29.異母姉妹

3人は王家の夏の離宮を目指してコンポステーラの目抜き通りを歩いていた。強い日差しが降り注ぐ中、祝祭の賑わいはピークに達しつつある。


「結局さ、コスタ大臣の兄弟って何人いるわけ? 橋を壊す時に手伝ってくれたムキムキ男も兄貴なんだよね?」


「あれは弟だ。父が外につくった子で、俺よりふたつ年下だ。そういう諸々を合わせると、俺を入れて兄弟は8人だな。死んだ奴も含めれば10人か」


ルイシュとエンリケはアマリアを間に挟んで穏やかに会話しているが、彼らの瞳は周囲を注意深く観察し、最大限の警戒をしていた。その緊張がひしひしと伝わり、アマリアは男たちのおしゃべりを聞きながら、履き慣れない靴に包まれた両足を黙々と動かしている。


「えええ、10人? かったる~」


「そういう家系なんだ。いとこは父方だけで40人以上、甥や姪は20人以上いる。毎年増えるから数えるのは諦めた」


「ハプスブルク家かよ」


エンリケが辟易したような顔で言った時、背後から太鼓や笛の音が聞こえた。アマリアが振り返ると、この町の守護聖人である聖スアデラの像を載せた神輿みこしがゆっくりと近づいてくるのが群衆の向こうに見えた。


「アマリア、あれね、普段は北の丘の教会に祀られてるんだよ」


教えてくれたのはエンリケだった。


「この通りを海辺までのしのし練り歩いて、船に乗せて湾内をぐるっと一周して、陸に戻ったら大聖堂へ向かうんだ。聖スアデラの像を大聖堂の祭壇に収めたら祈りの儀式が始まるのさ」


3人は神輿のために道を開け、それが通り過ぎるのを立ち止まって待った。神輿の前後には地元住民らしき女たちが整然と連なっている。彼女たちは色とりどりの伝統的な衣装をまとい、黄金の装飾品で着飾った姿でゆっくりと歩いてくる。


やがてパレードは3人の目の前を通り過ぎた。沿道の人々は神輿を担ぐ男たちの足元へ素朴な野花を次々と投げ、自らも行列の最後尾に加わった。アマリアは物珍しさを覚えつつそれを漫然と眺めていたが、神輿のすぐ後ろを歩いていた若い娘がエンリケに向かって微笑み、意味深に片目を閉じたのを見逃さなかった。


「エンリケさんのお知り合いですか?」


アマリアが尋ねると、エンリケは女の子に手を振りながら愛想よく答えた。


「かわいいでしょ、よく行くお店の子。僕、1年の半分くらいはこの町に住んでるんだ」


元盗賊の現在の身分はコインブラ大学の考古学博士のはずだ。アマリアが疑問を口にするより早く、エンリケはにやりと笑って答えを教えてくれた。


「アマリア、この町の地下にはね、古代ローマの都市が埋まってるんだよ。僕はその調査をしてるのさ」


うっとりと夢見るような顔でエンリケは言った。アマリアは自分の足元の石畳を見た。


「遺跡の上に町があるってことですか? こんな大きな町が?」


コンポステーラの人口は国内ではポルトの次に多く、大きな帆船が停泊可能な港湾が整備され、拝星教徒との戦いに明け暮れた時代に補強を重ねた市壁は堅牢だ。聖地でありながら商業都市や城塞都市としての顔を持つ、この町の地下に遺跡が眠っているなんて不思議だ。アマリアがそう告げると、エンリケは得意げに説明した。


「滅びた都市の上に別の文明の都市が築かれることは珍しくはないよ。ただ、ここは聖地だからね。どこを掘るにも教皇庁の許可が必要で、なかなか思い通りに調査できないんだ。まだまだ謎がいっぱいだよ」


パレードがすっかり通り過ぎると、3人はその最後尾を歩き出した。エンリケが古代ローマの魅力を熱く語り始め、アマリアは適当に相槌を打ちつつ、隣を歩くルイシュを見上げた。茶色の瞳は周囲への警戒を怠らず、絶えず辺りを見回している。


この3年間、ルイシュとは週に一度、彼が香薬屋を訪れる10分間しか共にしてこなかった。こんなに長く一緒に過ごしたことはなかった。愛を拒絶され、秘密を共有してもらえず、アマリアの胸の中は黒い感情に支配されていたが、彼のすぐ近くでその顔を見つめていると雲間から陽光が差し込むように心がわずかに明るくなった。


こんなに頑固で、こんなに勝手な人が愛しいなんて、私はなんて愚かなんだろう。アマリアが己に失望した時、風に混じる潮の香りがにわかに濃くなった。いつのまにか道は緩やかな下り坂になっていて、前方に港と青い大海原が見えた。


大西洋を見るのは数日ぶりだ。カモメが滑空し、帆を畳んだ無数の商船や漁船が寄港している様子を見て、アマリアは急に故郷が恋しくなった。


「あれが王家の夏の離宮だ」


ルイシュが指で示した方角を見ると、黄色っぽい石で建てられた宮殿が見えた。それは海辺の断崖絶壁に立ち、深い緑に囲まれている。


3人はパレードの列を離れ、離宮へ向かう曲がりくねった坂道を上り始めた。坂の途中には仰々しい青銅製の門があり、王宮護衛隊の騎馬兵と歩兵の姿があった。彼らは国土保安開発省大臣の顔を見るとすぐに門を開け、アマリアからは短剣を、ルイシュから短銃を、エンリケからは剣と短剣を預かった。


「おまえにとって王女殿下は腹違いの妹ということにはなるが、殿下は次期女王で、おまえは一介の香薬師だ。自分の立場をわきまえて、くれぐれも失礼のないよう気をつけろ」


離宮の車寄せへ向かいながら、ルイシュは厳しい口調で釘を刺した。


「はい」


アマリアは従順に頷き、固唾を飲んだ。王女はアマリアをフランシスカから救うために手を尽くしてくれた。それを知っていながらアマリアは彼女から逃げ、アルガルヴェ公爵位の継承を拒んだ。


「私、王女様にお叱りを受けるでしょうか」


「殿下はお優しい方だが、普通に考えてお怒りにはなるだろう。当然の報いだ、諦めろ」


ルイシュの無情な回答にアマリアは震えあがった。


「まあ、そんなに心配するな。王女殿下には、先に俺が事情を説明しに行く。なるべく殿下を宥めてからおまえを呼ぶつもりだ。できる限りのフォローもする」


そう言ってアマリアを励ましておきながら、ルイシュは不安そうだった。エンリケの減らず口も固く閉ざされている。アマリアは絞首台へ連行される死刑囚の気持ちが少し理解できた気がした。


王家の夏の離宮はポルトの王宮と比べると小ぢんまりとしていて優美だった。羽根を広げた鳥のように左右対称の宮殿は中央部分だけが二階建てで、両翼は一階建てだ。涼しげな植物に囲まれ、建物の脇には海岸へ下りるための長い階段がある。王族が夏を満喫するための私邸という印象だ。


王宮護衛隊の兵士に連れられ、一行は控えの間に通された。明るい陽光の差し込む小部屋で待たされること10分。3人は窓辺に置かれた籐の長椅子に並んで腰かけ、じっと押し黙っていたが、やがて短気な男が立ち上がった。


「様子を見てくる」


「コスタ大臣、こういう時は大人しく待とうよ」


両開きの扉へ向かおうとするルイシュを俊敏な動きで阻んだのはエンリケだった。


「そのあたりの兵士に少し話を聞いてくるだけだ」


ルイシュは立ちはだかったエンリケを押し退けようとしたが、元盗賊は軽い身のこなしでそれを避け、ルイシュの腕をとってくるりと方向転換させた。


「それがダメなんだって。ほら、座ってくださいよ」


エンリケはルイシュの背中を押し、アマリアの隣へ元通りに座らせる。コインブラ大学の考古学博士が「まったく、もう」と小さく息をついた時、ドアをノックする音がした。


「コスタ大臣、お待たせしました。王女殿下がお呼びです」


開いたドアの向こうから現れ、爽やかな笑顔で言ったのは、さわやかの双子の弟だった。彼もアマリアの店の常連だ。


3人が長椅子から立ち上がると、さわやかの弟はアマリアを見つめ、容姿端麗な兄に瓜二つな顔をほころばせた。


「うわあ、アマリアちゃん、見違えた。どちらのご令嬢かと思ったよ。とっても綺麗だよ」


明朗快活に褒められ、アマリアは嬉しく思いながら赤面した。普段は化粧などせず、着古した薬草の汁まみれのドレスで仕事をしている。客に着飾った姿を見られるのは気恥ずかしかった。


「そ、そんなことないです。取り繕ってる感が丸出しというか、付け焼き刃感がひどいというか、何というか……」


しどろもどろに言葉を返すアマリアに、さわやかの弟は目を細めた。


「ふふ、照れちゃって、かわいいね。あ、大臣、どうぞ、こちらへ」


ルイシュの殺気立った視線に気がつき、さわやかの弟は王宮伯を案内した。彼らは御影石のエントランスホールを横切り、離宮の奥へ向かう。アマリアとエンリケはそれを見送り、再び控えの間の長椅子に戻ろうと踵を返した。その時だった。


「アマリア!」


なぜか、ルイシュが足早にこちらへ戻ってきた。怒ったような表情で迫る後見人を見て、アマリアは「私、何かしたっけ?」と我が身を顧みた。心当たりはない。


ルイシュはアマリアの前で足を止め、恥ずかしそうに目を泳がせて言った。


「王宮護衛隊の連中は息をするように女を口説くから真に受けるな」


「え?」


説教を食らうだろうと身構えていたアマリアは、一瞬、何のことか分からなかった。


「俺も今日のおまえはいいと思う。だが、俺は普段のおまえの方がいいと思う」


ルイシュはきっぱりと言い捨て、さわやかの弟が待つ御影石のエントランスホールへ去っていった。アマリアはルイシュの言葉を反芻はんすうしながら、呆然と立ち尽くしていた。


「アマリア、今の、どういうことだと思う?!」


エンリケが黄色い声で問う。


「僕には、大臣が君に何かをほのめかしたように見えたんだけど!」


にやにやと嬉しそうに笑うエンリケにアマリアも微笑もうとした。だが、うまく笑えなかった。


「ルイシュさん、昨夜から、ああいう思わせぶりなことを私におっしゃるんです。私とは結婚できない、私を妾にはしない、他の男と結婚して子供を産めって拒絶しながら、ああいう言葉を」


アマリアは控えの間に戻り、長椅子へどさりと腰を下ろした。


「たぶん、彼なりの罪滅ぼしみたいなもので、深い意味はないと思います。私を慰めてくださっているんだと思います」


そんな気遣いしないでほしい。かえって、心をかき乱される。胸が痛い。窓ガラスの向こうを飛び交うカモメを眺め、アマリアは嘆息をついた。


「そうかなあ? 君を袖にしたものの、実際は未練タラタラってことなんじゃないかと僕は思うけど。モテない男がたまにモテるとさ、こういうことが起こるんだよ」


エンリケは納得いかないような顔でアマリアの隣に座る。アマリアは首から提げた銀のペンダントをドレスの上から撫でた。母の遺髪の収められたそれに触れると、不思議と気持ちが落ち着いた。


「私がいつまでも落ち込んでるから、ルイシュさんは気を遣ってくださってるんだと思います。私、もっと、ちゃんと、しっかりしなきゃダメですね」


アマリアは己に活を入れるべく、両手で自分の頬を叩いた。


アルガルヴェ公爵位を継承しないと決めたのはアマリアだ。生涯、香薬師として働きたい。香薬の種を増産し、誰もが気軽に香薬屋を利用できる日常を取り戻したい。アマリアはその望みとルイシュを天秤にかけ、彼を選ばなかったのだ。自分で選択した境遇を嘆いてめそめそと泣き、ルイシュに心配をかけるなんて恥ずべきことだ。


「私、ルイシュさんにフラれた時、この世の終わりだと思ったんです。でも、それ、大間違いですよね。私はこれから自分が選んだ人生を生きていくんだから、これは始まりなんですよね」


確信に満ちた言葉を口にしながら、アマリアは自分の生い立ちを振り返った。物心ついた時から孤児院にいた。ルイシュの勧めで香薬学を学び始めた。亡きコンスタンサの店を与えられ仕事を始めた。彼女の常連客がアマリアにもよくしてくれた。アマリアが努力してきたことは確かなことであり、香薬師は天職だとは思うが、どれも自分で選び取ったものではなかった。


「私が、初めて私のものさしで選んだ人生なんだから、ちゃんと頑張ります。まずは、無事にポルトに帰って、早く仕事に戻りたいです」


孤児院長がアマリアの患者を診てくれているというが、セルジオももう60歳だ。こき使っては申し訳ない。


「そのためにも、王女様のお叱りをきちんと受けて、王女様にお力添えをお願いしなくちゃ。王女様に頑張っていただければ、ルイシュさんの最後の一手とやらも不発に終わりますし」


アマリアは立ち上がって両の拳を握りしめた。エンリケは突然に決意表明を始めたアマリアに驚いていたが、やがて顔をゆがめて切なげに笑った。


「……顔パンパンになるまで泣いてたくせに、急に立ち直っちゃってさ。たくましいねえ」


彼の瞳に映っているのはアマリアだったが、心に浮かんでいるのは、きっと別の人だ。アマリアはそう思った。エンリケは12年前にその人にかけたかったであろう言葉を柔らかな声でつむいだ。


「でも、まあ、ゆっくりでいいんだよ。強がって無理して立ち直ろうとしても、いいことはないからね。めそめそする時は、とことん、めそめそしようよ」


エンリケはアマリアの頭のてっぺんをポンと撫でる。アマリアは彼に「ありがとうございます」と感謝を伝え、少し迷ってから言葉を続けた。


「かつてのオリオンにも、こんな風に寄り添って励ましてくれる誰かがいたんじゃないでしょうか」


嫌な顔をされるかなと思いつつ、アマリアはエンリケの顔色をうかがう。彼は思いのほか穏やかな表情で目を伏せた。


「そうであってほしいね」


さわやかの弟が再び現れたのは、それから10分後だった。アマリアとエンリケは彼の先導で御影石のエントランスホールを抜け、分厚い絨毯の敷き詰められたいくつかの部屋を通過し、黄金で装飾された両開きの扉の前へ連れて行かれた。アマリアの心臓は早鐘を打ちまくっていた。


「アマリアちゃん、そんなに緊張しなくても、王女殿下はお優しい方だから大丈夫だよ。コスタ大臣もおられるし、ね?」


爽やかな笑顔でアマリアを勇気づけてから、さわやかの弟は扉の向こうへ「エストレーラ嬢をお連れしました」と告げた。内側から扉がわずかに開き、アマリアだけが中へ通され、たちまち背後で扉が閉ざされる。


室内は目が眩むほど明るかった。入口正面は一面が透明度の高いガラス張りで、明るい陽光が差し込んでいた。その窓を背にして王女は長椅子に座っていた。花模様の刺繍がほどこされた布張りの長椅子は見るからに座り心地がよさそうだった。


「もっと感動するかと思った」


朗々とした声で王女は言った。逆光で表情は読めないが、たっぷりとした布地の灰色のドレスに身を包み、優雅に脚を組んでいるのは分かった。侍女らしき老婆ふたりと王宮護衛隊の兵士3人が彼女のそばに侍り、ルイシュは少し離れたところに直立していた。


「私の母上は私を含めて子供を5人産んだの。そのうちふたりは死産、ふたりは数ヶ月で夭折してしまった。弟や妹がほしいと子供の頃からずっと思っていたし、母上が懐妊されるたびに神々へ安産を祈ったものよ。でも、いざ、血を分けた姉妹と対面しても、これといって思うことはないわね」


王女は白い手袋に包まれた指でアマリアを手招きした。扉の前に立っていたアマリアはルイシュの顔を見ながら何歩か前進し、彼が「そこで止まれ」と視線で命じたところで両足をそろえ、ドレスの裾をつまんでお辞儀をした。


侍女が窓に薄いカーテンを引き、室内の明るさに目が慣れると、アマリアは顔を上げた。未来の君主は激怒しているようには見えなかったが、凛々しくも可憐な顔に不敵な微笑みを浮かべている。


「顔も似ていないし、髪や目の色も私とは違う。父上にもコンスタンサにも似ていない」


アマリアの姿をじっくりと見つめ、王女は思案するように首を傾げる。確かに、痩せた身体を縮み上がらせて立っているアマリアと、ややふっくらとした威厳のある貴婦人は、顔どころか、若い女であること以外の共通点は見当たらない。加えて、王女の髪や目はポルトゥカーレ人らしい暗褐色だ。


「でも誰かに似ているような気がするわ。誰かしら」


応じたのはルイシュだった。


「国王陛下の御母堂のベアトリス様では」


「それだわ、その金髪と緑の瞳、祖母と同じね。顔立ちも肖像画で見た若い頃の彼女とそっくり」


「ええ、マガリャンイス伯爵夫人がアマリアを国王陛下のお子だと推測なさったのは、そのためかと」


「なるほどね。アマリア、祖母の肖像画はね、あなたと初めて会った、あのホールに飾られているのよ」


王女はいくらか親しみのこもった声でアマリアに言った。そういえば、何の因果か、王女と初めて会ったのは歴代王族の肖像画が飾られたホールだった。5日前の舞踏会の夜のことだ。


「その節は失礼いたしました」


アマリアは謝罪の言葉を述べつつ頭を下げた。王女は微笑んだ。


「あなたが私の愛猫を蹴飛ばしたこと、怒ってないわよ」


声が怒っている。


「申し訳ございません」


さらに頭を下げるアマリアを王女は涼やかな声で笑い、ルイシュに「殿下、あまりお時間はありませんよ」と促されて本題に入った。


「この後、大聖堂へ行かなければならないから、手短に言うわね。あなたの要望はルイシュから聞いたわ。アルガルヴェ公爵位の継承を辞退するなんて、どうかしているとしか思えないけれど、母上はお喜びになると思う。父上も安堵なさるでしょう。母上から承諾を得られないまま、父上はこの書状を用意なさったの」


王女は丸めた紙を手に持っていた。国王がアマリアのために用意してくれた書状だ。彼女は赤い封蝋を割って書状を広げ、両手でふたつに切り裂いた。香薬屋をやめて女公爵になり、ルイシュと結婚するという未来が目の前で破り捨てられた。


「あなたも母上の恨みを買わずに済んでよかったと思うわ。私の母上は怖い人なのよ。怒らせたら父上でさえ手をつけられないの」


王女は脅すような声色で言った。


「エウゼビオの両親は彼が10歳の時に亡くなったでしょう。密会の帰りに事故で亡くなったとされているけれど、母上が手を回していたという噂があるのよ。もちろん確たる証拠はない。でも当時、母上に怪しい動きがあったという複数の情報があるのよ。ルイシュ、あなたがアマリアの存在をずっと隠してきた一番の理由はそれでしょう?」


「はい。その噂を聞いて、コンスタンサとアマリアの身に危険が及ぶことは避けるべきだと」


アマリアは驚き、困惑し、何も言えなかった。エウゼビオはこのことを知っていながらフランシスカと行動を共にしているのだろうか。


「正直なところ、私はコンスタンサが亡くなった時も母上を疑ったわ。コンスタンサが王宮香薬師になった時、父上と彼女の仲を疑うような噂が立ったの。噂を流したのは彼女の出世を妬んだ香薬師たちよ。母上はそれを真に受けてコンスタンサを目の敵にし始め、“トライアングロ”が流行ると、それはさらにエスカレートしたわ。私はコンスタンサが大好きだったから彼女を必死でかばったけれど、母上は聞く耳を持たなかった」


王女の話を聞きながら、アマリアは王妃の恐ろしさに今さらながらぞっとしていた。王宮の“星見の塔”に軟禁された夜、エウゼビオは王妃やフランシスカについて「従わなければ彼らは命だけを残して、おまえから何もかも奪う。あの人たちなら、きっと、躊躇もなくそういうことをする」と言っていた。あの時はそれがどういう意味なのか分かっていなかった。


「コンスタンサは正真正銘の病死だ。医師の検死に俺も立ち会った。間違いない」


青ざめるアマリアにルイシュが言い添えた。王女も冷静に念を押す。


「そうよ。それは間違いないわ」


王女は小さく咳払いし、長椅子に座り直した。


「話を戻しましょう。あなたが公爵位を継承しないのは一向に構わないし、私たちとしては好都合。とはいっても、父上の娘をそこらへ放っておくわけにはいかないのよ。それに、あなたには、ひとりでも多くの子供を産んでもらわなければならない。香薬の種を生成する力を未来へ残すためにね。だから、然るべき結婚相手をこちらで選ぶわ。もちろん、私もいずれ子供を産むつもりではあるけれど」


王女の話はルイシュから事前に聞かされていたとおりだったので、アマリアは口を閉ざしたまま、承知を示すお辞儀をした。腹違いの妹は姉に向かって満足げに頷いた。


「私はこれから大聖堂に行って、祈りの儀式の前にレネ叔父様にお会いする。レネ叔父様に、フランシスカ叔母様との交渉の橋渡しをお願いしようと思うの。フランシスカ叔母様はレネ叔父様に甘いのよ」


そういえば、レネが遺跡で怪我をしたと聞いて、フランシスカはひどく心配していた。あの傲岸不遜な伯爵夫人にも弱みがあるんだなとアマリアは思った。


「どうぞよろしくお願いします」


アマリアが深々とお辞儀して請い願うと、立板に水を流すように話していた王女の口がやや重くなった。


「ルイシュからも聞いているでしょうけれど。交渉が決裂する可能性は低くはないと思うの。万が一の時はサルースの杯を持って、潔くジュネーヴへ行ってちょうだい」


王女は躊躇することなく、異母姉妹を見捨てる言葉を口にした。アマリアはルイシュの顔をちらりと盗み見た。彼は異論を唱えず、唇を引き結んでいる。“最後の一手”について、彼は本当に王女へ明かすつもりがないらしい。


「私の母上と同じで、フランシスカ叔母様も怖い人よ。何より、女教皇猊下のお怒りに触れるようなリスクは犯せない。教皇庁との関係が悪くなれば、白銀の夜明け団へ人質に捕られているエウゼビオにも危険が及ぶかもしれない。それはあなたも避けたいでしょう?」


アマリアが「はい」と頷くと、王女は苦々しい微笑みを顔に浮かべた。両目の奥で静やかな怒りが燃えていた。


「そんなにがっかりした顔をしないでちょうだい。私はすでに最良の手を打ったのよ。でも、あなたは拒否した」


「申し訳ございません」


次期君主の憤怒の感情を真正面から浴び、アマリアはただ、頭を垂れた。言い訳のしようがなかった。


「あなたは私の大好きなコンスタンサの娘だもの、多少の無礼は赦す。できる限りのことはしてあげる。でもね、すべて思い通りになるなんて甘いことは考えないで。もう行くわ。レネ叔父様をお待たせしてしまう」


王女は話し終えるや否や立ち上がり、護衛の兵士や侍女を引き連れて扉へ向かう。兵士のひとりが扉を開けると、室外にはエンリケとさわやかの弟の姿があった。王女は深々とお辞儀する彼らの前を足早に通り過ぎた。


燃え尽きた薬草のように意気消沈しているアマリアの瞳に、こちらへ歩み寄るルイシュの姿が映った。彼はアマリアの顔をのぞき込み、子供へ言い聞かせるように命じた。


「俺も殿下と一緒に大聖堂へ行ってくる。おまえはこの離宮で待て。外は危険だから絶対に出るな」


アマリアはルイシュの茶色の瞳を真っ直ぐに見上げた。彼の命令が切実なものであることはよく分かった。だが、アマリアは返事をしなかった。遠くから、王女がルイシュを呼ぶ声が聞こえた。


「ジュネーヴには絶対に行かせない。おまえひとりを犠牲にするなんてこと、俺はもう二度としたくない。だから、ここで大人しくしていてくれ。頼むから、今回は俺の言うことを聞いてくれ」


ルイシュは懇願したが、アマリアは頑なに承知しなかった。恩知らずで無礼なことだと自覚していたが、ただ、じっと後見人の瞳を見上げ続けていた。


アマリアは自分が正しいと確信していた。ルイシュもきっとそうだ。己の正義に酔ったふたりは、もしかしたら大事な判断を誤ろうとしているのかもしれない。数日前、ポルト市内を走る馬車でルイシュと交わした会話を思い出し、アマリアの胸に小さな不安がよぎった。


ルイシュは困り果てたようにため息をつき、踵を返し、王女の元へと去っていった。

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