」


言いながらエウゼビオはアマリアの健康状態を確かめるように全身を眺め、いつものとおり明るくお気楽に破顔した。


「ごめん」


アマリアは短く詫び、これまでの経緯をエウゼビオへ詳しく話すべきか迷った。エウゼビオへすべてを明かし、彼がうっかりそれをフランシスカに伝えてしまったら、自分自身や周囲の人々を危険にさらすことになるかもしれない。


「エウさん、その派手な服、何?」


アマリアは話の矛先をエウゼビオの着衣へ向けた。


「何って制服だよ、夜明け団の」


エウゼビオは自分の着ている軍服のようなものを見下ろす。それは上下ともに鮮やかな青と黄のストライプ柄で、胸には教皇庁の紋章と白銀の夜明け団の紋章が刺繍されている。


「何とかっていう高名な画家がデザインしたとか、してないとか。そんなに変か?」


「変」


「儀式の時は赤いフサフサがついた兜もかぶるぞ」


「どうかしてるよ」


ひとしきりエウゼビオの服装を貶し、アマリアは笑った。エウゼビオも声を立てて笑う。幼馴染とこんな風に何でもない話をするのはひどく久しぶりだ。心が安らぐのを感じながら、互いの腹を探らずに話せることが限られている状況を悲しくも思った。


「エウゼビオ」


歓談に割って入るように、アマリアを連れてきた僧兵が非友好的な口調でエウゼビオに何かを伝えた。言葉の壁に阻まれ、アマリアはまた疑心暗鬼した。


「大聖堂は満席だからおまえを特等席へ案内しろと、レネ様がそうおっしゃってるんだとさ」


僧兵が立ち去ると、エウゼビオはアマリアの背中を押して回廊の反対側へ向かう。


「特等席?」


「ああ、誰でも入れるところじゃない」


レネがアマリアのために特等席を提供してくれるとしたら、大聖堂の掃除用具入れか、地下墓所へ続く暗く湿った階段といったところだろう。まったく期待せず、アマリアはエウゼビオへ促されるまま回廊を歩き、大聖堂と修道院の間に広がる庭へ出た。整然と切り揃えられた低木が連なる美しい庭だ。


「エウさん、ちょっと待って」


庭の端に大理石のベンチを見つけ、アマリアはそこへ腰を下ろした。


「どうした? 具合でも悪いか?」


心配そうなエウゼビオを横目に、アマリアは履いていた靴を脱ぎ、ドレスのスカートの両脇から手を突っ込んで革製ポケットに結びつけていたものを取り外す。地面にごろごろっと履き慣れた自分の革靴が転がった。


「……おまえ、それ、スカートの下にぶら提げて歩いてたのか?」


エウゼビオが呆れ顔で問う。アマリアは気にせず靴を履き替えた。


「うん。この靴、絶対に足が痛くなると思って」


編み上げ靴の紐を結び終えると、アマリアは立ち上がった。お上品なドレスの丈は地面すれすれなので、履き古した長靴を履いているとは誰も思うまい。足元だけだが、ルイシュが「いいと思う」と言ってくれた“普段のアマリア”を取り戻した。


「しかし、こんなところでアマリアに会うとはなあ。オリオンは、おまえはポルトへひとりで帰ったって言ってたけど」


再び歩き出しながら、エウゼビオはのんきに言った。アマリアは履いていた靴をスカートの下の革製ポケットに押し込みながら彼の後を追う。


「私がここにいたこと、マガリャンイス伯爵夫人には言わないで」


フランシスカは抹香臭いところが嫌いだとレネは言っていた。おそらく、彼女は教皇庁の公使館とやらにいるのだろう。


「もちろん。フランシスカはまだ、おまえのことを諦めてなさそうだからな」


エウゼビオは忌々しげに顔をしかめる。その表情を見て、アマリアはホッとした。彼は感情を隠したり、偽ったりできる人ではない。潜在的には、彼はアマリアの味方だ。


「エウさん、あのさ」


庭の中ほどで立ち止まり、アマリアは長身の幼馴染を見上げた。エウゼビオに会ったら聞こうと思っていたことがあるのだ。


「エウさんはご両親がどうして亡くなったか、本当のことを知ってるの?」


エウゼビオの両親は王妃に殺されたかもしれない。王女はそう言っていた。エウゼビオがそれを知らずに王妃やフランシスカに協力しているのなら、それはとても残酷なことだし、知っているのなら、それもまたひどく残酷だとアマリアは思った。


「フランシスカから聞いた」


エウゼビオは皮肉っぽい笑みを顔に浮かべた。


「王妃殿下やフランシスカに対して思うことはある。だけど俺は自分の両親は恨まれて当然のことをしたとも思ってる」


「だからって殺すなんて……」


「もちろん、殺されて当然だとは俺も思ってない」


エウゼビオはアマリアを促し、大聖堂の裏手に位置するドアを開けた。分厚い暗幕をよけて中へ入ると細い螺旋階段があった。


「子供の頃、父が家に来てくれるのがすごく嬉しかった。夜明け団に所属していた時の話を聞かせてもらうのが好きだった」


エウゼビオは低い声で昔話を始め、階段をゆっくりと上る。アマリアはドレスの裾を持ち上げて彼についていく。見上げると、階段はどこまでも延々と続いていた。


「父が1週間も現れないと母さんの機嫌が凄まじく悪くなるから、必ずまたすぐに来てくれと、俺はいつも父にねだってた。親子3人で過ごす時間は幸福だった。両親が亡くなって、フランシスカに初めて会った時、俺の幸福の裏で泣いていた人がいたと分かって、俺は自分自身を赦せなかった」


エウゼビオは優し過ぎる。悪いのは彼の両親であって、エウゼビオではないのに。アマリアは腹立たしさを覚えながら、彼の話を黙って聞いていた。


「フランシスカは気の毒な人だ。マガリャンイス家に嫁いだせいで不幸になった。王妃殿下が暴挙に出たのは妹を想ってのことだ。あの姉妹だって誰かを進んで不幸にしたいとは考えていないはずだ」


「エウさんは甘い」


アマリアは歯がゆい思いでお人好しの幼馴染を睨み上げる。エウゼビオは頭をかいて苦笑した。


「確かに甘いかもな。でも、あの姉妹をどんなに憎んだとしても、復讐できるわけじゃない。俺はあの姉妹に喧嘩を売る度胸がない。怖いんだよ、あの人たちが。何をするか分からない危険な権力者には従順であるべきだ」


その言葉を聞いて、アマリアは改めて納得した。エウゼビオがアマリアを騙したのは、アマリアを自分の配偶者にしてジュネーヴへ連れて行くのが一番リスクの少ないことだと考えたからだ。彼の裏切りはアマリアの安全を優先した結果に起こったことだった。


エウゼビオに聞きたいことはまだあったが、アマリアの口からは荒い呼気しか出てこなくなっていた。すでに何百段も上ってきたはずだが、螺旋階段の終わりはまだちらりとも見えていない。


「ねえ、この階段、まだ……?」


息も絶え絶えにアマリアが尋ねたのは3分後だった。


「頑張れ、もう少しだ」


へとへとのアマリアとは対照的に、エウゼビオは元気いっぱいに妹分を励ます。目が回り、息が切れ、脚が棒になった頃、ようやく終わりが見えた。エウゼビオは突き当たりのドアを開け、アマリアを振り返って笑った。


「見ろよ、なかなかだろ?」


ドアの向こうは大聖堂の丸屋根の内側だった。ゆるやかなカーブに沿って人がひとり歩ける程度の通路が設けられている。大理石の手すりから顔を出すと、信者席を埋め尽くす聖職者や巡礼者が見下ろせた。座席がない場所にも立ち見の巡礼者がつめかけ、足の踏み場もない。


薄暗い堂内にはステンドグラスの鮮やかな光がところどころに落ちていて、丸屋根や高い天井を支える太い列柱は伸びやかで優美だった。


「すごいね。ポルトの大聖堂が小さく感じる」


アマリアは厳かな気持ちでため息をついた。エウゼビオも神妙に頷く。


「だよな。世界って広いよな」


「でも、こんなところから女教皇様や偉い方々を見下ろすなんて、不敬な気がしない?」


「たしかに。見つからないように気をつけなくちゃな」


声を潜めて笑い、エウゼビオは「あれ? あそこにいるのって王女殿下とコスタ大臣か?」と信者席の最前列を指した。


ルイシュと王女は祭壇の目の前の座席に座っていた。そこへ小柄な人影がやってきて、ルイシュへ耳打ちをした。エンリケだった。彼が「アマリアが離宮から逃げたぞ」と報告したのだろう、ルイシュは青ざめ、信者席から腰を浮かせた。


席を離れようとするルイシュを王女が止め、エンリケもルイシュを宥めて着席を促す。ルイシュは不本意そうに椅子に座り、エンリケに何か言いながら小さく頷いた。その様子を見る限り、エンリケはアマリアを保護するために何か手を打っている。


アマリアは通路に膝をつき、手すりの陰に隠れた。ここなら見つからないとは思うが、エンリケは聡いので油断できない。


「王女殿下はともかく、コスタ大臣がどうしてここにいるんだ? アルメイダはコスタ大臣とポルトの近くで会って、大臣からサルースの杯を奪ったって言ってたけど」


アマリアとともに手すりの陰に隠れつつ、エウゼビオが独語するように問う。


「アマリア、おまえ、今、王女殿下やコスタ大臣と一緒なのか? あれ? でも、なんで、ひとりでレネ様と? 大臣と喧嘩でもしたのか? 大聖堂に何しに来た?」


通路に座り込み、エウゼビオは混乱したように質問を重ねる。アマリアは唇を動かそうとしては、それを固く結ぶことを繰り返した。


エウゼビオは大切な幼馴染だ。心から信頼できるアニキだ。すべて打ち明けたい。でも、打ち明けられない。


「エウさん、ごめん、言えない」


ルイシュもこんな気持ちだったのだろうか。アマリアに出生の真実を隠し続けてきた彼も、こんな風に苦しんだのだろうか。


「いや、そりゃ、そうだよな。俺の方こそ、ごめんな」


エウゼビオは悲しげに微笑む。彼がアマリアの頭をポンと撫でた時、鐘楼の鐘がけたたましく鳴り響いた。僧兵によって大聖堂のすべての扉が閉ざされ、やがて清涼感のある爽やかな香りが鼻腔をくすぐり始める。


「始まったな」


エウゼビオが指で示したのは祭壇に吊るされた巨大な振り香炉だった。アマリアの背丈より大きなそれは太いロープで吊られ、ロープは天井の滑車を経由して6人の聖職者によって引かれている。大香炉は振り子のように大聖堂の翼廊をゆっくりと舞い、白煙と乳香の香りが堂内へ広がっていった。


「俺はそろそろ行く。あとで迎えにくるからな」


エウゼビオは立ち上がり、螺旋階段へ続くドアを開いて長い階段を駆け降りていった。初めて訪れた場所でひとりきりにされ、アマリアが心細く思った時、朱色の祭服を着た青年が説教壇へ続く階段を上っていくのが見えた。レネだ。バルコニー状の説教壇に到着すると、レネはアマリアの方を見て偉そうに笑った。「特等席はどうだ?」とでも言いたげな顔だ。


中央の大扉が開き、陽光とともに入ってきたのは聖スアデラの像を載せた神輿みこしだった。神輿は祭壇へ続く中央通路をゆっくりと進み、何人かの聖職者によって聖人の像は祭壇へ移された。


その間に、列をなした白銀の夜明け団の兵士たちも堂内へ入ってきていた。30人ほどの行列の先頭で紋章入りの旗を掲げているのはエウゼビオだった。予告どおり、赤いフサフサのついた兜をかぶっている。彼らが祭壇の下座へ整列すると、やがて白髪の老婆が通路を歩いてきた。白い祭服をまとっている。


純白の祭服を着用できるのは教皇だけだ。アマリアは思わず立ち上がり、手すりから身を乗り出して彼女を凝視した。痩せ細り、背骨が曲がり、黄金の杖を握る手指は変形している。ぎこちない歩き方を見るに、脚の骨も健常ではない。


アマリアは胸が痛くなって、女教皇の姿を目で追うのをやめてしまった。嘆息をついて丸屋根の天井を仰いだ時、強い光が目に入った。


顔を手で覆い、指の間から光の出どころを探す。祭壇に置かれた聖スアデラの像だった。高窓から落ちる陽光が彼女の持つ金色のホタテ貝に当たって屈折し、アマリアの顔に向かって真っすぐ伸びていた。


いつか、どこかで見たような光景だ。アマリアは記憶を探りかけ、すぐにそれをやめた。女教皇が祭壇の手前で足を止め、アマリアの方をじっと見つめていた。


アマリアは慌てて手すりの陰に身を隠した。女教皇は祭服の裾をひるがえし、何事もなかったかのように祭壇へ向かった。彼女が聖スアデラの像に片膝を折り、壇上の椅子へ腰を下ろすまで、アマリアは生きた心地がしなかった。


儀式のはじまりを告げるレネの言葉が大聖堂に響き渡り、パイプオルガンが奏でられ、参列者が声をそろえて3曲の讃美歌を歌う間、女教皇は絶えず自分の肘や膝をさすっていた。レネが15分ほどかけて有難そうな説教を垂れると女教皇は椅子から立ち上がった。彼女は低く響く声で聖スアデラによる加護があらんことを祈り、祭壇の袖へと退場した。


「おい」


背後から小声で話しかけられ、アマリアは飛び上がりそうになった。螺旋階段へ続くドアから教皇庁の僧兵が顔だけ出していた。斥候せっこうのような鋭い眼差しでアマリアを見ている。


「女教皇猊下の治療に参った香薬師とは、おまえのことだな? ついてこい」


「は、はい」


てっきり、エウゼビオが迎えにくると思っていた。アマリアは面食らいつつドアをくぐり、スカートの裾をたくしあげて螺旋階段を下りた。庭に出ると仕事を終えたレネが待っていた。エウゼビオの姿はない。


「遅い。こっちだ」


レネは不機嫌そうに言うと、アマリアの先に立って修道院へ向かった。その後ろを彼の護衛の僧兵がぞろぞろとついていく。アマリアも慌ててそれを追った。


「あの、レネ様」


「おまえの言いたいことはわかる。私を疑っているのだろう?」


まだ心の準備ができていないから、もう少しゆっくり歩いてほしい、とアマリアは言おうとしたのだが、レネは盛大に勘違いをした。


「ち、違います」


まあ、全面的に信用しているかと聞かれたら即答できないけど。レネの耳にはアマリアの否定の言葉も、もちろん心の声も届いていない。


「悪いようにはしない。私はコンスタンサに大きな恩がある。コンスタンサを悲しませるようなことはしない」


修道院の中に入り、暗い通路を歩きながらレネはアマリアを振り返る。その顔は説教壇に立っている時より真剣に見えた。彼はアマリアと歩調を合わせた。


「私は幼少の頃から喘息を患っていた。最も症状がひどかったのが10歳の時だ。チューリッヒの医師から寒さが原因のひとつだと言われ、冬の訪れとともに故郷を離れ、姉たちのいるポルトの王宮で療養することになった。治療してくれたのはルシアが懇意にしていたアルメイダだったが、実際に香薬を焚いてくれたのはコンスタンサだった。元々の師匠が隠居してしまったとかで、その頃、コンスタンサはアルメイダに師事していた」


セルジオはアマリアを孤児院で見守るために香薬師を辞めた。その後、コンスタンサはアルメイダの世話になっていたのだ。それはアマリアが初めて知る事実だった。


「香薬の治療は効いた。ポルトの冬は温暖で多湿で、その年の冬はとても快適に過ごした。私は14歳になるまで、冬になるとポルトで静養した」


なるほど、とアマリアは思った。だからレネはポルトゥカーレ語が達者なのだ。


「コンスタンサが独立して自分の店を持つと、私は王宮から彼女の店へ通った。あの店の前の通りを舗装させたのは私だ。あの辺りは雨が降ると道がぬかるんで、馬車の車輪が泥にはまるだろう? 不愉快なので夏の間に工事をさせたのだ」


下町の道は基本的に未舗装で、レネの言う通り、雨が降るとぐちゃぐちゃにぬかるむ。だが、アマリアの店の前の道だけは石畳で舗装されている。アマリアはそれを国土保安開発省大臣の力によるものだと思っていたが、そうではなかったのだ。


「母の店は今、私の店になっているんです。あの舗装はレネ様がしてくださったんですね」


「そうだ。私は彼女の店に通い、コンスタンサは毎冬、根気強く治療をしてくれた。気がつくと病は完治していた」


明るい中庭を囲む回廊に出ると、レネの表情がよく見えた。彼は悲痛な面持ちをしていて、口調からはいつもの高慢さがすっかり消えている。


「喘息の発作はつらいものだ。発作を起こすたびに、毎回、今度こそ死ぬのではないかと本気で思う。暗い水の底に沈められ、息ができずにもがき続けているような、そんな感じだ。コンスタンサはその恐怖と苦痛から私を救ってくれた。私にとって、コンスタンサはヒュギエイアの女神だった」


レネは話したいことを話したいだけ話すと、それきり口を閉ざした。中庭を横切り、奥まったエリアへ歩みを進め、若き枢機卿が足を止めたのは両開きのドアの前だった。派手な制服を着た夜明け団の兵士がふたり立っている。


「母には、腕のいい香薬師を連れてきたと言ってある。入室したら診察して香薬を焚け。本題はその後だ」


早口で告げ、レネはドアを叩いた。アマリアは慌てて居住まいを正し、深呼吸した。


「猊下、例の香薬師を連れて参りました」


それは息子が母親にかける言葉にしては他人行儀だった。室内から「入れ」と短い応答があった。夜明け団の兵士がドアノブをひねる。


女教皇は純白の祭服を着たまま、天蓋付きのベッドに寝そべっていた。ぐったりと疲れた様子で、己の肘を手でさすっている。アヘンの鎮痛効果が切れているのだろう。


「寝る前にお祈りはするか?」


アマリアがレネとともに入室するや否や、女教皇は尋ねた。背後でドアが閉まる音を聞きながら、アマリアは覚悟を決め、ドレスの裾をつまんで深々とお辞儀をした。

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