22.星夜の再会

アマリアたちは雑木林の中をポルトへ向かって南下した。その方が巡礼路をたどるより距離が短いのだ。エンリケは日が暮れても進むことをやめず、馬が口の端から泡を吹き始めて、ようやく歩みを止めた。時刻は分からなかったが、おそらく深夜に近い。


エンリケが野営地に選んだのは平らな岩の上に立つ朽ちた寺院だった。半分ほど残る天井に星々が描かれた、拝星教徒の寺院だ。エンリケは考古学者らしく感嘆のため息を漏らしながら、その周囲をぐるりと一周した。


「ここが彼らの国だったのは350年以上前だよ。まったく、大した技術だよね」


高度な建築技術を持つ拝星教徒の寺院は扉や窓や天井以外は損傷が少なく、内壁や床に飾られた幾何学模様のタイルは一部が持ち去られてこそいたが鮮やかなまま残っていた。


「雨風をしのげて都合がいいわね。火を起こしましょ」


オリオンは馬を降り、扉のない入口をくぐって寺院の中へ入った。男装の美女が星明かりを浴び、美しいタイルを踏みしめて祭壇へ歩いて行く姿は絵画のようで、アマリアは一瞬、乗馬による全身の痛みを忘れてしまった。ところが、エンリケは目を吊り上げて怒鳴った。


「ちょっと、オリオン、中で焚火する気? こんなに美しいタイルの上で? 絶対ダメ! 焚火は外!」


「……あんた、面倒くさい奴になったわね」


オリオンはボヤき、寺院の外に出た。半日前に剣を交えていたふたりは休戦協定を結んでくれたようで、あれ以来、物騒なことにはなっていない。


「鉄砲玉娘、これで水、くんで来て。向こうから小川のせせらぎが聞こえる」


エンリケはそう言ってアマリアにランタンと革袋を手渡したが、アマリアの耳にはそんな音は聞こえなかった。元盗賊は馬たちの背から荷物を降ろしながら早口で説明した。


「凡人には聞こえないだろうけどね、僕は耳が物凄くいいの。目もいいし、頭もいいし、顔もいい。小川、本当にあるから、ここを真っ直ぐ歩いてってごらん。馬も連れてってね」


アマリアは2頭の馬の手綱を引き、エンリケが指し示した方角へ足を向けた。馬たちは疲労困憊していて全身が白い汗だらけだった。機嫌の悪そうな馬たちにアマリアがびくついていると、「私も一緒に行くわ」とオリオンがついて来てくれた。


夜の雑木林には生き物の気配が満ちている。ランタンで照らす足元を毛足の長いネズミが横切り、頭上ではフクロウが羽ばたく。空の月は三日月より細く、星々の明かりの方が頼もしい。


しばらく歩くと、エンリケの言った通り綺麗な小川があった。人間も馬も数時間ぶりの水分補給だった。のどの渇きを癒し、馬たちの身体を洗ってやると女たちも水浴を始めた。小川の水は冷たかったが、日中にかいた汗が流れ、関節や筋肉の痛みが緩和されて、極上に心地よかった。


「アルメイダが言ってたアザってこれね?」


灰暗い闇の中で、オリオンはアマリアの背中に指で触れた。


「そうそう、子供の頃からあるんです。エウさんが知っていて、アルメイダ会長に話したんでしょうか?」


オリーブ大のアザは背中の中央にあるので、自分では見る機会はほぼない。普段は存在すら忘れている。


「おそらく、そうでしょうね。あいつ、こんなところにあるアザのことを、どうして知ってたのかしら」


「孤児院のスタッフや他の孤児に聞いたのかもしれません」


アマリアとエウゼビオが一緒に孤児院で過ごしたのは約2年間だ。何かあったような気もするが、思い出せない。


「そんなことより、オリオンと博士って過去に何があったんですか?」


空の下で裸になり、解放的な気分になったアマリアはつい好奇心で尋ねてしまった。ずっと気になっていたことだ。すると、小川に裸体を沈め、気持ちよさそうに長い黒髪を洗っていたオリオンの目が泳いだ。表情が険しくなる。


「どう答えるべきか分からないけど……あ、アマリア、そこ、後ろに蛇がいるわよ」


オリオンがアマリアの座っている岸辺の岩を指差す。アマリアは声も上げずにその場から飛び退き、水中でオリオンに抱きついた。


「ちょっと、アマリア、大丈夫よ、毒蛇じゃないわ」


アマリアがオリオンの背後に隠れる間に、彼女は蛇の胴体をつかんで闇の向こうに放り投げた。


「もういないわよ。離れてちょうだい」


「すみません、私、蛇は本当に苦手で……」


毒があろうがなかろうが、蛇は子供の頃から大の苦手で、よく、それでいじめられた。両手に蛇を持って追いかけてくる年長の男の子から逃げ回り、エウゼビオに助けてもらうというのがお決まりのパターンだった。


オリオンから離れ、アマリアは思わず彼女の裸体を見つめてしまった。女らしく官能的で美しいのだが、それでいて要所は男のように筋肉質で、あちこちに大小さまざまな古い傷痕があった。


オリオンはアマリアを押し退け、小川から上がった。アマリアの好奇の視線を避けるためか、立ち入った質問から逃れるためか、こちらに背を向ける。その肩から背中にかけての大部分に火傷の痕があった。彼女は長い黒髪を後頭部でまとめ、服を着た。


「あまり長いこと水に浸かってると、風邪を引くわよ」


服装を整えたオリオンは小川の上流で革袋に水を詰め、馬を連れて寺院の方へ戻ってしまった。アマリアは慌てて修道女の服を着て、洗い髪を適当に撫でつけながら彼女を追いかけた。


エンリケは寺院の脇の草地に石を積み上げてかまどをつくり、焚火に木の枝を投げ込んでいた。オリオンは火の傍で髪をくしでかしている。暗闇の中、オレンジ色の炎に照らされたふたりは、表情の乏しい顔で何か言葉を交わしているようだった。


邪魔をしない方がいいだろうか。アマリアが回れ右をして立ち去ろうとした時だ。


「鉄砲玉娘、そこにいるのバレバレだよ」


エンリケの不機嫌そうな声が飛んできた。オリオンの目もアマリアをとらえている。アマリアはごまかし笑いを顔に浮かべ、焚火の前に転がる倒木に腰を下ろした。エンリケもオリオンも暗い顔をしていた。もしかして、過去のことでモメていたのだろうか。アマリアは気まずい思いで炎を眺め、どちらかが何か言ってくれるのを押し黙って待った。


「今、大変なことが判明したのよ」


口火を切ったのはオリオンだった。


「食料が全然ないの」


深々と息を吐く女傭兵の言葉をエンリケが補った。


「全然って言うと語弊がある。正しくは、食料はこれだけ」


ずいっとエンリケがアマリアに突き出したのは掌サイズのガラス瓶だった。口にしっかりとコルク栓がはまっているが、そこはかとなく臭う。


「博士、それって、もしかして」


アマリアは倒木から腰を浮かせた。


「そうだ、僕が四短のママからもらった、コスタ子爵領名物の発酵タラの塩漬けだ!」


オリオンは立ち上がり、エンリケが積み上げた枯れ枝の一本を手に取ると、アマリアを囲うように地面に円を描いた。


「何か食べられるものを探してくる。アマリア、こいつがこの円の中に入ってきたら刺していいわ。腎臓を狙うのよ」


美貌の女傭兵はアマリアの手に自分の短剣を握らせ、「僕のこと、何だと思ってるんだよ」と不満を漏らすエンリケを無視し、ランタンを持って暗い木々の向こうへ姿を消した。


「こんなことなら、王女様の護衛の荷物から食料をくすねてくるんだったな」


ごろりと落ち葉の上へ横になり、エンリケはぼやいた。首の後ろで編みこんでいた赤茶の髪をほどき、無造作にかきまわす。その姿を見て、アマリアは「美男美女でオリオンとお似合いだな」と思った。


「博士とオリオンって昔、何があったんですか?」


オリオンにうやむやにされてしまった質問を、今度はエンリケに投げかけてみた。彼は眠そうに欠伸しながら答えた。


「簡単に言うと、昔、僕がオリオンを騙した。で、彼女は僕を恨んでる」


「恋人同士だったんですか?」


ふたりの仲がこじれていることは分かっていたが、ついつい、声が弾んでしまった。他人の色恋の話は大好物だ。俗っぽい好奇心を隠しもせず身を乗り出すアマリアに、エンリケは面倒くさそうな顔をした。


「秘密。そういう君は? 四短大臣の情婦?」


「ま、まさか!」


アマリアが顔を赤らめると、エンリケはにやりと笑った。


「ふーん、片想いなんだ? あんな奴のどこがいいわけ?」


「説明しろと言うならしますけど、1時間くらい熱弁をふるってもいいですか?」


「聞けって言うなら聞くけど、途中で寝ちゃってもいい?」


エンリケは嫌悪感むき出しに言って起き上がり、近くのオリーブの大木の天辺にするすると登った。木の下ではつながれた馬が草をんでいる。


「ポルトの港の灯台が見える。悪くないところまで来てるよ」


オリーブの大木から飛び降り、エンリケは猫のように着地すると焚火へ戻ってきた。


「明日は夜明け前に出発する。近くに人里があれば馬に餌を食べさせて、一気にポルトの市門を目指す。そこで四短を待ち伏せる」


計画の通りルイシュへ追いつけそうだと分かり、アマリアはホッと息をついた。その途端、どっと疲労が押し寄せてきた。


「そこに寝床つくったから、寝たかったら使っていいよ」


エンリケが顎で示した方を見ると、寺院の屋根の下の壁際に落ち葉がこんもりと積み上げられ、その上に分厚い布がかけてあった。馬の背中とくらの間に敷く丈夫な布だ。


野営地に着いてからアマリアがしたことといえば、馬に水を飲ませて行水ぎょうずいしたくらいだ。その間、エンリケはかまどをつくり、火を起こし、薪となる枯れ枝を集め、手持ちの食料を確認し、寝床をつくった。


小器用で手際と面倒見のいい元盗賊をまじまじと見やり、アマリアは笑いをこらえた。が、失敗した。いきなり笑い出した女を、エンリケは「何こいつ」という顔で見た。


「博士はルイシュさんに似てます。口ではあれこれ言うのに優しくて、仕事が早い」


エンリケは心の底から不愉快そうに顔をしかめた。


「鉄砲玉娘、君、大恩ある僕に向かって何て侮辱を」


元盗賊は傍に積み上げた枯れ枝の束を両手でつかみ、わざと音を立ててボキボキと折った。


「あの、その、鉄砲玉って何ですか?」


「君のこと。目を離すと、いつ、どこへ飛んでいくか分かんない鉄砲玉だって、四短大臣が言ってたんだ。まったく、そのとおりだったよ。あーあ」


ルイシュがアマリアをそんな風に思っていただなんて、聞いてない。アマリアはエンリケが地面に落とした小枝を拾い、ばつが悪い思いでそれを焚火に投げ込んだ。彼は神妙な顔つきで続けた。


「あのさ、勘違いしないでよ。僕は優しいわけじゃない。僕が生きてきた世界では、ちょっとしたことが命取りになる。僕が何でもかんでも自分でやるのは、他人を信用してないからだ。他人の不手際で死ぬなんて絶対に御免だからね」


寝床づくりと死は関係あるのかなと思ったが、アマリアは彼の話を黙って聞いた。


「僕は誰も信用しない。だから君も僕を信用しないでよ。僕は君のために火を起こし寝床をつくるけど、いざ自分に死の危険が迫ったら、君なんて放り出して一目散に逃げる、そういう奴だよ」


エンリケは小枝を無意味に短く折り、それを少しずつ火に投じた。その瞳は夜のように暗く、彼は過去にそういうことを誰かにしてしまったのではないか、とアマリアは思った。


「だから、僕はあの四短が嫌いなんだよ。あいつが失敗することが前提みたいな考えで行動できるのは、自分自身や周囲の仲間を信用してるからだ。何があっても、自分や仲間の力で立て直すことができる、みんなが自分についてきてくれると信じて疑わないから、あんな無茶苦茶なことできるんだよ。まったく、あんな奴が組織の上に立ってちゃ、部下が気の毒だ」


出会って間もないのに、何という的確な分析だろう。アマリアは感心したが、一応、後見人をフォローすることにした。


「確かに、部下の方々は大変そうですけど、でも、ルイシュさんって何があっても他人のせいにしないんですよ。遺跡の壁を壊した人や、杯を古物商に売り払った人のことも、悪く言ってなかったでしょう?」


ルイシュは省内の人々を振り回してよく泣かせているが、意外と部下からの信頼は厚いと患者から聞いたことがある。それは問題が起きた時のリカバリーが見事で、しかも誰にも責めを負わせないからだとか。


「まあ、そういえば、そうだったかも」


エンリケはもごもごと言って焚火に小枝を投げ込む。アマリアがにんまりとほくそ笑んだ時、その鼻先にエンリケの白い手が伸びてきた。彼は口の動きだけで「黙って」と告げ、周囲の暗闇へ視線を走らせる。音を立てずに立ち上がって腰の剣を抜いた。


「誰かいる。オリオンの足音じゃない。馬が1頭、人が3人。血の匂いだ。怪我をしてる。こっちへ来る」


アマリアには風の音しか聞こえないし、ほのかな発酵タラの匂いしか感じない。元盗賊はアマリアに寺院の中へ隠れるように指示し、自分も建物の中から外をのぞく格好で来訪者を待った。誰かが近づいてくる足音が聞こえてきたのは30秒後だった。


「何だよ、君たちか」


まもなく、エンリケはそう言って寺院の外に出た。アマリアもそれに続いた。エンリケが予測したとおり、1頭の馬と3人の男が焚火の明かりに照らし出されていた。彼らは泥や粉塵ふんじんにまみれ、疲れ切っている様子だったが、いずれもアマリアがよく知った人々だった。


「アマリア、おまえ、どうしてこんなところにいるんだ?」


そう言ったのは目を丸くして驚くルイシュだった。ぐったりとしたコエントランを背負っている。馬の背には王宮護衛隊の制服を着た爽やかな青年が乗っていた。


「ルイシュさん!」


アマリアは歓声を上げ、彼に駆け寄った。彼を追いかけてここまで移動してきたが、まさか、こんなところで会えるとは思ってもみなかった。


「アマリア、おまえ、商売道具や薬草を持ってるか? コエントランが撃たれた。弾丸を抜いて応急処置はしたが、あまりいい状態じゃない」


ルイシュは早口で言いながら焚火の傍にコエントランを寝かせた。青年の服の左腕が血で赤く染まっていた。ルイシュが処置したのだろう、クラバットでしっかりと止血はされている。汗の浮いた額に触れると驚くほど熱かった。傷口が炎症を起こしているのだろう。


「道具も薬草も持ってます。でも香薬の種がなくて。ルイシュさん、サルースの杯をお持ちですよね。私がそれを使えば……」


「これを使え」


ルイシュがアマリアの手に握らせたのは小さな革袋いっぱいに入った香薬の種だった。サルースの杯ちょうど一杯分という量で、大粒の葡萄より一回りも二回りも大きい、生成したての種だった。どこで手に入れたのか問いたかったが、今はそんなことをしている場合ではない。アマリアはそのひとつをコエントランの口に押し込み、香薬を焚き始めた。


「そいつも頼む。捻挫してる」


ルイシュはアマリアの手から振り香炉を受け取り、コエントランの顔の横でそれを振った。アマリアは彼に言われた通り、馬上の青年へ歩み寄る。いつも爽やかな笑顔でアマリアの店にやってくる王宮護衛隊の兵士だ。陸軍省の高官の子息で、双子の弟がいて、アマリアと同じ8月生まれで、犬と猫を飼っていることまで知っているのだが、どうしても名前を覚えられず、アマリアは彼のことを密かに“さわやか”と呼んでいる。誰にも言ったことはない。


「アマリアちゃん、悪いね」


アマリアが手を貸し、さわやかは痛そうに顔をしかめながら馬を下りた。彼の左足首は大きく腫れ上がっていて、これもルイシュの処置なのだろう、関節が動かないよう革ベルトで固定されていた。


アマリアは地面に小さな穴を掘り、そこへ薬草と点火した木炭片を入れて香薬を焚いた。即席の香炉の前にさわやかを座らせると、アマリアはルイシュのそばへ寄って彼の顔をのぞきこんだ。


「ルイシュさんも治療しましょう。額と頬に傷が」


ルイシュは横たわるコエントランの傍で振り香炉を振っていたが、背後から現れたアマリアに驚いてそれを手から落とした。


「お、俺は何ともない」


ルイシュは頬を赤らめ、振り香炉を拾い、アマリアの顔をちらりと見て、すぐに目をそらす。妙によそよそしく、不可解な態度だった。


「何があったんだよ、ボロボロじゃん」


ルイシュたちの馬の面倒を見ていたエンリケが焚火の周りに戻ってきて尋ねた。ルイシュは悔しそうな顔になった。


「アルメイダにサルースの杯を奪われた。あのジジイ、王妃殿下と結託していて、俺が杯を持っていることを知っていた。おそらく、奴は女教皇猊下やマガリャンイス伯爵夫人のところへ行った。俺たちはついさっきまで、奴の雇った傭兵たちに追い回されていた。何とか逃げ切ったが、馬を失い負傷し、このとおり散々だ」


「マジかよ……振り出しに戻ったじゃないか……」


エンリケは頭を抱え、草むらに仰向けに倒れた。ルイシュは疲れ切った顔をアマリアに向けた。


「アマリア、おまえ、王女殿下にお目通りしてないのか? どうしてこんな奴とふたりきりで、こんなところにいる?」


後見人に問われ、アマリアは経緯を説明した。アルガルヴェ公爵位を継承せず逃げたことをルイシュに怒られると思っていたが、彼は黙って最後まで話を聞き、特段の感想を述べなかった。


「わかった。ひとまず、王女殿下にすべて報告する」


アマリアが話し終え、ルイシュがそう言って頷いた頃、コエントランの香炉から煙は途絶えていた。コスタ家の使用人は血色のいい、安らかな顔で熟睡していた。


「サルースの杯はどうすんのさ? マガリャンイス伯爵夫人のところへ行って、また偽物とすり替えるか?」


エンリケは草むらから起き上がって不機嫌そうに尋ね、両手の指を握ったり開いたりした。また腕を振るってやってもいいぞ、という意思表示だろう。ルイシュは力なく首を振った。


「一度やられている以上、向こうは警戒しているはずだ。もう隙は見せてくれない」


「じゃあ、正面から力づくで奪うか?」


元盗賊の瞳が鋭く光る。


「教皇庁と正面切って喧嘩するのは避けたい」


「何だよ、いやに慎重じゃん。どんな時でも思いつきで行動するんだと思ってたよ」


エンリケはせせら笑った。アマリアは革袋に蓄えた小川の水をルイシュに差し出した。


「俺は勝てるかもしれない戦いには臨むが、確実に負けると分かっている戦いには手を出さない」


ルイシュは革袋から水を飲み、手や顔を洗いながら応じた。


「ふーん。じゃあ、サルースの杯、諦めるのか? こんなに頑張った僕があの杯を調査できず、この鉄砲玉娘の野望も叶わず、女教皇に国宝を持って行かれるのを指くわえて見てるわけ? それでいいのか?」


「どうにかする」


「どうにか、って?」


「どうにかは、どうにか、だ。とりあえず、休ませてくれ。もう頭が働かない」


アマリアが寺院の中に寝床があると伝えると、ルイシュはコエントランを抱え上げた。エンリケは「オッサンはスタミナがないねえ」と文句を言いながらそれを手伝い、ふたりはコエントランを寺院へ運び込んだ。アマリアはさわやかに手を貸した。


「あ、そうだ、四短大臣閣下、君、何か食料とか持ってない?」


コエントランを寝床に横たえると、エンリケはテキパキとルイシュたちの荷物を屋内へ運んだ。昼過ぎから深夜まで馬に乗り続けていたとは思えない体力だ。ルイシュはぼんやりとした目で荷物を解き始める。


「非常食は別の馬に積んでいたからほとんど失ったが、俺の荷物にも母が持たせてくれたものが少し入ってる」


アマリアは嫌な予感がした。ルイシュが取り出したのは掌サイズのガラス瓶だった。


「これは我が国の大航海時代を支えた貴重な保存食で、コスタ子爵領名物の……」


「今すぐ、しまえ」


エンリケはきっぱりと命じた。

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