17.遺跡と要人

「結局、ルイシュ・ダ・コスタは何もしてこなかったわね」


そう言いながら、オリオンが伝書鳩を青空に放った。脚に書簡入りの小さな筒をつけた鳩だ。それは晴れ渡る空を旋回し、東へと飛んで行く。


「そうですね」


アマリアは丈の長い夏草の上に座り、薄いパンを食べながらオリオンの日課を眺めていた。隣にはエウゼビオが座っている。一行は巡礼路沿いの丘の上で昼食を取っているのだ。


捕らえられてから食欲のなかったアマリアだが、昨夜、ルイシュの顔を見てからは元気を取り戻していた。彼に抱きしめられた時のことを思い出すと、顔がにやけてしまうほど。


「コスタ子爵家の兵が俺たちを助けてくれたのは、ただの偶然だったってことか?」


水筒に口をつけ、首を傾げるエウゼビオをオリオンが睨んだ。


「そんなわけないでしょ。もしかして、昨日、私たちを銃撃した奴らのことを、本物の盗賊団だったと思ってる?」


「あの時、俺たちを撃ってきたのはコスタ大臣だったんじゃないか、って言ってんのか? まあ、たしかに、連中の姿は見なかったけど。でも、やり口は手練てだれの盗賊団って感じだったし、現に何も起こってないじゃないか。アマリアはこうして、ここにいるわけだし」


「私たちが気がついていないだけで、何か起こっていたのかもしれないわよ」


オリオンは疑り深い目でアマリアを見た。


「たとえば、私やあなたが目を離した一瞬の隙に、子爵家の誰かがこの子に何か入れ知恵をしたとか、強力な武器を手渡したとか、ね」


「ないない、何もなかったですよ!」


アマリアは必死で首を振った。実際のところ、ルイシュが何をしようとしているのか、アマリアにも分からない。


「あの鳩、あれってジュネーヴへ飛んで行ったんですか?」


アマリアは遠ざかる鳩の影を指した。話題を他に逸らしたい。オリオンはしかめ面から笑顔になり、誇らしげに答えた。


「そうよ。どこから放っても必ずジュネーヴの白銀の夜明け団の鳩舎に帰還するよう訓練されてるの。あんな小さな身体で、馬より速いんだから。天候にもよるけど、ここからジュネーヴまで2日か3日で着くわ」


「筋肉質で、あんまり旨くはなさそうだな」


「エウゼビオ、あなた、私の鳩を何だと……」


エウゼビオの感想にオリオンが憤慨しているのを横目に、アマリアは傍らに置いていた掌サイズのガラス瓶を取り上げた。広い口は新しいコルクで栓がしてある。


「おい、アマリア、それ何だよ」


「何だか匂うわね」


アマリアがコルクの栓をゆるめると、エウゼビオとオリオンは顔をしかめた。無理もない。ガラス瓶に詰まっているのは発酵したタラの塩漬けだ。「この辺りの特産品なのよ」と言ってルイシュの継母が別れ際に持たせてくれた保存食だ。


「ルイシュさんの母上がパンに挟むとおいしいとおっしゃっていたんです。ちょっと匂いますけど、ルイシュさんの故郷の味なら無理をしてでも私は食べます」


アマリアは果敢にコルクの栓を抜いた。その瞬間、鼻孔と脳みそを串刺しにするような激臭が辺りに漂った。エウゼビオもオリオンも転がるように逃げ出した。


「アマリア! 瓶に栓をしなさい! 今すぐッ!!!」


遠くからオリオンが怒鳴る。


「え、え、え、何、この匂い」


アマリアは息を止め、慌ててコルクの栓を元に戻した。ところが、激烈に生臭い腐敗臭は消えない。


「北欧のシュールストレミングと同じようなものかしら。この匂い、服や髪にまとわりついて、しばらく消えないわよ。やってくれたわね、アマリア。とりあえず、風下に行ってちょうだい」


試しに自分の服の匂いを嗅いでみると、オリオンの言う通り、異臭がしみ込んでいた。開栓していたのは、ほんの数秒のことだったのに。アマリアは泣きたい気分で風下へ移動した。


「まさか、コスタ大臣の母上は俺たち全員を再起不能にしようとして、この強力な武器をアマリアに……?」


エウゼビオのズレた深読みをアマリアとオリオンが聞き流した時、ひとりの僧兵が血相を抱えて丘の向こうから駆けてきた。教皇庁の面々は少し離れたところで休憩していた。


僧兵は漂う悪臭に手で鼻を覆いかけ、それからオリオンに話し始めた。アマリアにはそれが教皇庁の公用語であるラテン語だということしか分からなかった。話が終わるとオリオンが通訳した。


「この先の遺跡で、レネ様がお怪我をされたらしいの。アマリア、診て差し上げて」


レネとは教皇庁の要人だ。もともと、オリオンたちは彼の巡礼旅の護衛としてポルトゥカーレに来ている。アマリアが彼らの旅に同行して早くも3日目を迎えているが、アマリアはまだレネと話したことがなかった。


「わかりました。でも、香薬の種がもうないから、サルースの杯で生成しないと」


手持ちの香薬の種は何粒か残っているが、ほとんど昇華して、もはや米粒サイズだった。新たに生成しなければ十分な治療ができない。


「フランシスカ様にお願いして、杯を使わせていただきましょう」


オリオンはそう言ってフランシスカの馬車へ向かって丘を下り始めた。サルースの杯はフランシスカの座席の下に保管してあるのだ。アマリアは立ち上がり、食べかけのパンや水筒を布に包んで手に提げ、オリオンを追いかけた。悲しいことに、エウゼビオもオリオンも、アマリアとかなりの距離を取っている。


伯爵夫人は巡礼路の路肩に止めた馬車の中で紅茶と読書を楽しんでいた。窓越しにオリオンが事情を説明すると、フランシスカはひどく心配そうに眉根を寄せた。


「レネが怪我を? そういうことなら、仕方ない」


フランシスカは素早く腰を上げ、向かいのシートへ移動する。空席になったシートの座面を取り外し、オリオンはその中へ両手を指し入れて蓋つきの木箱チェストを慎重に持ち上げた。


チェストには錠前がつけられている。3日前、アマリアが杯を壊そうとしてから取りつけられたものだ。鍵には革ひもがつけられ、フランシスカが首から下げている。


伯爵夫人が鍵を錠前に差し込むと、カチリという音とともに蓋が開いた。青銅の杯は3日前と同じ、鈍い輝きをたたえていた。


「言っておくが、この杯は簡単には壊れない。無駄なことはするな」


フランシスカに冷ややかな目で見下ろされる。アマリアは彼女を睨め上げつつ杯を手に取った。


「……あれ?」


アマリアは違和感を覚え、首を傾げた。3日前にこの杯を手にした時は、全身の血がたぎるような、不思議な感覚があった。だが、今回は何ともない。


「どうした?」


フランシスカが訝しげにアマリアと杯を見比べる。


「というか、おまえ、何だ、匂うな、アマリア」


「……すみません、ちょっと色々ありまして」


アマリアは赤面し、フランシスカの馬車から何歩か後退した。両手で杯を持ち、深呼吸してから蛇の目を凝視する。前回はそれで香薬の種を生成できた。空のボウルの中で種がコロコロと転がる様子を思い浮かべ、蛇の目の赤い煌めきを見つめること30秒。何も起こらない。


「アマリア、怪我人が治療を待ってるんだぞ。早くしろ」


苛立たしげに催促するフランシスカの声を遠くに聞きながら、アマリアは思考を巡らせていた。考えられることは、ふたつあった。


ひとつは、やはりアマリアは国王の娘ではなかった、もしくは種を生成する能力を持っていなかったということ。もうひとつは、この杯は3日前にアマリアが手にしたものとは別物ということだ。


アマリアは手の中の杯をじっくりと見た。なまめかしい黄金の蛇も、青銅製の杯も、記憶の中のものと合致する。だが、あるはずのものがなかった。


王宮を出発する時、アマリアはフランシスカに体当たりし、彼女の持っていた杯を地面に叩き落とした。杯にはヒビひとつ入っていなかったが、ボウルのふちに御影石みかげいしへ擦れた小さな痕がついた。それが、どこにも見当たらない。


次の瞬間、アマリアは杯を抱えて身を翻し、その場から駆け出していた。


「おい、アマリア、待て!」


フランシスカの怒声が背中にぶつかり、エウゼビオとオリオンが追ってくる気配がしたが、丈の長い夏草をかき分け、目の前のなだらかな丘を越えるべく全力で走る。


昨夜、コスタ子爵家の古城で、気がつかないうちに何かが起きていたのではないか。オリオンはそう言っていた。何かは起きていたのだ。杯がすり替えられている。


杯はオリオンかフランシスカが常に見張っていたはずだ。ふたりが杯から離れたのは、一度だけ。エウゼビオが堀に落ち、オリオンがアマリアを探しに来た、あの時だ。フランシスカとその侍女は食堂にいた。


チェストの鍵をどうやって開けたのかは分からないが、これはルイシュの仕業に違いない。しかし、彼が何のためにこんなことをしたのか、アマリアには分からなかった。種を生成できなくなったからといって、フランシスカが簡単にアマリアを解放するだろうか。


きっと、ルイシュはこの後に何か、もうひとつ手を打ってくるつもりだ。そうだとしたら、今ここでこれが偽物だとバレるのはまずいのではないか。秘密を隠し通すには、フランシスカに「ジュネーヴへ着くまでアマリアには二度と杯を触らせまい」と思わせるのが一番だ。


「アマリア、おまえ、まだ自分の立場が分かってないのかよ!」


エウゼビオがすぐ背後に迫っていた。アマリアは息が上がっていたが、無理やりに足を前に出して走り続けた。本気で逃げなければ、エウゼビオは騙せても、オリオンには演技だとバレてしまう。彼女が短銃を取り出し、「止まらないと撃つ」と脅してくれなければ、逃走劇は終わりにできない。


「アマリア、止まらないと撃つわよ!」


心待ちにしていた言葉をかけられ、アマリアは走るスピードを落とした。ところが。


「オリオン、やめろ! 撃つな!」


エウゼビオの声がして、アマリアは肩越しに彼を振り返った。視界の端にオリオンへ飛びかかるエウゼビオが見えた。ふたりは組み合いながらゴロゴロと丘の下へ転がり落ちていった。


想定外の事態にアマリアは呆気に取られ、どうしたものかと思ったが、ここで立ち止まるのは不自然だ。


心肺機能と脚力の限界に挑むうちに、アマリアはいつのまにか、雑木林の中にいた。落ち葉や小枝を踏み締めて奥へ奥へと走る。追手の気配はなく、もしかして本当にこのまま逃げ切れてしまうのではないかと不安になる。ルイシュからは「大人しく奴らに従うフリをしていろ」と言われているのに。


進行方向にコルクがしの大木が迫り、アマリアはその手前で足を止めた。木の幹に身体を預け、肩を大きく上下させて息をつく。右手に握りしめた杯を見やる。


「ど、どうしよう……」


ふと顔を上げると、密集した枝葉の向こうに奇妙な人工物が見えた。こんもりとした築山の頂上をぐるりと壁が囲っているのだ。壁は人頭大の白い石を積み上げて作られていて、同じような建造物が他にも周囲にいくつかあった。それらは雨風と時の流れによって崩れ、青々としたつたに覆われていた。


「……遺跡だ」


わずかに潮の香りのする風が雑木林を吹き抜けた。アマリアの短い金髪が乱れ、修道女の服がはためく。汗をかいた額や背中がひやりとした。


「何してる? ひとりか?」


横から神経質そうな男の声がして、アマリアは飛び退った。誰もいないと思い込んでいた。その人はアマリアの反応を馬鹿にするように笑った。


「そんなに驚くな。ひょっとして、私の治療をしに来たのか?」


慣れない様子のポルトゥカーレ語で言ったのは“教皇庁の要人”だった。灰色の修道士の服スカプラリオを着た白皙の青年だ。アマリアは彼を初めて近くで見た。その顔はフランシスカにそっくりだった。


アマリアはサルースの杯を背中の後ろに隠したが、もう遅かった。彼は黒い巻き毛を指でかき上げ、目を細めて皮肉っぽい笑みを顔に浮かべた。


「私はその杯にも、おまえにも興味はない。それに、私はケガなんてしていない。四六時中、僧兵たちに見張られていて息が詰まるので、彼らをまくために嘘をついた。それだけだ」


アマリアも痩せている方だが、彼はさらに細かった。アマリアは「万が一、つかみ合いになっても勝てるな」と確信し、肩の力を抜いた。


「レネ様ですよね。皆さん、心配されてましたから、戻った方がいいのでは?」


おずおずと申し出たアマリアに、レネは高慢に踏ん反り返った。


「断る。私には休息が必要だ。ひとりでゆっくりと過ごす時間がな」


「そういうことでしたら、私はこれで……」


そう言って退散しようとしたアマリアをレネは手招いた。


「そうだ、おまえ、香薬師だろ、ちょっと付き合え。こっちだ」


有無を言わせぬ口調でアマリアを促し、レネは先に立って歩き出す。アマリアは杯を手にそれを追いかけた。


「あの、私のこと、ご存じなんですか?」


「当然だ。姉から聞いてる」


「姉?」


「フランシスカは私の姉だ」


レネが怪我をしたと聞いてフランシスカが心配そうにしていたことを思い出し、アマリアはなるほどと思った。ということは、レネは女教皇の甥ということだ。


「おまえ、コンスタンサの娘なのだろう? その割にはあまり賢くなさそうだし、美しくも女らしくもないな。妙な匂いもする」


レネはアマリアが気にしていることをずけずけと言いながら、遺跡の奥へと早足で歩いていく。自覚はあっても傷つくもので、アマリアは意気消沈すまいと無理やりに口を開いた。


「レネ様は私の母のこともご存じなんですか?」


アマリアは問いながら、“私の母”という言葉が自然と口から出たことに、自分自身で驚いていた。


「コンスタンサは私の恩人だ。彼女に恩のある人間は、この国には星の数より多くいるだろう。わざわざ騒ぐようなことじゃない」


もしやと思い、アマリアは彼の頭頂部を見た。実に豊かな黒髪だ。レネは嫌そうな顔でアマリアをじろりと睨んだ。


「……私は薄毛治療でコンスタンサの世話になったのではない」


「あ、いえ、そんなつもりでは……」


遺跡はほとんど瓦礫がれきの山になっていた。建物の屋根や壁は崩れ落ち、横倒しの石柱だけが何本も転がっている場所もあった。それらは雑草や蔓性つるせいの植物に覆われていた。


「これだ」


レネが足を止めたのは半分ほど土に埋もれた壁の前だった。壁には戦争の様子が彫刻されていた。風化し判別できない部分や、破損している箇所も多かったが、騎兵や歩兵が武器を手に行進している絵だった。


「兵士たちの背後にある、この巨大な投石機のようなもの、振り香炉に見えないか?」


レネが指で示したものはたしかに大きな振り香炉だった。太い鎖で吊るされ、煙が上がっている。さらに観察すると、兵士たちは手に小さな丸いものを持っていた。香薬の種かもしれない。


「レネ様、この遺跡は……」


「ここはアスクラピア遺跡だ。香薬師なら知っているだろう? ヒュギエイアの杯が見つかった遺跡、ルシタニア人のつくった2000年前の都市だ」


アマリアは辺りを見回した。ローマ帝国に滅ぼされた古の文明の成れの果ては、その子孫に何かを訴えかけることもなく、ただ静かにそこに在った。


「ポルトゥカーレでは、こんな風に戦場で香薬を焚くことがあるのか?」


レネに問われ、アマリアは我に返った。


「いえ、私は聞いたことがありません。そもそも屋外での治療は緊急以外は推奨されていませんし」


アマリアは絵の下に薄っすらと読み取れるアルファベットを目で追ったが、古代の言語はまったく分からなかった。レネは忌々しそうに鼻を鳴らした。


「これはルシタニア語だ。この私でさえ読めないのだから、おまえに読めるはずはない。だが、こちらはどうだ? 香薬のレシピなのではないかと思う」


レネが彫刻を覆っている雑草を手でよける。アマリアの腕に鳥肌が立った。記されていたのは複数の薬草の名前だった。


「おっしゃる通り、これは香薬のレシピです」


アマリアは雑草をかき分けて夢中で文字を読んだ。


「馬車馬の鼻先で焚く香薬に似ています」


土に埋もれた部分を読もうと、アマリアが地面を手で掘り始めると、レネは自分の手を汚してそれを手伝った。レシピの全容が分かると、アマリアはそれをレネに説明した。


「これは持久力と筋力を上げて、痛覚を鈍らせて、気分を高揚させる香薬のレシピです。もし戦いの前にこの香薬を焚いていたのだとしたら、この兵士たちは痛みも疲れも恐怖もなく、倒れるまで戦い続けたんだと思います」


2000年以上前の人々にとってそれにどんな意味があったのか、アマリアには分からない。だが、狂戦士となり命が尽きるまで戦うことを余儀なくされた彼らの運命は憐れに思えた。


「ルシタニア人は男も女も勇猛果敢な戦士だったというからな」


レネは彫刻を眺め、興奮した表情でため息をついた。やけに熱心な彼を不思議に思い、アマリアは首を傾げた。


「ルシタニアの文明に興味がおありなんですか?」


「想像力の乏しい教養浅き者には、己のルーツを知りたいと望む好奇心は分かるまいな。ルシタニア人はスイスアルプスからイベリア半島へ移住したという説があるのだ」


「私やレネ様は、祖先が同じということですか?」


小麦色の肌のアマリアと、白い肌のレネは似ても似つかない。あまりピンとこなかった。レネは無理解な小娘にがっかりしたように長い息を吐き、彫刻の前を離れた。朽ち果てた人工の泉に雨水が溜まっているのを見つけ、ふたりはそこで手を洗った。


「レネ様は、私がどうして旅に同行しているかも、ご存じなんですか?」


「フランシスカから聞いている。女教皇猊下は長年に渡って病に苦しんでおいでだ。おまえがジュネーヴへ行けば、お喜びになるだろう」


興味なさそうな声で言って、レネは爪の間に詰まった土を水中でこする。


「そもそも、これまでポルトゥカーレが香薬の文化を独占してきたことがおかしな話なのだ。病に苦しむ人間は世界中にいる。その杯と、おまえの能力を女教皇猊下に献上すれば、教皇庁はポルトゥカーレなんぞより適切にそれを活用するだろう」


レネの主張にアマリアはつい反論してしまった。


「ヒュギエイアの杯もサルースの杯も、ポルトゥカーレ国内で発見された宝物です。もとの持ち主は私たちの祖先ですし、ふたつの杯を発見したのはポルトゥカーレ人です。ポルトゥカーレ人がそれらを自分たちのために使うことの、いったい何がおかしいんですか?」


教皇庁の要人に言葉を返すなど、あってはならないことだ。分かってはいたが、アマリアの舌は止まらなかった。


「病に苦しむ人は世界中にいますけど、そのすべてを救えるわけではないんですから、自国民を優先するのは当然のことです」


反論しながら、アマリアは自分の言い分を信じ切れなかった。レネはそれに勘づいたように意地の悪い笑みを顔に浮かべた。


「教養はなくとも、良心はあるようだな。さっきの彫刻を見て、何か考えたことはあるか?」


偉そうに問い、レネは綺麗になった手の水気をアマリアの服の袖でふいた。


「兵士たちが気の毒だと思いました。それから、香薬の種はかなり大量に生成できていたのかもしれない、と」


「それだ」


レネは築山に上り、遺跡をぐるりと見渡し、アマリアを見下ろした。


「杯はふたつあった。他にもあったかもしれない。かつては、たくさんの杯を使って、たくさんの人間が香薬の種を大量に生成していたのかもしれない。治療のみならず、戦争で使用するほどの大量の種を。その杯、私に持たせてみろ」


レネは白く細い手を差し出し、アマリアは偽物の杯を彼に渡した。女教皇の甥は杯を両手で持ち、蛇の瞳をのぞき込むが、当然ながら何も起こらない。彼はつまらなそうに杯をアマリアに返した。


「私ではだめか。だが、徹底的に探せば種を生成できる者は他にもいるだろう。特にこの辺りには、ルシタニア人の末裔が多いだろうからな」


香薬の種を生成できる人物を徹底的に探す。それは3日前に、フランシスカがやってみたいと冗談交じりに言っていたことだ。全市民を集めて杯を持たせてみたい、と。王宮で厳重に管理されているヒュギエイアの杯でそんなテストはできないが、サルースの杯を使えばできる。


やってみたい。香薬の種を生成できる者が増えれば種の流通量は増える。今まで救えなかった人が救える。アマリアは手の中の杯を握りしめた。問題は、これが偽物だということだ。本物のサルースの杯はルイシュが持っている。


もしもアマリアがルイシュなら、すぐに杯を安全な場所へ持って行き、厳重に保管するだろう。つまり、サルースの杯はポルトの王宮へ運ばれヒュギエイアの杯とともに保管されることになるのではないか。そうなれば簡単には持ち出せなくなってしまう。テストをするなら、ルイシュが王宮へ着くより早く彼に追いつかなければ。


このまま逃亡してしまおうか。レネなら見逃してくれそうな気がする。コスタ子爵家の城まで歩ければ、彼らに協力を仰ぐこともできるだろう。アマリアが高鳴る胸を押さえた時、こちらへ近づいてくる馬の蹄の音が聞こえた。

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