18.オリオンと蠍
馬に乗って遺跡に現れたのはオリオンだった。その背後から教皇庁の僧兵たちがわらわらと駆けてくる。
「もう見つかったか。仕方ない、馬車に戻るぞ」
レネは
僧兵たちは主人を諫めるような言葉を口々に発し、レネはうんざりした様子で巡礼路のある方角へ歩き出す。彼らが立ち去った後、オリオンはアマリアへ歩み寄り、偽物の杯を取り上げた。
「アマリア、馬鹿なことをしたって分かってるんでしょう。二度とこんなことしないで。私、あなたを撃ちたくはないのよ」
叱られると思っていたアマリアはオリオンの弱々しい言葉に驚き、それから皮肉っぽく笑ってしまった。
「私がいい子だからですか?」
思いつきの逃亡計画をつぶされ、アマリアは苛立っていた。小娘に噛みつかれたオリオンは気を悪くするでもなく、懐かしそうに目を細めた。
「あなたのこと、気の毒だと思ってるわ。それに、あなたね、昔の私に似てるの。白銀の夜明け団に入る前の、家族と故郷で暮らしていた頃の、私に」
男装の美女と似ていると言われてもな、とアマリアは内心で暗く苦笑した。アマリアの心に自分の話が響いていないと悟ってか、女傭兵は悲しげに眉根を寄せた。
「私には15歳年長の叔父がいたの。私は両親を早くに亡くしたから、叔父が親代わりになって、私をとても可愛がってくれたのよ。だから、3日前に香薬師協会でルイシュ・ダ・コスタとあなたのやりとりを見かけた時、懐かしい気持ちになったわ」
オリオンは腰の短銃を抜いて空へ発砲した。銃声がとどろいた数秒後、遠くから呼応するように銃声が聞こえた。
「よし、エウゼビオが返事をしたわ。彼にあなたを見つけたって伝えたのよ。彼もあなたのこと、とても心配してたわ」
オリオンは馬の手綱を引き、杯を抱いてレネたちを追って歩き出す。アマリアは彼女の隣に並び、疲れきった足を動かしつつ、彼女に寄せられている同情をどう受け取っていいものかと困惑していた。
「私のこと軟禁してるくせに、撃ちたくないとか、心配だとか、あなたもエウさんも勝手すぎませんか」
エウゼビオもオリオンも、アマリアを軟禁したくてしているわけではない。フランシスカに従っているだけだ。分かってはいたが、理不尽な仕打ちを受けている身で彼らを赦せる器量はアマリアにはなかった。
「そうね。勝手ね」
オリオンは自嘲気味に応じ、それきり口を閉じてしまった。雑木林を抜け、巡礼路を見下ろせる場所までやってくると、オリオンは足を止めた。フランシスカの馬車の横に見慣れぬ馬車が止まっていた。艶やかな漆黒のキャビンにはポルトゥカーレ王家の紋章が描かれていて、その周辺を王宮護衛隊の騎馬兵がぞろぞろと取り巻いている。アマリアたちの姿には気が付いていない様子だ。
「何かしら」
緊張した声でつぶやいたオリオンに駆け寄ってきたのは白銀の夜明け団の傭兵だった。彼らはラテン語で言葉を交わし、驚いた様子でアマリアを見た。
「ポルトから、王女殿下があなたに会いに来ているそうよ。でも、フランシスカ様が身を隠せとおっしゃっているらしいの。アマリア、乗って」
オリオンは素早く騎乗し、戸惑っているアマリアを馬の上に引き上げて自分の前に座らせた。彼女は右手で手綱を、左手で杯を持ち、アマリアを抱え込むような体勢で馬を走らせる。
アマリアは馬の
雑木林に戻り、樹木が密集しているエリアに入るとオリオンが馬のスピードを緩めた。アマリアはようやく疑問を口にすることができた。
「どうして王女様から逃げなくてはならないんでしょう? 王女様は伯爵夫人の姪なのに」
「私には分からないけど、フランシスカ様があなたを隠そうとなさっているということは、きっと、王女殿下はあなたを取り返しにいらしたということよ」
なぜ王女が、とアマリアは言おうしてやめた。ルイシュは王女と親しい。アマリアのために、彼が王女に助けを求めたのかもしれない。アマリアの胸で小さな嫉妬心が頭をもたげた。
それに、一昨日の朝、王宮から連れ出されるアマリアの姿を、何者かが窓のカーテンの隙間から見ていた。その人と目が合ったような気がして、アマリアはその場に香薬の種をひとつ落とした。もしかしたら、あれは王女や王女に近しい誰かだったのかもしれない。
あの時、どうしてそんなことをしたのか、アマリアは自分でも分からなかった。杯を壊そうとして失敗し、フランシスカに殴られ、どうにかフランシスカに一矢報いてやりたいと感情的になっていたのかもしれない。
「王女殿下、早いところ諦めて帰ってくださらないかしら」
オリオンは雑木林の中から巡礼路の様子をうかがえる場所を探しあて、木の陰からそれを眺めた。騎乗したエウゼビオと思しき人影がフランシスカの馬車へ駆けて行く姿が見えた。
「急がないと日没までにコンポステーラへ着かないわ。女教皇猊下があなたの治療を待っているのに」
今日は聖スアデラの祝祭の前々日だ。本来の旅程なら今頃コンポステーラへ到着しているはずだが、通行不能の橋を迂回したり、アマリアとレネが行方をくらましたり、オリオンにとっては思わぬ誤算が続いている。
「女教皇様、コンポステーラに来てるの?」
「ええ、今年は祝祭の儀式に出席されるって聞いてるわ。もうコンポステーラにご到着されていて、教皇庁の公使館にいらっしゃるはずよ」
アマリアはオリオンと会話しながら、自分の両足へ意識を向けていた。王女が去ってしまえば、この先、アマリアがジュネーヴ行きを免れるチャンスは訪れないかもしれない。
そして、この状況でオリオンから逃れるには、今、この馬の脇腹を思い切り蹴り、馬が暴れて落馬でもした拍子に、巡礼路に向かって走ること、それしかない。
オリオンの短銃は二連式で、すでに一発を使用している。残りの一発さえ何とかできれば、王女の元へ馳せ参じ、この旅から解放してもらえる。
だが、それでいいのだろうか。病に苦しむ女教皇を見捨てていいのだろうか。アマリアの脳裏に、リウマチ患者のヴィオレッタの顔が浮かんだ。スラム街で暮らす彼女と女教皇には天と地ほどの差があるが、一晩中、眠れぬほどの痛みに苛まれているのは同じはずだ。加えて、女教皇は治療薬のアヘンにも苦しめられているという。
「これも、ルイシュ・ダ・コスタの企みなのかしらね」
アマリアの心の葛藤などつゆ知らず、オリオンは面倒くさそうな口調で言った。
「この作戦を考えたのは
オリオンの言葉に応じたのは第三の人物だった。女傭兵は腰の短銃を抜きつつ馬の手綱を操り、声の主へ銃口を向けた。
「やあ、オリオン、久しぶり、元気だった?」
その人はすぐそばのコルク
「君とポルトゥカーレ語で会話するのは何か変な感じだけど、ドイツ語はもうほとんど忘れちゃったからなあ。グーテン・ターク?」
男は馴れ馴れしい笑みを白い顔に浮かべ、オリオンに向かって片手を上げる。
オリオンは答えなかった。短銃を握る手の震えや、早鐘を打つような心臓の鼓動は、身体を密着させているアマリアにも伝わっていた。彼女の顔をそっと盗み見ると、青ざめた顔には様々な感情が滲んでいた。驚き、怒り、悲しみ、そして、何かもっと別のものも。
「君がアマリアでしょ?」
男はアマリアへ視線を転じた。値踏みするような目だ。
「こっちは君を助けるために色々と骨を折ってるっていうのに、いったい、どこに行こうってわけ? しかも、その杯を持って」
「あなたはどなたですか?」
馬上から問うのは失礼かなと思ったが、オリオンがアマリアを抱えているので仕方がない。男はオリオンの顔をちらりと見た。やや弱気な、後ろめたそうな、探るような目。
「今はコインブラ大学のエンリケ・クラヴェイロ・ロペス博士さ。昔のことは秘密にしてよ、オリオン」
「ロペス博士って、あなた、もしかして新聞記事のインタビューでルイシュさんを短慮だって、こき下ろした人ですか!」
おそらく、オリオンとエンリケは昔の知り合いで、何か特別な関係だった。そのことは非常に気になったものの、アマリアはルイシュを“短期間出世、短気、短足に加えて短慮”と評した考古学者に抗議しなくてはならなかった。
「ルイシュさんのこと、よく知りもしないで悪く言うのやめてください!」
「僕は事実を述べただけだし。ていうか、君、あいつが熟考してるところ、見たことあるの?」
「ないです! でも、失礼ですよ!」
甲高い声で憤慨するアマリアに馬が不快そうに
アマリアの手に偽物の杯を押し付けたかと思うと、オリオンは腰の剣を抜いて馬の背から飛び降り、エンリケに切りかかっていた。コインブラ大学の考古学者はそれをかわし、さらに襲いかかる剣先を自分の剣で弾く。
「待ってよ、オリオン。まずは昔のことを謝らせてよ。昨日、君を見かけてからずっと機会をうかがってたんだよ」
エンリケが言葉をつむぐ間にも、オリオンの
オリオンが属する白銀の夜明け団は欧州最強と名高い。その彼女と対等に渡り合うこの男は、ただの学者ではない。
「私、エウさんを呼んで来ようか?」
アマリアはついそう言ってしまった。この状況でオリオンの身を案じるのは不自然だという自覚はあった。
「結構よ」
オリオンは首を振った。剣を構え直し、猛獣のような目で相手を睨む。
攻撃をよけるうちに、エンリケはアマリアのすぐそばまで来ていた。その時、アマリアは気がついた。彼は首の後ろで変わった形に赤茶の髪を編みこんでいた。
「オリオン、僕を信じてよ。あの時、まさかあんなことになるなんて知らなかったんだよ」
アマリアには意味不明な弁解をするエンリケの頭をめがけ、アマリアは馬上から偽物の杯を投げつけた。彼は例のごとくそれを容易にかわしたが、すかさずオリオンが剣を突き出していた。白刃はエンリケの右肩をかすめるも、彼の剣に弾き飛ばされた。オリオンの剣はくるくると回転しながら地面に突き刺さった。
「おい、君、僕は君を助けに来たって言ってるだろ! 何だってオリオンに加勢するんだ!」
エンリケは負傷した肩を押さえつつ、アマリアへ文句を言った。彼の右手から地面へ血が滴り落ちる。
「だって、ルイシュさんの天敵が私を助けに来る理由が分からないし」
アマリアはそう言ったが、本当はオリオンに味方したかっただけだ。自分でもおかしかったが、寝食をともにしているうちに、アマリアは自分を軟禁している彼女のことを好ましく思い始めていた。
「僕は何も好きで君を助けに来たんだじゃない。四短に過去の秘密を握られてて、脅されて協力してるだけだ。君がぶん投げたその杯、そんな扱いをするってことは偽物だって気が付いているんだろ。それを
いくつかの疑問の答えを供され、アマリアの中でさまざまなことが腑に落ちていく。
「僕はこき使われてんだよ、あの四短野郎に」
不満そうにボヤく小器用で不憫な考古学者にアマリアは少しだけ同情し、密かに留飲を下げた。
「杯が、偽物……?」
地面に転がっている杯を見やり、丸腰となったオリオンは目を見開いた。
「アマリア、本当なの? さっき種を生成しなかったのは、生成できなかったからということ?」
アマリアは頷いた。
「いつのまにか、すり替えられてたんです。本物のサルースの杯はルイシュさんが王宮へ持って行こうとしているんですよね?」
「そのとおり」
エンリケは自分の剣を鞘に収め、地面からオリオンの剣を引き抜いた。
「王女様の考えた作戦はふたつ。ひとつは杯を偽物とすり替え、アマリアに種を生成する力がないと女教皇やその娘に思わせること。もうひとつは、アマリアに領地と爵位を与え、国外への連れ出しを防ぐこと」
「私に、領地と爵位を?」
「そうさ。あの馬車の中で王女様が君を待ってるんだよ。君にアルガルヴェ公爵位を授ける、という王様のご命令が記された書状を持ってね」
ぽかんとしているアマリアにエンリケはさらに説明した。
「4年前に王弟であるアルガルヴェ公が亡くなっただろ。それ以後はアルガルヴェ公爵位は空位というか、王冠に統合されていたんだよ。継承する子女がいなかったから」
アルガルヴェ公爵位は王位継承権第二位である王子や王女が代々に渡って継承してきた爵位だ。アルガルヴェとは、ポルトゥカーレの南端に位置する辺境の地で、若かりし頃のルイシュが何年か赴任していた。12歳の時にアマリアが盗み見た彼からの手紙はアルガルヴェで投函されたものだった。
「そのアルガルヴェ公爵位を、王様が君に授けるとおっしゃっているんだ。いくら女教皇やその娘でも、ポルトゥカーレの女公爵閣下を本人の意に反してジュネーヴへ連れて行くことはできないだろ」
国王がアマリアを自分の娘だと認め、領地と爵位を与えようとしている。アマリアは何も言えず、何も考えられず、抜け殻のように馬の背に跨っていた。
「君主の庶子が爵位を賜ることは時々あるから、ことさらに特別なことじゃないけど、国王夫妻は本当は王妃様のお腹の中の子にそれを授けたかったんじゃないかって王女様はおっしゃってた。王様は王妃様の説得に相当に苦労したらしいよ。王女様も四短もほとんど諦めてたし」
エンリケは負傷していない方の手で杯を拾い、アマリアに向かって投げた。アマリアの乗る馬の足元に杯が転がる。
「だから君は今すぐ、あの馬車へ行って書状を受け取り女公爵になれ。そして、伯爵夫人に種を生成する力はないと言え。君に断る権利なんてないよ。君を助けるために、王様も王女様も手を尽くした。四短もその家族も、僕もね」
どうしていいか分からず、アマリアはオリオンの顔を見た。美貌の女傭兵は諦めたように目を伏せた。
「行っていいのよ。こいつとあなたが勝って、私とフランシスカ様が負けた。そういうことなんだから」
「そういうこと。だから早く行くんだ」
低い声でエンリケがもう一度促す。アマリアは馬から飛び降り、杯を拾い、後ろ髪を引かれながら、エンリケの声に突き飛ばされるように雑木林を出た。
青々とした草原が地平線まで続いていた。背後から強い風が吹き、アマリアの短い金髪と修道女の服が大きくはためいた。丈の長い夏草がそよぎ、頭上では大きな白い雲が勢いよく流れていった。天頂からの陽光がアマリアを明るく照らした。
“セルジオ先生、私は、Aにはこの世の誰よりも平穏に暮らしてほしいのです。”
まさに平穏という言葉がぴったりだ。アマリアはルイシュが手紙につづった文字を一文字ずつ思い出しながら、足を前へ踏み出した。
これから王女に会って、国王からの書状を受け取ったら、アマリアの人生は一変する。ブラジル公爵位を持つ王女はブラジルに行ったことがないとルイシュから聞いたことがあるので、アルガルヴェ公というのも名ばかりの爵位だろう。それでも、きっと今まで通りに香薬屋を続けることはできない。平穏に暮らすことはできるかもしれないが、それはアマリアの望む未来ではない。
「私は一生、香薬屋を続けたいと思っています」
3日前、アマリアはフランシスカにそう言ってエウゼビオからの求婚を断った。その願いは、今やどうやっても叶わない。王女に助けを求めポルトへ帰っても、フランシスカとジュネーヴへ行っても、このままひとりでどこかへ逃げても、どうやっても。
アマリアは王女の馬車に向かって歩きながら、自分の心や身体がバラバラになって風に吹き飛ばされていくように錯覚した。足を一歩踏み出すたびに、これまでの人生で培ったものや蓄えたものが、空の彼方へ消えていく。それは、知識、技術、経験、自信、誇り、働く喜び、患者からの信頼。アマリアを形作るすべてが少しずつ
孤児院を出てからの3年間、ほんの3日前まで、薬草のシミだらけのドレスを自分で繕って着ていた。靴は何度も修理に出したが、雨の日は水がしみて酷かった。食うに困って庭の雑草を煮て食べた。朝から日没まで自分の手を動かして働き、心を砕いて患者を治療した。王宮や香薬師協会や世間に対する不平不満ばかり口にしていた。
誰かが用意した服を着て、誰かが用意した靴を履き、無理やりに連れてこられた土地で「早く行け」と急かされて歩き、偉い人たちが差し伸べてくれた手にすがりつく、それは私の人生ではない。絶対に違う。
風の中でアマリアは足を止めた。
「……私の幸せをあんなにも願ってくれる人がこの世にいるんだ」
アマリアは小さく独りごちた。それは12年前、ルイシュの手紙を盗み見た日の夜に、胸の中で何度もつぶやいた言葉だった。彼の手紙は、幸せになることを諦めない決心をアマリアに与えてくれたのだ。
「だから、私はこんなところでは諦めない」
アマリアはきっぱりと自分自身に宣言した。そして、足元に生えていたぺんぺん草を何本か引き抜き、踵を返し、オリオンの元へと走り出した。
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