23.友達みたいに

アマリアが目を覚ましたのは、まだ辺りが暗い時間だった。半分ほど屋根の崩れ落ちた拝星教の寺院には青白い星明りが差していた。隣ではオリオンが眠っている。


辺りは静かだった。耳に届くのは木々が風に揺れる音、フクロウの鳴き声、寝床の落ち葉の中で虫がうごめく音、数日前まで他人だった仲間の息遣い。アマリアはポルト生まれ、ポルト育ちの都会っ子だ。こんなところで、よく眠れたものだと自分自身を褒めたかった。それだけ疲れていたということか。


剣を抱えて眠る美女を起こさないように細心の注意を払い、アマリアはそっと寝床を出た。対角の壁際にはエンリケとコエントランが寝ていた。


昨日は10時間近く馬に揺られていたので、身体を動かすと全身の筋肉や関節に激痛が走った。よろよろと歩いてコエントランに近づき、彼の額に触れる。解熱している。傷が順調に癒えつつあるということだ。


アマリアは安堵し、幾何学模様のタイルを踏みしめて建物の外に出た。ルイシュとさわやかが焚火を囲んで見張りをしている。昨晩、小川でくんだ水で顔を洗い、手ぐしで髪を整え、修道女の服についた落ち葉を手で入念に払い、アマリアは彼らへ歩み寄った。


ルイシュはアマリアの姿にすぐに気がついた。目が合うと、彼は気まずそうに顔を背けた。まただ。昨夜も彼は様子がおかしかった。


「私、交代します。おふたりとも休んでください」


アマリアが申し出ると、さわやかが爽やかに微笑んだ。


「私たちも少し眠ったよ。気を遣わなくて大丈夫だから、アマリアちゃんはまだ寝てな」


「でも、何だか目が冴えちゃって。外で寝るなんて初めてだからでしょうか」


ぐうと鳴った腹をさすりながら、アマリアは焚火の周囲に転がされた倒木に腰を下ろす。オリオンが採ってきてくれた野生の葡萄を寝る前に食べたのだが、寝ている間に消化してしまった。空腹感を紛らわせるべく革袋から水を飲んでいると、思い詰めたような顔でルイシュが立ち上がった。


「アマリア、話がある。ちょっと来い」


アマリアの心臓は飛び跳ねた。さわやかが憐憫の眼差しでアマリアを見た。ルイシュを怒らせるような、何かまずいことをしただろうか。公爵位を継承せず、王女を無視して逃げてきたことについて彼は何も言わなかったが、本当は怒り心頭なのかもしれない。


震える両手を握りしめ、アマリアはルイシュの背中についていった。彼は手に持ったランタンの明かりで足元を照らし、暗い雑木林へ足を踏み入れる。アマリアは目を凝らし、地面の窪みや木の根を避けて歩いた。夜明けと海辺が近いからか、白く濃い霧が木々の間に漂っていた。


「座れ」


ルイシュが足を止めたのは昨夜オリオンと水浴した小川のほとりだった。彼が指差したのは、腰かけるのに手ごろな大きさの乾いた石だ。アマリアは蛇がいないか周囲に注意を払いつつ、言われた通りに腰を下ろした。ルイシュはその向かいの石に座り、ランタンを苔むした岩の上に置いた。


後見人の顔は怒っているようには見えなかった。普段は首の後ろでリボンでまとめている褐色の長髪が肩や背中に垂れ、顎や頬の髭が少し伸びている。初めて見る彼の姿に、アマリアの心は踊った。これから叱られるかもしれないというのに。


「何から話すべきかな」


ルイシュは独り言のように言って、一度、口を閉ざした。小川の軽やかなせせらぎが闇に響く。


「あの、お説教、ですよね……? 勝手なことばかりして、王女様のご厚意を無下むげにして、ルイシュさんの顔に泥を塗るようなことをして、すみません。でも私、香薬屋をやめたくないし、サルースの杯を使った実験をやってみたいんです」


沈黙に耐え兼ねてアマリアがおずおずと言うと、ルイシュは虚ろな目で小川を眺めた。


「アルガルヴェ公爵位を継がなかったことは、良い方へ転ぶかもしれない。少なくとも、王妃殿下からこれ以上の恨みを買わずには済んだ。王妃殿下はそれをお腹のお子様に継承させるべきだとおっしゃられて、おまえへの継承については承諾なさらなかったから」


アマリアはエウゼビオの言葉を思い出した。王妃はコンスタンサを目の敵にしていた。国王とコンスタンサの間に生まれたアマリアは、王妃にとって憎悪の的だ。エウゼビオはそう言っていた。


「それから、おまえの野望、王女殿下はお気に召して協力してくださるかもしれない。サルースの杯のことも心配はいらない。俺がお前を呼んだのは説教するためじゃない。“すべて話す”という約束を、まだ果たしてなかっただろ?」


4日前、王宮で舞踏会が開かれた晩、ルイシュはアマリアに確かにそう言った。その時のことを思い出し、アマリアは内心で笑った。真実を知らなかった頃のアマリアは、ルイシュを自分の父親かもしれないと恐れていた。


「とは言え、俺がコンスタンサと出会ったのは25年前だ。すべてを話していたら、夜が明けてしまうだろうな」


困り果てた様子で頭をかき、ルイシュは星空を睨んだ。アマリアが生きてきた年月より長い時間を、ルイシュはコンスタンサとともに歩んできた。ルイシュの長兄はふたりの関係を「腹心の友」と呼んでいた。きっと、この上なく濃く、長い歳月だったのだろう。ルイシュはしばし沈黙し、それから真剣な目でアマリアを見た。


「おまえに真実を隠してきたこと、すまなかったと思う」


真正面からルイシュに謝られたことなど、今までなかった。アマリアは居心地が悪く、石の上で身を縮めた。


「おまえに公爵位を継承させるという話は、実はずっと昔からあった。おまえが12歳の頃に国王陛下から、そういうお話をいただいた。コンスタンサやセルジオ先生は初めはそれを喜んでいた。国王陛下の血を引くおまえが日陰の身では不憫だと、そう考えていたんだ。だが、俺が反対した。俺はおまえの顔も知らなかったが、セルジオ先生から手紙で話だけはよく聞いていた。孤児院の庭の木から落ちて骨折するようなお転婆な娘が、女公爵なんかになって、貴族の世界で幸せに生きられるとは思えなかった」


アマリアは孤児院長に宛てたルイシュからの手紙を盗み見たことを思い出した。あの時、アマリアはまさに木から落ちて手の小指を骨折していた。あの頃の話だ。


「それに、国王陛下のご名誉のため、コンスタンサやおまえの安全のために、おまえの存在を世間から隠したかった。陛下とコンスタンサが深い仲になったのは、陛下が王妃殿下とご結婚される直前だった。女教皇猊下の令嬢とのご婚約中に婚外子をつくっていたなどと分かれば、教皇庁との関係にも影響を及ぼしかねない。王妃殿下の怒りがコンスタンサやおまえに向くかもしれない。国王夫妻の信頼関係が揺らぐかもしれない。王女殿下もお心を痛めるだろう。ありとあらゆるリスクが大き過ぎた」


ルイシュは言葉を選びながら、彼にしてはゆっくりとした口調で語った。淡々としていながら、アマリアに理解を求めるような声だった。


「だから俺たちはおまえが市井しせいで平凡な幸福を手にすることを願った。誰よりも平穏に暮らしてほしいと祈っていた。それでずっと、おまえに真実を伏せていた。申し訳なかった」


ルイシュは深々と頭を下げた。アマリアは慌てて立ち上がり、ルイシュの傍らに片膝をついた。


「やめてください」


彼はアマリアの幸せを切実に望んでくれた人だった。彼の選択は君主や友に忠実な者として当然のものだった。それに、ルイシュのおかげでアマリアは天職と巡り合い、世の中への不満を抱えながらも張りのある日々を送っていた。そして今も自分の掲げる理想に向かって動こうとしている。


「ルイシュさんやコンスタンサさんやセルジオ先生が、私のために最良だと思うことを考えてくださったんですよね」


アマリアはルイシュを気遣った。顔を上げた彼は怒ったような目をしていた。その怒りは彼自身に向けられているとすぐに分かった。


「おまえにとって何が最良かは考えた。だが、正直なところ他の事情も多く汲んだ。つまり、結局、最も穏便に事を済ますために、俺はおまえを犠牲にしただけなんだ。おまえが孤児院で淋しい思いをしていたことを俺はセルジオ先生から聞いて知っていた。それなのに、おまえひとりに我慢を強い続けた。それを最良だったと、おまえは思うのか?」


アマリアは答えられなかった。冷たい孤独に耐え忍び、勉学に励んだ過去の自分を誇りに思っているし、香薬師としての人生には満足しているが、もし子供の頃に自分が国王の娘だと知らされていたら、良くも悪くも何もかも違っていただろうと内心で考えずにはいられなかった。


「俺は自分がしたことを最良だったとは言えない。正しいことをしたと思うこともできない。おまえは俺を恨むべきだ」


直截的に言い切り、ルイシュはアマリアを見下ろした。ひどく傷ついたような瞳をしていた。


「俺はおまえが考えているような、いい人間じゃない」


ルイシュはアマリアの父親ではない。母親であるコンスタンサの親友で、父親である国王の忠臣だ。それなのに、彼はどうしてここまで深い責任を感じているのだろうか。アマリアは疑問に思いつつ、11年前に孤児院長の部屋でルイシュからの手紙を盗み見たことを打ち明けた。


「子供の頃、とても淋しかったです。つらい思いも惨めな思いも、たくさん経験しました。セルジオ先生にも話したことがない思い出したくないほど嫌な出来事が2つあります。幸運や奇跡を期待したことは一度もありませんでした。でも、ルイシュさんの手紙を読んで、私の幸せをあんなにも願ってくれている人がいると知って、私は救われたんです」


手紙につづられていたルイシュの文字を思い浮かべるだけで、どんなにつらい時も慰められた。今でもそうだ。この先、何があっても、きっと死ぬまで、そうやって生きていける。


「あなたの存在が、私にどんなに希望や勇気をくれたか、言葉では説明し尽くせません。ルイシュさんはいい人です。感謝しています。何が最良だったのかは私にも分かりません。でも私はあなたの手紙を読んで、自分の人生を諦めないと決めたんです。これからは自分で自分の人生を最良に導きます」


ルイシュは不服そうに顔をしかめ、アマリアを睨んだ。喧嘩に負けた子供のような表情だった。


「……俺を恨めって言ってるのに」


「嫌です」


「似なくていいところばかり親に似るものだな。国王陛下もコンスタンサも、やれと言われるとやらないし、やるなと言われるとやりたがる。そっくりなんだ、おまえは」


ルイシュの忌々しげな発言に、アマリアは笑ってしまった。遠い存在だった両親へ、にわかに親しみを感じた。


「両親やルイシュさんの話、いつか聞かせてください。“トライアングロ”じゃない、本当の話を知りたいです。少しずつで構いませんから」


アマリアが知っているのは芝居の中で描かれた彼らや、町の人々が交わす噂話の中の彼らだけだ。ルイシュしか知らない3人の物語を、いつか聞いてみたいと思った。


「そうだな」


ルイシュは沈んだ表情で上着の内ポケットから何か取り出し、掌にのせた。彼の懐中時計かと思ったが、違った。鎖とふたのついた、厚みのある銀製のペンダントだった。彼の指が蓋をくるりとスライドさせると、中に人間の髪がひとふさ収められていた。


「コンスタンサの遺髪だ。持っていてくれ」


アマリアは差し出されたそれを受け取り、母の遺髪を眺めた。黒っぽい艶やかな髪は、ペンダントの内側を飾る黒いベルベットの布に細いリボンで固定されていた。


「俺はコンスタンサに決しておまえに会いに行くなと言っていた。おまえの存在を世間から隠すためだ。俺たちがあちこちの孤児院や救貧院に寄付をしていたのも、世間の目を欺くためだ。特定の孤児院にだけ目をかけていたら、誰かが何かを勘ぐるかもしれないからな」


熱心に慈善活動をしていた彼らの真意を知って、アマリアは様々なことが腑に落ちた。おそらく、ルイシュが自分の屋敷の使用人として元孤児を引き取っているのも、複数の元孤児の後見人を務めているのも同じ理由だろう。アマリアだけが特別に見えないよう、気を配っていたのだ。


「だが、セルジオ先生に聞いた話では、どうやら、コンスタンサはおまえが小さい頃から頻繁に孤児院へ行って、おまえの姿をこっそり、のぞいていたらしい。おまえが大きくなって、郵便局や市場へお使いに行くようになると、心配で跡をつけたりしていたそうだ」


ルイシュはおかしそうに笑い、目を細めた。香薬師協会本部で見たコンスタンサの肖像画を思い出し、アマリアは不思議な気持ちになった。あの美しい人が、幼いアマリアの後ろをこそこそついて来ていたなんて。


「気がつきませんでした。そんなに近くにいたなら、話しかけてくれたらよかったのに」


「さすがに、それは我慢したんだろうな。俺もこの話は最近知った。あいつ、俺が怒ると思って、死ぬまで黙ってやがったんだ」


アマリアは郵便局や市場へお使いに行く幼い自分自身の姿を思い浮かべた。孤児院の門を出て、細い路地を抜け、並木道を真っ直ぐに進み、急こう配の坂道を下っていく。もしも、あの時、背後を振り返っていたら。木の陰に慌てて身を潜める母の姿が見えたのかも。


「コンスタンサが死んだのは、おまえが香試に合格する少し前だった。おまえが香薬師になって孤児院を出たら、コンスタンサはおまえに会いに行くつもりだった。女の香薬師は少数だから仲良くしようとか、適当な理由をつけてな。母親だと名乗り出ることはできなくても、おまえとお喋りしたり、紅茶を飲んだり、市場に買い物に出かけたり、芝居を観たり、友達みたいに仲良くなりたい、そう言ってた。……何度も言ってた」


顔をくしゃくしゃにして、ルイシュは項垂れた。


「アマリアが香薬師になったら、なんて悠長なことを考えず、もっと早く会わせればよかった。コンスタンサにおまえを、おまえにコンスタンサを、会わせてやりたかった……!」


ルイシュは悔しそうに言って、両手で自分の額を覆った。アマリアは思わず彼の腕に手を添えた。初めて会った日、孤児院の応接室でルイシュがアマリアを抱きしめた時、あの時、彼が何を考えていたのか分かった。この人はこの深い後悔を、ずっと抱えてきたんだろう。


コンスタンサに会ってみたかった。アマリアはルイシュの前でそう口にしたことが何度かある。きっと、その度にルイシュは苦しんでいた。


“この世の誰よりもあなたを愛していると、たとえ死んでも決してそれは変わらないと、自分の声で伝えたかった。”


コンスタンサのレシピの最後のページに記されたメッセージは、ルイシュには見えない薄いピンク色のインクで綴られていた。それはルイシュが思い悩むことのないようにという、コンスタンサの優しさだったのかもしれない。


顔を上げたルイシュの目は赤かった。彼はペンダントを持つアマリアの手に自分の手を重ねた。


「おまえが生まれてから、コンスタンサの胸の中には、どんな時もおまえがいた。これからは、おまえの胸の中にコンスタンサを住まわせてやってほしい。覚えている限りのあいつの話を、これから少しずつ、俺がおまえに伝えるから」


アマリアは「はい」と答え、この世の誰よりも愛していると、いつか友達みたいに仲良くなりたいと、そう思ってくれた母のことを初めて、愛おしいと感じた。

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