21.渦中の男
ひまわり畑を抜け、ルイシュたちは巡礼路を再び走り始めた。コスタ子爵領からポルトまでは普通は1日半の旅程を組むが、無理をすれば夜までにポルトの市門をくぐれることをルイシュは経験上、知っている。閉門時間に遅れても、市門の警備は国土保安開発省の管轄だ。ルイシュの顔を見れば兵士は通用口を開けざるを得ない。
「あの、大臣」
西の空が赤く染まり始めた頃、コエントランがおずおずと言った。
「アマリアに会ったら、あいつに聞くんですよね、誰と結婚したいのか」
ルイシュはアマリアの結婚についてはこれ以上、考えることはないと思っていた。今や、頭の中は大臣室の机に積み上げられているであろう仕事の山のことでいっぱいだった。
「もちろんだ。相手が分からないんじゃ、縁組みのしようがないからな」
ルイシュが頷くと、コエントランとさわやかは視線を交わし、正義感に満ちあふれる熱い目で頷き合った。いつのまに結託したんだ、こいつら。
「アマリアの答えを聞いたら、大臣はすごく驚かれると思うんです。驚き過ぎて、アマリアを傷つけるような酷いことをおっしゃると思うんです。だから、野暮だと承知していますけど、アマリアのために、先に申し上げておきます」
ごにょごにょと前置きし、コエントランは何度か深呼吸する。短気なルイシュは苛ついた。
「何だ、もったいぶって。俺はどっちでもいい。いずれ分かることだ」
「コスタ大臣です」
ルイシュは聞き間違いだと思った。コエントランは大きな声で言い直した。
「アマリアはずっとコスタ大臣のことを慕ってます。間違いありません。お母上の見立てが当たってるんです」
ルイシュの脳裏に、青い紫陽花の花束に顎を埋めるアマリアの顔が浮かんだ。
——好きな人って言っても、私の片想いです。私、その人に全然、相手にされてませんから。
「あ、大臣!」
ルイシュは頭から落馬した。
「な、な、な、何で俺なんだ!」
石畳に強打した額を手で押さえる。視界が妙に眩しい。全身から汗が噴き出る。
「アマリアの奴、どうかしてるんじゃないのか!」
下馬して駆け寄ってきたコエントランに食ってかかると、青年は「やっぱり」という顔をした。
「大臣、それ、それです。そういうこと、アマリアには言わないでくださいね。大きな声で怒鳴るのもダメです。傷つけます」
コエントランは主人を助け起こそうとしたが、ルイシュは立ち上がれず、巡礼路に座り込んでしまった。ルイシュの馬が軽やかな足取りで道の先へ駆けていくのが見えた。
「だって、男なんて、そこら中にいくらでもいるだろ……あいつの店には顔と家柄のいい若い奴らが頻繁に出入りしてるんだ……それなのに何で俺なんか……俺はアマリアを女だと思ったことは一度もないぞ……」
ぶつぶつと言葉を発するルイシュの額の傷を、コエントランは心配そうにのぞき込む。
「コエントラン、おまえの勘違いじゃないのか? 自慢じゃないが、俺は女に好かれたことは一度もない」
「勘違いじゃありません。それに大臣、娼館ではおモテになるじゃないですか」
「それは俺の金払いがいいからだ」
「血が出てます、じっとしててくださいね」
旅の荷物の中からウイスキーの小瓶を取り出し、コエントランはルイシュの額の傷口を洗った。さわやかがルイシュの馬を連れ戻す間に治療は終わったが、ルイシュは石畳に座り込んだまま、呆然と地平線を見ていた。
こんな時、コンスタンサがいたら、あいつなら、何と言うだろうか。ルイシュは不毛なことを考え始め、すぐにやめた。コンスタンサのことだ、
「……どうして、こう、難題ばかり出てくるんだよ、おまえが死んだ後になって」
亡き友への文句を呟き、ルイシュは立ち上がった。馬の手綱を取り、鞍を両手でつかみ、
「大臣、大丈夫ですか? アマリアのこと、どうなさるおつもりですか?」
コエントランは心配そうな目でルイシュを見上げた。コエントランはアマリアと同じ孤児院にいた。13歳の時に奉公先で問題を起こし、孤児院へ突き返された彼をルイシュが引き取ったのだ。ポルトにあるルイシュの屋敷の使用人のほとんどは、そういった訳ありの元孤児ばかりだ。
「アルガルヴェ女公爵の配偶者になるのは、俺にとってもコスタ家にとっても悪い話じゃない。でも、俺はあいつより14歳も年上だ。それに、友人の娘と結婚するなんて……」
「友人の娘と結婚するなんて、よく聞く話です。年齢差だって普通です」
「それは……」
ルイシュは言いかけ、地面から伝わる振動に気がついて顔を上げた。前方からものものしい一団が近づいてくるのが見えた。古ぼけた屋根付きの馬車が1台と騎兵が1ダース。お互いを認識できる距離に近づいても速度を落とさず、土煙を上げて突進してくる。
「様子がおかしいですね。大臣、こちらへ」
さわやかは緊張した面持ちで騎乗し、ルイシュとコエントランを近くの雑木林の中へ誘導した。茂みの中から様子をうかがっていると、まもなく、謎の一団は猛スピードでやってきた。
騎乗した者たちはチンピラのようだったが、眼光が鋭く面構えに迫力があった。腰にはそれなりの剣や銃を帯びているので、傭兵か何かだろう。
「何だか分かりませんが、逃げましょう」
さわやかに促され、ルイシュたちは馬を走らせた。背後から謎の一団が追ってくる。雑木林の足元は悪い。馬は立ち並ぶ木々を避け、木の根や岩や倒木や小動物の巣穴を避けて走ってくれたが、なかなかスピードは出ない。おまけに、この馬たちは王宮護衛隊の馬なので、荒れた場所を走るのは不慣れだ。
「あいつら、盗賊でしょうか!」
コエントランが肩越しに後ろを振り返った時だ。銃声が何発か響き、彼の騎馬が地面へ横倒しになった。コエントランは前方へ投げ出され、背中から草むらへ叩きつけられる。
「コエントラン!」
ルイシュは手綱を引いて馬から飛び降り、使用人の青年を助け起こした。シャツの左腕が血で赤く染まっていた。銃弾は貫通せず、腕の中へ留まっている。
「大臣、僕はその辺に隠れますから、逃げてください」
コエントランは必死の形相で言ったが、ルイシュは無視した。自分のクラバットを首からはずし、コエントランの腕をきつく縛って止血した。すぐに銃弾を取り出してやりたかったが、ルイシュは立ち上がった。来客対応を余儀なくされたのだ。
「やあ、コスタ君、こんなところで会うとは奇遇だな」
青々とした栗の木の陰から現れたのは騎乗した香薬師協会会長のアルメイダだった。白髪と白髭をきちんと整え、国土保安開発省大臣よりよほどいい服を着ている。背後にはチンピラまがいの騎兵を従え、老人は穏やかな眼差しでかつての弟子を見下ろした。
「あなたのことをすっかり忘れてましたよ、会長殿」
ルイシュはうかつな自分を1秒だけ責め、頭をかいた。
「あの時、あなたはあの男装の女傭兵と一緒にいた。それはつまり、あなたとマガリャンイス伯爵夫人フランシスカがつながっているということだ。そして、王妃殿下とも、相変わらずお親しいというわけですね」
王女の作戦について、国王は王妃にすべて話した。アマリアにアルガルヴェ公爵位を授けることを王妃に納得してもらうためだ。王妃はそれを最後まで承諾しなかった。
王妃はルイシュから杯を奪おうとするのではないか。王女はそう危惧し、「一騎当千とは言わないけれど、一騎当十くらいは期待していいわよ」と、さわやかをルイシュの護衛につけてくれたのだ。
「物分かりがいいじゃないか、コスタ君。大人しく杯を渡せば、従者には手荒なことはしない」
アルメイダは好々爺然とした微笑みを顔に浮かべた。ルイシュは舌打ちした。
「そんなに欲しけりゃ、くれてやる。だけどな、俺に大きな貸しがあるってこと、忘れてるんじゃないか、会長殿?」
ルイシュの脅しを、アルメイダは暗い目で嘲笑した。その
「忘れちゃいないさ。だが、君が絶対に口外しないということを私は知っている。君のような愚か者は、どんな極悪人と交わした約束でも破ることができない」
銃口を向けられ、ルイシュは仕方なく自分の馬へ歩み寄った。革ベルトで固定した
この杯を大人しく渡せば、ルイシュはアルメイダに殺される。だからといって抵抗しても、おそらく負ける。人数差がありすぎる。どうしたものか。そういえば、さっきから、さわやかの姿が見えない。
「ちょっと待ってくれ」
そう言ったのはルイシュでもコエントランでもなく、アルメイダの雇った傭兵のひとりだった。
「この人、国土保安開発省大臣のルイシュ・ダ・コスタ王宮伯じゃないか。襲う相手が大臣だなんて、聞いてない。俺は抜ける」
それを聞いて、他の傭兵たちもざわつき始めた。
「コスタ大臣って“トライアングロ”の、あの人か?」
「そんな人を殺すのは夢見が悪いな」
傭兵たちが次々と戦線離脱を表明し、馬の頭を返してポルト方面へ走り去るまで、2分もかからなかった。残されたのはアルメイダと、ルイシュを知らないであろう外国人と思しき傭兵6人だけだった。
何者か知らぬ駄作の作者にルイシュは初めて感謝した。アルメイダは不愉快そうに歯噛みし、短銃を構え直した。
「君の人気には恐れ入るよ、コスタ君。だが、若くして死ねば人気はさらに上がるぞ。コンスタンサみたいにね」
アルメイダが引き金に指をかけたその時、その背後から騎兵が駆けてきた。さわやかだ。彼は驚いている傭兵たちを次々と斬り捨て、蹴散らし、あっという間にアルメイダに迫る。
アルメイダは老人とは思えないほどの素早い動きで馬を降り、近くにいたコエントランの首根っこをつかまえ、青年の頭に銃口を突きつけた。
「私の勝ちだ。武器を捨て、杯を渡してもらおう」
老人は勝ち誇った。コエントランは青ざめ、すがるような目でルイシュを見る。さわやかは持っていた長剣を足元へ放り捨てた。
「持って帰れ、クソジジイ」
そう言って、ルイシュは杯の入ったチェストを思い切り遠くに投げた。エンリケが見たら激怒するような乱雑な投げ方だった。チェストは宙に弧を描き、ルイシュからもアルメイダからも離れた場所に転がった。
「両手を上げたまえ」
アルメイダはルイシュとさわやかに命じ、コエントランに短銃を突きつけたまま馬を引き、チェストを拾った。
「これがサルースの杯か。本当にヒュギエイアの杯にそっくりだ」
老人はすぐにチェストの蓋を閉め、それを脇に抱えて自分の馬に跨った。銃口はまだコエントランを向いている。アルメイダは馬を操って後退しつつ、地面に倒れている傭兵たちを「いつまでそうしているんだ」「立て、戻るぞ」などと叱責した。英語とスペイン語だった。
「私はもうポルトには戻らない。君に会うこともないだろう。君に貸しにしていることも、もはやどうでもいいことだ」
アルメイダは小馬鹿にしたように笑い、馬の頭を巡礼路の方角へ向けた。彼が走り去ると、負傷した傭兵たちもそれに続いた。
「どうせジュネーヴにでも行くんだろ! 女教皇猊下に気に入られるといいな、王妃殿下のご寵愛を賜ったみたいに!」
我ながら賢くないなと自覚しつつ、ルイシュはつい言ってしまった。16年ほど前、王妃とアルメイダが逆立ちしても言い逃れできない現場にルイシュは偶然に出くわしたことがあるのだ。彼らは「今回が初めてのことで、二度とこんなことはしない。どうか誰にも言わないでくれ」とルイシュに懇願した。
国王に打ち明けるべきか悩み、結局、ルイシュはそれを自分の胸ひとつに収めた。その話が巡り巡って幼い王女の耳に入ることを恐れたのだ。王女が国王の子ではないという心ない噂がささやかれ始めた頃でもあった。そして、ルイシュは十代の頃にアルメイダの夫人の世話になっていた時期があった。面倒見がよく心優しい彼女に、夫が30歳も年下の王妃と不倫していたことを知らせたくなかった。
銃声が響き、ルイシュの頬を銃弾がかすめた。走り去るアルメイダの短銃から白い煙が上がっていた。
「大臣、せっかく助かったのに、余計な挑発をしないでください!」
さわやかに怒られ、ルイシュは「すまん」と詫びた。短気だからといって死ぬことはないと思っていたが、こういう場面ではそうとは限らない。今後は気をつけようとルイシュは思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます