27.聖スアデラの祝祭

翌朝、アマリアは夜明け前に寝台を抜け出した。暗闇の中で多くの巡礼者が出発の準備を整えて次々と大部屋を出ていったが、アマリアの仲間たちはまだ寝台に横たわっていた。


アマリアは手ぶらで回廊に出て、階段を上り、屋上へ向かった。誰にも会いたくなかったのだ。


昨夜、アマリアはルイシュの腕の中で30分近く泣き続けた。意外なことにルイシュは文句も言わず、短気も起こさず、黙ってアマリアを抱きしめ続けていた。彼の体温を感じ、鼓動を感じ、息遣いを感じ、アマリアは幸福を錯覚しそうだった。


いったんは気持ちが落ち着いて泣き止み、顔を洗い、寝支度をして、アマリアは寝台へ横になった。だが、隣の寝台でアマリアに背を向けて眠るルイシュを眺めているうちに再び涙があふれてきた。愛を拒絶された事実を噛みしめて泣きながら、彼の紡いだすべての言葉を反芻はんすうし、その裏に真意がないか、別の受け取り方があるのではないかと一縷いちるの望みを未練がましく探した。


「残念だが縁がなかったな」「おまえの気持ちに応えられればいいとも思う」「お前は俺の宝だ。何よりも大切なんだ」「いつもおまえのことを気にかけていた」「おまえの店に行くのは俺の一番の楽しみだった」「アマリアを妻にできたら、俺の人生はちょっと面白いことになっていただろうな」


彼の思わせぶりな言葉の中に何か希望があるはずだとアマリアは目を凝らした。だが、それらはただ思わせぶりなだけで、彼が翻意する兆しとは思えなかった。ルイシュはもう決めてしまったのだ。一度決めてしまったら、彼はぐだぐだと検討を重ねたりはしない。そういう人だ。アマリアは朝まで声を殺して泣き続け、顔に押し当てていたハンカチは絞れば水滴がしたたり落ちそうなほど涙を吸った。


日の出前の屋上には冷たい風が吹いていた。白み始めた東の空には黒雲が浮かんでいる。夜中に雨が降ったのだろう、屋上には水たまりができていた。そのひとつをのぞき込み、水面に映った自分の顔を見てため息をつく。


もともと美人ではないが、それにしても酷い顔だった。両目と小鼻が赤く腫れ上がっていて、見れたものじゃない。ルイシュに会うなんて死んでも無理だし、王女にももう少しマシな状態でお目通りしたい。外見に負けず劣らず精神もボロボロで、寝不足の頭はずしりと重たい。


これは本当に私なのだろうか。まるで、一夜にして別人になってしまったみたいだ。水たまりの中の情けない自分を睨むと、あちらも不服そうな顔をした。


アマリアはスカートの下の革製のポケットから商売道具を引っ張り出し、滋養強壮効果のある薬草を振り香炉につめた。木炭片に点火しようとすると、着火具の火薬が切れていた。ポケットを探って火薬を取り出し、防水防湿に優れた蝋引ろうびきの包み紙をはがして、それを着火具に補充する。


「これ、どこで手に入れたんだろ」


香薬を焚き、白い煙を吸い込みつつ、アマリアはルイシュにもらった香薬の種を眺めた。革袋に入った数十個の種はいずれも粒が大きい。おそらく、生成されてから3日も経っていないだろう。


ルイシュに聞きたいことはまだ山ほどある。だが、昨夜あんなことがあったので、しばらくはまともに話せる自信はない。妾にしてくれと泣きつき、無残にフラれ、みっともなく泣きじゃくり、ルイシュの服を涙と鼻水で汚したことを思い出し、アマリアは死にたくなった。


もう、いっそジュネーヴへ大人しく連行されるのもありかもしれない。自暴自棄になりかけた時、中庭から話し声が聞こえた。


「大臣閣下、君さ、昨夜、あの子にどんな酷いことを言ったわけ? 寝台の中で、朝までずっと声を殺して泣いてたぞ。おかげで寝不足だよ」


アマリアはそっと中庭を見下ろした。緑色の紫陽花が咲き乱れる池の周りにルイシュとエンリケが立っていた。


「知ってる。俺もずっと起きていた」


ルイシュは長い褐色の髪を手櫛で整え、黒いリボンでまとめながら答えた。元気のない声だった。一晩中、泣いていたことを彼らに知られていたと分かり、申し訳なさと恥ずかしさでアマリアの胸はちくちくと痛んだ。


「酷なことを言ったかもしれないが、すべての望みが叶うわけではないことを予め伝えておいてやりたかった。あいつが王女殿下の前で取り乱すようなことがあってはまずいだろ」


「あの子の望み? 香薬屋を続けたい、子供を産まなきゃならないなら相手は君がいい、とかでしょ。どちらも両立しそうな望みだと僕は思うけどね」


投げやりに言って、エンリケは手に持っていた茶色のガラス瓶から何か飲んだ。くしゃりと顔をしかめたので、随分きつい酒のようだった。その瞳がちらりと屋上へ向いた。一瞬のことだったが、目が合った気がする。


「参考までに聞くけど、君、そもそも、あの子のこと好きなわけ?」


エンリケの質問に、アマリアの心臓は飛び跳ねた。アマリアが盗み聞きしていると知っていながらルイシュにそんな質問をするなんて。寝不足の原因であるアマリアへの報復だろうか。


「俺は、色恋沙汰とは無縁だと思って生きてきた」


ルイシュは淡々と言って、エンリケに手を差し出す。その手に酒瓶を渡し、エンリケは舌打ちした。


「答えになってない」


「おまえに答える義理はない」


「じゃあ、僕の睡眠時間を返せ!」


エンリケが無理難題を言うと、ルイシュは苛立たしげに酒瓶をあおった。


「昔、俺がまだ20歳そこそこの頃、ある場所でオッサンと若い娘の不倫現場に出会でくわしたことがある。どちらも既婚の知人だ。不貞行為を許せなかったのはもちろんだが、彼らの年齢が30歳も離れていることを許し難いと思った。そのオッサンが、その若い娘から何かを一方的に搾取しているような、そういう嫌な感じがした」


ルイシュは年齢差のある恋人同士や夫婦を良く思っていない。継母への片想いが終わってなお、いまだにそれを嫌悪しているのは、その出来事が原因だったのだ。どこの誰か分からぬ男女を、アマリアは呪ってやろうと思った。


「へー。ピュアだねー」


エンリケは馬鹿にしたように鼻で笑った。


「そのオッサンと同類になりたくないから、アマリアを好きになれないってこと? あほくさ~」


ルイシュはむっとした顔でエンリケへ酒瓶を返した。


「俺はあいつの後見人で、あいつの母親の友人だ。俺がそういう目であいつを見ていたら、気色悪いと思わないか?」


「さあね、べつに構わないんじゃない? あ、おい、もしかして全部、飲んだ? ちょっとぉ」


空の酒瓶を逆さまにして、エンリケは悲嘆の声を漏らす。悪びれた様子のないルイシュをじろりと睨み、元盗賊は唇を尖らせて言った。


「あのさ、ちょっと考えてみなよ。親でも兄弟でも友達でも隣人でも同僚でもいいけど、その中に、絵に描いたような麗しい夫婦や恋人同士がどれだけいる? 美しくて清廉な恋なんて、物語の中にしかないよ。僕らの生きる現実にあるのは、痛々しくて気色が悪い恋ばかりだと僕は思うね」


もしかして、エンリケはアマリアに加勢してくれているのではないか。こそこそと盗み聞きを続けながら、アマリアは嬉しくなった。昨日の朝、彼に蛇を投げられたことは赦そう。ルイシュの決心が簡単に変わるとは思えないけれど。


「それに、オッサンと結ばれた若い女が何かを搾取されているだなんて、君の錯覚だ。そもそも、彼女たちの持つ若さなんて放っておいても刻一刻と目減りする、その程度のものなんだよ。そんなものに遠慮したり気後れするなんて、馬鹿馬鹿しいと思わないか」


エンリケは大あくびとともに自論を述べ、「アマリアを探してくる」と言い捨てて中庭を去った。ひとり取り残されたルイシュは池を泳ぐ水鳥に向かって何か言ったが、アマリアには聞き取れなかった。


「こんなところで、何やってんの。さっさと出かける支度して」


屋上に現れたエンリケは小声で言って、それから「うわっ」と息を飲んだ。アマリアの顔の酷さに恐れおののいたのだ。その後ろからオリオンもやってきて、同じような反応を示した。目が合った人間を石にする怪物になった気分だ。エンリケに加勢の御礼を言いたかったのだが、そのタイミングも逸した。


「アマリア、来て。何とかしましょう」


オリオンは意を決したように言ってアマリアへ駆け寄り、その腕をつかんだ。階段を下り、連れて行かれたのは巡礼宿の厨房裏の井戸だった。オリオンはそこで働く女たちに木桶を借り、それを冷たい井戸水で満たし、アマリアの顔を容赦なく沈めた。


「失恋したんですって」「かわいそうに」と囁く厨房で働く女たちの声を聞きながら、アマリアは水中で息を止め続けた。息苦しかったが、オリオンに頭をがっちりと押さえつけられていて身動きできない。「これじゃ髪が濡れちゃうじゃん」とエンリケがアマリアの髪を持ち上げてくれていた。自分の情けなさに嫌気がさして、アマリアは水中でまた泣いた。


「冷やすのもいいが、温めることも必要だ」と言い出した老婆によってアマリアは命拾いし、厨房に連れ込まれて顔に温かい布をかけられたり、苦いお茶を飲まされた。そして老婆に顔のマッサージを受けている時にアマリアは思い出した。コンスタンサから受け継いだレシピ本に、“泣き明かした翌朝の顔の浮腫みを取る香薬”というレシピがあった。


記憶を頼りにそれを焚いてみると、優しくて爽やかな香りが室内に広がった。腫れあがっていた顔が嘘のように元通りになったのは、まもなくだった。ささくれ立って血だらけになっていた心の表面がしっとりと潤ったような気さえした。「こんなレシピいつ使うんだろう」と疑いの眼差しを向けていたことを心から反省した。


「ポルトに来ることがあれば、コンスタンサ通りのアマリアの香薬屋へお立ち寄りくださいね~」


エンリケは香薬の効き目に驚嘆する女たちに店を宣伝し、オリオンはアマリアの背中を押して厨房を出た。朝陽が昇り、辺りは明るくなっていた。


ルイシュはまだ中庭にいて、宿の主人らしき男と何か話し込んでいた。彼はアマリアの姿に気がつくと、申し訳なさそうな顔をした。アマリアの胸はこれ以上ないほどずきずきと痛んだ。この痛みは必ず癒える、ただ時が過ぎゆくのを静かに待てばいい、ルイシュはそう言った。それは、今この瞬間に感じている痛みに耐えられればの話だ。


「行こうよ」


エンリケが促し、オリオンが先頭を切って厩舎に向かう。厩舎では宿の使用人が馬の支度をしてくれていた。宿の主人がルイシュに気を遣ってくれたらしかった。


馬にまたがり宿場町を出発すると、巡礼路には人があふれていた。ゆっくりと進む馬の背で、アマリアは様々なことを、とりとめもなく考えていた。ルイシュのこと。これから会う王女のこと。聖地に着いたら別れるオリオンのこと。女教皇のこと。王妃やフランシスカのこと。自分の未来。エウゼビオはどうしているだろう。


泣き明かした翌朝の頭で考えられることなど大した内容ではなく、ぼんやりと馬に揺られている間に、コンポステーラに到着した。大理石の堅牢な市壁に囲まれた聖地は朝陽を浴びて輝いていて、大した信仰心のないアマリアの目にも眩しく感じられた。


祝祭の関係で市内には交通規制がしかれていた。僧兵から市門の前で下馬を求められ、一行は馬を引いて市内へ入った。昨夜宿泊した宿場町もそうだったが、コンポステーラには欧州中の敬虔な信徒やその用心棒が行き交い、様々な言語が飛び交っていた。


「アマリア、私はここで別れるわ」


人々でごった返す大通りを進み、中央広場と巨大な大聖堂が見えた辺りで、オリオンはそう言ってアマリアに馬の手綱を託した。


「うまくいくことを祈っているけれど、最悪の事態が起こってジュネーヴへ来ることになったら、必ず私があなたの面倒を見るわ。だから安心して」


名残り惜しそうに微笑み、オリオンはアマリアの肩をそっと撫でた。


「うん、ここまで一緒にいてくれて、ありがとう。そうだ、これ、お返しします」


アマリアはオリオンに感謝を伝え、彼女から借りていた短剣を懐から取り出した。柄と鞘が銀で装飾された短剣だ。オリオンはそれを受け取らず、首を横に振った。


「あげるわ、そのまま持っていて。狙うのは腎臓よ」


美貌の女傭兵は不敵に笑い、身を翻して混雑した通りを駆けて行く。彼女はこれから、レネやフランシスカの滞在先へ向かうのだろう。アマリアのことを彼らにどう説明するつもりなのか分からないが、彼女が懲罰を受けることがなければいいとアマリアは願った。


「ちょっと待ってよ、オリオン、せっかく再会できたってのに、僕には何もなし~?」


走り去るオリオンの背中にエンリケは残念そうに言ったが、彼の瞳は抜け目のない獣のように彼女の姿を追っていた。エンリケはルイシュと視線を交わして頷き合うと、足音を忍ばせてオリオンを追跡した。彼女の向かう先にはアルメイダがいる。ルイシュは香薬師協会会長を捕らえるつもりなのだ。


「行くぞ」


ルイシュは自分の馬とエンリケの馬の手綱を引き、アマリアを先導した。まさか彼とふたりきりになるとは思っていなかったので、アマリアは緊張した。ルイシュも気まずそうな顔をしている。


「王女殿下にお会いする前に、身支度を整えよう。この先に俺の母方の祖父の屋敷がある」


ルイシュの旅装は粉塵にまみれ、血痕までついている。普段、身のまわりのことをコエントランに任せているので、頬や顎の髭が伸び、髪をまとめたリボンも曲がっていた。アマリアの姿も王女を訪ねるのにふさわしいとは言えない。服は乗馬や野宿で汚れているし、靴は泥だらけだった。そもそも、この修道女の服を着て王女に会うのもおかしなことだ。


ルイシュの後ろを歩きながら、アマリアは通りの様子を眺めた。都会で生まれ育ったアマリアにとって町の雑踏は慣れたものだが、これほどの混雑は経験したことがない。自分の足を見失うほどだ。


「食べるか?」


そう言ってルイシュが指を差したのは菓子を売る露店だった。店頭に親指くらいの大きさの白い焼き菓子が並んでいて、道行く人々に飛ぶように売れている。


「あれは“聖スアデラの舌”といって、この祝祭の日に、この町でしか作られない。食べると雄弁になれると言われてる。迷信だけどな」


ルイシュは露店商に金を渡して菓子をふたつ買い、ひとつをアマリアに渡した。楕円形の菓子は名前のとおり舌のような形に見えなくもない。口に入れると、パリパリとした素朴な味の薄皮の中に甘い卵黄クリームがたっぷり入っていた。


「おいしいです。でも、どうして雄弁なんですか」


「この町の守護聖人である聖スアデラは、もともとはローマ神話の女神スアデラが起源だ。ギリシア神話ではペイトと呼ばれる、説得の女神だ。人を口説き落とす名人だったらしい」


説明しながらルイシュは自分の口にも菓子を運ぶ。彼がこういった庶民的なものを食べるとは思っていなかったので、アマリアは彼が菓子を咀嚼して飲み込むまで、その顔をじっと見上げていた。


思えば、彼と一緒にものを食べるのは初めてだった。出会ってからの3年間、アマリアはルイシュとお茶さえ一緒に飲んだことがない。おそらく、ルイシュは世間からアマリアを隠すために他の元孤児と同じように扱ってきたのだとは思う。それでも、改めて、彼の存在を地の果てよりも遠く感じた。


「ちょうど30年前の話なんだがな」


アマリアの心の内など知らぬルイシュは懐かしそうな顔で昔語りを始めた。


「これを食べながら一緒に釣りをした少年がいた。少し年上の、背の高い少年で、何だか淋しそうな顔をして海岸でひとり、釣り糸を垂れていた」


露店の前から離れ、目的地に向かって歩きながらルイシュは続けた。


「その時、俺は兄や乳母たちと海岸を歩いていた。乳母は悪戯好きの次兄と三兄に手を焼いていて俺のことを見ていなかった。俺はその少年に声をかけ、秘密の釣り場に連れて行った。そして彼が持っていた“聖スアデラの舌”を食べながら日が暮れるまで釣りをして、また明日も釣りをしようと約束して別れた」


そこまで話して、ルイシュは恥ずかしそうな表情になった。


「次の日、心配した一番上の兄が釣り場についてきて分かったんだ。その少年は国王陛下だった」


アマリアは噴き出して笑ってしまった。


「気がつかなかったんですか?」


国王と子爵家の四男が幼馴染だと聞いてずっと不思議に思っていたが、そんなことがあったとは。きっと“トライアングロ”の作者も知らないだろう。


「気がつくか。俺は7歳で、陛下は9歳だ。俺はポルトにさえ行ったことがなかった。だが、後から考えたら、その少年には従者が5人くらいいたんだ。王宮護衛隊の兵士だったんだと思う」


楽しい思い出だったのだろう、ルイシュの顔には微笑みが浮かんだ。


「陛下は夏の間、海辺の離宮へ滞在されていて、俺は祖父の屋敷にいた。夏が終わるまで、陛下と毎日一緒に釣りをした。飽きもせず、毎日な。真っ黒に日焼けした陛下がポルトにお帰りになる日、陛下は俺にいつかポルトの王宮へ遊びにこいと言ってくださった。その4年後、父に連れらて王宮へ行った時、陛下は俺のことを覚えておいでだった。ずっと待っていたのに来るのが遅いと叱られた」


11歳のルイシュと13歳の王子殿下の再会を想像し、アマリアも微笑んだ。国王のことは肖像画でしか知らないが、彼がルイシュを気に入り、彼の訪問を心待ちにしていたと思うと親近感がわいた。


「謁見を終えて城下町の宿へ向かい、宿の前で馬車を降りた時、俺はひどい高熱で倒れた。たちの悪い妙な風邪を引いたんだ。たまたま通りかかった香薬師が治療をしてくれたが、風邪はなかなか治らなくて、俺はポルトに2週間も滞在した。一時は生死をさまよったというから、命の恩人だ。それがセルジオ先生だ」


「セルジオ先生って、あのセルジオ先生ですか」


アマリアは仰天した。ルイシュが12歳で家出した時にどうして孤児院長を頼ったのか、“トライアングロ”では描かれていなかった。彼らの出会いは偶然だったのだ。


「そうだ。セルジオ先生と先生の夫人に看病してもらった。その時はまだコンスタンサは先生に弟子入りしていなかった」


「私、セルジオ先生に奥さんがいらしたなんて知りませんでした」


「おまえが小さい頃に亡くなったからな。おまえが産まれた時、産婆の次におまえを抱いたのは彼女だったとコンスタンサから聞いた」


「私が産まれた時、ルイシュさんはその場にいらっしゃらなかったんですか」


「父がもう長くないと知らされて、俺は帰省していた。だから、俺は3年前までおまえとはまったく会ったことがなかった」


いつの間にか気まずい空気は薄れ、アマリアは普段通りに彼と会話していた。思い出話でこの場を和ませてくれたルイシュの気遣いに感謝しつつ、それでも胸の奥がきしむのを感じた。これは見せかけの歓談だ。


人混みの中を歩きながら、ふと、アマリアは考えた。何も知らなかった頃の、ルイシュを父親かもしれないと思っていた自分に戻れるとしたら、そうしたいか否か。答えはすぐには出せそうになかった。

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