13.死者の遺したもの
ブラジルヤシの向こうから現れたのは王女だった。
「殿下、いつからそちらに?」
ルイシュが素早くお辞儀すると、エンリケもそれに倣った。動作こそぎこちなかったが、エンリケの顔に驚きはない。
「少し前からいたわ。ルイシュを驚かせようと木の影に隠れながら少しずつ、にじり寄っていたのよ、ねえ?」
王女は背後に控える侍女たちに同意を求める。いつも王女に付き従っている老女2人と王宮護衛隊の兵士3人だ。
「ルイシュ、そちらはどなた?」
「エンリケ・クラヴェイロ・ロペス博士です。コインブラ大学の方ですよ」
ルイシュが王女に紹介すると、エンリケはもう一度お辞儀した。王女は愉快そうに笑った。
「新聞でルイシュをこき下ろした方ね。いつのまに仲良くなったの?」
「仲良くなってません」
異口同音に応じ、ルイシュとエンリケは睨み合う。それを見て王女はさらに笑い、エンリケへ向き直った。
「博士、お話は聞かせてもらったわ。あなたの探している杯は、もう王宮にはありません。今朝、フランシスカ叔母様が持ち出すところを見たの」
「それは確かですか! これくらいの大きさの青銅の杯ですよ!」
興奮気味のエンリケは王女に詰め寄ろうとしたが、王宮護衛隊の兵士に阻まれる。王女は優雅に微笑んだ。
「私は本物のヒュギエイアの杯を手に持ったことがあるのよ、間違いないわ。ただ、蛇の目の色は違った。ヒュギエイアの杯にはエメラルドが使われているけど、叔母上が持っていらした杯には赤い宝石がはまっていたわ」
「そういえば、蛇の目が見事なルビーだったと古物商が言ってました! 王女様、マガリャンイス伯爵夫人はどちらへ行かれたのでしょう?」
「フランシスカ叔母様はエウゼビオたちと一緒にジュネーヴへ行かれたわ。病床の女教皇猊下をお見舞いしたいのですって。でも、途中でコンポステーラに立ち寄ると聞いたわ。教皇庁の方たちと同行されているから、そのご都合じゃないかしら。聖スアデラの祝祭も近いしね」
コンポステーラはポルトの北にある古い町だ。欧州中の敬虔な信徒が訪れる聖地で、4日後に聖スアデラの祝祭が行われる。目抜き通りを
「王女様、ありがとうございます、もう失礼してよろしいでしょうか!」
エンリケは杯を追いかけたくてうずうずしている。ところが、王女は「ダメよ」と短く答えた。
「博士、あなたには私に協力してほしいの。本物のヒュギエイアの杯をお見せするから、その型をとって、そっくり同じものを鋳造してちょうだい。蛇の目はルビーよ」
「殿下、いったい、何をなさるおつもりですか?」
ルイシュが問うと、王女は険しい表情で臣下を見上げた。
「ルイシュ、落ち着いて聞いて」
きっと悪い話だ。直感的に悟り、ルイシュは覚悟を決めた。
「私、叔母上たちが王宮を出ていくのを自室の窓からこっそりのぞいていたのだけど、奇妙な人を見かけたの。深くフードをかぶっていて、教皇庁の僧兵に囲まれていたわ。その人は馬車へ乗る時に叔母上の持っていた
最悪の事態が現実となっていた。ルイシュが王宮の一室で熟睡している間に、すぐ近くで。アマリアが危険な目に遭っている瞬間にのうのうと眠っていた自分を殴りたかった。
「アマリアは杯を壊そうとしていたんでしょうね、杯が無傷だったことに残念そうな顔をしてた。その時、私、彼女と目が合ったの。アマリアは私の方をじっと見つめながら、手の中から何かを地面へ落としていった。後から拾いに行ったら、これが落ちてたわ」
王女が差し出したのは香薬の種だった。ルイシュは震える手でそれを受け取った。大粒の葡萄よりひと回り大きい、生成したばかりの香薬の種だ。
「これは推測よ。あの杯、ヒュギエイアの杯と同じように、香薬の種を生成できるのじゃないかしら。そして、この種はアマリアが生成したのよ」
王女の顔からはいつもの明るさが完全に消えている。エンリケが息を飲む音がする。ルイシュはコエントランに渡されたアマリアからの手紙を広げた。王女とエンリケもそれをのぞき込む。
“思うところがあって、しばらく町を出ます。
心配しないでください。
必ず帰ります。
身体に気をつけて、無理しないでくださいね。”
いかにも何者かに書かされたような文章だった。よく見ると文字がわずかに震えていた。愕然とするルイシュに王女は詰め寄った。
「ルイシュ、答えて。アマリアは王家の血を引いているの?」
「私の口からは申し上げられません」
ルイシュの苦しい回答に、王女は
「彼女は父上の娘なのね?」
「……決して口外しないと約束しました、23年前に、コンスタンサと」
王女は深いため息をついた。
「アマリアは23歳で、父上とコンスタンサの娘ということね」
「国王陛下と王妃殿下がご結婚なさる前のことです」
「そうね、直前のことね」
ルイシュはただただ頭を下げ、王女は温室のガラスの天井を仰ぎ、もう一度ため息をついた。
「私と違って、彼女は香薬の種を生成できるのね」
虚空を見つめ、王女は淋しげに言った。ルイシュの胸は痛んだ。王女は自分が香薬の種を生成できないことをずっと気に病んでいる。
「殿下……」
ルイシュが何か言おうとすると、王女は視線を臣下へ戻した。
「慰めは無用よ。それより、急いでアマリアと杯を取り戻さなければならないの。そのために博士には杯の複製品を作っていただくわよ。2300年前の青銅器なんて素人には作れないもの。とりあえず、材料を集めておいて。大急ぎでお願いね。それから、アマリアのことはいずれ公になるとは思うけれど、口外しないように」
「は、はあ、失礼します」
エンリケは首を傾げつつ温室を後にした。ルイシュの頭は大量の情報を処理できずにいた。
「殿下、複製した杯をどうするおつもりですか?」
非常に言いにくそうに王女は顔をしかめた。
「これも推測だけれど、きっと叔母上はアマリアと杯をジュネーヴの女教皇猊下への手土産にするつもりよ。猊下が長くリウマチで苦しんでおられることに、母上や叔母上はずっと胸を痛めてきたから。そして、もし私が猊下なら、アマリアをどこかに幽閉して、死ぬまで香薬の種を生成させるでしょうね」
ルイシュは目の前が真っ暗になるのを感じた。女教皇ともあろう人物がそんな非道なことをするわけがない、ルイシュはそう思いたかったが、頭に浮かぶのは悪い想像ばかりだった。
「……本当にそういう事態になりつつあるのかもしれません。無駄に真面目なあいつが古代の遺物を壊そうとするなんて、よほどのことだと思います」
「自分が助かるには杯を壊すしかないと判断したんでしょうね。杯が壊れればアマリアはお払い箱になるもの。でも、そんなことをすれば猊下や母上や叔母上の逆鱗に触れて、アマリアの命はかえって危険にさらされるわ。そして、ルイシュがその杯を奪ったり、アマリアを奪還してもきっと叔母上に殺されて、お葬式でロペス博士から酷い悪口を言われるわ。短期間出世、短気、短足、短慮に“短命”を加えて
明朗な口調で平然と言ってのけ、王女は思案顔で熱帯植物群を見渡した。
「あなたが殺されるなんて、そんなこと私が絶対に許さない。コンスタンサも許さないわ」
王女はコンスタンサから香薬学を学んでいた。ふたりはとても気が合って、王女はコンスタンサを姉のように慕っていた。王宮香薬師となり王宮に出入りするようになった当初、コンスタンサは国王夫妻の娘である王女を敬遠していたが、しばらくすると自分によく似た性格の王女と親しくなっていた。
「だから複製の杯を作って本物とすり替える、そういうことですか?」
ルイシュが問うと、王女は胸を張った。
「そうよ。複製の杯ではアマリアは種を生成できないでしょう。そうすれば彼女は解放されるのじゃないかしら」
「なるほど。やってみましょうか」
簡単に試せて、失敗してもリスクは少ない。短気で短慮なルイシュはそういった提案に抵抗がない。ぐずぐずと考え込んで決断できず、機を逃すのが最も嫌いなのだ。そのせいで古代の王墓の壁が失われ、事の発端になったことは、とりあえず頭の片隅に追いやる。
「殿下、このことは国王陛下もご存じなのでしょうか?」
「これから話すわ。ヒュギエイアの杯を借りるんだもの。そうだ、父上に昨夜のことをうかがったのだけど、父上はルイシュを呼び出していないそうよ。きっと、あなたとアマリアを引き離すための嘘だったのよ」
ルイシュは納得し、王女に提案した。
「杯のすり換えはロペス博士に頼みましょう。実は奴の素性を部下に調べさせたんです。コインブラ大学に来る前の経歴が全く不明だったので。そうしたら、ある疑惑が浮かび上がりまして、一昨日、コインブラ大学の学長と会った時に問い詰めたんですよ」
ルイシュは約20年前にコインブラ大学に在籍していた。遺跡の壁が壊れたと聞いてポルトへ飛んできた学長はルイシュの在学中の学部長だった。彼から遺跡発掘に関して苦言を聞いた後、ルイシュは「あなたとロペス博士の関係は知っていますよ」とカマをかけた。学長はあっさりと白状した。
「殿下、ロペス博士は元盗賊です。貴族や豪商だけを狙う、いわゆる義賊というやつですが、神聖ローマ帝国のいくつかの領邦では奴の首に高額賞金が賭けられています。学長によると、ある時、盗掘に入った遺跡で古代文明にハマってしまい、悪事から足を洗って歴史を学び始めたとか。学長は奴から盗品を買い取る常連客だったそうです」
「そういうことなら、彼には遠慮なく協力を仰げるわね」
王女は悪女のように笑い、それから女神のように優しい表情になってルイシュの腕にそっと触れた。
「ルイシュ、アマリアはきっと大丈夫よ。エウゼビオがついているもの」
「ええ」
頷いたものの、エウゼビオの能天気な顔しか思い浮かばず、ルイシュの心は晴れなかった。エウゼビオが王妃やフランシスカに唯々諾々と従っていることも許せない。エウゼビオが喜んで奸計に加担しているとは思わないし、彼に対する信頼が揺らいだわけでもないが、大馬鹿野郎と一喝してやりたい。
「行くわよ」
ドレスの裾を翻し、王女は温室の出口へ向かう。ルイシュはそれに追従し、未来の君主に謝辞を述べた。
「殿下、お力添えいただき、ありがとうございます。ずっと殿下に隠し事をしてきたこと、申し訳ございません」
ルイシュは罪悪感に駆られながら彼女の顔色をうかがった。亡き母に教わった方法で、細心の注意を払って。歩みを進めながら王女は苦笑した。
「ルイシュのためにアマリアを助けるわけじゃないわ。私が香薬の種を生成できない以上、アマリアを失えば、いつか父上が亡くなった時に香薬の文化は廃れてしまうかもしれない。母上はお腹の子がそれを担えると信じているのでしょうけれど、これまでのことを考えると、あまり期待はできないと思うの」
王妃は22年前に第一子である王女を産んだ。その後も幾度となく懐妊したが、流産や死産を繰り返し、無事に生まれた子も生後数ヶ月で夭折している。
「それに、アマリアに何かあれば父上もコンスタンサも悲しむでしょう。父上はともかく、私はコンスタンサを悲しませたくないのよ」
沈痛な声で王女が言った時、彼女は何かを見つけたように足を止めた。
「見て、オキザリス・トライアングラリスが咲いてるわ。コンスタンサはこの花が好きだったわね」
王女は足元に咲く小さな花を指し示した。三角形の紫の葉に無数の白い花がついた草丈の低い植物だ。10年以上前、ルイシュがブラジル総督府の花壇から球根を拝借し、コンスタンサが店の裏庭で大増殖させた花の子孫だった。
可憐な花々を見下ろしつつ、王女は大人びた表情で微笑んだ。
「ルイシュ、あなたは古代遺跡には何の価値もないと言うけれど、私はそうじゃないと思うわ。死者はもう、何も言えない。何も成し遂げられない。だから、彼らが遺した言葉や物や、切なる願いは、大切にしなくちゃいけないと思うのよ。コンスタンサが遺した娘や店を、あなたが大切にしているようにね」
「反省しています」
ルイシュは粛々と頭を下げた。学長の説教より効くな、という呟きは胸の中だけに留めた。
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