28.生殺与奪

大通りから脇道へ入ると、人通りはまばらになった。巡礼者向けの宿や商店が並ぶその道にはゆるやかな勾配があり、アマリアとルイシュは馬を引いてゆっくりと歩いた。坂道の先の丘の上には庭の広い邸宅が並び、ルイシュの祖父の屋敷もその中にあった。石造りの3階建てで、ポルト市内のマガリャンイス伯爵邸と同じくらい立派な屋敷だ。


ふたりは潮風によって錆びついた鉄門扉をくぐり、オリーブの木の並ぶ前庭を横切った。両開きの玄関ドアについたホタテ貝の形のノッカーを鳴らすと、ドアはすぐに開いた。出てきたのは黒いドレスを着た上品な白髪の老婆だった。


「ルイシュ坊ちゃん! しばらくぶりにいらしたと思ったら、まあ、なんて汚いお姿で、どうなさったんです?」


老婆は目を丸くし、大喜びでルイシュの手を取った。ルイシュは見たことがないほど愛想よく笑った。


「話すと長い。これから王女殿下にお目通りする。風呂と着替えを用意してくれないか? 彼女の分も頼む。香薬師のアマリア・ディアス・エストレーラ嬢だ」


ルイシュがアマリアを紹介すると老婆は興味深げに目を輝かせた。


「あら、可愛らしい方をお連れですね」


「まあな。アマリア、彼女は俺の乳母だ」


老婆はドレスの裾をつまみ、「ようこそ」とアマリアに礼をした。アマリアもぎこちなく礼を返した。ルイシュが乳母とともにどこかへ行ってしまうと、アマリアは若い女の使用人たちに連れられて屋敷の奥へ連行された。


女たちはアマリアを客用寝室と思しき部屋へ通し、「こちらでお待ちください」と窓辺の椅子を勧め、アマリアが腰を下ろした瞬間にテーブルへ紅茶と菓子を供した。訪問を予告していたわけではないのに、速い。


アマリアが驚いている間にも、女たちはスペイン語で会話しながら、テキパキと風呂の支度を始めている。この辺りはスペイン語の話者が多い。コンポステーラという町の名もスペイン語で星の丘という意味だ。ポルトゥカーレ語に近い言語なので、言っていることは何となく分かる。


くるくると忙しなく働く使用人たちによって寝室の中央に銅製のバスタブが運び込まれ、それがあっという間に温水で満たされていくのをアマリアは口を開けて見ていた。いったい何人の使用人が、何往復したのだろう。


別の使用人たちはどこからかドレスの山を抱えてきてベッドに並べていた。そのうちのひとりがアマリアを振り返り、ポルトゥカーレ語で尋ねた。


「こちらのお嬢様がご結婚前にお召しになっていたドレスです。お好みのものはありますか?」


ここはルイシュの母方の祖父の屋敷だ。さっきの老婆は彼の乳母だというから、継母ではなく実母の実家だろう。ルイシュの母親のドレスを前にし、アマリアは頭を抱えた。色も形も素材も様々で、どれが王女に会うのにふさわしいドレスなのか全く分からなかった。困っていると、ルイシュの乳母が現れた。


「お嬢様、迷っておいでなら私が選びますよ。あなたたち、何をしているんです、早くお嬢様を湯に入れて差し上げなさい」


アマリアはドレス選びを乳母に任せた。老婆はざっとドレスを眺め、すぐにこれと決めた。靴や装飾品も2秒で決まった。


使用人の女たちは「もたもたしてると怒られるわ」「急ぎましょ」と視線で会話しつつ、アマリアの服をあっという間に脱がした。オレンジ色に光る銅製のバスタブに入れられ、熱い湯の中に身を沈められながら、アマリアはルイシュの短気は乳母の影響なのではないかと思った。


初対面の女たちに髪や身体を洗われるのは抵抗感があったが、アマリアはされるがままだった。爪を整えられ、全身に香油を塗りたくられ、化粧を施され、髪を後頭部でまとめられ、コルセットを締められた頃にはぐったりしていた。アルガルヴェ公爵位の継承から逃げてきたのは正解だった。アマリアに貴族の生活など送れない。


「素敵ですよ。よくお似合いです」


手際よく客人にドレスを着せながら、ルイシュの乳母は顔をしわくちゃにして微笑む。ドレスは首元や手首までを覆う上品な形で、明るい青色の布地に緑色の細かい刺繡が施されていた。どれほどの価値があるものか分からず、アマリアは「汚さないように気をつけよう」という感想しか持てなかった。


「ところで、お嬢様。うちの坊ちゃんが何を企んでおいでか、ご存じですか?」


アマリアに靴を履かせながら、乳母は険しい表情でアマリアを見上げた。


「あのお顔は何か悪いことを企んでいますよ」


「え」


驚きの声を上げながら、アマリアは「やっぱり、そうか」とも思っていた。昨夜から、ルイシュは何かを心に決めたような顔をしているのだ。オリオンやエンリケが彼に向ける疑念についても答えが分からないままだ。乳母は肩をすくめて大きく息をついた。


「子供時代に突然、ポルトへ家出した時も、まさに、ああいうお顔をしていました。たったひとりで考えて、誰にも打ち明けずにさっさと決めてしまうんです。困った方ですよ。ブラジルへ赴任した時も驚かされました。あちらのお祖父様に呼ばれたとはいえ、兄上にも相談せず大学を辞めて、国土保安開発省に入ることを決めてしまったんですよ。あの時は兄上からずいぶんと叱られていました。伯父上や従兄弟殿やご兄弟に対してきちんと根回しをしろ、と」


若かりし頃にルイシュがサルバドールへ赴任したのは、父方の祖父がブラジル総督をしていたからだとエウゼビオから聞いたことがあった。その祖父は伯爵位を持つ人で、息子と男孫が合わせて40人以上いたのだが、彼がブラジルに呼びつけたのはルイシュだけだったという。


40人超の男たちが「まさか伯爵は爵位をルイシュに譲るつもりなのではないか」とざわつき、あわや後継者争い勃発という事態となり、伯爵がルイシュを選んだ理由を慌てて明かし、「若くて、そこそこ体力があって、孫の中で一番神経が太そうで、死んでもそんなに惜しくないから」という伯爵の言に誰もが納得して一件が落着したらしい。ルイシュ派のアマリアとしては、伯爵の事前の配慮こそ足りなかったのではないかと憤りを感じるエピソードだ。


「兄上やコンスタンサ様からご指導を受けて少しはマシになったご様子ですけど、次はどんなことをなさるのかと、この婆はいつも、ひやひやしています。お心当たりがおありでしたら、どうか、あの方をおいさめくださいませ」


乳母に懇願され、アマリアは困惑した。エンリケが危惧していたように、アマリアのために自分の身を投げ出すようなことをルイシュが企んでいるのだとしたら阻止しなければならない。だが、どうやって彼を止められるだろう。彼はいったい何をしようとしているのだろう。


「あの、コスタ大臣はどちらに?」


寝不足の頭では何も思いつかず、アマリアは直接、本人を問い詰めようと思った。乳母は老人らしからぬ俊敏な動きで立ち上がり、寝室のドアを開けた。


「こちらですよ。お嬢様のお美しい姿に驚かれるでしょう」


いくつかの部屋を通り抜け、案内されたのは屋敷内の奥まった場所にある一室だった。老婆がドアをノックすると、ルイシュの声が応じた。


客用寝室らしき室内にいたのはルイシュだけだった。シャツのボタンを留めているところで、髪も整えていなければ髭も剃っていない。身支度途中の彼から視線をはずしつつ、アマリアは「いいもの見た」と密かに感激した。


「坊ちゃん、女性より支度が遅いなんてどういうことです?」


そう言いながら遠慮なく入室する乳母にルイシュは嬉しそうに笑った。


「そこら中で老人たちに呼び止められたせいだ」


「うちは古参の使用人が多いですからね。で、どうです、坊ちゃん、お嬢様の仕上がりは?」


乳母が誇らしげにアマリアを振り返る。部屋の入口に立っていたアマリアへルイシュも目を向けた。


「暗くてよく見えない。入ってこい」


ルイシュに命じられ、アマリアは言われたとおりにした。12時間前に愛を拒絶された男に美しいと思われたいだなんて私はどうかしている、そう思いながら。


ルイシュはアマリアの姿を真顔でじっと見つめ、それから目をそらした。


「……上出来なんじゃないか」


「まあ、それだけですか? いいお歳になられたのに女性を褒める言葉をご存じないなんて嘆かわしいことですねえ」


乳母は子爵家の四男に苦言を呈し「お茶くらいは召し上がっておいでくださいませね。すぐ支度しますから」と言って風のように退室した。


残されたふたりの間に気まずい沈黙が漂う。ルイシュは鏡台に歩み寄り、水差しから洗面器に温水を注ぎながら、適当に窓の方を指した。


「待たせてすまない。よく分からないが庭に何かの花が咲いてる。疲れてなければ、見てくるといい」


そう言ってルイシュは剃刀かみそりを手に取り、鏡台の前に座った。遠回しに退室を求められ、アマリアは素直に従いそうになったが、彼とふたりで話す機会を逃すまいとその場に踏みとどまった。


「それ、私にやらせていただけませんか?」


昨日の朝、野営地でコエントランがルイシュの身支度を手伝っているのを目にして、アマリアは心底から羨ましく思っていた。コエントランがその道具をアマリアに託してくれた時は「明朝は私がお手伝いできる」と心が躍ったものだ。今はまったくそんな気分ではないけれど。


「男の髭を剃ったことがあるのか?」


ルイシュは驚いたような顔で鏡越しにアマリアへ尋ねた。


「いえ。でも、昨日の朝、コエントランがやっているのを見てました」


ルイシュは一度、目を伏せてから「じゃあ、頼む」と低い声で言った。彼は緊張した面持ちで椅子に座り直し、湯気の立ち上る濡れ布巾を自分の顔に当てる。アマリアは鏡台の上に広げられた道具の中からマヨルカ焼きの小皿とブラシを取り、水差しに入っていた温水を使って石鹼を泡立てた。


温かい泡がたっぷりできあがると、アマリアはそれをブラシでルイシュの顏にのせていく。彼の茶色の瞳がアマリアの顔や手を絶えず見ていた。


「あの、目を閉じていただけますか」


たまらず申し出ると、ルイシュは黙って応じた。アマリアは指の腹で彼の肌をそっと押さえた。初めて触れた。思いのほか柔らかい。温かい。血が通っている。生きている。


胸をときめかせながら、アマリアは剃刀を滑らせ、柔らかくなった髭を少しずつ丁寧に剃り落とした。頬に銃弾がかすめた小さな傷痕があり、その周辺は特に注意深く処理した。


ポルトに帰ることができたら、アマリアはルイシュ以外の男と結婚する。ルイシュはアマリアの後見人ではなくなり、アマリアの店へ頻繁には足を運んでくれなくなるかもしれない。それでも、ルイシュへの想いはきっと永遠に胸の中に留まり続けるだろう。慎重に手を動かしながら、アマリアはそう思った。


「昨夜は悪かった」


目を閉じたままルイシュはにわかに謝った。


「いえ、謝っていただくようなことは何も。私こそ、取り乱してすみませんでした。少し上を向いていただけますか」


アマリアは作業に集中するよう努めた。緊張のあまり手に力を込め過ぎて国土保安開発省大臣の顔に傷を作ってしまったら大変なことになる。ルイシュは顎を上げ、小さく息をついた。アマリアの目の前に彼の喉がさらされた。


その時、アマリアは不思議な高揚感を覚えた。今、アマリアはルイシュに信用されている。ルイシュの生殺与奪の権を握っている。この剃刀をこの喉に突き刺せば、彼の命を奪うことができる。


エンリケは信じることは思考停止だ、全責任を相手に押しつける行為だと忌むべきことのように言っていたが、そうとは限らないとアマリアは改めて思った。己の手の中にルイシュの命を預かることは、何にも代え難い尊いことだと思えた。


「ルイシュさん、答えていただきたいことがあります」


アマリアはルイシュの顎に当てていた剃刀を持ち上げ、それを別の場所へ当てた。はっとしたようにルイシュが目を見開く。


「おい、アマリア……」


「一昨日、私にくださった香薬の種はどこで手に入れたものですか? あの大きさからして、香薬師協会が香薬屋に卸しているものじゃありませんよね? 答えてくださらないなら、私、スパッとやりますから」


ルイシュは瞳だけ動かし、腹立たしげにアマリアを睨め上げた。 


「正気か?」


「正気です」


剃刀はルイシュの右の眉に当てられていた。


「私にはルイシュさんを傷つけることは絶っ対にできませんけど、ルイシュさんの眉毛を剃り落とすことはできます」


たとえ眉がなくなってもルイシュはこの世で一番素敵だと確信しているからだ。アマリアが本気だと悟り、ルイシュはやや鼻白む様子を見せた。


「お、俺は武芸の心得はないが、おまえひとりを捻り上げるくらいのことは造作ないぞ」


「ルイシュさんが私を捻り上げたとしても、きっと片方の眉は確実に失います。みっともなくて外を歩けませんし、もちろん王女様にも恥ずかしくてお会いできないと思います」


聖スアデラの加護があったのか、アマリアの強気な口上にルイシュは言い返さなかった。彼は諦めたように目を閉じた。


「おまえはどう思ってる? 俺があれをどこでどう手に入れたか、何か考えがあるんだろう?」


ルイシュは淡々と尋ね、アマリアは口ごもった。自分の立てた仮説がもし真実だったらと思うと怖いのだ。エンリケは「小さな違和感を疑え。些細な糸口からでも考えろ」と言っていた。この糸口から、きっと何か見つかるはずだ。アマリアは己を奮い立たせた。


「アルメイダ会長に襲われた時、ルイシュさんが短銃を使わなかったと聞きました。それに、ルイシュさんは会長に大きな貸しがあるんですよね? だから、もしかしたら、ルイシュさんはもともと会長が密輸犯だとご存じで、それで会長を脅して密輸用の種を分けてもらっ……」


アマリアが自論を述べている途中で、ルイシュは声を立てて笑い始めていた。しかも苦しそうに腹を押さえて。


「あっはっはっ! おまえ、そんなこと考えてたのか!」


「私、おもしろいこと言ってないです。本当に本気で真剣です」


「すまん。だが、まあ、おまえの取り越し苦労だ。俺があのジジイと結託するなんてことは絶対にない」


大笑いしながら、ルイシュはアマリアの手首をつかみ、あっという間に剃刀を奪った。


「まったく、本当にとんでもないことをするな、おまえは。後見人の顔が見てみたい」


ルイシュはしつこく笑いながら鏡台の鏡を覗き込み、形のいい両眉の無事を確かめ、アマリアが剃り残した髭を自分でさっと処理した。


大笑いされた上、ルイシュの眉を奪えなかったアマリアは胸の中で不満を燻ぶらせてルイシュを睨んだ。


「でも、ルイシュさん、何か悪いこと企んでますよね?」


ルイシュは濡れ布巾で顔全体をぬぐい、掌に薄く伸ばした香油を肌へのせながら苦笑した。


「急にどうした?」


「乳母殿が、今のルイシュさんは子供の頃に家出した時と同じお顔をされていると心配なさってました」


「なるほど、家出か」


「それに、エンリケさんが、ルイシュさんは私を守るためにご自身を犠牲にされるんじゃないかって言ってました。オリオンもルイシュさんには不可解な点が多いって……」


「人に言われたことばかりだな。おまえ自身はどう思う?」


鏡台の鏡に映るルイシュはもう笑っていなかった。探るような目でアマリアを見つめている。


「私はルイシュさんを信じてます。でも、ルイシュさんに何もかも丸投げして、すべてを任せきりにしたくないです。何か考えてらっしゃるなら、おひとりで抱え込まずに私に教えてください。何かなさるつもりなら、そのリスクの半分を私にも持たせてください」


初めて会った日、アマリアはルイシュが何か隠していることに気がついた。だが、己の出自に関わる真実を知ることを恐れ、彼を問い詰めたことはなかった。アマリアはそれを深く悔やんでいる。


「私だって、ルイシュさんには誰よりも平穏に暮らしてほしいです」


アマリアの説得を聞きながら、ルイシュは黙々と手を動かし、艶やかな褐色の髪を黒いリボンでまとめていた。これだけ言っても、だめか。アマリアの胸に絶望感が押し寄せた時、ルイシュがにわかにこちらを振り返った。険しい表情をしていた。


「心配かけたことは謝るが、悪事を企んではいない。最後の一手として考えていることがあるだけだ」


「最後の一手、ですか?」


何の話をしているのか、まったく分からない。アマリアの声から不満を読み取ったのか、ルイシュは身支度に使った道具を木箱へ収めつつ言葉を続けた。


「俺はおまえをジュネーヴに行かせる気はない。だが、現状、マガリャンイス伯爵夫人におまえを諦めさせる決定的な方法はない」


「え、だって、それは、香薬の種をジュネーヴへ輸出できれば……」


「確かに、種の輸出が可能になれば、女教皇猊下によりよい治療を受けていただくことはできるだろう。しかし、サルースの杯とおまえの両方を持ち帰れば巨万の富を得られることを彼らは知っているんだ。金の卵を産む鶏を簡単に諦めてくれるとは思えない」


アマリアは女教皇の治療に関する問題が解決すれば、フランシスカはアマリアを諦めてくれるだろうと甘く考えていた。もしかしたらポルトに帰れないかもしれない。青天の霹靂だった。


「これから王女殿下にお願いをして、マガリャンイス伯爵夫人を何とか説得していただく。殿下はコンスタンサを慕っておられたから、その娘のおまえには協力してくださるはずだ」


「ルイシュさんが考えているのは、それが上手くいかなかった場合に打つ手、ということですか」


「そうだ。この話は王女殿下にもしていない。知っているのはおまえだけだ。お、もうこんな時間か、そろそろ行くぞ」


ルイシュは鏡台の前から離れ、ベッドの上に放り出してあったウェストコートと上着を手早く羽織る。アマリアは一瞬、「ルイシュさんと私だけの秘密かあ」と後見人の掌の上で踊らされかけたが、慌てて気持ちを引き締め、ルイシュに尋ねた。


「それって、具体的にはどんな作戦なんですか?」


襟元にクラヴァットを巻きつけつつ、ルイシュは目を泳がせた。


「これは可能な限り打ちたくない手だ。この手を打てば俺は王女殿下に嫌われる。というか、こんなことを考えていると知られたら、その時点で殿下から死ぬほど叱られると思う。それは嫌だ。だから、おまえにも言わない」


子供っぽい口調で断言するルイシュにアマリアは思わず脱力した。ルイシュが何をしようとしているのか、ますます分からなくなった。


「王女様には黙っててさしあげますから、教えてください」


「嫌だ。おまえ、それを知ったら俺を強請ゆするだろ」


「そんなことしません」


話が堂々巡りになりかけた時、広い庭に面した窓を外からノックする音が聞こえた。訪ねてきたのはエンリケだった。どこで調達したのか、清潔な服に着替え、小綺麗に身なりを整えていた。


「教皇庁の公使館だ。町の北のはずれ」


ルイシュが窓を開けるなり、エンリケはぶっきらぼうにそう言った。フランシスカやアルメイダの居場所だろう。


「約束は守ってよ、大臣」


「わかってる。ご苦労だったな」


ルイシュがエンリケを労うと、元盗賊は鋭い視線を庭へ向けた。


「この屋敷の周りに僧兵が5人いた。とりあえず、全員お眠りいただいたよ」


「そうか、跡をつけられていたか」


ルイシュは驚くこともなく平然と応じた。エンリケは窓枠を身軽に飛び越えて入室する。


「僕たちが王女様のところへ馳せ参じることも奴らには十中八九はバレてる。どこかで待ち伏せされてると思うよ。交通規制のない裏道を馬車でぶっ飛ばすか、人通りの多い表通りを徒歩で行くか、どうする?」


「表通りを歩こう。教皇庁の僧兵が白昼堂々、人目のある場所で娘をさらうようなことはしないだろう」


即決したルイシュにエンリケは頷いた。


「賛成。彼らが最も恐れているのは醜聞だろうからね。万が一、襲われるようなことがあれば、僕が何とかするよ」


話し合いを終えると男たちは肩を並べて寝室を出ていった。玄関ホールへ向かう途中、ルイシュは乳母に捕獲された。髪を結ったリボンが曲がっているととがめられ、乳母の手で解かれてしまったのだ。


「で、どう? 大臣から何か聞き出せた?」


ルイシュと乳母のやり取りを遠巻きに眺めつつ、エンリケがアマリアの耳元で問う。アマリアが首尾を報告すると、元盗賊は思いきり顔をしかめて呆れ、懐から短剣を取り出して、その刃を己の喉元に当てた。


「次に機会があれば、こうするんだね。大臣がこの世で一番大事なのは君だ。君を人質にすれば、彼は今朝出たうんこの大きさから国家機密まで、何だって洗いざらい話すと思うよ」


「まさか」


アマリアは首を傾げて笑った。ルイシュから大切にされていることは理解しているつもりだが、エンリケの認識は大袈裟に感じた。


「もしそうだとしても、私、そこまでルイシュさんを追い詰めたくないです」


「あっそ。まあ、いざとなったら王女様に“コスタ大臣は何か企んでますよ”って相談すれば解決するかもしれないね。あの人、王女様には徹底的に弱いみたいだから」


意地の悪い笑みを顔に浮かべ、エンリケは短剣を懐へ収めた。ルイシュが王女を子供の頃から可愛がっていることは周知の事実でアマリアも知っている。これまで王女を妬ましいと思ったことはない。それなのに、アマリアの胸には濃い霧のようなわだかまりが生じていた。王女が自分の異母姉妹だと知ってしまったからだろうか。


「ルイシュさん、王女様には嫌われたくないみたいなので、それもちょっと……」


言いよどむアマリアに、エンリケは目を吊り上げた。


「あのさ、アマリア、君はもっと大臣に怒るべきだよ。君の命や人生がかかってるこの状況で、あの人は最後の切り札を君に内緒にしてるんだ。大臣の企みを阻止しようってなら、使えるものは自分の命でも王女様でも、何だって使うべきだ」


過激な思想でアマリアを焚きつけ、エンリケは鼻息荒く腕組みした。アマリアの目的はルイシュをやり込めることではない。だが、必要に迫られれば姑息な手段を取らなければならないのかもしれない。アマリアはため息をつき、暗い気分で渋々と首肯した。


「わかりました。いざという時には王女様に言いつけます。でも、ルイシュさんはうんこをしませんのでお間違いなく」


「アマリア、悪いこと言わないから、目ぇ覚ましな……?」


エンリケが憐みのこもった瞳でアマリアを見た時、ルイシュがこちらへ歩いてきた。


「待たせて悪かった、行こう。――馬と荷物は後で誰かに取りに来させる。慌ただしくて、すまないな」


ルイシュは乳母に言い捨てつつ、使用人が開けたドアをくぐり足早に前庭を通り抜ける。乳母はそれを小走りで追いかけ、ルイシュの肘についていた糸くずを回収した。


「いいえ、久しぶりに坊ちゃんにお会いできて嬉しゅうございましたわ。お祖父様は大聖堂におられます。お時間があれば、お顔を見せてあげてください」


「わかった。もう歳なんだから、無理するなよ」


錆びついた鉄門扉をくぐり、ルイシュは大聖堂のある広場へ向かって坂道を下りていく。それは今生の別れの挨拶には聞こえなかったが、乳母は両目を涙で潤ませ、アマリアをじっと見つめた。


「お嬢様、ルイシュ様をよろしくお願いします」


乳母は深々とお辞儀をした。アマリアとエンリケは自信なげな顔を見合わせ、彼女に頷くしかなかった。

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